retifの都市探検日記(高層ビル編)

東京の街並みなどを報告します

東急東横線武蔵小杉駅(THE KOSUGI TOWER)

2008-12-11 05:00:48 | Weblog
リエトコート武蔵小杉のツイン高層住宅は、南北に連なるように配置されている。
南側が、リエトコート武蔵小杉ザ・クラッシィタワー。北側が、リエトコート武蔵小杉イーストタワーだ。リエトコート武蔵小杉イーストタワーの方が、ちょっと東側にずれているので、名前は、イーストタワーなのだろう。
たぶん、位置をずらしたのは、イーストタワーの真南をザ・クラッシィタワーが塞ぐと、イーストタワーの日照時間が減るからだろう。
これらのツイン高層住宅の建っている敷地は、一面、緑の芝地となっている。
その整備された芝地に入り、高層ツインビルの間を抜けて、東側に出ると、その先には、THE KOSUGI TOWERがある。
この高層住宅も最近、完成している。
こうして見ると、THE KOSUGI TOWERとリエトコート武蔵小杉の2棟の高層住宅は、近接しているので、ビル名とデザインが違うけれど、一つのビル群を形成している、と思った方がいいのかもしれない。
実際、これらのビルの真ん中に建って、周囲を見渡すと、3棟もの高層ビルが、三角形を成していて、実に壮観な眺めなのだ。
この3棟の高層住宅の他にも、武蔵小杉駅の東側には、パークシティ武蔵小杉のツイン高層住宅、というのがある。
このように、今や、武蔵小杉周辺には、5棟の巨大な高層ビルが建ち並ぶ、ということになったのだ。
だが、この大変貌は、これで終わったわけではない。
まだ、高層住宅が何棟か建つ予定らしい。
さらに、横須賀線に新駅が開業し、川崎縦貫鉄道が新設される。実現される可能性は、ほぼないが、川崎から高速道路が延伸される予定もある。
ということは、目の前に広がる、この近未来の光景も、実は、大変貌への途上にすぎない、ということだ。
たしか、このあたりは、ほんのちょっと前までは、工場とそれを取り巻く田圃。そして、ひなびた商店街。そんな街だったと記憶している。
それが、ほんのわずかの間に大変貌を遂げ、さらに変わろうとしている。
その土地の運命とは、本当に不思議なものだな。
(2008年6月記)

東急東横線武蔵小杉駅(リエトコート武蔵小杉ザ・クラッシィタワー)

2008-12-10 03:10:36 | Weblog
矢口渡駅で東急多摩川線に乗る。
東急多摩川線の沿線に今後、高層ビルが建つ、なんてことはないはずなので、たぶん、この路線に乗るのは、最後になるかもしれないなあ。
そういえば、路線の北側に木々の連なりが見えるのだが、あれは、鵜の森、というのだろうか。
ちょっと判らないな。確かめるすべもなく、車窓の風景として、その細長い林の風景は、流れ去っていく。
気を取り直し、今度は、南側、多摩川の流れの方を見やる。
しばらくすると、多摩川駅の手前あたりからだろうか、多摩川の向こう岸、武蔵小杉方面に、巨大な高層住宅が並び建っているのが見え始める。まるで、SFのような光景だ。
多摩川駅に着き、再び、東急東横線へ。
東急東横線に乗って、多摩川を鉄橋で渡る段になると、今度は、武蔵小杉の巨大な建築物は、ぐんぐんと、目の前に迫ってくる。いつもながら、すごい迫力だ。
多摩川を越えると、南西方向を向かっていた、東急東横線の線路は、緩やかに、南へとカーブを描いているのだが。
そのカーブに、列車が、入ると、そのカーブを進むたびに、窓外の巨大な建築群は、横へ横へと、大きく広がりながら、展開するように見えるのだ。
本当に、まさに、SFみたいな光景だ。
巨大なビル群の西側にある武蔵小杉駅に着き、近未来SFの地に降り立つ。
まず、高架に沿って南へ向かう。
すると、高架の西側には、まだ、下町っぽい商店街が残っているのだ。
これは、ブレードランナーの世界だな、と一瞬、思ったが、ちょっと大袈裟かな。
でも、こんな昔ながらの風景が、街の中に残っているのを見ると、ほっとする。
さらに、南へと歩くと、すぐに、南東へと伸びる、府中街道。
ずっと昔からある通りなのだが、この通りが、東急東横線の高架をくぐっていく、このあたり、この光景は、まったく、変わっていないなあ。
そう思いながら、東急東横線の東側に出て、府中街道を南東にしばらく歩いていくと、武蔵小杉の巨大高層住宅群の一画、リエトコート武蔵小杉がある。
ザ・クラッシィタワー、イーストタワーの2棟からなるツインの高層住宅だ。
最近、建った高層住宅だ。
この建物を見上げていたら、なんだか、昔の武蔵小杉の風景は、頭から消えていってしまうようだな。
(2008年6月記)

