retifの都市探検日記(高層ビル編)

東京の街並みなどを報告します

銀座線虎ノ門駅(興和西新橋ビル)

2008-08-11 06:16:38 | Weblog
東へ歩く。また虎ノ門駅の交差点。
さらに、東に歩く。
交差点を曲り、南へ。
愛宕通り、という通りなのだろう。
しばらく歩いて行くと、愛宕通りの東側に興和西新橋ビル、B棟のツインビルがある。
竣工は、バブルが崩壊した後の失われた10年の頃だ。
北に官庁街、南側には愛宕山、増上寺。
それらに囲まれた静かな街中にいつしか高層ビルが建っていたりする。
バブルが崩壊して、景気が悪くなっている時にも、こうして、ビルは建つものなのだ、と思ったりしたものだが。
こんなふうに、ビルが着々と建っている様を見ると、ほっとしたり、なにか未来に対する希望のようなものが、沸いて来たりしたっけ。
しばらく我慢していれば、景気がよくなって、世の中はいい方向に動き出すはずだ、と信じることもできるし。
見た目にも、今の状況が確実に変化している、と実感できる。
ひょっとしたら、丸の内、内幸町、官庁街、そして、この一帯まで、ビル街が広がっていく、そんな未来が来るのだろうか。
その予兆なのだろうか。
今にして見ると、はるか東側に汐留シオサイトの巨大なビル群も完成し、さらに、そこから、環状2号線が、まっすぐ西に伸びてくる予定なので、あながち、その予感は、非現実的でもなかったみたいだが。
少なくとも、静かな、取り残された、空白地帯だった、この一帯は、汐留シオサイトと六本木、虎ノ門を結ぶ、回廊になることは、確かなことだろう。
かつてよりは、賑やかになるかな。
でも、バブルの頃やその前の安定期の頃のような、未来に対する高揚した感じは、もはや蘇ってこない。
未来は、どんどん先に進むのに、こちらは、そのまま、取り残されているようだ。
(2008年3月記)

銀座線虎ノ門駅(特許庁総合庁舎)

2008-08-10 04:31:52 | Weblog
桜田通りを南へ歩く。
虎ノ門駅のある交差点に戻る。
今度は大通りを西へ。赤坂方面へ進む。
霞が関コモンゲートの南側になる。
少し歩くと、霞が関ビル東京倶楽部ビルの西側に特許庁総合庁舎がある。
竣工は、バブルの頃だ。
日本中がバブル景気に舞い上がっていた頃、外観が金庫のような、頑丈そうな、この建物はできあがっている。
土地が富の源泉だと信じられていた時代に、本当は情報の方が重要だと、察知していたかのようだ。
土地なんて、本来、レアメタルか石油でも埋蔵されていない限り、価値などないに等しい、なんてことがわかっていたのだろう。
実に賢明なことのように思える。
バブル崩壊、失われた10年、ということも折込済み、というわけかな。
だから、このような巨大な金庫ビルを建てたのだろうか。
つまり、経済大国としての、もろい優位性を少しでも維持するためには、情報を保持することと、インフラを充実させて、不動産価値を高めること、それしかないわけだから、当然、そうなるだろう。
そんなふうにして、経済大国を担いで走らなければならないわけだ。
そのようなことに対して、経済大国である、ということで、どんな利点があるのか。どんな恩恵があるのか。
あるいは、昔のような、貧しい時代に戻りたくはない、ということなのか。
そんな疑問を持ってしまう。
でも、国際社会において、経済関係が成立してしまった、今となっては、もはや走り続けるしかない。
高度成長期の頃はゴールを目指して、走っていた。
今は、追い立てられるようにして、走っている。
そんな違いはあるけど。
(2008年3月記)

銀座線虎ノ門駅(経済産業省総合庁舎)

