retifの都市探検日記(高層ビル編)

東京の街並みなどを報告します

武蔵野線武蔵浦和駅(プラウドタワー武蔵浦和テラス)

2008-12-21 03:44:31 | Weblog
武蔵野線の乗る。ひさしぶりだ。
相変わらず、武蔵野線の駅間は長くて、広い関東平野を疾走していく感じがいいな。
それに、今日は、もう、すっかり夏の天気。
天気予報では、まだ、梅雨、ということだったのだが、今日の空を見ると、そんな雰囲気はしない。
例年なら、7月に入ったばかり、というのは、そろそろ梅雨の後半が始まる、という時期なのに。今年は、夏の到来がとても早いのだ。
武蔵浦和駅で降りる。
外に出ると、眩しくて強い日差し。そして、心地のよい爽快な暑さ。
駅の西側に出たのだが、ペデストリアンデッキの上は、日差しを遮るものはないので、熱せられていて、本当に暑くて堪らない感じがする。
手を頭上にかざし、暑さをしのぎながら、ペデストリアンデッキを歩いて、駅の西側にあるラムザタワーまで行き、地上に降りる。
東西に伸びる通りに出て、西に歩いていくと、通りの南側、ラムザタワーの西側にプラウドタワー武蔵浦和テラスがある。
最近、完成したばかりの、高層ビルだ(工事中はこちら)。
この高層ビルは、ツインビルになっていて、もう一棟は、南側にある。ただ、そちらの高層ビルは、まだ、完成していない。
ということで、武蔵浦和駅周辺には、また、高層住宅が加わろうとしているのだが。
しかし、このツインの高層住宅の竣工で、駅周辺の再開発は、一区切りつく、ということになるだろう。
再開発の計画は、いくつか、あるらしいのだが、具体化している計画は、今のところ、一つもないからだ。
ちょっと寂しくなる。
バブルの頃は、さいたま新都心に対する副都心、という位置付けだったらしく、意気盛んだったのだが、今はもう、忘れさられた存在、というわけか。
これからどうなるのだろうか。
例えば、もはや、再開発する気がないなら、その用地は、森林公園にでもした方がいいんじゃないかな。
駅から北側にある別所沼公園に、春、桜並木がとても美しい緑道が伸びているのだが、その反対側の駅周辺も森林公園だったら、居心地がいい感じがする。
今日のような、夏の暑い日でも、木陰があれば、涼しいし。
もし、そんなことでもしなければ、たぶん、再開発用地は、低層のマンションで、埋め尽くされてしまうような気がする。
(2008年7月記)

山手線大崎駅(大崎ニューシティ3号館日精ビルディング)

2008-12-20 08:25:21 | Weblog
大崎ニューシティ4号館新大崎勧業ビルディングの東側、大崎駅から見て、大崎ニューシティビル群の裏側になるところには、大崎ニューシティ3号館日精ビルディングがある。
竣工は、同じく、バブルの頃だ。
このように、3棟の高層ビルを擁する、大崎ニューシティのビル群が、大崎駅の、山手通りを挟んで、すぐ東側に、バブルの頃、出現したのだが。
そうだとすると、バブルの頃にも、現代のような、駅近くの再開発があったのか、と思ってしまう。
ただ、当時は、周囲は、すべて、工場地帯だったようだ。
京浜の工場群が目黒川沿いに伸びてきていた、といったところか。
だから、バブルの頃、こんな辺鄙な場所に、ビル群ができてしまった、と考えた方がいいだろう。
たとえば、ちょっと前まで、大崎、と言われても、ごくたまに、山手線の終着駅になっているなとしか、思い浮かばなかったなあ。なにせ、まわりには、工場しかなかない、まさに僻遠の地だったし。
そんな大崎駅周辺だったのだが、バブルが崩壊して、失われた10年がやってきて、その終わり頃、急激に高層ビルが建ちだし、今もその建設が続いている。
都心の集積化により、大崎も、その都心に呑み込まれたのだ。
そのような大転換は、大崎ニューシティの南側のゲートシティ大崎が始まりだったのだろう。
まず、南側にゲートシティ大崎ができ、次いで、北側には、五反田近くまで、高層ビル群が伸びていった。
そして、最近は、駅の西側で工事が続いている。
さらに、その工事が終わった後、今度は、大崎ニューシティの東側、ということになるのかな。
こうして、大崎ニューシティの周囲は、工場地帯から高層ビル街へと変貌してしまったのだ。
もっとも、そうだとすると、バブルの頃は、大崎ニューシティの周囲は、工場しかなかったので、このビル群の名前は、たしかに、「ニューシティ」でよかったのだが。
しかし、今となっては、このビル群、大崎の高層ビル街の中では、最古参の古びたビルにすぎなくなってしまっている。
こうなるとわかっていれば、名前は、せめて、「センターシティ」ぐらいにしておけばよかったかな。
時代の流れとは、かくも、人智を超えたものだ、ということなんだろうけど。
ならば、大崎周辺のビル群がすべて完成した後、どうなるかは、わからない、ということだな。
その時が来るまで、楽しみにしていよう。
(2008年6月記)