東急多摩川線矢口渡駅(トミンタワー多摩川二丁目)

2008-12-09 04:43:42 | Weblog
さっきの通りを北へと歩いていく。
東急多摩川線の踏切のあるところまで行かなくても、途中で細い道に入ってしまう。
その道に入り、お店などを眺めながら歩いていると、もう、下丸子駅に着いてしまうのだ。
こんなに下丸子駅周辺に詳しくなったのだが、近辺に高層ビルが建つ予定はないので、残念ながら、この駅に降り立つことは、もうないだろう。
東急多摩川線に乗り、矢口渡駅で下車。
ちょっと下町っぽい商店街をまっすぐに南へと歩いていく。
ほどなくして、多摩川に行き当たる。
そこからは、多摩川に沿って、南東へと向かう。
しばらくすると、多摩川の北側にトミンタワー多摩川二丁目がある。
竣工は、バブルが崩壊した後、失われた10年の頃だ。
景気がよくないと、公営の高層住宅が建ったりするものかな。
また、多摩川に沿って歩き、さっき通って来た商店街の通りを北へ向かう。
矢口渡駅に戻っているのだが。
ところで、この駅名になっている矢口渡についてだが、江戸時代、東海道が整備される以前の主要な交通路、だったらしい。
江戸時代の東海道は、ここより、ずっと下流の、六郷の渡で多摩川を越えていたのだ。
このことから、おそらく、江戸時代より前、東京湾の海岸沿いは、湿地帯で、陸よりも海上を通る方が、普通だったのかもしれない。
もし、陸上を通るとするなら、かなり、内陸に入ったところだったはずだ。
そして、その内陸に入ったところ、というのが、この矢口渡なのだろう。
さらに言えば、多摩川を矢口渡で渡った、対岸には、今でも、古市場、という地名が残っている。
江戸時代より前は、この一帯は、市場が開かれるほど、賑やかで、交通の要衝だったことをうかがわせるな。
だが、主要幹線の東海道が、江戸時代に、南側、海岸沿いに移されたことにより、それ以来、矢口渡付近は、忘れられた存在になってしまったようだ。
今でも、その忘れられた、という感じは残っている。
もっとも、近くには山の手もあるので、寂れ果てた、というほどでもないんだけど。
それに、忘れられた土地には、こうして、トミンタワー多摩川二丁目のような、高層住宅が建ったりするし。
ただ、ちょっとしたことで、その土地の運命は変わってしまう、というのは、本当に不思議なことだなあ、と思ってしまう。
ちなみに、こちらには、まだ、町工場は残っているみたいだな。
(2008年6月記)

東急多摩川線下丸子駅(シエルズガーデンエールタワー)

