retifの都市探検日記(高層ビル編)

東京の街並みなどを報告します

山手線東京駅西口(丸の内ホテル)

2008-08-21 06:15:08 | Weblog
水天宮駅へ。
現在は、航空機の搭乗手続き、出国手続きがなくなったせいかどうかわからないが、なんか普通の駅になったような気がする。
もっとも、海外旅行客が、当時、押し寄せていた、という記憶はないんだけど。
半蔵門線に乗り、大手町駅で下車。
東京駅目指して南へ歩き、永代通りに入って、今度は東へ。
すぐに、永代通りの南側に丸の内オアゾの高層ビル群。
この圧倒されるような高層ビル群を見て、思わず納得してしまうことがある。
すなわち、さっき訪れたバブル期の隅田川ウォーターフロント再開発地に取って代わったのは、都心集積化なのだろう、ということだ。
この高層ビルの密集ぶりを見ると、まさに集積化、という感じがする。
ちなみに、丸の内オアゾ高層ビル群は、日本生命丸の内ビル、丸の内センタービル、新丸の内センタービル丸の内北口ビル、そして、丸の内ホテル、の5棟の高層ビルから構成されているのだが。
山手線に沿って南へ。
東京駅の駅前へ向かい、とりあえず、丸の内オアゾの東側に出る。
丸の内オアゾ高層ビル群の東側にある丸の内ホテルを見るためなのだが。
ホテルの方はわからないけど、このビルには、有名な書店、丸善が店を構えている。
丸善、といえば、小説の「檸檬」を思い出してしまうな。(丸善、といっても、小説の舞台は京都店らしい)
小説の内容は、主人公が、丸善に行って、画集の上に檸檬を載せて、立ち去る、それだけの話なのだが。
たぶん、丸善が、鬱屈した閉塞感、そして、檸檬が、瑞々しい、若々しい情熱、を表現していたように思う。
ふと、今の、この密集した高層ビル群の中の丸善には、何を置いたらいいのだろうか、と考えてしまう。
隅田川ウォーターフロントの土手に並木として植えられている桜の枝、それがいいかな。でも、花が咲いてるわけではないし。
いろいろ考えを巡らせていたけど、やっぱり、考えるのはやめた。
この巨大なビル群を見上げていると、檸檬が百個あっても、とうてい太刀打ちできないと気付いたからなのだが。
(2008年3月記)

半蔵門線水天宮前駅(日本橋箱崎ビル)

2008-08-20 06:13:26 | Weblog
日本橋川に沿って今度は、西へ歩き、南北に伸びる通りに入って、北へ歩いていく。
首都高箱崎ジャンクションの手前、この通りの東側に日本橋箱崎ビルがある。
巨大な高速道路のジャンクションのおかげで、あまり目立たない高層ビルだが、なかなか美しいデザインの建築物だ。
竣工は、やはり、バブルの頃。もう崩壊が始まっていたかもしれないが。
その日本橋箱崎ビルのすぐわきにある巨大なジャンクションの地下には、半蔵門線の駅、水天宮駅がある。
延伸は、これもまた、バブルの頃なのだが。
たしか、箱崎ジャンクションの下にある東京シティエアターミナルと直結する、というようなことで、当時、えらく盛り上がっていたなあ。
東京シティエアターミナルというのは、成田空港へのリムジンバスのバスターミナルなのだが、航空機の搭乗手続き、さらには、出国手続きまでやっていた。
つまり、そのような、東京シティエアターミナルと直結した、ということは、水天宮駅への延伸は、海外との直結を意味した、ということなのだ。
たしかに、水天宮駅のエスカレーターは、階段ではなく、動く歩道みたいになっている。海外旅行用のでかい荷物を運べるようにしたのかな。
バブル景気のおかげで、海外旅行もずいぶん身近になった、ということだろう。
その影響からだろうか、ロイヤルパークホテル(ちょっと時期が早いけど)や日本橋箱崎ビルも竣工している。
おまけに、隅田川沿いの高層ビル群ともかなり近いし。
そういえば、半蔵門線は、山の手田園都市の通勤路線だ。
そう考えると、箱崎は、海外旅行の一大拠点を目指したのかもしれない。
でも、当のバブル景気そのものが、あえなく崩壊してしまった。
そのことで、海外旅行の一大拠点がなくなったのか、どうだかわからないけど。
あの頃の盛り上がりが、消滅してしまった、ということは、確かなことかもしれない。
(2008年3月記)