山手線大崎駅(大崎ニューシティ4号館新大崎勧業ビルディング)

2008-12-19 06:10:43 | Weblog
また、恵比寿ガーデンプレイスの中、山手線に沿って、北へと歩いていく。
再び、スカイウォークに入る。
この通路には、恵比寿駅まで、動く歩道が断続的に設置されている。
いつもながら、動く歩道は、無駄っぽくて、好きだなあ。
こんなに長いなら、逆方向に向けて、目黒駅に伸ばしてもよかったかな。
さらに考えは膨らむ。
例えば、南東側にある、国立自然教育園は、恵比寿ガーデンプレイスとけっこう近い。
それなら、並木道、緑の回廊、でも整備して、直接、恵比寿ガーデンプレイスと国立自然教育園を結びつければ、楽しいかもしれない。
だんだん、考えが、バブルっぽくなってきたな。
そして、恵比寿ガーデンプレイスの中の緑をもっと増やして、国立自然教育園との境目をなくしてしまうのだ。
国立自然教育園の森の中を歩いていると、突然、視界が広がり、そこには、おとぎの国のような、恵比寿ガーデンプレイスがある、という仕掛けだが。
あるいは逆でもいいな。恵比寿駅からスカイウォークで恵比寿ガーデンプレイスに着いて、それで終わりではなく、その先がある。
その先には、こんもりとした森があって、ふと、そちらの方に導かれてしまうのだ。
恵比寿ガーデンプレイスの贅を尽くした人工美に飽いた目には、自然の豊かな緑は、より新鮮な心地よさを感じさせてくれる、風景に映ることだろう。
実現するわけもないのだが、考えるだけでも楽しい。
もっとも、バブルでもなければ、このようなことが、実現しない、というのは、虚しいことなのかな。
そんな考えに耽っているうちに、スカイウォークの動く歩道は終わり、恵比寿駅へ。
山手線に乗る。
大崎駅で下車。東側に出る。
ペデストリアンデッキが、南北に伸びる山手通りを越えて伸びている。
その先には、大崎ニューシティのビル群が広がる。
山手通りに面して、北側には、大崎ニューシティ1号館TOC大崎ビルディングがあり、南側には、大崎ニューシティ4号館新大崎勧業ビルディングがある。
竣工は、バブルの頃。
まだ、周囲すべてが工場地帯だった頃だ。
そもそも、大崎ニューシティも工場跡地だったのだが。
(2008年6月記)

山手線恵比寿駅(ウェスティンホテル東京)