2008-12-08 04:29:36 | Weblog
キヤノンの敷地の通りを挟んで東側には、シエルズガーデンの集合住宅がある。
その集合住宅の中には、シエルズガーデンリビエルタワー、シエルズガーデンエールタワーの2棟が高層住宅となっている。
竣工は、失われた10年が終わって、到来した集積化の時代だ。
どちらも、多摩川に面して建っているので、いったん、多摩川の堤に出てみる。
建物の配置は、多摩川の雄大な風景が一望の下、見渡せてるような、感じになっているな。
多摩川の緩やかな水の流れ、緑の多い河川敷、その向こうは多摩丘陵だろうか、そんな風景が目の前に広がっているのだ。
まるでリゾート地の中にいる気がする。
このような場所が、バブルの頃までは、工場地帯だったなんて、本当に信じられない。
いつの間にか、閑静な住宅街に変貌している。これが、ウォーターフロントの再開発、というわけだ。
なんとなく、このシエルズガーデンの集合住宅は、多摩川の風景を独占しているような気もするが、格差社会なのだから、仕方のないことだろう。
こんな風に、工場は、閑静な住宅地になっていく。
たぶん、工場で、みんなで、懸命に製品を製造するよりも、その工場を閑静な住宅地にして、その一帯をステータスにした方がいいからだろう。
なぜなら、そのステータスを使って、社会の中の競争を煽っておいた方が、社会的な利益になるからだ。
つまり、みなが、勝ち組を目指して競争する、そのエネルギーが、すなわち、利益、となるのだ。
でも、勝ち組、負け組、というのは、社会の中における、ただの、相対的な位置関係にすぎないのかもしれない。
もし、そうだとすれば、負け組、でなければ、イコール、勝ち組、ということになる。
ならば、そんな中で、みなが、勝ち組を目指す、ということになれば、どうなってしまうのだろうか。
たぶん、そのような格差社会の中での競争は、利益を生み出すのではなく、大量の負け組だけを生み出してしまう、そういうことになるんじゃないかな。
というわけなのだが、ちょっと、勝ち組、負け組は置いておくとして、そのステータスとやらに、少しは、あやかろうかと思ったのだが。でも、時間がないので止めた。
残念ながら、そんな暇はないのだ。(貧乏暇なし、とはこういうことだったりして)
(2008年6月記)

東急多摩川線下丸子駅(キヤノン下丸子本社ビル)

2008-12-07 08:58:45 | Weblog
高田馬場駅から山手線。渋谷駅で東急東横線に乗り換える。
さらに多摩川駅で東急多摩川線、と乗り継ぎ、下丸子駅で下車。
東急東横線は、かなり便利な路線なので、ここまで来るのに、それほど時間がかかる、というわけではないが、それにしても、遠くに来た、という感じはするなあ。
たぶん、縁遠い場所、ということなんだろうけど。
そもそも、高層ビルがなければ、こんなところに来ることは、まず、ありえないし。
南口に出て、ちょっとだけ蒲田っぽい感じの商店街を抜け、南北に伸びる通りへ。
縁遠い割には、何度か来ているので、すっかり、土地勘ができてしまったな。
この通りからは、もう、閑静な住宅街、という雰囲気に満ちている。
通りを南へと歩き、多摩川の川岸へ。
その通りの西側に、キヤノン下丸子本社ビルがある。
おなじ敷地には、他にも、キヤノン下丸子研究所がある。
キヤノン下丸子本社ビルの方は、キヤノン下丸子研究所の数年後、失われた10年の終わり頃に竣工している。
バブルが崩壊して、失われた10年へ。そのどん底が終わってみると、キヤノンの工場の敷地にでかいビルが建っている、というのは、なんなのだろうか。
そのことに関して、特に深く考えるつもりもないのだが。
ただ、間違いないのは、その後の格差社会で、キヤノンが、代表的な企業に君臨している、ということだろうな。
こういう閑静な住宅街の一画に、高層ビルが建ってたりするのを見ても、いかにも、格差社会の勝ち組、という感じがする。
だが、格差社会にすることで、いかほどの利益が上がるものなのだろうか。
格差社会の中で、激烈な競争で勝ち取った勝ち組の権利とは、多摩川のただの河原をウォーターフロントと称して、満足することなのかな。
もしも、満足することに疑問を持つとしたら、その時点で、競争は意味がなくなってしまう。
格差社会である、ということが、社会そのものに、なんらかの価値をもたらす、ということは、もうそろそろ、限界のような気もするな。
(2008年6月記)

銀座線虎ノ門駅(新霞が関ビルディング)

