retifの都市探検日記(高層ビル編)

東京の街並みなどを報告します

丸ノ内線西新宿駅(地下道タイムズアベニュー)

2009-09-10 03:51:35 | Weblog
いまや幅広の、クルマにとっては、快適そうな、通りになった、税務署通りを、さらに、西へと、歩いていく。
しばらく、歩いていくと、その先は、広大な、再開発地。更地が広がり、その中に、家屋の土台などが残っている。一見すると、何か、とんでもない、天変地異が、町を襲った後、みたいに見える。
何年かすると、巨大な高層ビルが、姿を現すことになるだろうけど。
そんな再開発地の手前で、南へ。細い路地に入っていく。
細い住宅街の道を、くねくねと進んでいくと、一叢のこんもりとした、森があったりする。成子天神社だ。
まるで、都心とは思えないような雰囲気。もっとも、このような、光景が、いつまであるのか、わからないが。
成子天神社の参道に入り、南へと進む。
鳥居の外は、すぐに、青梅街道となっている。
急に、開けた、西新宿の高層ビル街が、目の前に、広がるので、ワープ、あるいは、タイムスリップした感覚だ。
近くには、丸ノ内線の西新宿駅。
この駅は、意外と新しい。開業したのは、最近のこと、バブルが崩壊した後だ。
自分のように、都心を、あちこち、歩き回っている場合、案外、とても便利な駅なんだけど。
ただ、普通に考えると、新宿駅から歩いて来れるので、なくてもいいのでは、とも思ってしまう。
道路脇の駅入口から、階段を降りていく。今回は、丸ノ内線に乗るわけではないが。
改札口には、行かないで、駅の南側へ。
駅の南側に辿り着くと、そこからは、歩く歩道付きの地下道が、さらに、南へと伸びている。
丸ノ内線西新宿駅の設置は、納得したとしても、この、地下道は、いったい、なんなのだろうか。
しかも、誰もいないし。平日、来たことはないので、わからないけど。
西新宿駅が開業したのと、同時に、この閑散とした、地下通路も、完成したらしい。
都市には、機能があるはずで、もちろん、この地下通路も、その一部なはずだ。
でも、もし、そうではないと、思ってしまうと、不思議な感覚に陥ってしまう。
(2009年5月記)

山手線新宿駅(税務署通り)

2009-09-09 03:53:11 | Weblog
細い道を北へ北へと、歩いていく。
突然、開けた場所に出た、と思ったら、税務署通りだった。
新宿の北側を、東西に伸びる、大通りだ。
山手線から東側は、職安通り、というのだが。
こんなふうに、同じ通りなのに、名前が違うのは、開通した時期が、違うから、なのかもしれない。
実は、税務署通りが拡幅されて、今のように、幅広の通りになったのは、ごく最近のことなのだ。
ちょっと前まで、ごく狭い通り、しかも、両脇には、商店の並ぶ、通りだった。
昔、何度か、通ったので、その頃の光景を、まだ、覚えている。
魚屋、焼鳥屋、なんて、あった。
そんな庶民的な通りは、今や、幅広の大通りになってしまった。もはや、あの頃、見た情景は、まったく、残っていない。
ところで、この税務署通りを、まっすぐ、西へ行くと、以前は、T字路になっていたな。
交番があるからか、どうか、わからないが、信号がなかったように思う。
それなのに、タクシーが抜け道として、やたらと、通っていて、危なくて、しょうがなかった。
今は、税務署通りが、その、さらに、西へと、突き抜けている。
そして、青梅街道に合流しているのだ。
その青梅街道は、山手線東側、ガードを越えると、歌舞伎町に接しているので、そこからは、交通の難所になっている。
だから、税務署通りが、青梅街道のバイパス、ということになるのだろう。
都市機能の一環、というわけだ。
こう見てくると、つまり、都市、というのは、単に、人口が集中しているだけではなく、機能を備えている、ということがわかる。
もし、昔日の面影が残るとすれば、結局、テーマパーク、あるいは、山の手、しかないのだ。
そうとは、わかっているけど、やっぱり、昭和の街並みが、消えてしまうのは、ちょっと、寂しい感じがするな。
(2009年5月記)

山手線新宿駅(住友不動産西新宿ビル)