東西線茅場町駅(隅田リバーサイドタワー)

2008-08-19 06:15:13 | Weblog
東京ダイヤビルディング5号館の北側には、隅田リバーサイドタワーがある。
この高層住宅も、同じく、バブルの頃に竣工している。
昔は、このように、オフィスビルの方がでかくて、住宅棟は、ちょっと小さかったりしたのだな。
振り返って、再び、隅田川を見ると、昔と変わらず、ゆうゆうと流れている。
時代の流れも、この大河の流れのごとく、ゆうゆうとしていれば、どんなに気が楽だろうか、と思ってしまうなあ。
実際の時代の流れは、さまざまなことに翻弄され、同じところをぐるぐると渦を巻き、時には、淀んだり、逆流したり。
それでも、そのような流れの中にいても、やはり、前へ前へ、と歩いていかなければならないのだ。
隅田川に沿って、再び北へ歩く。
永代通りに出る。
永代通りを渡り、茅場町タワーのすぐ東側の小道に入って、さらに北へ。
そういえば、山一證券がこの茅場町タワーに本社を移してから、一年ぐらいで廃業になってしまったんだなあ。
今でも、当時のテレビ番組を覚えている。山一證券の社員が、銀座ならタクシーですぐ行ける、と言っていたのだ。
たしかに、ここからなら、日本橋も近いが、銀座も案外近いかな。
でも、山一證券が廃業してから、その後、どうなってしまったんだろうか。
ふと、そんなことを思い出してしまってけど。
それにしても、ウォーターフロントによる再開発によって生み出された、未来への架け橋となる場所が、山一證券廃業の場所になる、というのはずいぶんと皮肉なことだ。
さらに北へ。
日本橋川を細い橋で渡ると、IBM箱崎ビルがある。
そういえば、この高層ビルもバブルの頃の竣工なのだ。
(2008年3月記)

東西線茅場町駅(東京ダイヤビルディング5号館)

2008-08-18 06:17:08 | Weblog
さらに通りを南へ歩き、霞ヶ関駅から千代田線に乗る。
大手町駅で東西線に乗り換え、茅場町駅で降りる。
地上に出ると、東西に伸びる永代通りと南北に伸びる新大橋通りとの交差点。
この交差点のある場所から、永代通りを西に向かうと、すぐに、東京駅、あるいは、日本橋があったりする。
こんなふうに都心と近いのだが、茅場町というと、なんか街外れみたいな感じだ。
茅場町に限らず、東京駅の東側は、あんまり都心、という感じはしない。
そんな茅場町なのだが、バブルの頃はよく降り立ったものだ。
ウォーターフロントの再開発を見るためなのだが。
ウォーターフロント、というと臨海副都心のことだけど、隅田川の沿岸もウォーターフロント、だったはずである。
隅田川沿岸の再開発で最も有名なのは、大川端リバーシティかな。
まずは、昔のように永代通りを東に歩いてみる。
しばらくすると、隅田川に架かる永代橋の袂には、茅場町タワー
山一證券の最後の舞台となった高層ビルだ。
このビルを見ると、バブルが崩壊した後の失われた10年を思い出してしまう。
永代橋の袂からは、隅田川に沿って南へと進む。
隅田川の西岸には、さっきの茅場町タワーも含めてだが、高層ビルが壁のように、建ち並んでいる。
そのビル群の中、住友ツインビルの北側に、東京ダイヤビルディング5号館がある。
竣工は、バブルの頃だ。
この高層ビルが建った頃の未来像は、本当に明るかったなあ。
将来は、間違いなく、よくなっていく、と根拠もなく信じていたっけ。
川べりの方を見渡すと、相変わらず気持ちのよい親水公園が広がっている。さらに土手の上には、並木道が伸びている。
そして、近代的な高層ビル群が建ち並ぶ。
こんな風に、この場所にこうして立っていると、昔のことが思い出されて、気持ちがいっぱいになってしまうなあ。
(2008年3月記)