2008-08-09 03:38:34 | Weblog
高田馬場から山手線で渋谷へ。
渋谷駅から銀座線に乗る。
虎ノ門駅で降りる。
目の前に霞が関コモンゲートのツイン高層ビルが建って、景観がだいぶ変わってしまったな。
桜田通りを北へ歩いていく。
霞が関コモンゲートの北側は、まだ、昔の官庁街のままだ。
だが、この先、どうなっていくのかわからない。
さらに北へ歩くと、桜田通りの東側に経済産業省総合庁舎がある。
高度成長時代により、経済大国となった、安定期の頃に竣工している。
いかにもそんな感じだ。
経済大国を目指して本当によかった、ということで立派な庁舎棟が建った、というわけかな。
でも、「経済大国」ってどういう意味なんだろう。
そもそも、「経済」と「国」、というのは、どう結びつくのだろうか。
あらためて考えてみると不思議だ。
「経済」、というと、商人、お店、商売、というところだが、そのようなイメージと国家が、合わさっている、というのは想像できない。
国家、という組織の中に「経済」、という要素があるわけでもないし、また、官僚が商人であるわけでもないからだ。
ひょっとしたら、関係性、という観点から見れば、わかるかもしれない。
つまり、国家は、国際社会を構成する、それぞれの国家間の関係により成り立つ、と考えてみるのだ。
その関係には、いろんな関係があるわけだが、そのうちの一つ、現代では最も有力な関係に、経済関係がある。
その国と国との経済関係に、いち早く対応した国が経済大国なんじゃないだろうか。
その対応をうまく成立させたのが、経済産業省、かどうかわからないけど。
でも、そうだとすると、現代は、国際社会の隅々まで「経済関係」が流布されてしまったので、いち早く対応した、という優位性は、もはや消滅してしまっている。
ならば、経済産業省総合庁舎も、霞が関コモンゲートみたいな巨大な高層ビルに建て代わる、なんてことは、ないのかもしれない。
経済大国としてもてはやされた頃のレトロな歴史的建造物になるのかな。
(2008年3月記)

総武線錦糸町駅南口(都立墨東病院)

2008-08-08 06:13:17 | Weblog
本郷三丁目駅に戻り、再び、都営大江戸線に乗る。
清澄白河駅で半蔵門線に乗り換える。
錦糸町へ。
両国でJRに乗り換えた方がよかったな。
でも、半蔵門線で錦糸町へ行った方が、新しくなった錦糸町の雰囲気を感じ取れる。
地上に出ると楽天地ビル。
家族連れで賑わっていた。
どこかの明るい雰囲気のテーマパークかショッピングセンターみたい。
ちょっと前までは、一帯は、怪しげな歓楽街、という側面もあったのだが。
錦糸町は、こうして、訪れるたびに、だんだん、垢抜けていくような気がしてしまう。
四ツ目通りを南へ。京葉道路を渡る。さらに南へ歩く。
途中、東へ。街中に入る。
こちらの方は、まだちょっとは怪しげな感じだが。
すぐに妙な形をした錦糸掘公園がある。
普通、公園というと、四角、というイメージがあるのだが。
この公園は、三角形なのだ。
どんな経緯で三角形になったのだろうか。わからないけど。
それに錦糸堀、というのは錦糸町駅の北口だったはずだ。
ここらへんは、湿地帯を埋立てていった土地なので、それなりに、いろんな事情があったのだろうな。
錦糸掘公園の三角の尖った部分を迂回して、東側に出て、さらに東へ進む。
少し歩くと、都立墨東病院がある。
失われた10年の頃に竣工している。
景気の悪い時は、このように、公共性の高い施設が建つものなのかもしれない。
あるいは、歌舞伎町の東京都健康プラザみたいに、地域の浄化、という意味もあったのかもしれない。
どちらにせよ、得体のしれない、湿地帯から、きれいに整備された、明るい街に変わっていく、ということだ。
だけど、なぜか、少し、昔が懐かしくなるのは、自分が年をとった、ということかな。
(2008年3月記)

都営大江戸線本郷三丁目駅(東京大学医学部教育研究棟)

