retifの都市探検日記(高層ビル編)

東京の街並みなどを報告します

常磐線亀有駅(亀有駅南口駅前広場)

2009-12-11 06:09:26 | Weblog
矢切の渡し船着場から西へ。
来た道を引き返す。
寅さんなら、意気揚々として、これから、柴又の、懐かしい街に、向かったことだろうが。
自分には、なぜか、そういう気分は、湧き上がってこないな。
土手を乗り越えて、江戸川の河川敷から外へ。
そういえば、寅さん記念館、なんて、あったが。また、今度にしよう。それにしても、すっかり、テーマパークづいているな。
もっとも、帝釈天だけでも、十分に、テーマパークには、なったかもしれないけど。
夏の暑い日差しの中、道路を西へと、歩いていく。
他にも、八幡神社などがあって、興味深いが、こちらも、また、今度。
再び、賑やかな、帝釈天参道を抜けて、駅前へ。
お土産の一つでも、買って行こうかと、一瞬、考えたが、妙に、値段が高いので、やっぱり、やめる。
ようやく、柴又駅のホームに辿り着く。
辿り着いたはいいが、なかなか、次の電車が、来ないのだ。行ったばかりらしい。
待っていると、ホームには、観光客が、集まり始める。
さくらさんを待つ身であれば、このような待ち時間も、ずいぶんと、感慨深いものになったかもしれないけど。
ホーム上が、観光客の、浮かれた、雰囲気で、いっぱいになった頃、ようやく、のろのろと、電車が入ってくる。
終点、京成金町駅に着き、すぐに、常磐線金町駅へ。
駅周辺は、すっかり、変わってしまって、昔の面影はなくなってしまったなあ。
ちょっと前までは、本当に、寅さんが歩いていても、おかしくないような、感じだったのに。時代の流れは、早いものだ。
すぐにやってきた、常磐線の列車に乗り込む。
中川を越え、隣の駅、亀有駅で下車。
昔は、よく、亀戸駅と間違えたものだが。
まずは、南口に出てみる。
こちらは、金町駅よりも、早く、再開発され、駅前が、下町とは思えない。
そんな亀有駅なのだが、なんで、この駅で、降りたかというと、寅さんの次は、マンガの両さん、という趣向、なのだけど。
それにしても、亀有駅というのは、何もないなあ。だからこそ、両さんの舞台になったのかもしれない。
(2009年6月記)

京成金町線柴又駅(矢切の渡し船着場)

2009-12-10 04:37:05 | Weblog
土手を降り、河川敷を東へと、歩いていく。
江戸川に面して、こんもりと、一叢の木立。
矢切の渡しの船着場だ。
渡船料は、100円。寅さんの頃は、30円。
昔、この舟に乗ったことがあるが、対岸には、本当に、何もなかったな。一面、畑しかなかった。
たぶん、普通は、話の種に乗って、また、この場所に、戻ってくるのだろう。
観光目的の舟、というわけだ。寅さんの頃も、そうだったに違いない。
だから、その、矢切の渡しで、対岸から、やってくる、というのは、あの当時にしても、とても、奇異なことだったろう。
そんな風にして、故郷、柴又に、家族を求めて、寅さんは、帰ってきたわけだが。
もっとも、家族を求めて、やって来たわりには、また、傷心をかかえ、旅に戻っていくのだ。
帰ってきたのに、再び、帰る、というのは、おかしな話だけど。
それに、家族を得たいなら、結婚すればいいのかもしれない。それが、一番、早道ではないのかな。
実際、寅さんと境遇の似た、博さんは、さくらさんと、結婚して、家族を得ている。
でも、寅さんは、そういう風には、決して、ならない。博さんに、大学は出ないと、嫁はもらえないってのか、と言っておきながら、想っていた、冬子さんを、大学教授にさらわれているし。
しかし、そこには、なぜか、深刻さは、あまりない。そればかりではなく、寅さんに関しては、すべてにわたって、深刻さはないように見える。
いったいに、寅さんは、なんで、いつも、躓いたり、カバンを落としたり、地に足が着かないのだろうか。そうなってしまうのは、真剣み、切迫感、がないからだが。もっとも、見る者は、そこに、面白みや、親しみを、感じるのだろう。
そういう風に見てくると、寅さんは、実は、たんに、家族を求めて、故郷、柴又に帰ってきたわけではない、ということになる。
では、いったい、何を求めて、矢切の渡しで、江戸川を、越えてきたのだろう。
それは、家族が中心であり、地域社会が基盤となっている、昔の世の中、なのかもしれない。
そうだとすると、「男はつらいよ」、というのは、ひょっとしたら、現在の寅さんが、柴又を方を眺めながら、昔日の思い出に浸って、作り上げた、夢の中の世界、なのかな。
つまり、家族が中心ではなく、地域社会がなくなった、現在からの、ノスタルジックな空想の世界、なのだろうか。
ある意味、家族も地域社会も必要でなくなった、現在というのは、社会的な充足と、満ち足りた余裕、があるのかもしれない。
そのことを実感できる、ということで、だから、寅さんの映画は、シリーズとして、人気があったに違いない。
その現在、というのは、時期的に、高度成長期の後半から、安定期、バブル期、バブル崩壊期、ということになる。
だが、今は、社会的な充足も、余裕も、すっかり、なくなってしまったな。
かといって、家族や地域社会は、すでに、消滅してしまったし。
故郷、柴又を後にする、寅さんの背中に、さくらさんが、行くとこ、ないんでしょう、と呼びかけるのだが、寅さんの時代なら、現在に、すなわち、映画の外へ、戻ってくれば、よかったわけだ。
寅さんの時代が終わった、今の時代、まさに、その通り、行くところは、ないのだ。
そういうわけで、寅さんも、いなくなってしまったのだな。
(2009年6月記)