2008-12-18 04:40:47 | Weblog
恵比寿ビュータワーの東側には、恵比寿ガーデンテラス壱番館があり、さらに、その東側には、ウェスティンホテル東京がある。
ウェスティンホテル東京も、バブルが崩壊した頃に竣工している。
バブルが崩壊したのに、何をやっているのだろう、と思うだろうが、この頃は、たしかにバブルは崩壊していても、不景気、という感じではなかったのだ。
といって、バブルの再現を目指したのかどうか、わからないけど。
ところが、その後、本当にどん底の不景気に突入してしまったな。
そんな不景気な時期を経たためなのか、このような贅を尽くした広大な人工空間は、もう今後、二度と出現することはないだろう、という気がする。
現代なら、贅を尽くさない、人工空間、例えば、密集した建築物群、ということになるだろう。
それに、そもそも、このように、駅と駅の間の交通の便のよくない場所なら、建つとすれば、高層住宅ぐらいだろうか。
この恵比寿ガーデンプレイスのように、あらん限りの装飾を施した広大なオープンスペースを作る、なんてことは、もう、ないはずだ。
もっとも、最近は、せっかくの、このような贅を尽くした人工空間なのに、そういうものを、ゆっくり見る、という余裕は、すっかり、なくなってしまったなあ。
見る余裕がないままに、いつしか、年月だけ、経っていくのだ。
ひょっとしたら、もう、15周年ぐらいには、なるのかもしれない。
そういえば、この間、訪れたとき、ふと、恵比寿ガーデンプレイスの高層オフィスビル、ガーデンプレイスタワーの壁面が、なんだか、黒っぽく煤けけていることに気付いてしまった。ついに古ぼけてきたのだ。
贅を尽くしたバブルテーマパークが、レトロな歴史テーマパークになっていくのかな。
もし、そうなったら、ゆっくり、見てみよう。
そうなるのは、そんなに先のことではないかも。
(2008年6月記)

山手線恵比寿駅(恵比寿ビュータワー)

2008-12-17 04:38:36 | Weblog
実は、町屋には、もう一棟、高層ビルが建つらしかったのだが。
しかし、そんな気配は、どこにもない。計画倒れになったのだろう。
だとすると、この先、高層ビルは、町屋には、建たない、ということかな。
高層ビルが建たないなら、もう、町屋に来ることもないのか。
なんだか、寂しいような気もする。
高層ビル巡り、でなくて、懐かしの歴史テーマパーク巡り、というブログテーマに切り替えようかなあ。
そうなれば、昭和の雰囲気が今でも残る町屋には、何度も足を運ぶことになりそうなのだが。
などと考えながら、地下に降り、町屋駅で地下鉄千代田線に乗る。
途中、霞ヶ関駅で日比谷線に乗り換える。
恵比寿駅で下車。
城東の下町から一気に東京の西側、華やかな街中に降り立つ、ということになる。
もっとも、日比谷線の恵比寿駅は、JRの恵比寿駅の北側になっていて、近くを流れる渋谷川の影響なのか、ちょっと下町っぽい感じがするのだ。
ここは、渋谷の中の町屋かな、というのは、大袈裟だが。
とりあえず、JR恵比寿駅の東側に出て、南に歩いていく。
途中で階段を登り、駅構内へ。
そして、スカイウォークに入って、さらに南へと進んでいく。
スカイウォークを出ると、そこには、おとぎの国のような世界、恵比寿ガーデンプレイスが広がる。
相変わらず、陽光が溢れるような明るい雰囲気に満ちているな。
もっとも、お金に余裕がないと、本当に、身の置き場がないところでもあるのだが。
山手線に沿って、恵比寿ガーデンプレイスの中を南へと歩いていく。
しばらくすると、東西に伸びるプラタナス通りがある。
そのプラタナス通りの南側には、恵比寿ビュータワーがある。
竣工は、バブルが崩壊した頃だ。
バブルは、崩壊していたのだが、やはり、この開放的な広がりを持つ街並みを見ていると、なんとなく、バブルっぽい感じがするなあ。
(2008年6月記)

京成本線町屋駅(センターまちや)