2008-08-07 06:14:45 | Weblog
白山通りを南に歩いて行くと、再び、都営大江戸線の春日駅へ戻る。
都営大江戸線に乗って、本郷三丁目駅へ。
歩いてもいいくらいの距離かもしれないが。
地上に出ると、本郷通りと春日通りとの交差点。
本郷通りを北へ歩く。東側一帯には、東京大学の敷地が広がる。
赤門まで歩くのかな、と思ったら、その手前に入口があった。
さっそく、東京大学の敷地へ。あちこちに建ち並ぶ校舎棟の間を縫うようにして、東へと歩いていく。
少し歩くと、東京大学医学部教育研究棟がある。
最近、方々の大学で建っている、高層の校舎棟の一つ、ということだろう。
東京大学には、他にも、高層ビルとして、東京大学医学部付属病院入院棟がある。
ということで、東京大学には、他には用事はないので、さっさと退散することにする。
また、校舎棟の間をすり抜けるようにして、本郷通りへ出る。
そういえば、何年か前に、東京大学って、どんなところなんだろう、という好奇心に駆られて、東京大学に行ったことがあるな。
御茶ノ水駅、聖橋の上にあるバス停から都バスに乗っていったのだ。
梅雨時だった、と思う。どんよりした天気で、休みの日ということもあり、森閑としていた。
お土産に売店で菓子パンでも買っていこうかと思ったが、やっぱりやめて、上野駅行きの都バスに乗ったのだが。
帰りのバスの中で、そういえば、三四郎池を見るのをすっかり忘れていた、と気付く。
もっとも、じめじめした空模様の下、薄暗そうな池を見る、というのも、あまり気分がよさそうに思えないので、もういいけど。
数年前のことだが、結局、いまだに、三四郎池は見ていない。
そもそも、三四郎池の名前の由来になった小説「三四郎」の主人公、三四郎みたいに文京山の手をうろうろする、ということはないので、縁がないのだろうな。
それに、もう、東京大学に高層ビルが建つことはないので、今後、二度と訪れることはないだろうし。
先を急ごう。
(2008年3月記)

都営大江戸線春日駅(アトラス小石川)

2008-08-06 06:14:34 | Weblog
千川通りをさらに北へ進み、途中、交差点を東に曲る。
道路の北側にアトラス小石川がある。
失われた10年が終わって、都心集積化が始まった頃に竣工している。
さっきも感じたのだが、住友不動産後楽園ビルやこのアトラス小石川の建っている一帯を見渡すと、下町っぽくて、いい感じなのだ。
でも、どうして、この一帯だけ、昭和の時代から取り残されたような感じなのだろうか、と不思議に思ってしまう。
昔、このあたりには、池袋、大塚を通って、神田川に合流していた谷端川(あるいは、小石川、千川)という川があったらしい。
ひょっとしたら、この川の川筋にあたる場所なので、このあたりは、下町っぽい雰囲気があるのだろうか。
ちょっとわからないのだが。
ただ、このような場所には、高層ビルが建っていく、ということは確かなようだ。
現に、アトラス小石川、住友不動産後楽園ビル、さらには、巨大な文京シビックセンターがすでに建っている。
そして、アトラス小石川と文京シビックセンターの間の区域には、かなり前から、再開発の予定があるらしい。
今は、その計画は、どうなっているのだろう。
もし、それが実現されれば、今のところ、ばらばらに建っている、3棟の高層ビルも加わって、ひとまとまりのビル群を形成することになるだろうな。
とすると、この一帯の下町っぽい場所は、あらかた、消滅することになる。
時代の流れなのでしかたないのだろう。
残るとしたら、千川通りの西側にある、こんにゃくえんまぐらいかな。
などと考えながら、南北に伸びる大通り、白山通りに出て南へ歩く。
再開発が始まるとしたら、今、歩いている西側全域が消滅するのだ、そんなふうにあらためて見てみると、なんだか、儚いようにも思えてしまうなあ。
(2008年3月記)

都営大江戸線春日駅(住友不動産後楽園ビル)