京成金町線柴又駅(柴又近く江戸川河川敷)

2009-12-09 04:28:21 | Weblog
料亭川甚を過ぎ、土手を登ると、その先は、広大な、江戸川の河川敷だ。
今は、公園が広がっているが、寅さんが、江戸川を越えて、やって来た頃は、ゴルフ場だったらしい。
その時のシーンは、こうだったかな。
ゴルファーの打った球が、今しも、穴に入る、という、その時、ぬっと、手が伸びて、その球を、ひょいと掬い上げる。そして、そのゴルフボールを、ぽんと、ゴルファーに放り投げる。あっけに取られる、ゴルファー。
放り投げたのは、矢切の渡しで、岸に着いたばかりの寅さんだ。
いかにも、いいことをした、という満足そうな笑みを振りまいて、立ち去っていく。
ゴルフを知らない、という世間知らずぶりを、表現したらしいのだが。
ただ、こんな風に、世間に疎い部分を、持っているのだが、逆に、職業柄か、とても、詳しい分野もある。
それは、交通網と地理に関してだ。
矢切の渡しで、故郷の地を踏んで、再び、旅立つ、短い期間、寅さんは、実に、様々の場所を、訪れている。
赤坂。月島、巣鴨。水元公園。丸の内。大井、蒲田。
もちろん、これは、たまたま、シーンに出てきた一部に過ぎないだろう。
そもそも、こういう場所に、すんなり、行ける、ということは、かなり、いろいろな場所、交通網を熟知していなければならない。
例えば、月島。当時は、大江戸線も有楽町線も、なかったのだ。どうやって、行ったのだろう。巣鴨は、やはり、京成線、日暮里経由、山手線かな。
近場の水元公園は、金町からバスで行ったに違いない。
傑作なのは、冬子さんと行った、大井、蒲田だ。
京成線から、都営地下鉄を経て、京浜急行、というコースなのだろう。
大井オートレース場で観戦した後、再び、京浜急行に乗って、蒲田へ。
帰りは、同じく、京浜急行、都営地下鉄、京成線だな。
距離がありそうなのだが、鉄道路線を、うまく、利用すれば、すんなり、行き来できてしまうわけだ。
オープニング、寅さんが、登場するのが、矢切の渡し、というのも、結局、交通網、地理を熟知していることの、所産、に違いない。
最初は、なぜ、矢切の渡し、なのか、さっぱり、わからなかったけど。ひょっとすると、松戸か市川に、寅さんに関係のありそうな、場所があるのだろうか、と調べたりもしたが。ちょっと、考え違いだった。
ようするに、あらゆる交通網に長けている、寅さんにとっては、柴又に行くのに、京成金町線を使おうが、矢切の渡しを使おうが、交通路線としては、どっちでも、いいのだ。
あえて、どちらかを選ぶとするなら、その動機こそは、寅さんの心情の発露に、他ならない。
こうして見ると、寅さん、普通の地元住民とは、まるで、違う、地理感覚を持っていたのかもしれない。
喩えて言えば、まったく別の(心の中の)地図を持っていたのかな。
たぶん、普通の(心の中の)地図は、自分の生活圏を中心にしているのだろう。ところが、寅さんの持っている、地図は、中心がどこにもないように思える。
延々と、均一に広がる、地図。
そして、その中に、寅さんが、ぽつんと、立っている。
自由気儘に見えて、そんな寂しい影があるから、寅さんは、憎めない存在なのだろう。
(2009年6月記)

京成金町線柴又駅(柴又の料亭川甚)

