retifの都市探検日記(高層ビル編)

東京の街並みなどを報告します

有楽町線江戸川橋駅(ラ・トゥール神楽坂)

2008-05-11 02:25:23 | Weblog
マンションが点在する中、さらに北側へ歩いていく。
東西に伸びる交通量の多い目白通りと首都高速の高架が近くなる。
その目白通りから少し住宅地に入ったところにラ・トゥール神楽坂がある。
竣工は、神楽坂アインスタワー、アリビオーレ神楽坂シティタワーと同じぐらい。
バブルが崩壊した後の失われた10年の終わり頃だ。
この時期、相次いで高層住宅が建ったわけだが。
都心集積化という時代の流れを象徴しているのかもしれない。
町名は西五軒町。
五軒町の名前の由来についてだが、この場所の東側、目白通りと首都高の高架が南へ折れ曲がっているあたりに、江戸時代以前、白鳥池、という大きな池があった。
その大きな池、白鳥池の干拓作業に従事した者たちの家屋が建った、ということらきているらしい。
もっとも、築地町とか筑土八幡神社の筑土とか、いかにも干拓事業に関係のありそうな名前もあるから、干拓事業そのものはもっと以前から継続的に行われていたのかな。
こうしてできあがった新しい新天地。
田圃ができて、工場ができて、住宅ができて。
そして、現在はマンションがあちこちに建ち並ぶ。
その中には、高層住宅もある。
北側には、神田川。大通りの目白通りと首都高の高架。
でも、地下鉄も通っていて便利だ。
やっぱり山の手住宅地になっていくのかな。
かつて、神田川流域の低地、沼地、湿地帯を干拓して、土地を作り上げたパイオニアたちは、現状を見てどう思うのだろう。
そんなはるか未来のこと、考えている余裕はなかったんだろうけど。
もう、まわりは、夕暮れ時で薄暗くなってきた。
新しくあちこちできたマンションにも灯がともり始める。
そろそろ戻るとするか。
(2007年12月記)

有楽町線江戸川橋駅(アリビオーレ神楽坂シティタワー)

2008-05-10 03:15:18 | Weblog
大久保通りに戻り、筑土八幡神社の東側にある細い道を北に歩いていく。
この場所の大久保通りも昔は、なかったらしい。
たぶん、大きなお寺の境内だったり、賑やかな花街だったりしたのだろうか。
将来的には、小石川後楽園の北側を東西に伸びる大通りが、このあたりまで伸びてくるかもしれない。
よりいっそう、交通の便はよくなるだろう。
だけど、なんとなく路地のような、奥まった感じも残っていて欲しいものだ。
住宅地の中をどんどん北へ歩いていく。
あたりはマンションが多いなあ。
これらのマンションは、ひょっとすると、工場の跡地なのかもしれない。
さっき通ってきた大久保通りの丘の上、山の手と比べると、こちらは、神田川沿いの下町、ということになるのだろう。
だから、工場などが点在し、そして、工場がいらなくなってしまうと、そこに集合住宅ができあがるのかもしれない。
マンションがあちこち建つ中、西側に曲りそのまま西に歩く。
しばらくすると道路の北側にアリビオーレ神楽坂シティタワーがある。
この近辺に多くあるマンションの中で一際でかいマンション、というだけなのだが。
竣工は、バブルが崩壊した後、失われた10年の終わり頃だろうか。
この時期、バブルの頃のような地方への拡大をやめて、都心に再開発が集中するようになる。
神田川沿いの町工場地帯にも高層ビルが建ったりするのだ。
地下鉄の駅も近いし、都心だし。
あとはジメジメした低地に高い集合住宅を建てればいいわけだ。
さらに広いストリートが通り、風通しがよくなれば、人工的な山の手ができあがる。
そして、下町が消えていくことになるのだ。
(2007年12月記)

東西線神楽坂駅(神楽坂アインスタワー)