2008-08-05 06:16:05 | Weblog
大久保通りをさらに東へと歩いていく。
都営大江戸線の牛込柳町駅がある。
そういえば、昔、深夜、帰宅時に早稲田駅で東西線がストップしたことがあったな。
高田馬場駅までは、歩いて行けるような距離じゃないし、深夜なので都バスはないし。
ということで、駅員は、その当時、開通したばかりの都営地下鉄大江戸線に乗り換えるようにアナウンスしていたっけ。
けっして近くはないのだが、それ以外に選択の余地はないのだ。
急いで、駅員の指示通り、真っ暗な夏目坂を歩いていった。他の乗客もぞろぞろと、この坂になっている通りを、列を成して歩いた。
そして、都営大江戸線に乗って、西新宿駅で降りて、新宿駅まで行き、やっと帰途についた。
都営大江戸線が開通していなかったら、どうしようもなかっただろう。
こんなふうに東西線から都営大江戸線の駅に歩いていたら、そのような昔のことを思い出してしまった。
その時は、当然、こんなところに高層住宅が建つなんて、思わなかったなあ。
それだけ、交通の便がよくない、のんびりした場所だったのだろうが、都営大江戸線が開通したことで、便利になってしまった、ということかな。
そのことも、リエトコート夏目坂が建った理由なのだろう。
牛込柳町駅で都営大江戸線に乗り込む。
春日駅で下車。
目の前には、巨大な文京シビックセンターが聳えている。
大塚まで伸びている千川通りに入って、北へ歩いていく。
通りの東側に住友不動産後楽園ビルがある。
バブルが崩壊した後の失われた10年に竣工している。
周囲は、文京区にあって、しかも、文京区役所のすぐ近くにあるのだが、意外と、下町っぽい雰囲気がする。
しかし、住友不動産後楽園ビルが竣工した前後に、南北線、都営大江戸線と、相次いで開業している。
これだけ、交通の便がよくなれば、やはり、高層ビルが建つ、ということだろうか。
(2008年3月記)

都営大江戸線牛込柳町駅(リエトコート夏目坂)

2008-08-04 06:17:06 | Weblog
西早稲田パークタワーと公園の間に南に一直線に伸びる大通りがある。
いかにも最近開通した、という大通りだ。
たしか、しばらくは、早稲田通りの手前までしか、開通していなかったのだが、いつの間にか、早稲田通りまで延伸されている。
その大通りに入って、北へ歩いていく。
北側は、戸山の山の手、丘陵地になっているので、この大通りは、上り坂、ということになる。
山の手へ一直線、という感じだな。
早稲田通りまで登っていき、東側に少し歩いていく。
東西線早稲田駅のあるところで南へ曲る。
今度は、夏目坂通り。また、上り坂だ。
この上りは、東西に伸びる大久保通りまで続いているらしい。
とすると、この大久保通りは尾根道、ということになる。
夏目坂を登っていくと、遠くに、風呂屋の煙突みたいな、妙に細長い建築物が見える。
大久保通りに辿り着き、大久保通りを東へ。
山の手なのだが、この大久保通りのあたりは、ちょっと下町っぽい。
どんどん歩いて行くと、大久保通りの北側に最近竣工したリエトコート夏目坂がある(工事中はこちら)。
夏目坂を登ってくるとき、遠くに見えた、煙突みたいな建物というのは、リエトコート夏目坂のことだったのだが。
狭い場所に高い住宅棟を建てたので、煙突になってしまったのだろう。
一帯は、山の手のはずなのだが、尾根道、というのは例外的なのかもしれない。
そういえば、高輪台の尾根にもでかい高層住宅が建っていた。
ひょっとしたら、地盤が弱かったりするのだろうか。
本当のところはよくわからないのだが。
だが、実際、大久保通り周辺だけを見てみると、とても、山の手、という感じに見えないことは、確かだ。
もっとも、もっと広く見れば、やはり、山の手なので、このような高層住宅は、もう建つことはないだろうなあ。
50年ぐらい経ったら、珍しいレトロな建築物、ということで、街のランドマークになってるかもしれない。
(2008年3月記)

東西線早稲田駅(西早稲田シティタワー)