2009-12-08 04:45:16 | Weblog
帝釈天が安置されている、題経寺の手前で、北へ。
すぐに、東西に伸びる通りに、行き当たる。
その通りに入り、東へと歩いていく。
ほどなくして、江戸川の手前、料亭の川甚が現れる。
前回、柴又に来たときも、見かけたのだが。
なんか、細長い建物だな、と思ったけど。あとで、地図を見たら、南側にも、川甚の敷地が広がっているみたい。
創業は、江戸時代。柴又、といえば、川甚、というぐらいの、かなり有名な老舗の料亭だ。
そういうわけかどうかわからないが、博さんとさくらさんは、ここで、結婚式を挙げている。
映画の中だけの話ではなく、実際、この料亭では、婚礼から披露宴まで、受け付けているらしいが、利用者は、多いのかな。
ところで、博さんとさくらさんの結婚式は、やはり、六月、なのだろうな。
細かいことは、わからないけど。
ここで、ちょっと、話はずれるけど、「男はつらいよ」の中の日取りを、特定するのも、一興かと思う。
まず、寅さんが、矢切の渡しで現れたのは、桜の咲いている春。さらに言えば、庚申の縁日の日だ。
最近は、こうした、イベントは、土日にやったりするのだが、今でも、帝釈天の縁日は、平日でも、庚申の日にやっている。
ということは、映画の封切りされた年、1969年、と、考えると、1969年4月の庚申の日は、15日らしい(調べるすべが、ないので、そうらしい、としか言えないけど)ので、寅さんが、柴又に帰ってきたのは、1969年4月15日、ということになる。
1969年4月15日、だとすると、火曜日だ。江戸川の河川敷で、ゴルフをやっていたりするが、休日は、もっと混んでいるから、やはり、火曜日、なのかな。
その次は、さくらさんのお見合いなのだが、お見合いは、当然、日曜日、なんだろうから、その週明けの、4月20日、ということだ。
おいちゃんが、二日酔いで、お見合いに付いていけなくなっていたのも、前日が、土曜日で、何かの付き合いがあったに違いない。
その間、寅さんは、さくらさんのお見合いの件については、まったく、知らなかったようなので、何かの用事で、帰ってきて早々に、留守にしていたとしか思えない。
的屋稼業、というのが、どのような、組織になっているのか、わからないが、たぶん、挨拶回りみたいなことが、あるのかも。
舎弟の登さんと会ったのが、巣鴨、ということは、巣鴨とげぬき地蔵の縁日が、毎月4の付く日、なので、4月24日、木曜日だ。この日、さくらさんは、会社で、部長さんから、お見合いが破談になったことを、伝えられているので、妥当かな。
その夜、このお見合いの破談を巡って、寅さんと騒動になり、翌日、責任を感じて、寅さん、家を出てしまうのだ。
だが、一ヶ月で、御前様、冬子さんに、くっ付いて、寅さんは、戻ってくる。
一ヶ月、ということは、五月の下旬ぐらい、なんだろうけど、手掛かりがないので、それ以上は、わからない。
あるとすれば、博さんと寅さんの決闘騒ぎ、実際は、博さんが寅さんに、さくらさんとの仲を取り持ってもらうよう、頼んだのだが。この日は、博さんも、彼の同僚も、普段着なので、日曜日なのだろう。ということは、5月18日、25日、かな。
その週の間に、博さんからの依頼で、寅さんは、さくらさんの勤めている会社に出向いている。
そして、その日の夜、博さんとさくらさんは、目出度く、結ばれるのだ。
いよいよ、結婚式。最初は、六月かと思ったが、いくらなんでも、早過ぎかも。
やはり、七月、だろうなあ。
結婚式、というと、大安。その翌日(数日後)に、寅さんが、冬子さんに呼ばれて、題経寺に行っているのだが、その時、梅雨明けを思わせるような、雷の天気だった。
とすると、7月19日土曜日か7月25日金曜日あたりか。ただ、気になるのは、博さんの勤めている印刷会社の社長さん、手形がどうのこうので、遅刻しそうになっている。
手形の決済、というのは、土曜日でもできたかどうか、わからないな。
博さんとさくらさんは、結婚式の後、新婚旅行に行くわけだが、あの当時、新婚旅行って、どのくらいの期間だったのだろう。
長いか短いか、わからないのだが、たしかなのは、その間、毎日のように、寅さんは、冬子さんのもとに通っている、ということ。
噂がたったぐらいだから、短い期間ではないだろう。
そのことから察するに、7月19日土曜日、結婚式、と考えて、新婚旅行から帰ってきたのは、翌週、7月26日土曜日か。
その翌日、7月27日日曜日に、冬子さんは婚約者を呼んでいる。
そこに、約束通り、やってきた寅さん。
その場に出くわしてしまうが、すべてを、承知する。そして、その日のうちに、また、旅に出るのだった。
もっとも、寅さんの稼業、的屋は、8月のお盆と年の瀬が、一番、忙しいらしいので、すでに、出立の準備や、心構えは、できていたのかもしれないけど。
こうして、時系列的に見ていくと、寅さんが、故郷、柴又に、滞在していた期間が、短かくて、意外に思ったりもする。
寅さんは、故郷を求めて、帰ってくるのだが、案外、故郷も、寅さんを、必要としていたのかもしれない。
だから、強い印象と、忘れがたい思い出を残したのだろうか。
(2009年6月記)

京成金町線柴又駅(柴又帝釈天)