2008-05-09 06:19:58 | Weblog
もと来た道、外苑東通りを北へ歩く。
また、大久保通りに入り、東に歩いていく。
飯田橋に近付くにしたがい徐々に賑やかになっていく。
どんどん東に歩いて行くと、途中、神楽坂通りと交差する。
この神楽坂通り、いままで一、二回しか通ったことはないけど、有名な神楽坂、というと、この通りのことだろう。
まだ、山の手住宅街が山手線の内側にあったころは、繁華街として、とても賑やかだったらしい。
今でも、寂れずに、歴史的なテーマパークのような感じで残っている。
その神楽坂は、江戸時代よりももっと前、鎌倉時代からあったようだ。
この坂を登った先には、筑土八幡神社や赤城神社、さらに砦などもあったらしい。
神楽坂通りを横切りさらに東へ。
筑土八幡神社の大久保通りを挟んで南側に神楽坂アインスタワーがある。
実は、この神楽坂アインスタワーのあった場所にも、やはり鎌倉時代から行元寺、という大きな寺があったのだ。
そして、江戸時代には、この場所に花街が生まれている。だから、この場所は、神楽坂の花街発祥の地、ということである。
なお、行元寺の方は、神楽坂が繁華街として発展するのに伴い、明治時代に移転してしまった。
花街のおかげで移転してしまったかどうかわからないけど。
だが、その花街も、山手線の外側に郊外が移っていくと、消えていく。
そのような場所に、最近になって、都心集積化、ということで、高層住宅が建つ。
神楽坂通りと同じように、こちらも、花街の歴史テーマパークにすれば、興味深かったかもしれない。観光客も集まったかもしれない。
でも、なかなか難しいようだ。
(2007年12月記)

都営新宿線曙橋駅(THE CENTER TOKYO)

2008-05-08 06:22:49 | Weblog
高田馬場から東西線に乗り早稲田駅で下車。
夏目坂通りを南へ歩く。
静かな住宅地の中、上り坂になっている。
ということは、丘の上、山の手の住宅街、ということだろうか。
東西に伸びる大久保通りとの交差点。大久保通りに入り、東へ歩いていく。
この大久保通りが尾根筋のなのだろう。
北側が神田川で南側は市ヶ谷から曙橋にかけて谷跡になっている。
大久保通りを東に歩いて行くと徐々に賑やかになっていくような感じだ。
しばらくすると、南北に伸びる外苑東通りとの交差点。
外苑東通りに入って南へ歩く。
この外苑東通りそのものは、大通り、というわけではなく、商店街になっている。
けれど、最近になって、やはり外苑東通りということで、道路が拡幅され、商店街ではなくなってきている。
都心部にあって、いまだ、昭和の商店街が残っていたのだが。
都心集積化の波を受けて、再開発の中に消えていく、ということだろうか。
そんな中、どんどん南へ歩いていく。
やがて東側に防衛省の敷地が広がる一帯へ。
その防衛省と外苑東通りとの間にTHE CENTER TOKYOがある(工事中はこちら)。
防衛省の広大な施設と外苑東通りがなければ、建たないような巨大な高層住宅だが。
今なら、まだ、北側の外苑東通りは、拡幅はされていないので、まだ静かだけど、拡幅されて普通の大通りになったら、大量のクルマが通過していくだけの場所になるだろう。
大通りと山の手と高層住宅、巨大な施設、それしか残らないのか。
都心のさらに中心なので仕方ないのかもしれない。
そうなる前に、この商店街になっている外苑東通りを記憶に焼き付けておかなければならない。
いままで知っていた街並みが現実から消滅し、記憶の中だけにどんどん積みあがっていくは、なんとなく寂しいものだが。
(2007年12月記)

総武線千葉駅(三井ガーデンホテル千葉)