2009-09-08 06:11:24 | Weblog
歩道橋の階段を降りて、青梅街道の北側へ。
青梅街道を、西へと歩いていく。
すぐに、常泉院、常円寺、という、ちょっと古い、お寺。
そして、その西側に、最近、竣工した、住友不動産西新宿ビルがある。(工事中はこちら
西新宿の高層ビル群は、青梅街道の南側、と思っていたのだが。
いつしか、青梅街道を越えて、このように、北側へと、進出したようだ。
もっとも、バブルの頃あたりだろうか、青梅街道に沿って、小さなビルが、壁のように、建ち始めたのは。だから、高層ビルが建たないとしても、もはや、住宅地では、なくなっていくな、とは、思っていた。
常円寺と住友不動産西新宿ビルとの間の細い道を、北へと歩いていく。
たしか、もう忘れてしまったが、この細い通りに、ささやかな商店街が、あったような記憶が、かすかにあるのだが。すっかり、変貌しているので、もう、まったく、思い出せない。
ひょっとしたら、常泉院、常円寺の門前町だったのかな。
これで、昭和の街並みが、消えてしまった、ということは、確かなんだろうけど。
たぶん、このような、変化は、北側を東西に伸びる、税務署通りまで、広がるように思う。
そういえば、この場所は、かつて、柏木、といっていたそうだ。
だが、今は、税務署通りの北側を、北新宿、南側を、西新宿七丁目、としている。
ということは、場所の名前が変わった時点で、税務署通りを境にして、南側は、西新宿高層ビル街の領域になる、計画だったのかな。
町名が変わったのは、西新宿高層ビル街の高層ビルが建ち始めた頃なので、そうといえなくなくもない。
ただ、あの当時は、もちろんだが、バブル以前まで、そんな雰囲気は、微塵もなかったはずだ。
とすると、計画があったとしても、それは、ほんの、きっかけに過ぎないのかも。
どちらにせよ、今のところ、昔日の面影が、徐々に、消えているのは、確かだな。
(2009年5月記)

山手線新宿駅(新宿駅近く青梅街道)

2009-09-07 03:40:46 | Weblog
歩道橋の階段を上がり、青梅街道の北側へ。
下を見下ろすと、幅広の通りを、クルマが、ひっきりなしに通過していく。
甲州街道と並ぶ、東京の西側の大動脈だ。
大動脈なのだが、ここから、ちょっと、東に進むと、JRのガードがあり、その先は、歌舞伎町となっている。
通過するのには、時間がかかってしまう一帯だ。
自分なら、クルマで来た場合、西新宿高層ビル街の手前で、南に折れて、そのまま、南へ進み、甲州街道に入ってしまうけど。
ただ、最近は、今も、そうなのだが、駐車違反が厳しくなったり、あるいは、不景気があったり、新しい道路ができたりして、クルマの流れは、スムーズに見える。
もっとも、もう、クルマで、でかけることもないので、そのスムーズさを、実感できないのは、残念なのだが。
そういえば、歌舞伎町ばかりではなく、荻窪駅の近くも、たいてい、通るのに、時間がかかっていたな。
渋滞が始まっているとすれば、荻窪からだったかもしれない。
それに、そもそも、青梅街道の地下には、丸ノ内線が通っているのだ。地下鉄には、駅前広場はないのだが、駅が近ければ、繁華な街となるだろう。
だから、荻窪から東は、幹線道路、という感じではないかも。
そんな青梅街道なのだが、開通したのは、江戸時代初め、らしい。
江戸城増築のため、青梅街道を使って、白壁用の石灰を搬入した、ということだ。
その後、江戸時代は、もっぱら、農産物の輸送、あるいは、甲州街道の裏街道として、利用されている。
こう見てくると、あんまり、大動脈、という感じでもない。青梅と都心を結んでいるだけなので、当然かもしれないな。
ただ、最近になって、西新宿高層ビル街のあたりで、青梅街道は、拡幅する工事をしていた。もう、完成したのか、見ていないけど。
都心集積化、ということで、都心に直結すれば、大動脈たりえるのかもしれない。
こうして、歩道橋から見下ろしていると、クルマが、どんどん、都心へと、吸い込まれていくのは、そういうわけだ。
(2009年5月記)

山手線新宿駅(青梅街道に伸びるペデストリアンデッキ)