2009-12-07 06:10:11 | Weblog
帝釈天参道を東へと歩いていくと、その先には、帝釈天が安置されている題経寺。
創建は、江戸時代で、それほど、古くはない。
ただ、一帯の、柴又、という地名は、かなり古い。ちなみに、昔は、島俣(しままた)、というような地名だったようだ。
さらに、近くの八幡神社には、古墳があったらしく、この点からも、そうとう古くから、集落が、存在していたことが、わかる。
ここに来るのは、二回目だけど、実際、なんか、のんびりしていて、とても、暮らしやすそうな雰囲気がするし。
ところで、ここの住職の娘さんが、寅さん映画の、マドンナ第一号、ということになるのだが。
「男はつらいよ」、という単独の作品では、寅さんとマドンナとの関係、ちょっとした、エピソードに過ぎないけど、シリーズを通しては、普遍的なテーマとなっている。
もっとも、当初は、シリーズ化そのものの予定は、なかったらしい。
とすると、寅さんとマドンナ、という関係も、期せずして、テーマに浮かび上がっただけなのだろう。
とはいえ、そのことを、注意深く、見てみるのも、無意味ではないかもしれない。
第1作目のマドンナの名前は、冬子さん。寅さんが、20年振りに帰郷したときは、柴又ではなく、奈良にいたようだ。
療養していた、ということだが、どういうことで、そうなったのかは、不明。
父親である、題経寺の住職、御前様が迎えに来たとき、偶然に、寅さんと出会う。
寅さんが、なんで、奈良にいるのか、というと、さくらさんのお見合いが破談したことについて、責任を感じ、また、家を出てしまい、たまたま、奈良に来ていたのだ。
そういうわけで、一時、この三人で、行動を共にするうち、寅さんは、すっかり、冬子さんを見初めてしまう。
見初めついでに、御前様、冬子さんに付いて、柴又へ、また、帰って来る。
でも、博さんが、さくらさんを思う気持ちと、寅さんが、冬子さんを思う気持ち、どこか、決定的に違うな。
たぶん、博さんが求めているのは、自分を理解し、受け止めてくれる女性、なのだが、寅さんが求めているのは、家族そのもの、のような気がする。
奈良で、御前様と娘の冬子さんと、鉢合わせしたとき、寅さんは、直感的に、もし、冬子さんに旦那さんがいて、しかも、子供を連れての、家族旅行なら、こんなに素晴らしいことはないだろうと、感じたに違いない。
ビニール製の鹿の玩具を持って、はしゃぐ、寅さんと冬子さん。この鹿の玩具、子供連れ、ということの、暗喩なのだろうな。
こんな風に、家族の雰囲気に包まれながら、寅さんは、柴又に帰ってくるのである。
だが、旅行中なら、そういうことは、許されるかもしれないが、日常の中では、夫婦でもなんでもないわけで、そのような雰囲気は、持続するわけはない。
ここで、ちょっと、冬子さんの側から見てみる。
一見すると、あるいは、シリーズの定番、としてみると、冬子さん、散々、寅さんを振り回しておいて、あっさりと、他へ、嫁いでしまうように見える。これでは、ただの、無邪気な女性、というだけだが。
本当に、そうなのだろうか。
本当にそうだとして、寅さんは、そのような女性に、家族を連想したりするものだろうか。それは、あり得ないことだろう。
実際、どう見ても、冬子さんは、寅さんの家族を希求する気持ちに、絆され、楽しく、乗せられているように思える。
なぜなら、頻繁に、寅さんに会って、時に、二人で、でかけたりしているからだ。
特に、さくらさんが嫁いだ後は、毎日のように、会っていたらしい。
若い女性が、世慣れた、年上の男性に惹かれることは、よくあることだし、違う世界を知っている男性、ということも、刺激があったかもしれない。
けれど、ここまできて、何もない、としたらどうだろう。
何かあったとしたら、寅さんらしくないわけで、ちょっと、想像できないのだが。
何もないとしたら、これ以上、永久に、何もないことになる。
こう見てくると、振り回されているのは、むしろ、冬子さん、なのかも。
寅さんと会う約束の時間に、敢えて、婚約者といることを見せ付けたのは、もちろん、忘れていたからではなくて、この、寅さんとの関係を、清算したかったからに違いない。
ひょっとしたら、寅さん、家族を、悲しいまでに、熱望し、渇望するが、その家族の中には、入っていけない、そういう境遇なのではないかな。
あるいは、家族の中に入っていけないからこそ、家族を希求する。どちらでも、いいんだけど。
寅さんが、愛されるのも、こういうわけなのだろう。
どうして、そうなったかは、そもそも、なぜ、寅さんが、故郷、柴又に帰ってきたか、という疑問に連なると思うが。それは、後ほど、触れる。
(2009年6月記)

京成金町線柴又駅(賑わう帝釈天参道)