丸ノ内線霞ヶ関駅(弁護士会合同庁舎)

2008-08-17 02:12:10 | Weblog
また、江戸川橋駅に戻る。
意外と地下鉄の駅に近い。そういう交通の便のよさも、高層住宅が建つ理由なのかな。
有楽町線で桜田門駅へ。
地上に出ると、すぐ目の前には警視庁の建物が聳え立っている。
そして、警視庁の建物の南側には、官庁街が広がっている。
なるほど、有楽町線に限らないけど、有楽町線の駅の近くに住んでいると、こんなに簡単に霞が関の官庁街に出られるわけだ。
皇居のお堀と官庁街の間にある内堀通りを東に歩く。
少し進んで、交差点を南へ曲り、そのまま歩き続ける。
東側には広大な日比谷公園が広がる。
この日比谷公園に面した官庁街の部分には、高層ビルが南北に連なって建っていて、防壁のように見える。
日比谷公園の広大な緑地帯とビルの防壁で官庁街を守っている、というわけでもないんだろうけど。
さらに通りを南へ歩いていくと、その防壁高層ビルの一画に、弁護士会合同庁舎がある。もちろん、この高層ビルも防壁ビルの一部なんだが。
竣工は、バブルが崩壊してしまった頃だ。
他の防壁高層ビルも、たしか同じ頃だったと記憶している。
あの頃、有楽町や内幸町あたりから官庁街を見やると、日比谷公園の向こう側で、高層ビルが徐々に建ちあがっていたっけ。
不景気対策の有効需要の創設、ということもあったかもしれない。
弁護士会合同庁舎に関して言えば、そういう理由もあるだろうが、さらに、特許庁総合庁舎と同じような理由もあっただろう。
すなわち、これからは、土地ではなく、法律、という情報が、価値の基盤になる、というわけだ。
その意味では、たしかに、この高層ビルは、守勢にまわった経済大国の「防壁」には違いないな。
(2008年3月記)

有楽町線江戸川橋(新宿山吹アインスタワー)

2008-08-16 03:41:46 | Weblog
明治通りを北へ進む。
池袋駅に戻り、有楽町線へ。
江戸川橋駅で降りる。
ホームの一番西側から改札を抜け地上へ出る。
地上には、東西に伸びる交通量の多い大通り、新目白通りと南側に伸びる江戸川橋通りとの交差点。
江戸川橋通りを少し南に歩くと、通りの西側に新宿山吹アインスタワーがある(工事中はこちら)。
最近、竣工した高層住宅だ。
この高層住宅のビル名、「山吹」というのは、町名からだろうけど、その町名の由来は、戦国時代初期に活躍した太田道灌の山吹伝説からきているそうだ。
もっとも、伝説は伝説で、史実かどうかはわからないけど。
ただ、江戸時代、このあたりは、このような伝説が生まれるような、風景明媚な土地柄だったらしい。
たしか、早稲田田圃、という田園も広がっていた、ということだし。
かつては、ずいぶんと、のどかな環境だったのだろうな。
その後、近代化、工業化の時代が到来すると、神田川流域のこのあたり、田園地帯は埋立てられ、下町、工場地帯になった。
さらに、時代は流れ、高度成長期が終わると、そのような工場地帯はいらなくなり、せっかくの工場は、徐々に、マンションに置き換わっていっている。
特に、最近は、都心集積化、ということで、高層住宅が建つようになった。
そのうちの一つが新宿山吹アインスタワー、というわけかな。
もっとも、もうこれ以上は、高層住宅が建つことはないだろうけど。
それにしても、これほど景観が変わると、時代の流れを感じるなあ。(都心はどこも同じように変化しているんだろうけど)
これでは、「山吹」、というのが、「山吹伝説」から、という以前に、この伝説が生まれた、風光明媚な景観そのものが、伝説になってしまうんじゃないかな。
(2008年3月記)

