retifの都市探検日記(高層ビル編)

東京の街並みなどを報告します

山手線新宿駅東口(タカシマヤタイムズスクエアビル)

2008-05-21 06:19:45 | Weblog
甲州街道を東に向かう。
甲州街道は、そのまま、まっすぐ東に伸び、新宿駅の上を高架で越えていく。
甲州街道で新宿駅を越える手前で南へ。
人口地盤の新宿サザンテラスが南に広がっている。その新宿サザンテラスには、高層ビルのJR東日本本社ビル小田急サザンタワーなどが並んでいる。
新宿サザンテラスを南へ歩き、新宿駅の上に架かる跨線橋で東へ。
駅の東側、眼前にはタカシマヤタイムズスクエアビルがある。
跨線橋の真ん中あたりで思わず見上げてしまうのだが。そして、デパートなのに高層ビル、というこの絢爛とした建造物には、いつも圧倒されてしまう。
さらに、南側にペデストリアンデッキが伸び、紀伊国屋書店の大きなビルもあるのだ。
竣工は、バブルが崩壊した頃である。
すでにバブルは崩壊していたものの、いまだに、その頃は、バブルの雰囲気は残っていて、この高島屋の進出は、すごく華やかで、はっきり覚えているなあ。
このようなビルが建つ前は、いったい何があったのだろうか。
新宿駅といえば、昔は、普通の駅は甲州街道の北側で、南側、つまり、タカシマヤタイムズスクエアビルがあるあたりは新宿貨物駅だったらしい。
バブル前には、その貨物駅はなくなってしまう。
そこへ、バブル期に埼京線のホームができて、そして、バブルは崩壊してしまったが、そこへ、高島屋が進出してきたのだ。
ただ、振り返ってみると、駅と直結しているところや、ペデストリアンデッキで周囲の施設と一体となっているところは、今の駅前再開発ビルのさきがけのような気もする。
果てしもなく高層ビル群が広がっていく、なんてことは、もうないのだ。
そういえば、タカシマヤタイムズスクエアビルは、来年(2008年)開通する地下鉄副都心線の駅とも直結するらしい。
やはり、今風の巨大施設なのだ。
(2007年12月記)

山手線新宿駅西口(新宿三井ビル二号館)

2008-05-20 06:21:23 | Weblog
西武新宿線で西武新宿駅へ。
青梅街道へ出て、西口へ。
後は、南へ歩いていく。
西口の駅前広場を過ぎ、甲州街道へ出る。
さらに西に歩いて行くと、甲州街道の北側に新宿三井ビル二号館がある。
西新宿高層ビル街の高層ビルがでかすぎるので、普通のビルにしか見えない。
それでも、西新宿高層ビル街の最南端に位置していたのだが。
しかし、甲州街道の南側、代々木にも高層ビルが建って、ますます普通のビルに見えるようになった。
竣工は、バブルが始まる前ぐらいの頃だ。
北側に建っている高層ホテルのワシントンホテルも同じ時期の竣工。さらにその北側の新宿NSビルも同じ頃、ということだ。
甲州街道までの一帯がビル群として再開発された、ということなのかもしれない。
もっとも、これらのビルはばらばらなので、とてもそんな風には見えないけど。
ワシントンホテルと新宿NSビルの間には、地下道もあるが、都庁ができたときに開通しているので、もともとあったわけではない。
今なら、おそらく、これらのビルは、地下道だけではなくペデストリアンデッキでも直結されていただろう。
新宿NSビルから直接、ワシントンホテルを通って、甲州街道沿いの新宿三井ビル二号館に出られれば便利だ。
ついでに陸橋を甲州街道の南側にまで伸ばせば、もっと便利になる。
甲州街道は交通量が多い幅広の通りなのだが、横断歩道か歩道橋でしか渡れないからだ。
新宿駅近くには、甲州街道の下を地下道が通っているけど、その場所まで大回りするのも不便だし。
でも、新宿三井ビル二号館ができたのは、まだバブルも始まっていない頃。
時代は、のんびりしていたのだろうなあ。
ビルがこんなにできるとは想像もしていなかっただろう。

東北本線古河駅西口(アプリKOGA古河スカイタワー)

2008-05-19 06:20:53 | Weblog
閑散とした、広い土浦駅に戻り、再び常磐線に乗る。
広い関東平野を疾走し、都心へと向かう。
取手を過ぎ、利根川を渡ると、普段、見慣れた郊外の景色が広がる。
地方都市としての土浦は、この高速鉄道のおかげで都心へ吸い取られてしまったようだ。右肩上がりの成長の時代ではないので、仕方ないことかもしれない。
取手から先は快速ということになる。
特急料金を払っていないけど、特急に乗った気分だ。もっとも、長距離運賃そのものが、そもそも特急料金なのかもしれないが。
柏駅で降りる。
東武野田線に乗る。
今まで速い電車に乗っていたためか、ものすごく遅く感じる。駅も多いなあ。郊外の住宅地なので当たり前だ。
ようやく春日部駅。すぐに東武伊勢崎線に乗り換える。
そんなことをやっているうちに、だんだん日没が近付いてきた。
郊外の鉄道は、ゆっくりと北へ進んでいく。
栗橋駅で東北本線へ乗り換える。接続は、意外とスムーズ。郊外だからだろうか。
東北本線で、再び利根川を渡る。
またしても眼前には広大な関東平野。
しばらくして、古河駅に着く。
駅西口に出る。
まずに目に飛び込んできたのは、異様にでかい電光掲示板。あとは何もない。
西に伸びるメインストリート、とも思えない普通の道路の北側にアプリKOGA古河スカイタワーがある。
巨大な電光掲示板と高層住宅、それだけだ。
竣工は、バブルが崩壊した後の失われた10年。土浦駅前と同じだ。
ひょっとしたら、現在、多く見られる、駅前だけ再開発、のパターンはここから始まったのかもしれない、と思ってしまう。
帰りは、東北本線。すぐに都心に戻れる。これなら、駅の近くに高層住宅があればそれだけでいいのかもしれない。
(2007年12月記)