2009-12-06 07:12:11 | Weblog
さらに、東へ歩いていくと、いよいよ、帝釈天の参道だ。
相変わらず、賑わっているようだけど、寅さんの映画が、シリーズとして、上映されていた頃の方が、もっと、繁華だったかもしれない。
今となっては、わからないが、テーマパークとしては、定着しているようだ。
たしか、この参道の並びに、映画の舞台、とらや、がある。
それらしき、お店があったのだが、通り過ぎてしまったな。
あまりに、観光地然としていると、ちょっと、気後れしてしまう。ひっそりとしている方が、いいんだけど。
ところで、映画の中の設定では、とらやの裏手に、小さな、印刷工場があったはず。そして、そこで、さくらさんと、結婚することになる、博さんが働いていたわけだ。
あまり、出番も台詞も多くなく、いつも、深刻な暗い表情なのだが、この作品に関する限り、実は、彼が、主役なのではないか、と思っている。
例えば、「男はつらいよ」、で、結局、何が、どうなったか、といえば、さくらさんと博さんが、結婚した、それだけだ。
さらに言えば、この両名のうち、さくらさんの方は、すでに、お見合いをしており、博さんと巡り合わなくても、そのうち、誰かと、近々、結婚したに違いない。
一方、博さんの方、もし、寅さんが、現れなければ、どう考えても、さくらさんとは、結婚まで、いかなかっただろう。しかも、さくらさんが、どこかに、嫁いでしまう時期は、近いのだ。
彼女が、嫁いでいなくなってしまえば、意気消沈した、博さんも、印刷工場を辞めて、この地を離れたただろう。
という風に見ていくと、「男はつらいよ」は、要するに、博さんが、いかに、さくらさんと結ばれるか、ということに話は、尽きるのである。
では、そもそもの話の発端に遡るとして、なぜ、博さんは、さくらさんを、好きになってしまったのかな。
こういうことに、明確な理由は、ないのだが、敢えて言えば、博さんは、寅さんと同じく、家を出奔した身、身寄りのない、さくらさんと、同じ境遇なので、お互い、わかりあえる、と、一方的な、確信を抱いたんだろうなあ。それで、3年間も、思い焦がれていたわけだ。(男にはよくある)
ただ、さくらさん(たぶん、数年前までの)、おいちゃん、おばちゃん、(あるいは、世間一般)には、丸の内での、玉の輿幻想が、あることも事実。
この、丸の内、大学出、玉の輿、が、博さんの上に、重くのしかかっていた、どころか、完全に、博さんを、押し潰していた、のかもしれない。(博さんに限ることではなく、普通、そうだろう)
状況が変わったのが、寅さんの帰郷だ。それも、功成り、名を遂げての、凱旋ではなく、昔と変わらない姿での、帰還である。
まず、さくらさんの、丸の内、玉の輿、というのが、背伸びのした幻想ではないか、という疑念が、確信に変わったのだ。
たぶん、さくらさんが、隣の工場の従業員の輪の中に入っていくように、なったのも、お見合いが破談になったことを、巡って、寅さんと騒動があった頃からだろう。
ひょっとしたら、それまでは、お高くとまっていたのかもしれないな。
おいちゃんとおばちゃんにも、工場従業員に対する、見方の変化が、徐々に現れる。だんごを買いに来た博さんに、遠回りになるから、店内を通過する、ということを許可するのだ。初めて、店内を抜けて、裏口から、工場に向かったので、博さん、つまずきそうになったのに違いない。
もっとも、さくらさんとの結婚、ということについては、事態が変化したわけではない。お見合いの時の席次を見ても、会社の部長さんが、仲人なわけだから、まだまだ、お見合いの話を、持って来るだろう。
この事実を、博さんに、突きつけ、結婚へ、最後の後押しをしたのは、やはり、寅さんだ。いちおう、さくらさんの勤めている会社に出向いて、実情を、確認しているけど。ついでに、博さんについても、それとなく、口の端に出して、さくらさんの反応を見たりしている。
その日の夜、工場に立ち寄り、博さんに報告。この時点で、博さんも、さくらさんの事は、所詮、自分で、どうこうできる訳ではないことを自覚していたのかもしれない。すでに、荷物をまとめ、工場への辞表も用意していたに違いない。
寅さんの報告を受けてからの、博さんの行動が、とてつもなく、早いからだ。準備していないと、できないだろう。
博さん、報告を受けるや、その足で、さくらさんの許へ。自分の思いを告げ、お別れを言う。
すぐに、工場に取って返し、社長に辞めることを言い置き、同僚にも挨拶し、まとめてあった荷物を持って、会社を引き払う。
さくらさん、事態を呑み込んで、たぶん、いったん、工場に行ったはずだ。
そこで、博さんが、柴又駅に向かったことを聞き、急いで、後を追い駆ける。
後を追い駆けて、なんとかなるもんなんだろうか。
実は、なんとか、なるのだ。
何度も書いているが、柴又駅を通る、京成金町線は、幹線道路、水戸街道を、踏切で横断しているので、あまり、本数が多くない。
改札口まで来ると、はたして、電車はまだ、来ておらず、ホームには、博さんの姿。
博さんも、ホームでは、一番、改札に近いところで、待っていたりする。
ひょっとしたら、一本ぐらい、やり過ごしたかもしれない。
切符も持たずに、改札口を抜けて、自分のところへ、走ってくる、さくらさん。その姿を認めたとき、博さん、どんな、気持ちだったろう。
嬉しい、とか、そんなことよりも、人生の、あまりの重さ、そして、現実の、あまりの儚さに、身が震えるような思いだったに違いない。
もし、本意ではなくとも、さくらさんが、来なかったら、その時点で、博さんの、人生は、大きく、大きく、変わってしまったはずだから。
その時、ちょうど、入ってきた、電車に、硬直してしまったような、博さんを、さくらさん、引っ張って、二人で、車内へ。
これから、人生を、二人で歩んでいく、決心をしたことを、確認しあうため、だったのかな。
とにかく、このシーンが、「男はつらいよ」の中での、最大のクライマックス、に違いない。
何度、見ても、一番、好きな場面だ。
(2009年6月記)