2009-09-06 07:29:31 | Weblog
ロータリーの北側を、西へと歩いていく。
この真上、地上には、西口バスターミナルがある。
各所にある、階段を登れば、バス停だ。
便利なのだが、慣れていないと、どこに、何行きのバス停があるのか、ちょっと、見当がつかない。
さらに、西へと進む。ビルの地下、のような、奥まった場所に入る。
ここらへんは、まったく、わかりづらい。
うまくすれば、階段を上がると、ビックカメラに入れたりするんだけど。
そういえば、さっきの、ロータリーの場所から、北側へ、地下鉄丸ノ内線の新宿駅を目指して行くと、東口への、地下通路に入れる。
このルートも、わからなかったな。
わかったときは、まるで、迷路が解けたような気分だったが。
ようやく、とあるビルに入り、階段を登っていくと、地上へ。
そして、高層ビル、新宿エルタワーの北側を、西へと歩いていく。
すぐに、幅広の、交通量の多い、青梅街道。
上空には、張り巡らされた、歩道橋があって、青梅街道の北側に、渡れるようになっている。
この、歩道橋は、実は、新宿エルタワー脇の、ペデストリアンデッキにつながっていて、さらに、駅近くの、ビックカメラにも、つながっている。
だから、駅前から、青梅街道の、北側まで、ペデストリアンデッキを歩いていけば、辿り着けることになっているのだ。
ただ、もともと、新宿駅自体が、そのペデストリアンデッキに、直結するようには、なっていないので、あまり、便利ではない。
ここで、ふと、気付いたのだが、新宿駅西口地下広場、というは、本来、ペデストリアンデッキになるべきだったのかもしれない。
つまり、地下だと、見通しが利かず、迷路になりやすいので、移動には向かない。
ペデストリアンデッキだと、遠くまで見通せるので、目的の場所まで、すんなりと、行けるのだ。
もっとも、たぶん、新宿駅西口地下広場が完成した、高度成長期には、そのような発想が、まったく、なかったのだろうな。
昔は、のんびりしていた、ということだ。せかせかと、目的地まで、急ぎ足で、歩いていく、なんて、考えられなかったのかも。
(2009年5月記)

山手線新宿駅(新宿駅西口地下ロータリー)

2009-09-05 08:31:39 | Weblog
高田馬場から山手線に乗り、新宿駅で下車。
ホームから地下へと降りていく。
地下道を西へ。改札を出て、地下街を少し歩いていくと、目の前には、ロータリーが、現れる。
地下に地下街があって、地上に広場やロータリーがあるのなら、わかるのだが。
地上にも、地下にも、広場がある、というのは、たぶん、新宿駅西口だけだろうな。
完成したのは、高度成長期の頃。まだ、西新宿高層ビル街は、姿を、現していなかった時期だ。ただ、もう、工事が始まろうとしていたかもしれない。
時期的に見れば、高度成長期の目指していた、近未来の世界が、この新宿駅西口地下広場、なのかな。
でも、結局、何を目指していたのか、わからない。
歩いていても、通路ではなくて、明らかに、広場なので、歩行者の流れができにくく、歩きづらいのだ。
それに、ロータリーでは、タクシーに乗れるようになっているようだが、大いに利用されているとも思えないし。
たぶん、高度成長期の末期、新宿駅西口地下広場で、反戦フォーク集会なる活動が、しばしば、あったらしいが、それが、この広場の、本来の、目的だったのだろうな。
フォーク集会なら、今の、路上ライブみたいで、賑やかでよかっただろう。
だが、そのような集会は、長く続くことはなかったようだ。
実際、改札を出て、そのまま、ロータリーで、タクシー、ひろって、帰宅する、通勤者が、いるとは、思えないけど、西口バスターミナルに行くには、この広場を、通過しなければならない。だから、集会は、邪魔といえば、邪魔かもしれない。
ということで、経済も豊かになったし、生活と、その生活を支える範囲内で、仕事のことだけ、考えれば、よくなったのだ。
そして、仕事と自分の生活の間を、一直線に、歩いていく。途中で、停まったりはしない。
バブルが、崩壊しても、歩くだけ。
ついには、格差社会になってしまったが、それでも、まわりを見ずに歩く。
あたかも、歩くことが、解決の方途であると、錯覚しているみたいに。
最後には、今のような、世の中になってしまったってことだ。
それでも、下を見ながら、もう、わけもわからず、歩くしかない。
(2009年5月記)

中央線御茶ノ水駅(日本サッカーミュージアム)