山手線池袋駅西口(オリナスふくろうの杜)

2008-08-15 04:05:35 | Weblog
高田馬場駅から山手線で池袋駅へ。
東口に出る。
駅前には、明治通りが南北に伸びている。
相変わらず交通量が多くて、せわしないことだ。
その明治通りに沿って南へと歩いていく。
しばらく歩くと、明治通りの東側にオリナスふくろうの杜がある。
数年前の竣工だ。
交通量の多い大通り沿いの高層住宅、というところだろう。
この高層住宅が建ったときは、反対側からオリナスふくろうの杜に向かったので、なんでこんなのどかな場所に建ったのだろう、と思ったものだが。
実際は、そのすぐ向こう側には、明治通りが通っていたわけだな。
そのオリナスふくろうの杜の明治通りから見て反対側、つまり東側には、鬼子母神堂、大鳥神社がある。
雑木林があって、秋には、焚き火の煙でも立ち昇っている、そんな感じの、のんびりした、場所だったなあ。(雑木林はもう残っていないけど)
まさに、武蔵野、という雰囲気だ。
たしか、鬼子母神堂には、ススキミミズク、という素朴なお土産があったな。
ふと思いついたのだが、ひょっとしたら、その「ススキミミズク」が、「ふくろう」になり、「いけふくろう」、になったのかな。
とすると、「いけふくろう」、というのは、鬼子母神堂のある、目白、雑司が谷と池袋を関連付けさせる、イメージ戦略、ということなのかもしれない。
つまり、池袋は、板橋のような下町ではなく、目白、雑司が谷のような山の手なのだ、という宣伝なのだ。
もっとも、今年(2008年6月)、池袋から地下鉄が開通して、鬼子母神堂の近くにも駅ができるらしい。そういうことなら、名実ともに、池袋と雑司が谷は合体してしまうことになるのだが。
こんなふうに、池袋の街も変わっていくのだ。
いつか、この新しい雑司が谷の駅に降り立って、どんな風に変わったか、見てみたいものだ。
(2008年3月記)

日比谷線北千住駅西口(トミンタワー千住五丁目)

2008-08-14 02:48:18 | Weblog
細い道を北へ北へと歩いていく。
荒川の土手までは来ていないが、荒川の近くで、西に曲り、そのまま歩いていく。
北千住の西側を南北に伸びる大通り、日光街道は、千住新橋で荒川を越えていくのだが、その大きな橋の袂にトミンタワー千住五丁目がある。
竣工は、失われた10年の終わり頃だ。
街外れの都営集合住宅かと思ったら、ずいぶんときれいに整備された一角に建つ高層住宅だった。
これでは、北千住じゃないみたいだなあ。
低層階は、図書館も併設されている。
ちょっと覗いてみようかと思ったが、時間がないのでやめた。
北千住駅に戻ることにする。
さっきは、線路に沿うように北に向かったので、北千住の街中は通らなかった。だから、今度は、線路よりももっと手前で、南へ歩くことにする。
はたして、細い道の両側には、趣のある商店が建ち並びなかなかいい感じだ。
ひょっとしたら、この道は、旧日光街道なのかもしれない。
江戸時代には、千住宿があった場所だ。
ならば、千住宿歴史テーマパークにするといいのに、と思ったが、すでにそんな雰囲気がする。
ところで、かなり前になるが、何度か、バスで北千住駅に行ったことがある。
交通量の多い幅広の日光街道から北千住駅に伸びる道路に入るわけだが。
駅前から西に伸びるその道路が、もう賑やかな商店街になっていて、さらにその道路の北側、南側に広範囲に商店が広がっていたっけ。
どこかの地方都市のような感じがしたなあ。
でも、その時は、バブルが崩壊した後だったので、賑やかとはいえ、沈滞したムードだったと記憶している。バブルの頃に駅ビルなんて建てたから、なおさら商店が不景気になったのかな。
そして、今、こうして、再び、北千住の街中を歩いているのだが、あの当時よりも、さらに静かになっているような気がするな。
こうしていみると、やはり、都心集積化の時代には、駅前再開発と歴史テーマパークしか残らないのかもしれない。
時代の流れなので仕方ないことだけど。
(2008年3月記)