京成金町線柴又駅(帝釈天参道へ到る商店街)

2009-12-05 07:36:38 | Weblog
小さな駅前広場を出て、細い商店街へ。
道なりに、東へと、歩いていく。
この前、来たときは、たしか、駅前に、立ち食いのそば屋があって、そこで、食事したように記憶しているが。
今は、土産物屋さんしか、見当たらないな。
帝釈天の参道は、もうすぐ。すでに、まわりは、参道、という雰囲気だけど。
たしか、「男はつらいよ」では、早朝、柴又駅、改札口からホームへ向かう、さくらさんの出勤のシーンがある。
さくらさんは、通勤のため、毎日、この道を歩いていたわけか。
今まで、さんざん、京成金町線は、通勤路線ではなく、ローカル路線であり、観光路線、と書いてきたが、これでは、怒られそうだ。
ところで、彼女は、どんな仕事をしていたのだろう。
丸の内の大手電気メーカーらしき会社の本社で、キーパンチャー、という仕事をしていたようだ。
でも、キーパンチャーって、どんな、作業なのかな。
教科書的なことは、ちょっと、知っているけど。
簡単に言えば、パンチカードという紙に、穿孔する作業で、開けた孔の位置、数が、データを表している。そして、その穿孔済みパンチカードのデータを、大型コンピューターに読み取らせるのだ。
高度成長期の頃は、そうやって、データをコンピューターに入力し、集計していたのだろう。
ただ、自分は、そのような作業や、パンチカードの実物も、見たことはない。かろうじて、同じような仕組みの、入力用紙テープを、一度、見たことがあるくらいだな。
そういうわけで、当時のキーパンチャー、という仕事が、どのようなものか、わからない。
でも、伝え聞いた話などから、類推はできる。以下は、いちおう、類推の域として、と断っておく。
キーパンチャー、という作業は、かなり、単調で、根気のいる、過酷な作業だったらしい。
当時から、連続作業時間や作業量が、制限されているのも、そのためだが。
また、丸の内の本社に勤務、といっても、その時代、ネットワークなんて、ないわけだから、データの入力作業は、大型コンピューターのすぐ近くで行わなければならない、丸の内勤務は、そういう理由によるものだろう。
実際、仕事中のシーンが、ちょっと、出てくるけど、あまり、華やかな、雰囲気はない。むしろ、とても地味な感じだ。
こうして見ると、丸の内でキーパンチャー、というのは、今のOL、とは、かなり、様相が、違うように、思える。寅さんが、最初に、間違えた、紡績工場の女工、の方が、実情は、近いかもしれない。
おいちゃんとおばちゃん、丸の内、ということで、すっかり、舞い上がっているけど、寅さんの方が、的を得ていたわけだ。
さくらさんも、たぶん、商業高校で勉強して、晴れて、丸の内に通勤、ということで、最初は、白馬の王子様、玉の輿、なんて、メルヘンを夢見たかもしれないな。
だが、現実は、ひたすら、地味な作業だったわけだ。
とすると、最初に登場する、さくらさんの、お見合い、というのは、かなり、背伸びをした、破格の組み合わせだっただろう。
相手方が、会社の下請け、云々、というのも、何か、上司である部長さんが、身寄りのない、さくらさんのために、強引に、セッティングしたような感じもする。(キーパンチャーなのに、春の人事異動で、各課が、さくらさんを奪い合う、という部長さんの話、基本的にあり得ない。座を盛り上げるための、リップサービスだろう)
さくらさんが、あまり、乗り気でなかったのは、そのためだな。
そう考えると、寅さんが、ぶち壊さなくても、このお見合い、うまくいったかどうか、かなり、微妙だったと思う。
寅さんも、それなりに、場を盛り上げるため、むしろ、とても、頑張っていたように見える。夜、べろべろに酔っ払って、帰ってきたとき、「大成功」、と報告していたのは、本心だったに違いない。
だから、お見合いが破談になったことがわかって、おいちゃんとおばちゃんが、寅さんを咎め、責め立てるシーンは、本当に、切なくて、なんとも言えない程に悲しい。
そこにあるのは、誰が正しくなくて、誰の責任か、なんて、そんな簡単には、割り切れない、現実が、横たわっているからだ。
でも、さくらさんは、この、昔と変わらぬ、寅さんと、寅さんを取り巻く、騒ぎを見て、気付いたことがあったのかもしれない。
つまり、白馬にまたがった王子様、玉の輿、ということで、家を出ることが、実は、寅さんが、出奔したときに、抱いていた気持ちと、まったく同じだ、ということを。
騒ぎが収まったとき、さくらさんの、ほっとした、笑顔は、そのような現実を、受け止めることができて、少し、肩の荷が下りたからかな。
(2009年6月記)