2008-12-16 06:16:02 | Weblog
今、考えると、このシテヌーブ北千住の、どこがいったいバブルなのか、と思ってしまうのだが。
でも、やはり、バブル、と考えた方がいいように思う。
例えば、シテヌーブ北千住の東側を南北に伸びる通りは、隅田川を千住汐入大橋で越えていくのだが、その橋が開通したのは、ごく最近のことだ。
シテヌーブ北千住が竣工しても、長らく、ずっと橋はなかったのである。
それに、さっきの、関屋駅、牛田駅の辺境ぶり。
しかも、隅田川沿いは、当時、工場地帯で、親水公園とは程遠かったし。
つまり、当時は、こんな辺鄙な場所にも、豪華な高層マンションが建ってしまったのだ。こんなことは、バブルの頃以外では、考えられない。
今なら、親水公園があって、通勤路線の駅が近くにあって、道路も整備され、住環境もいい、ということで、初めて、高層マンションが建つのだろうな。
そんなことを考えながら、やっと開通した千住汐入大橋をちょっと渡ってみる。
少し歩いてから、振り返って、シテヌーブ北千住の方を見て、驚いてしまった。
隅田川に面しているこのビルの壁面に、人工の滝があるではないか。
ごく最近、完成した、この橋が存在していなければ、こんなところに滝があってもしかたないような気もするけど。
だが、これこそが、バブルだ、と改めて思ってしまったなあ。(人工の滝は、最近、できたのかもしれないけど)
関屋駅に戻り、再び、京成本線に乗る。
次の駅は、千住大橋駅。
この駅の南側一帯に、ひょっとしたら、高層住宅が建つかもしれない、といわれている。駅には近いし、日光街道にも近い。隅田川沿いでもある。高層住宅の建つ条件は、揃っているので、ありえないことではない。今、見たところは、なんの動きも、見られないのだが。
そのような、千住大橋駅を過ぎ、隅田川を鉄橋で渡ると町屋駅。町屋駅で降りる。
町屋駅の西側には、すぐにセンターまちやがある。
バブルが崩壊した後、失われた10年の頃に竣工している。
そのセンターまちやのすぐ西側には、地下になるが、千代田線の町屋駅があり、北側には、都電荒川線も通っている。
南側には、後に完成した高層ビル、マークスタワーもある。
この密集振りは、現代の再開発の先駆けだろうか。
もうバブルのような感じはしないな。
(2008年6月記)

京成本線関屋駅(シテヌーブ北千住)

2008-12-15 04:06:31 | Weblog
平和橋通りを北へ。
すぐに踏切がある。その踏切の手前に交差点。西に曲り、そのまま、西へ歩いていく。
通りには、鄙びたお店なども並び、のんびりした感じだ。
しばらく歩いて、途中で北へ。
立石駅に着く。
さて、駅の改札に向かおうかと思ったら、階段しかない。
一駅分、歩いてきたのだが、その挙句に階段なのか。たぶん、探せば、どこかにエレベータでもあるんだろうけど。
以前、訪れたときも、立石駅に辿り着いた、と思ったら、階段を登らなければならず、がっくりしたのを覚えている。
高架になる予定なので、駅の改良工事は、控えているのかな。
立石駅で京成押上線に乗り、青砥駅へ。
駅周辺は、静かな住宅街が広がる。
ちなみに、青砥駅の名前は、地名の青戸、からなのだが、漢字が「青砥」になっていることについては、特に深い意味はないそうだ。深い意味はなくても、今さら、地名の「青戸」に駅名を戻すわけにもいかないだろうな。
青砥駅で京成本線に乗り、都心へ向かう。
再び、荒川を渡り、関屋駅で下りる。
すぐ北には、東武伊勢崎線の牛田駅、というのがある。
以前、訪れたときは、この二つの駅、こんなに近接しているのに、まったく無関係の駅、という感じだったけど。辺鄙な場所にあるので、連絡駅にする必要はなかったのだろうか。今回は、ちゃんと、連絡通路みたいなのがあって、乗換えはできるみたいだ。
でも、本来は、一つの駅にするべきだろう。さらに、駅舎は、2階部分に設置し、ペデストリアンデッキを南側に伸ばして、通りを越えられるようにすればいい。
辺鄙な場所だから、その必要はないかな。
関屋駅の南側に出て、南東へ伸びる大通りに入り、南東へ歩いていく。
途中、南北に伸びる通りとの交差点。
南に曲り、そのまま南へと進む。
すぐに隅田川に架かる橋がある。
その手前、通りの西側、隅田川沿いにシテヌーブ北千住がある。
竣工は、バブルの頃だ。
たしか、バブル、という時代を説明する場合、たいてい、この高層マンションが引き合いに出されていたな。
まさに、バブルの時代を象徴する高層住宅だ。
(2008年6月記)