日比谷線北千住駅西口(アトラスタワー北千住)

2008-08-13 06:13:25 | Weblog
高速道路の高架をくぐって、北へ歩く。
東西に伸びる鍛冶橋通りに出て、東へ。
そのまま歩いていくと、八丁堀駅に着く。
そういえば、京橋の東側は八丁堀なのだ。歴史のありそうな町名だ。
八丁堀駅から日比谷線に乗る。
北千住駅で降りる。西口へ。
デパートになっている駅ビルが聳え立ち、ペデストリアンデッキが広がる。
本当にずいぶんときれいになったものだなあ。
ペデストリアンデッキから降りて、北へ歩く。
高層住宅のアトラスタワー北千住がある。
こうして見ると、現在の高層住宅による再開発の典型的なパターンだ。
駅に直結しているし、デパートになっている駅ビルとも直結している。
基本的に駅のある建築物から外にでなくても、ほとんどのことが済んでしまうのだ。
そして、ときどき、レトロな下町情緒溢れる街並みを楽しみたいときだけ、ペデストリアンデッキから降りて、外へ出ればいい。
本当にそんな暮らしをしているわけでもないんだろうけど。
ところで、たしか、駅真上の駅ビルの方は、バブルの直前にオープンしたと記憶している。その当時は、北千住ウイズ(今はルミネ)、という名前だったかな。
景気がいいとき、地方都市に建ったデパート、という感じだろうか。
東武伊勢崎線沿線から通勤していた同僚が、オープンしたばかりの北千住ウイズでさっそくスーツを買った、といって自慢していた。
そのスーツの色が緑色だったので、おかしかったなあ。
さすが、北千住らしい(根拠はないのだが)、と思ったものだ。
それから、バブル崩壊、失われた10年を経て、現代の都心集積化の時代へ。
また、駅ビルが建ち、さらに高層住宅も建つ。
今度は垢抜けた、都心に直結する再開発ビルだ。
もはや、昔の北千住、という感じではないのだな。
そう思うと、ちょっと寂しくなる。
(2008年3月記)

銀座線銀座一丁目駅(京橋プラザ)

2008-08-12 06:13:01 | Weblog
愛宕通りを北へ歩き、交差点を曲って西へ。
虎ノ門駅に戻る。
再び、銀座線に乗る。
銀座一丁目駅で降りて、東へと歩いていく。
銀座には土地勘はないので、どこになにがあるのか、さっぱりわからない。
だから、方角だけが便りである。
南北に伸びる昭和通りを越え、途中、北へ曲る。
東西に伸びる高速道路の高架の手前に京橋プラザがある。
もとは、京橋小学校があった場所らしい。
竣工は、バブルが崩壊した後の失われた10年、その終わり頃だろうか。
ところで、この高層住宅のビル名は、「京橋」となっているが、住所は、銀座一丁目、のはずだが。
たぶん、もとあった京橋小学校にならったのだろうと思う。
だけど、昭和通りから東側は、どうも銀座という雰囲気がしない。
まわりのビルやら施設やらは、皆、これ見よがしに銀座という名前を前にくっつけているけど、京橋の方が実はしっくりとくるのだ。
ちょっと南側なら新富町、さらに南側なら、築地がいいんじゃないかな。
そのような銀座のはずれに、景気の悪い頃、高層住宅が建った。
そのことは、その後に訪れる、都心集積化の波を予兆していたような気もする。
つまり、銀座の周縁には、都市化から取り残されたような、京橋や新富町や築地、といった地域があったりするのだが、そういった部分が、消滅しつつあるような感じがする。
そして、最後には、銀座だけが残り、その周囲には、整備された地域が広がる、というわけかな。
どうやら、バブル以前は、あまねく景気がよかったのだが、失われた10年を経ると、景気がいい、というのは、中心部だけ、という風になってしまったらしい。
中心部にいなければ、景気がいい、ということは、無縁になってしまうのだ。
(2008年3月記)