京成金町線柴又駅(柴又駅前の寅さん像)

2009-12-04 04:27:52 | Weblog
そばを食べ終わって、京成金町駅のホームに行ってみたが、まだ、列車は、来ていないようだ。
来る間、しばし、ぼんやりと、ホームから、金町の家並みを見ている。
今日は、夏の日差し。いつの間にか、季節は、進んでいたようだな。
こんなところで、初めて気付くなんて、どうしたんだろうか。
それにしても、こうして、ぼんやりと、佇むのは、本当に、久しぶりだ。
しばらくすると、ゆっくり、京成金町線の、車両が、入ってくる。
忙しげな通勤路線、常磐線とは、大違い。ローカル線だからだろうけど、今は、むしろ、柴又への、観光路線かもしれない。
だから、ゆっくりでも、いいのかな。
車両に乗り込み、数分後、再び、金町線は、動き出す。
草いきれの中、のろのろと、進み、柴又駅へ。
この駅に降り立つのは、何年ぶりだろうか。
改札を出て、駅前に出ると、寅さんの銅像がある。
この間、来たときは、なかったんだけど。
ところで、寅さん、というと、昔は、延々と、シリーズで、やっている、退屈な、映画かと、思い込んでいた。
でも、以前、社員旅行の帰り、観光バス内で、場つなぎに、寅さんの映画、やっていたのだが、退屈な映画、という思い込みが、吹っ飛んでしまったな。
退屈な映画どころか、間違いなく、屈指の名画だ。
ということで、遅ればせながら、第1作は、見たのだけど。ただ、もう、全部の作品を見るのは、とうてい、無理だ。あと、数本、見れればいいだろう。気付くのが、遅すぎたのかも。
気を取り直して、映画「男はつらいよ」、について。
せっかく、柴又駅に、寅さんの銅像が、立っているのだが、第1作、寅さんの登場は、東側の江戸川、矢切の渡し、からだ。(もっとも、江戸川の河川敷に、寅さんの銅像があれば、増水したときに、流されてしまうので、設置は、無理だろうけど)
では、なぜ、寅さんは、矢切の渡しで、江戸川を渡って、登場したのだろう。
前回、柴又を訪れたとき、実は、矢切の渡しで、対岸、千葉県側に、渡っている。(ちなみに、このときは、寅さんのことは、意識はしていなかった)
対岸に辿り着き、河川敷を進むと、その先には、広大な畑地が広がっていた。
さらに、その畑地を突破すると、急な上り坂。その坂を登りきると、国府台の台地があるのだ。
そのときは、北総開発鉄道の矢切駅で帰ったけど。
駅近くには、南北に伸びる、松戸と市川を結ぶ、通り。この通りを、松戸から市川まで、歩いたことがあるが、大通りではないにしても、松戸と市川を結ぶ、幹線道路だったと思う。だから、バスの往来が盛んだった。
とすると、寅さん、市川か松戸で、いったん、下車して、バスに乗り継ぎ、適当なバス停で降りて、江戸川の河川敷まで、歩いてきた、ということになる。
このような経路、さらには、矢切の渡し、という交通手段、なんらかの、必然性は、あるのだろうか。
どう考えても、必然性は、ないと思う。でも、ただの、気まぐれ、では絶対ない。
そのヒントは、映画のシーンの中に出てくる。
妹、さくらさんのお見合いを、ぶちこわしにした、寅さん、責任を感じて、置手紙を残し、また、旅に、出てしまう、というシーンだ。
さくらさん、置手紙を読み終わるや、すぐに、帝釈天境内を、走り抜け、江戸川河川敷へ。
すでに、渡船上の寅さんを見付けるが、もう、間に合わない。
この時、いったい、なぜ、さくらさんは、寅さんが、矢切の渡しで、江戸川を渡る、ということに、すぐ、気付いたのだろうか。
過去に同じことが、あったから、に違いない。
つまり、20年前、寅さんが、家を、出奔したとき、今回と同じく、交通手段として、矢切の渡しを使ったのだ。
なぜなら、当時、寅さんは、まだ、未成年。京成金町線を使っていれば、いくらなんでも、じきに、発見されて、家に連れ戻されていたはずだ。
20年前の寅さん、対岸に着くや、東へ駆けに駆けて、通りまで辿り着き、松戸行きか、市川行きか、わからないが、ちょうど、バス停に来ていたバスに、飛び乗ったのだろう。
これなら、いくら、探し回っても、無理だ。
たぶん、このことは、矢切の渡しの船頭さんが、あとで、気付いて、寅さんの家族に、伝えたのかな。
だから、さくらさんは、その当時のことを、思い出して、寅さんが、矢切の渡しを使うことに、気付いたのだ。
とすると、寅さんが、冒頭、なぜ、わざわざ、矢切の渡しで、登場するのか、ということも、わかるような気がする。
すなわち、寅さんは、20年前、家を出奔する、直前まで、時計の針を、戻したかったのだろう。
当時、家を飛び出したときのコースを、逆に、辿ることで、そのことを、体感し、実感したかったのだ。
だとすると、故郷、柴又に、帰る、といっても、たんに、懐かしいから、とか、故郷に錦を飾る、といったことではなく、もっと、もっと、重い意味で、故郷に、帰ってきたのかもしれない。
(2009年6月記)