京成押上線四ツ木駅(東四つ木四丁目アパート2号棟)

2008-12-14 03:09:59 | Weblog
高田馬場駅から東西線。九段下駅で都営新宿線に乗り換える。
さらに、馬喰横山駅で都営浅草線に乗り換える。都営浅草線の駅は、東日本橋駅となっているが。
そのまま、都営浅草線に乗っていると、京成押上線に乗り入れているので、京成押上線の路線に入ることになる。
曳舟を過ぎ、荒川を鉄橋で渡り、四ツ木駅へ。四ツ木駅で下車する。
この駅で降りるのは、かなり、ひさしぶりだ。
侘しい駅前、というのは、昔から変わらないけど。
ただ、四ツ木駅から先は、以前、訪れたときは、高架ではなかったと思うな。
それに、荒川に架かっている鉄橋も、今より、ずっと貧弱で、車窓から下を見ると、荒川の流れが間近に見ることができたのだ。車体が少しでも傾けば、そのまま、荒川に車両が転落するのでは、と思ってしまうほどだったなあ。
案の定、小さい貨物船が、京成線の貧弱な鉄橋の橋桁にぶつかって、鉄橋全体が、「く」の字に折れ曲がってしまう、という事故があったっけ。
その事故の後、鉄橋を、もっと大きなものに架け変え、高架工事も始めたのかな。
改札を出て地上に降り立ち、高架に沿って、北東方向に歩いていく。
途中、高架が地上線になる手前で、住宅街に入り、東へと歩いていく。
しばらく歩くと、南北に伸びる平和橋通りに行き当たる。
平和橋通りに入り、北へ。すぐに、通りの西側に、東四つ木四丁目アパート2号棟がある。
他にも住宅棟があり、集合住宅群、という風になっている。
竣工は、バブルが崩壊した後、失われた10年の頃だ。
景気がよくないと、こうした、公営の高層住宅が建ったりするのだろう。
もっとも、この高層住宅、四ツ木駅と立石駅の真ん中にあって、今、見ると、なんで、かんな場所に建ったのだろう、と思えてしまう。
今なら、駅近くに、高層住宅が建つんだろうな。
ということで、東四つ木四丁目アパート2号棟も訪れたし、駅に戻るのだが、距離的には、四ツ木駅でも立石駅でも同じなので、せっかくだから、立石駅の方に向かうとする。
ところで、京成押上線の沿線は、総武線の駅周辺のような下町、というわけでもない。むしろ、城東の郊外、といった方がいいかもしれない。
静かな住宅街が広がっているのだ。
(2008年6月記)

銀座線虎ノ門駅(新日鉱ビル)