2008-08-03 03:13:46 | Weblog
高田馬場駅で東西線に乗る。
次の早稲田駅で降りる。
早稲田通りを少し西側に歩き、途中、北側へ。
神田川の谷筋へと坂道を下っていく。馬場下通りという名前の通りらしいが。
坂を下りきると早稲田大学の正門がある。
休みの日なので閑散としてはいるけど、普段、大勢の学生らで、さぞ賑やかだろう、ということが感じてとれる。こちらも若やいだ気分になってしまうな。
さらに北に歩いていく。
下町にあるような庶民的なお店が並んでいて、いい感じだ。
学生相手だから、ということもあるだろうが、やはり、神田川沿いの下町、ということだろう。
そのまま歩いて行くと、東西に伸びる幅広の交通量の多い、新目白通りがある。
この大通りの真ん中には都電荒川線のホーム。
ここからの風景は、昭和の時代から変わらないのだろうなあ、と思いつつ、新目白通りを西に歩いて行く。
すると、目の前、通りの南側に巨大な高層住宅、西早稲田パークタワー
そして、新目白通りを挟んで北側には、失われた10年の頃に竣工した、西早稲田シティタワーがある。
昭和の時代から変わらない、なんてことはないようだ。
しかも、これらの高層住宅が建っているだけではなく、この一帯は、再開発されてきれいに整備されている。
昭和の時代から取り残された下町地帯のはずなのだが。
いや、だからこそ、再開発された、といえるのだろう。
神田川沿いの下町、といっても、南側の坂を登れば、戸山はすぐだし、神田川の北側の丘陵地は目白台の山の手が広がっているのだ。
つまり、山の手の近くの下町は、再開発されやすい、ということだろう。
まるで、この一帯は、そういった山の手の一部になったような雰囲気がする。
だとすると、さっきの早稲田大学正門近くの庶民的な場所は、早稲田大学の学生によっているのだろうか。
もし、本当にそうだとしたら、ちょっと不思議な感じがする。
(2008年3月記)

山手線新宿駅(東京都健康プラザ ハイジア、大久保病院)

2008-08-02 08:53:53 | Weblog
新宿御苑前駅に戻り、再び、丸ノ内線に乗り込む。
新宿三丁目駅で降りる。
先頭車両から出て、そのまま、西へと歩いて行くと、すぐに、いつもの新宿地下街に辿り着く。
新宿駅との駅間が短いのだ。
地下道を北へ進み、そのまま、靖国通りの北側で地上に出る。
靖国通りの北側には有名な歌舞伎町の繁華街が広がっている。
路地のような道に入って、北へ北へと進んでいく。
一帯は、ダーティーにしてディープ。まさに繁華街の王者、という感じだが、近頃は、すっかり、その濃さが薄まってしまった気がするなあ。
さらに進むと繁華街が尽きてホテル地帯となる。
その境界に東西に道路が伸びており、その道に入って西へ歩く。
まったく、日の出ているうちに歩くようなところじゃないな、と思いつつ歩いて行くと道路の北側に東京都健康プラザ ハイジア、大久保病院がある。
ツインビルになっている。
竣工は、バブルの終わり頃。
歌舞伎町の浄化、ということで建てられたように記憶している。
このような高層ビルが建ったって、歌舞伎町が変わるわけないのに、とその当時は思ったものだが。
でも、今にして思えば、あながち、そうとばかりも言えなかったかもしれない。
歌舞伎町は、今でも賑やかだし、十分に悪所だけど。
なんだか、以前見たよりも、ずっと小さくなって、しかも、すかすかになっているようなに見えるからだ。それは気のせいなのだろうか。
もし、本当に、歌舞伎町が、もくろみ通り浄化されて、繁華街として消えてしまうと、悪所に封じ込められていたものが、あまねく拡散してしまうだろう。
などということを考えてみても、しかたない。時代の流れなのだ。
しばらく、東京都健康プラザを見上げていると、その超然としている姿が、やけに冷ややかで、寒々しい感じに見えるし。
まるで、今日のような寒い一日と同じだな。
だけど、もう、人心地の付く場は、なくなりつつあるのかもしれない。
寒いので、早く帰るしかない。
(2008年2月記)