2008-12-06 04:56:40 | Weblog
国会議事堂の前を、こうしてぶらぶら歩いているのは、どうやら、自分と外国からの観光客ぐらいだろうか。
観光目的、あるいは、社会科見学ぐらいしか、一般的に訪れる用事はないものなあ。
そう思いながら、南へと歩き続けていく。
通りの西側一帯には、議員会館があるらしいが、建て替え工事の真っ最中。
静寂な雰囲気の中、そちらの側だけは、工事中、ということで慌しい感じがする。
もっとも、工事をやっているところは、崖の斜面みたいな場所のようだ。
だから、忙しげな工事の騒音も丘の上のこの場所までは届かずに、崖の下へ反響していくばかりだな。
さらに南へ進み、国会議事堂の南端を過ぎると、今度は、急な下り坂になる。
引っ張られるように、どんどん、坂を下りていく。
下っていく途中に、霞が関官庁街に到る、東西に伸びる通りとの交差点がある。
その交差点の南東側に、新霞が関ビルディングがある。
霞が関ビルの裏側にひっそりと建っている感じの高層ビルだ。
竣工は、バブルの頃。
バブルと言えば、世の中、かなり、熱狂的だったのだが、その間、高層ビルは、ずいぶんと目立たない場所に、静かに建ったりしたのかな。
景気がいいから、高層ビルが、ぐんぐんと建つ、というわけでもなさそうだ。
新霞が関ビルディングのあるところから、また、坂をちょっと下り、下りきると、そこは、虎ノ門、ということになる。
ようやく、国会議事堂の圏内から抜け出したような気がして、ほっとする。
普段の賑やかな街、下界に戻ってきたようだ。
日常の世界に帰ってきて、気分が落ち着いたところで、永田町から虎ノ門までの道のりを振り返る、余裕がでてきた。
永田町駅辺りから、急な坂を登り、台地の上にある国会議事堂に辿り着く。張り詰めた重苦しい空気の中を歩き、その国会議事堂を通り過る。そして、台地を下って、下界に降り立つ。
この道のり、まるで、日本という、このクニのカタチを体感したような気分だな。
さらに言えば、国会議事堂の東側には、茫洋とした、皇居が広がり、霞が関官庁街が続いているのだ。
そして、台地の南側、麓には、高度成長期に建った、霞が関ビル。その隣には、最近できた、もっと巨大な霞が関コモンゲートの高層ビルがある。
それらの北側には、ちょっと低めの目立たないが、妙な色をした、バブル期に建った、新霞が関ビルディングがある、という具合かな。
とすると、バブル期、というのも、日本のクニ、という中では、こんな程度のものだったのかもしれない。
(2008年6月記)

半蔵門線永田町駅(新都道府県会館)

2008-12-05 04:25:05 | Weblog
南へ歩き、パレスサイドビルに入る。
このビルの地下は、東西線の竹橋駅になっているのだ。
竹橋駅で東西線に乗り、九段下駅へ。
九段下駅で半蔵門線に乗り換える。
永田町駅で下車。
地上に出ると、東西に伸びる青山通り。
そして、北側、麹町方面に通りが一本、伸びている。
その通りの西側には、赤坂プリンスホテル新館。通りを挟んで、東側には、新都道府県会館がある。
竣工は、バブルが崩壊した後の失われた10年の頃だ。
景気が悪いときには、このような公共の施設が建つものなのかな。
ところで、この高層ビルが建っている場所は、赤坂見附駅付近や弁慶濠からは、かなり、高い位置になっている。
そして、その高台に到る坂道を上る途中には、赤坂御門の石垣の跡が残っている。
この高台が、江戸城、最後の天然の要衝と位置づけられていたのだろう。
ただ、石垣が崖の斜面に張り付いているのを見ると、いかにも、この高台が、江戸時代の石垣によって築かれたように錯覚してしまうな。
このような高台の上に、新都道府県会館が建っているのだが、北側にある、番町、麹町に行くには、さらに、諏訪坂を登らなければならない。番町、麹町は、もっと高い場所にあるのだ。
今回は、番町、麹町には、用はないので、南側へ向かう。
南東側の通りに入り、そのまま歩いていく。
いったん、下り坂になるが、再び、急な上り坂になり、その坂を登りきったところに、南北に伸びる通りとの交差点がある。
その交差点で南北に伸びる通りに入り、南へと進む。
少し歩くと、この通りの東側には国会議事堂。
このような場所には、今まで用があったことはないので、一度も来たことはない。(もし、用があったとしたら、小学生の社会科見学ぐらいかな)
まったく、初めてきたのだが、その第一印象。
国会議事堂が、こんな高台にあるとは、まったく、思わなかったなあ。
これでは、まるで、ギリシアのパルテノン神殿だな。
地図を見れば、予想はつくのだが、どこにも、国会議事堂は、高台にある、なんて、書いてないし。
それにしても、まわりは、閑散としていて、静まり返っていて、時間が止まっているような感じがする。
そして、妙に重苦しい緊張感が周囲に漂っているのだ。
(2008年6月記)