2008-05-07 06:23:01 | Weblog
来た道を引きかえす。
メインストリートを北へ。
京成線の周辺も高架になって、すっかり様変わりしている。
つい最近、来たばかりなのに、またさらに整備が進んだような気がする。
船橋駅から横須賀線に乗って千葉駅へ。
東口に出て、そのまま東に伸びる大通り、千葉駅前大通りを歩いていく。
しばらくして、千葉モノレールが頭上を通る、セントラルアーチ。
その先は中央公園になっている。
東口からまっすぐ伸びていたメインストリートは、ここでふいに終わってしまう。
その中央公園の東側には、三井ガーデンホテル千葉がある。
バブルの頃に竣工している。
実は、この三井ガーデンホテル千葉や中央公園のあるあたりは、高度成長期の前まで、京成線のターミナル駅があった場所なのだ。
高度成長期の間に京成線のターミナル駅をは、南へ移動させられ、さらにJRの千葉駅も西へ移動させられている。
そして、京成線のターミナル駅の跡地が中央公園、つまり、センターなのだろうか。
そんなわけで、千葉の街は、でかくなるはずだったのかもしれない。
バブルの頃は、いよいよ、そのセンターに高層ホテル棟が建ったりする。
でも、今、その場所を見てみると、どうやっても、センターではなく、街外れにしか見えない。
都心部に引っ張られるように千葉の街が西側に移動したように見えるのだ。
さらに将来は、もっと西側の市川や船橋、新浦安がもっと発展し、そちらに重心が移っていくのだろうか。
もっとも、千葉を無理やり巨大な街に拡大させなくても、都心部に対する、郊外でいいのかもしれない。
へたに地方都市になったら、すかすかになってしまうだろう。
(2007年12月記)

総武線船橋駅南口(パークハウス プレシアタワー工事現場)

2008-05-06 02:20:39 | Weblog
門前仲町駅に戻り、再び、東西線に乗る。
バブルの頃は、よく東西線に乗ったものだ。
千葉方面に行くためなのだが。
実際、どうだかわからないけど、東西線の方が総武線よりも早いような気がした。
それに、東西線は、新しい路線なので、新興の住宅地を通っている。
なにか新しい時代の雰囲気がしたのだ。
西船橋駅で総武線に乗り換える。
ちょっと見ない間に随分と駅構内は変わってしまった。
いつの間にかエキナカ、ということで、お店がたくさんできている。
かつての自分の知っている西船橋駅は、大きな乗換駅、というものなんだが。
千葉から帰るとき、西船橋で発車待ちをしている東西線の車両のロングシートに座ると、東京に戻るんだ、と実感したものだが。
西船橋駅から総武線で船橋駅へ。
南口に出る。
この間、船橋を訪れたとき、場所がわからなくて見れなかった高層ビルの工事現場を見るためだ。
この間と同じようにメインストリートを南へ歩く。
どこかの郊外の整備された街並みと変わらないなあ。ケーキ屋さんとか似合いそうだ。
東西に伸びる千葉街道との交差点まで歩き、千葉街道を西へ。
やがて、千葉街道の南側、消防署の西側にパークハウス プレシアタワーの工事現場がある。
駅から遠いだけではなく、なんという辺鄙な場所なんだろう。
そもそも道がないので近付けない。仕方ないのでさらに西側に行って、住宅地の中を南へ歩く。
いったい、この場所には何があったんだろう。荒地、あるいは捨てられた土地なのだろうか。地図で見ると小川が流れているようだが。
近くに建っている建物も本当にあばら屋だ。
どちらにせよ、このように捨てられた土地にも高層住宅が建って、きれいな郊外の街並みが完成する、というわけだろうか。
(2007年12月記)

東西線門前仲町駅(イシマビル)