2008-12-13 07:31:00 | Weblog
さきほどの桜田通りに戻り、また、北へと歩いていく。
愛宕山も尽き、六本木の台地も尽きたあたり、急に平野になるので、開けた感じになってくる。
そのようなところで、西に曲る。そのまま、西に進んでいく。
六本木の台地に沿って、麓を進んでいる、というところかな。
ただ、まだ台地は北の方に伸びているので、上り坂にはなっている。
その上り坂は、潮見坂、という坂だ。潮見坂、というのは、あちこちにあるけど。
少し歩いていくと、通りの西側に新日鉱ビルがある。
竣工は、バブルの頃。
バブルの熱狂の中、建ってしまった高層ビルなのだろう。
思わず、勇んで、高層ビルを建ててしまう、というのも、よくわかるなあ。
特に、資源を扱う企業なら、高度成長で蓄えた、豊富な資本があるので、なおさらだろう。
つまり、その豊富な資本により、世界資源の支配に乗り出した、ということだろうか。
しかし、あえなくバブルは崩壊してしまう。
ジャパンアズナンバーワン、というのは、所詮、夢、幻にすぎなかった、ということだな。
でも、新日鉱ビルの建っている場所よりも、高いところには、もっと、巨大な高層ビルが、今では、建っているのだが。
そっちの方のビルは、ジャパンアズナンバーワンではなくて、日本の中で、ナンバーワン争い(競争社会ということ)をした結果なんだろうな。
どちらにしても、似たようなものだ。
そのまま潮見坂を登りきると、アメリカ大使館がある。
最近は、アメリカもかなり傾いているらしい。ちょっと前からだと考えれられないな。
栄耀栄華も長くは続かない、ということだろう。
アメリカ大使館のあるあたりから、榎坂を下り、北へ向かうと、もう赤坂に着いてしまう。こうして、坂道を厭わずに歩けば、虎ノ門と赤坂は近いのだ。
江戸時代は、この榎坂を登りきると、その先に、海が見えたのだろう。だから、その先の坂を潮見坂といったのだな。
昔から、変わらないのは、本当に、この坂道だけなのかもしれない。
溜池山王駅から、もう、帰ろう。
そういえば、江戸時代、溜池山王駅があるあたりは、溜池があったのだ。その溜池も、駅名に名前を残すのみ。
時代は、流れていく。そして、過ぎ去ったものは、もう、再び、出会うことはない。
(2008年6月記)

日比谷線神谷町駅(パークコート虎ノ門愛宕タワー)

2008-12-12 06:13:53 | Weblog
綱島街道を北に歩き、パークシティ武蔵小杉の2つの高層住宅の間を抜けていく。
この前、来たときは、こんな道はあったかな。
かまわず西へと歩いていくと、すぐに、武蔵小杉駅に着いてしまう。
ちょっと見ない間に、どんどん街並みが変わってしまうなあ。
この街の急激な変わりようを見ていたら、さっきの矢口渡を思い出してしまった。
もっとも、こちらは、逆なのだが。
矢口渡あたりには、かつて、鎌倉街道(中道)が通っていたらしい。
昔は、さぞかし、幹線道路沿いで、賑やかだったことだろう。
だが、江戸時代になって、東海道がはるか南側に開通してしまう。そのおかげで、矢口渡近辺は、幹線からはずれ、賑やかだった街が寂れてしまった、ということだ。
それが時代の流れ、というものなのだろうか。
武蔵小杉が、最近、急激に発展したのも、このような時代の流れ、なのだろうな。
武蔵小杉駅で東急東横線に乗る。再び、多摩川を渡り、都心方面へ。
列車が、武蔵小杉から離れていくとき、また、巨大な高層住宅群を見やった。
すると、今度は、この巨大な建築物群、だんだんと、小さくなっていくように見える。
東急東横線で中目黒駅へ。日比谷線に乗り換える。
神谷町駅で下車。
南北に伸びる桜田通りに出て、北へ歩いていく。
愛宕山と六本木の台地に挟まれているせいか、このあたりは、静かで落ち着いた感じがするな。
しばらく進んで、交差点を東に曲る。
この通りを進むと、愛宕山をトンネルで抜けることになるのだが。
このような都心に、小さいとはいえ、山があって、しかも、その山を穿つトンネルがある、というのは、とてもおもしろい。
そのトンネルの手前で南に曲り、そのまま、南へ少し歩くと、パークコート虎ノ門愛宕タワーがある。(工事中はこちら
最近、竣工した、高層住宅だ。
都心に、このような、緑なす山がある、というのも、驚きだが、その山の麓に、リゾートマンション然、とした高層住宅まである、というのは、なおさら、驚きだな。
ところで、この高層住宅に入り道には、タクシーがいつも何台か停まっているのだが。たぶん、静かで、誰も来ないので、タクシーの休憩場所になっているのだろう。
せめて、こんな風に、愛宕山の麓は、静かなので、タクシーの休憩スポットになっている、というぐらいなら驚かないのだけど。
このような場所にも、高層住宅が建つ、というのも、その土地の数奇な運命の一つなのかな。
(2008年6月記)