東西線竹橋駅(住友商事竹橋ビル)

2008-12-04 05:10:45 | Weblog
東京堂千代田ビルと千代田区役所本庁舎の間の道を東に歩く。
日本橋川を渡る。日本橋川は、このあたりで、南から南東方向へと、緩やかに流れの向きを変えている。
見上げると、日本橋川の上には、首都高池袋線の高架が、上空を覆うように、延々と伸びている。
日本橋川に沿うように、南東方向へ歩いていく。
堤防の表面が、石垣を模したようなデザインになっていて、皇居、江戸城が近いことを感じさせてくれる。
しばらく、歩いていると、北から南へと伸びてくる、大通りに行き当たる。その通りに入り、日本橋川を雉子橋で越えていく。
橋を渡った先、日本橋川の南側に住友商事竹橋ビルがある。
竣工は、高度成長期の終わり頃だ。
もう少しで、高度成長を達成する、という時期だな。
住友商事竹橋ビルが建った頃は、もうすでに、近くのパレスサイドビルや北の丸公園は、完成していたようだ。
高度成長期、急ピッチで街並みが整備されていったのだろう。といっても、皇居の近くなど、限られた地域だったようだが。
ところで、さっき、渡ってきた雉子橋から見えたのだが、日本橋川の護岸は、コンクリートの作り物ではなく、本物の石垣みたいだ。
江戸時代から残っているかどうかは、わからない。
そういえば、江戸時代の前は、日本橋川は、今よりも、もっと、大きな流れで、川の名前は、平川、といったらしい。その平川の畔には、平河天神があったのだ。今は、麹町の南側にあるけど。
その平川の流れを、江戸の街を整備するために、一部、東側に付け替え、隅田川に直接、流れ込むようにした、ということだ。(今の神田川のことだが)
ひょっとしたら、今、見えている、本物の石垣は、そのような江戸時代の治水事業の痕跡なのだろうか。
そんな感慨に耽りながら、視線を、なにげなく、川面に移すと、大きな黒い影のようなものが、いくつか、うねるように動いているのが目に入った。
たぶん、鯉なんだろうと、理解するまで、数秒かかってしまったな。都心の川に、こんな、大きな、魚がいるなんて、思いもよらなかったからだけど。
ひょっとしたら、この巨大な鯉は、この川が、平川だった頃も、江戸の街を流れていた頃も、そして、高度成長期、この川の上空を覆うような高速道路の高架ができたり、畔に高層ビルが建ったりした頃も、川の底を、ゆったりと泳いでいたのだろうか。
鯉がそんなに長く生きるわけがない、とわかっているのだが、黒く濁った水の中をゆっくりと泳いでる姿を見ると、どうしても、そんな風に感じてしまった。
(2008年6月記)

都営新宿線九段下駅(東京堂千代田ビル)