2008-05-05 04:28:34 | Weblog
高田馬場から東西線に乗る。
門前仲町駅で降りる。ホームの一番東寄りから改札を出て地上へ。
永代通りに出る。
そもそも門前仲町は、深川不動尊の門前なので、門前仲町なのだが。
さらに、隣には、富岡八幡宮まである。
だからなのだろうか、駅から出ると、いつも、お祭りをやっているような雰囲気に迎えられるのだ。
通りのお店も縁日のような感じ。
実際、富岡八幡宮のお祭りは、江戸三大祭りの一つで、今は深川八幡祭りと呼ばれているようだ。(3年に一度の本祭りは来年(2008年)らしい)
深川不動尊も江戸時代、成田山新勝寺の出張所としてたいへんな賑わいだったらしい。
そのようなお祭りの雰囲気の中、少し東に歩き、富岡八幡宮と深川不動尊の間の道を北へ歩く。
表通りとは打って変わって、静かな雰囲気となる。
祭りの後の寂しさ、というところか。
さらに、北へ歩いて行くと、首都高の高架があり、その高架の北側に出ると、イシマビルがある。
竣工は、バブルの頃だ。
たしか、同じバブルの頃、富岡八幡宮に日本最大のお神輿、というのも作られたように記憶している。
毎日が縁日でお祭り状態で、だから、バブルのお祭り景気にも乗せられて、でかいお神輿も作り、高層ビルまで建ててしまった、というわけでもないのだろうけど。
でも、まわりの寂しい状況を見ると、やっぱり、バブルというお祭りの後、という感じがするなあ。
来た道を戻る。表通りはまたきっと賑やかに違いない。
ただ、それは、テーマパークとしての賑やかさなのだろう。
いつまでも、その場所には、いられないのだ。
(2007年12月記)

東武伊勢崎線春日部駅北口(BELISTAタワー春日部)

2008-05-04 02:35:13 | Weblog
四ツ目通りから地下へ入ると半蔵門線の錦糸町駅となっている。
さすがに、地下はもう昔の錦糸町ではないな。
田園都市の雰囲気に満ちている。
半蔵門線に乗る。半蔵門線は押上から地上へ。
押上には、近い将来、巨大な新東京タワーが建つのだ。どうなることやら。
地上に出るともう曳舟となる。
曳舟も変わったなあ。昭和の取り残された街がすっかりなくなってしまった。
まだ、広範囲で再開発は続いているのだが。
半蔵門線は、東武伊勢崎線に乗り入れているので、いつしか、東武伊勢崎線になっている。不思議な感じがする。
列車は、北千住を越え、足立区を北上していく。
北千住を過ぎ、荒川を渡ると、下町の足立らしい街並みが広がっていたのだが。
しかし、ここにきて、徐々に再開発が始まっている。
西新井周辺などがそうだ。
どんどん整備が進んでいく。
そんな足立の街並みを通過し、いよいよ埼玉県へ。
草加、越谷と過ぎていく。
越谷あたりまでは複々線になっていて便利だ。
でも、新興の住宅地が広がり、発展するかと思ったら、あんまり昔と変わっていないような気もする。
たぶん、交通の便がよくなると、地方は中央に吸い取られてしまうのだろうか。
心なしか草加は、整備されたが、越谷は寂れていくように見えるのだ。
越谷も過ぎ、春日部に到着する。
駅の北側へ。なんてわびしい駅前なんだろうか。
南側は、ちょっとは賑やかなのかもしれないけど。
なにもない大通りを北へ歩き、古利根川の手前で西へ。
そのまま西へ歩いて行くと、BELISTAタワー春日部の工事現場がある。
帰りは、もう少し、線路に近い場所まで行ってみる。
いつからあるんだろう、この店、という雰囲気だ。
都心部は、いっそう賑やかなになり、地方は、このように、すかすかになっていくのだろうなあ。
(2007年12月記)

総武線錦糸町駅北口(ロッテプラザ計画工事現場)