京成金町線京成金町駅(京成金町駅舎)

2009-12-03 05:09:10 | Weblog
水戸街道を東に歩き、途中、北へ。駅前に戻る。
たしか、水戸街道まで、アーケードが、伸びていたように、記憶しているが、そんなものは、もう、ない。
アーケードのある商店街、というのは、個人的には、好きなんだけど、最近は、こんな風に、撤去されてしまうことが、多いようだ。
アーケードを取り払うと、陽光が、直接、射し込み、たしかに、明るくなって、いいような気がする。
でも、むしろ、閑散としているのは、気のせいなのかな。白々しい、寂しさもあるし。
それに、時代遅れの、古臭いお店が、痛々しく感じる。
アーケードに覆われていれば、そんなお店も、燻し銀の、趣があったはずだ。
こういう明るさ、強者が、弱者を、無理強いに、白日の下に、引き摺り出してくるような、そんな残酷さ、冷酷さを、感じてしまう。
だから、好きではないのだ。
金町駅南口広場に出て、西へ。
広場の西端に、真新しいが、こじんまりとした、京成金町駅の駅舎がある。
さっそく、ホームに入ろうと思ったが、次の発車まで、しばらく時間がありそうだ。
都心の通勤路線とは、思えないような、のんびりした、雰囲気がするな。
たぶん、さっき、見てきた、水戸街道を、踏切で横切っている、ということが、大きいと思う。
つまり、激しい交通渋滞を招くので、列車の本数を、増やせないのだ。
増やせないうちに、都心のローカル路線になっていき、水戸街道は、高架で、その上を、越えていくことになる。
本来なら、まず、京成金町線を高架にして、さらに、水戸街道のほうは、地下道にすれば、よかったかもしれない。
もっとも、なんでもかんでも、便利になって、忙しくなれば、いいのだろうか、と、最近は、思ってしまうけど。
たまには、のんびりした、場所があっても、いいような気もするな。
まだ、当分、列車は、来ないので、近くで、昼飯。
そばを食べた。老舗のそば屋でなく、立ち食い。それがいいのだ。
(2009年6月記)


常磐線金町駅(水戸街道金町陸橋)

2009-12-02 04:34:20 | Weblog
ヴィナシス金町タワーレジデンスの南側を、東に沿って、歩いていくと、すぐに、水戸街道に出る。
交通量の多い、幅広な大通りに面した、高層住宅、という、側面もあるのだろう。
ただ、やはり、駅前、ということの方が、優先されているように思える。
できうれば、金町駅ホームが、高架上にあるので、広場をペデストリアンデッキで覆い、ヴィナシス金町タワーレジデンスと、駅改札口を直結したかったのかも。
将来的には、わからないが、駅前の高層住宅で、すでに、そうなっているところが多いのは、事実だ。
ちょっと、水戸街道を、東へと、歩いてみる。
上空を覆うように、長々と、伸びているのは、高速道路ではなく、一般道の金町陸橋。
この高架道路を見ると、昔のことを、思い出す。
バブルの頃だろうか、千葉のあちこちに、同僚が住んでいて、よく、クルマで遊びに行ったのだが、帰りは、たまに、松戸を経て、水戸街道に入り、都心に向かったりしたものだ。
松戸を過ぎると、江戸川に、新葛西橋が架かっていて、よく混んでいたなあ。
その先に、金町があったし、なによりも、京成金町線の、踏切があったからだが。
その後、混雑解消のため、新葛西橋の袂から、陸橋が伸び始める。
たまに通過するたびに、高架工事が、進んでいて、その進捗具合が、明るい未来を、予感させてくれたものだが。
工事は、どんどん、進行し、やがて、金町を通り越し、その、ずっと先まで伸びて、ようやく、地平に降り立って、完成した。
京成金町線との立体交差による、混雑解消、ということでもあるのだが、なによりも、金町の上を、素通りしたかったようにしか見えない。
つまり、松戸から広がる、常磐線沿線のベッドタウンにとって、金町は、通過すべき、いらない街なのだ。
このことは、ひょっとしたら、駅前高層住宅が、ペデストリアンデッキで、駅と直結することと、同じなのかも。
ようするに、ペデストリアンデッキの下に広がる街は、もはや、いらないのである。
そう気付いたときは、並べて豊かだった、バブル期、および、それ以前の、安定期が、遠くなってしまった、と実感するしかない。
仕方のないことだけど。
(2009年6月記)