2008-12-03 06:15:35 | Weblog
大塚駅から山手線で巣鴨駅へ。
都営三田線に乗り換える。
さらに、神保町駅で都営新宿線へと乗り換える。
九段下駅で下車。
地上に出ると、東西に伸びる靖国通りと南北に伸びる目白通りとの交差点に出る。
この交差点の西側は、麹町、番町のある山の手、高台になっていて、見上げるような感じ。
この高台のために、靖国通りは、坂になっていて、しかも、この坂は、けっこう急なのだ。
クルマで靖国通りを東に向かって、走っている時、九段下にさしかかると、ちょっとした下り坂なので、少しスリリングな気分になるな。
このあたりを、江戸時代の地図で見ると、道路に線が縞状に何本も横切って引いてある。それで、この急な坂道が、当時は、階段状になっていた、ということがわかる。
だから、一帯の「九段下」という地名の「九段」は、その階段のことなのだろう。そして、その階段の下、ということで、九段下なのだ。
もっとも、さすがに、階段のままだと、クルマは走れないので、今は、坂道となっている、ということだろうか。(実際は、クルマが普及する前に、階段はなくなっているのだが)
交差点を南へと向かう。
しばらく南へ歩いていくと、通りの東側に東京堂千代田ビルがある。
竣工は、高度成長期が終わった後、安定期の頃だ。
やっと、高度成長を達成した、ということで高層ビルを建てたのだろうか。
あるいは、九段の坂の下だったところに、高層ビルが建った、ということは、九段の坂の上、山の手、麹町、番町に手が届いた、ということなのだろうか。
そのような理由でビルが建ったのかは、わからないけど。
ただ、間違いないのは、高度成長を達成した時代、誰もが、坂の上に手が届いた、そう実感していた、ということだろうな。
でも、バブルが崩壊して、今は、格差社会。坂の上を見上げることしかできないのだ。
手が届くなんて、ありえない話になってしまったなあ。
そんな、今の時代は、次のように考えるしかない。
坂の上に手が届いた、そう、思えたあの時代、東京堂千代田ビルが建った、あの時代こそが、日本の坂の上だった、というふうに。
(2008年6月記)

山手線大塚駅北口(TOKYOシティトリエ)

2008-12-02 06:14:23 | Weblog
さらに、大塚駅から北西に伸びている通りを歩いていく。
やがて、南北に伸びる明治通りとの交差点。
その交差点の東側にTOKYOシティトリエがある。
竣工は、失われた10年の後の集積化の時代だ。
交通量の多い明治通りの遮蔽物であると同時に、ちょっと離れているが、大塚駅近くの高層住宅、というところかな。
ふと、交差点の南側を見やると、上り坂になっているので、やはり、この場所も、かつては、川筋、あるいは谷地だった、ということがわかる。
ということで、昔は、谷端川だった通りを再び歩いて、大塚駅へ戻るとするかな。
大塚駅の北口に着く。
大塚駅は、南口もそうだが、北口には、かなりの広さの駅前広場がある。
広場はあっても、そのまわりには、特に何もないので、いつも、がらん、としているだけなのだが。
しかし、戦前の頃には、大塚駅の北口には、白木屋デパート、さらには高島屋まであったそうだ。
たぶん、その当時は、この広い駅前広場に見合った、賑やかさだったのだろうなあ。
今から考えると、信じられない。
大塚駅の南口にも広さだけは、十分な駅前広場がある。
やや趣が異なるけど、やはり、北口と同様に、とても賑わっていたそうだ。
南口には、北口とは違って、有名な料亭街が広がっていたらしいのだ。
今でも、雰囲気的には、料亭街、という感じが残っている。ひょっとしたら、当時から、営業を続けている料亭も、まだあるのかもしれないな。
こちらは、今は飲み屋街になっているのだろうか。
個人的には、料亭街よりも、敷居の低い、飲み屋街の方が、いいのだけど。
ただ、もし、南口に料亭街の雰囲気が残っているのなら、歴史テーマパークは、可能かもしれない。
さすがに、北口の白木屋デパートは、今は跡形もないので、歴史テーマパークは無理だろうが。
大塚駅の南口は、意外と、池袋のサンシャインシティとは近いし。
もっとも、そうなると、大塚駅南口は、完全に、池袋の街に飲み込まれてしまう、ということになる。
それでも、寂れているよりもいい、という風になったりして。
(2008年6月記)