2009-09-04 07:18:55 | Weblog
さっきの熊前橋通りに戻り、西へ。
実は、妻恋神社を訪れる予定ではなかった。
本当は、日本サッカーミュージアムに行くのが、目的だったのだけど、どこにあったのか、すっかり、忘れてしまっていたな。
探し回っているうちに、妻恋神社に辿り着いたわけ。
以前、ここらへんに来た時は、逆で、妻恋神社などを訪れていたとき、偶然に、日本サッカーミュージアムを発見したのだ。
その時は、なんで、こんな、文京山の手に、日本サッカーミュージアムが、あるのだろう、と思ったものだが。
ところで、Jリーグ、というと、ジェフ市原のことを思い出す。
バブルの頃は、同僚が、千葉県に、何人か住んでいたので、何度も、遊びに行ったのだが、その時、ジェフ市原の試合を、数回、観戦したのだ。
最初の時は、Jリーグブーム、ということで、チケットも買えなかったのだが、なんとかなるだろう、というので、出掛けた。
行っても、もちろん、スタジアムに入れるわけでもない。
仕方なく、まわりを、歩き回っていると、同じように、チケットもないのに、やって来てしまった、観客が、集まっていた。
なんだろうと、思って、その、一団に、加わってみると、なんと、スタジアムの壁に、大きな隙間が開いていて、そこから、中の試合が見れるではないか。
後日、すぐに、改修工事が施されて、そういうことは、なくなったのだが、Jリーグブームの懐かしい思い出だ。
たしか、その翌年だったかな。Jリーグブームが、席捲する中、あのプロ野球が異様な雰囲気に包まれたていたのは。
存在感が、まるで、なくなってしまったいたっけ。
その後、プロ野球は、巨人、中日の優勝最終決戦や、巨人のメイクドラマ、などがあって、人気を盛り返すんだけど。
ただ、やはり、Jリーグブームは、大きな、画期、だったな。
ひょっとしたら、バブルの遺産で、最大のものは、Jリーグなのかもしれない。
格差社会に沈んでしまった、今の世の中、そう考えると、少しは救われる思いがする。
(2009年5月記)

中央線御茶ノ水駅(妻恋神社)

2009-09-03 05:00:07 | Weblog
神田明神の北側を、東西に伸びる、蔵前橋通りに出て、西へ歩く。
交差点を北に曲がり、すぐに、細い道を東へ。静かな住宅街が広がっている。
その細い通りの北側には、妻恋神社。銭形平次とお静の、おしどり夫婦ぶりを、思わせる、名前の神社だ。
ただ、おそらく、「妻恋」とは、雉を妻恋鳥、と呼ぶので、「雉」のことだと思う。
つまり、もとは、雉子神社、だったのかもしれない。
雉子神社、といえば、五反田にも、あったな。
もっとも、伝説などで、雉が、どういう、意味を持つのか、わからないけど。
ひょっとすると、雉も、鳥、ということで、大鳥神社、ということだろうか。
そういえば、妻恋神社の真東に、鳥越神社、という、有名な神社がある。
鳥越神社も、大鳥神社の系列なので、なにか、関係があるのかもしれないな。
例えば、この地には、もともと、鳥を神格化している、住民がいた。
ところが、律令制により、中央に、組み込まれてしまう。
そのとき、在地の鳥信仰も、日本武尊の白鳥伝説の部品として、中央の神話に組み込まれてしまったのだ。
それが、妻恋神社や、鳥越神社、といった、大鳥神社系統の神社の創建につながり、今に、到っている。
というような、歴史の流れが、あったのかも。
もっとも、実際、大昔のことは、結局、わからない。
間違いない事は、江戸時代より前は、妻恋神社のある、文京山の手の台地と、鳥越神社がある、小さな丘陵地以外は、あたり一帯、すべて、湿地帯だった、ということだな。
平安時代の、国府は、ここから、ずっと離れた、内陸の、今の、府中に、あったわけだし。
辺鄙な場所ではあっても、けっして、開かれた場所では、なかったに違いない。
ようやく、江戸時代になってから、街ができて、賑やかになったのだ。
そして、そのとき、相応の、「妻恋」、という神話が、付与されたのだろう。
でも、それはそれで、いいのかもしれないな。
(2009年5月記)

中央線御茶ノ水駅(神田明神裏参道)