2008-05-03 04:49:36 | Weblog
来た道を引き返し錦糸町駅へ向かう。
実は都営新宿線、地下鉄半蔵門線の住吉駅が近くにあるのだが。
でも、錦糸町駅から歩いた方が街の雰囲気を感じることができるからいいかな。
錦糸町駅へ。駅構内を通って東側に出る。
四ツ目通りが南北に伸びている。
この通りの下には、半蔵門線が通っているのだ。
四ツ目通りの東側に、ロッテプラザ計画の工事現場がある。
ロッテプラザの跡地に高層ビルを建てる、という工事をやっている。
ロッテプラザは、高度成長期が終わって、安定期に入った頃にオープンしている総合レジャー施設だ。
これからは、一生懸命働くばかりではなく、レジャーも楽しもう、というわけだったのだろう。
やっとここまで辿り着いた、という安堵の気持ちが世の中に満ちていたなあ。
でも、せっかくのそのような施設も取り壊されて、高層ビルの工事中となっている。
もう、お楽しみは終わり、ということかな。(新しい高層ビルにも同様のレジャー施設が入居するらしいのだが)
これからは、格差社会で、勝ち組だけが楽しみの権利を得るのかもしれない。
時代は変わっていく、ということだ。
その波が錦糸町にも打ち寄せ始めている。
南口に出ると、まだまだ、錦糸町界隈は、昔のままだ、と安心してしまうが、特に四ツ目通りあたりに来ると、やはり、変化を感じてしまう。
北側、四ツ目通りの先には、新東京タワーの建つ押上があるからだろうか。
その押上へは、地下を半蔵門線が伸びている。
田園都市から渋谷を通っている半蔵門線が、錦糸町まで伸びて、押上に到る、なんて考えられない。
けれど、こうして、再開発が続くと、徐々に田園都市線の沿線に変貌していくような感じがする。
もう、あの懐かしい錦糸町へは後戻りできない。
ちょっと寂しい感じがする。
そう思うのは、時代の流れてに自分がついていけないからだろうか。
(2007年12月記)

総武線錦糸町駅南口(ツインタワーすみとし)

2008-05-02 02:23:17 | Weblog
東西線で飯田橋。総武線に乗り換える。
世の中は、年の瀬、師走だ。
この時期、城東の下町の空気は活気に溢れている。
あの雰囲気は、とても好きだなあ。
ということで城東下町の中心地、錦糸町駅で下車。
南口へ出る。
駅前広場の縁に沿って南へ。
なんだか威勢のいい魚屋と演歌の専門レコード屋があったりする。
北口には、ビルが建ち並んだり、四ツ目通りには、地下鉄半蔵門線が伸びてきたりして、外観はかなり変わったけど、雰囲気はそれほど変わっていないようだな。
でも、いつまでこのような雰囲気が残っているのだろうか。
雑踏に押されるようにして、国道14号線を渡る。
国道14号線の南側は、いまだに怪しげな空気が漂っていて、ちょっと懐かしい感じがする。
さらに東西に伸びる高速道路の高架をくぐり南へ。
街中にツインタワーすみとしがある。
住吉館、毛利館からなるツインの高層住宅だ。
バブルが崩壊してしまったが、まだ、バブルの余韻に引きずられるように再開発が行われていた頃に竣工している。
また、錦糸町では、最初の高層ビルでもある。
この少し後に錦糸町駅北口の再開発が完成するのだが、その頃には、もう完全にバブルは崩壊していた。
ということで、ものすごいバッシングの嵐だったように記憶しているが。
失われた10年が去り、都心集積化となる。
すると今度は、城東の中心、ということで、また高層ビルが建ちはじめるのだ。
世の流れとは、うつろいやすいものだ。
そんな中にあって、駅前の威勢のいい魚屋と演歌の専門レコード屋がまだある、というのは、ほっとした気持ちにさせてくれる。
変わらない、ということはいいことだ、と実感してしまう、ということは、逆に変化が激しい、ということだろうか。
(2007年12月記)