2009-09-02 04:13:38 | Weblog
本殿の裏側に回り込むと、秘密の抜け道みたいな、下りの階段がある。
神社にあるような、石段ではなく、普通のビルにあるような、コンクリ製の階段だ。
いちおう、神田明神の裏参道、となっている。
だが、コンクリで固められて、人工的になってはいるが、江戸情緒を、損なっているわけでもない。
そのような裏参道の階段を降りているとき、ふと、では、その江戸情緒、というのは、結局、なんだろう、と考えてしまう。
江戸情緒、というのは、下町情緒、とも言われているが、そこら辺が、この考えの糸口かもしれない。
もちろん、この場合の、下町は、現在のような、山の手、下町、という意味での下町ではなく、江戸時代の、城下町、の「城」の次に続く「下町」、の下町だ。
つまり、御城のお膝元、という意味なのだろう。
例えば、銭形平次の十手は、お上からの、預かり物、ということになっている。(武器兼身分証明書みたいなものだが、史実ではないらしい)
この、お上、というのは、もちろん、御城のことだ。
ただ、御城、といっても、具体的な建物、ということではないように思う。
たぶん、その昔、御城を舞台として、繰り広げられた、戦乱の世の、神話的、英雄譚のことを暗喩しているに違いない。
そして、その英雄譚を担った主役こそは、武士である。
この場合の、武士とは、儚く、刹那的なまでに、戦乱の中に、ヒロイズムを、追い求めた、もののふ、ということだ。
戦乱が、なければ、彼らは、別の、儚い、ヒロイズムを求めて、傾奇(かぶき)者、になったらしい。
その刹那的なヒロイズムが、十手に、乗り移っていた、と考えた方が、いいと思う。
だからこそ、銭を、武器に使ったのだ。
そう考えると、例えば、「遠山の金さん」の、遊び人の金さん(かぶき者)、と、遠山金四郎(武士)が、同一人物、というのも理解できるし、また、忠臣蔵が、人気なのも、このヒロイズムのため、といえる。
そういえば、神田明神の祭神、平将門は、この、儚い、ヒロイズムの、典型、なのに違いない。
江戸情緒と、神田明神が、密接に、結びついている、というのもわかるな。
(2009年5月記)

中央線御茶ノ水駅(銭形平次の碑)

2009-09-01 05:00:41 | Weblog
鳥居をくぐり、参道を歩いていく。
やがて、眼前に、華やかで、華麗な、隨神門。
門を通れば、神田明神の境内だ。
以前、何回か、訪れたことがあるけど、他の神社に比べて、神田明神は、とても、華やいだ雰囲気がする。
江戸の街の総鎮守、だからだろうか。
ただ、境内を歩き回っていると、今回は、そんな中にも、ちょっと、緊迫した空気が漂っていたが。
そういえば、神田祭りが近いのだったな。
そんな祭りを控えた境内を、ぐるっと、回っていると、銭形平次の碑、というのがある。初めて、来たときは、銭形平次の碑に、感動したものだ。
銭形平次は、神田明神下、に住んでいることになっていたので、それで、碑があるわけだけど。
ちなみに、現在、神田明神下交差点、というのがあって、その交差点は、神田明神の南側の本郷通りを東に行くと、秋葉原電気街の手前にある。
たぶん、そのあたりに、住んでいたのだろう。(実在はしないのだが)
銭形平次、というと、自分が、子供の頃から、テレビ時代劇で、果てしなく、やっていたなあ。
特に、自分から、見ていたわけではないが、本当に、生活の一風景になっていたように思う。
実際の放映時期は、高度成長期から始まって、バブル直前まで、ということだ。
ところで、このテレビ時代劇「銭形平次」の、どこに、こんなにも、魅力があるのだろうか。
今でも、自分が、よく覚えているのは、派手な立ち回りや、見事な推理、といったものではなくて、事件が持ち込まれる前と、事件が解決した後の、実に、のんぶりした、安穏な、夫婦水入らずの、生活ぶりだ。
あたかも、事件の解決は、銭形平次と女房、お静との、穏やかな暮らしをも、もたらしているように思える。
そして、やはり、武器としての銭だな。
銭を、武器、として、使用している、ということは、銭形平次は、貨幣経済の中に、いないんじゃないか、と考えてしまう。
もっとも、だからこそ、私利私欲に駆られた、事件を解決できるのだろうが。
つまり、銭形平次の世界では、事件さえなければ、欲得とは関わりない、慎ましやかだが、安穏な生活があるわけだ。
これが、銭形平次の時代劇の魅力なのかもしれない。
さらに言えば、これが、番組が始まった頃、高度成長期の、夢の未来、の一つだったのかな。
だが、そんな未来は消え去り、今は、格差社会。欲得ばかりが、まかり通る。銭も、勝ち組への方途でしかないのだ。
どうしてこうなってしまったのか、わからない。でも、どうしようもないな。
(2009年5月記)