常磐線土浦駅西口(土浦URALAソリッドタワー)

2008-05-18 02:36:37 | Weblog
松戸駅に戻り、再び常磐線へ。
常磐快速線に乗る。
柏、我孫子、と郊外の街が過ぎていく。
利根川を渡ると取手、そして茨城県だ。
取手から先は、もう都心に対する郊外ではないのだろう。
広大な関東平野が広がるばかりだ。
このどこまでも広がる平野を常磐線は疾走していく。
取手からは、各駅停車なのだが、このスピード感は、快速と変わらない。
たぶん駅間が開いているので、速度を落とす必要がないのだろう。
つくばエクスプレスも速かったけど、常磐線も速いのだ。単に広大な関東平野を走っているから速いのかもしれない。
遠くの方にぽつんとした一かたまりの街とでかい高層ビルが見えてきた。
列車は、みるみるうちにその街、土浦に近付いていく。
土浦駅に到着する。
改札口を出る。がらんとして、ただ広い。まるで空港のターミナルみたい。
西口へ。幅広のペデストリアンデッキがまっすぐ伸びている。
ここにも誰もいない。
ペデストリアンデッキの先には、商業施設などの建物群、土浦URALA、というのがある。
しかし、あるのは、それだけだ。
いったん地上に降り、土浦URALAの南側を通って、西端へまわってみると、土浦URALAソリッドタワーがある。
そして、北側を通って、再び、土浦駅の西口へ。
土浦URALAを一回りしただけだ。
土浦URALAソリッドタワーは、バブルが崩壊した後の失われた10年の間に竣工している。
土浦URALAができたが、他のデパートは、その後、みんな撤退したらしい。
なるほど、駅近くの高層住宅、駅だけの再開発、という現象は、こういうことだったのか、と納得してしまう。
どこを見回しても、閑散としている。
これでは、拡大するよりも、せめて駅近くへ、集約するしかないではないか。
(2007年12月記)

常磐線松戸駅西口(松戸ビル)

2008-05-17 02:22:18 | Weblog
松戸駅の西口を南へ歩いていく。
松戸駅周辺の高層ビルとしては、他に、東口に聖徳大学生涯学習社会貢献センターライオンズステーションタワー松戸がある。
竣工はいずれも、失われた10年が終わった頃だ。
駅の近辺だけ、急激に発展した、ということだろうか。
もっとも、最近になって、もう変化はやみ、落ち着いた、と思うのだが。
そんなことを考えながら、街中をさらに南へ歩いていく。
松戸駅の西口は、東口とは対照的に静かな街並みだ。
のんびりした感じで年の瀬とは思えないなあ。
空を見上げると、初冬の空は晴れ渡り、つかの間の暖かさだ。
駅前広場を通り過ぎ、さらに南へ歩く。
やがて、白亜の松戸ビルがある。
上層部には、いまどき、珍しいスカイラウンジ。
この外観を見てもわかるように、かなり古いビルである。
竣工は、高度成長時代が終わった頃だ。
日本の高層ビルの中でも最古参になるだろう。
なんで、そんな昔、都心から離れた地方都市にこのような高層ビルが建ったのか、不思議な感じがするけど。
都心にすらあまりない高層ビルを建て、見違えるように発展した松戸の街を見渡せるようにしたのだろうか。
あるいは、高度成長期が常磐線沿線を郊外ベッドタウンとして、いかに発展させたかを象徴するものとして高層ビルを建てたのかもしれない。
理由はわからないけど。
でも、今では、高層ビルはそれほど珍しくもなくなった、ということは確かだろう。
むしろこのレトロさが珍しいような気もする。
もう街の変化が一段落し、落ち着けば、昔を振り返る余裕ができるだろう。
そういうときは、松戸ビルのスカイラウンジはいいかもしれないな。
(2007年12月記)

常磐線松戸駅北口(パークスカイタワー松戸)

2008-05-16 02:46:00 | Weblog
高田馬場から東西線へ。
大手町駅で千代田線に乗り換える。
千代田線は、常磐線に乗り入れているので、そのまま乗っていれば常磐線となる。
北千住から列車は地上へ出る。
北千住も駅周辺だけだが、ずいぶんと変わった。
常磐線沿線は、バブルの頃は、埋立地の湾岸再開発もなければ、内陸のニュータウン再開発もないので、すっかり忘れられていたのだが。
しかし、バブルは崩壊してしまった。
そして、バブル後の失われた10年に次いで、都心集積化が始まる。
その都心集積化の波を受けて、今まで忘れられていた常磐線沿線は大きく変貌していくのだ。
北千住と同じように亀有駅南口もすっかり整備された。
さらに、中川を渡った先、金町は、現在、高層ビルの建設中だ。
列車は、そのような金町の高層ビル工事現場を脇に見ながら、江戸川に架かる長い鉄橋に進んでいく。この先は千葉県である。
江戸川を越えると、外郭環状道路の工事現場。外郭環状道路が完成すれば、ますます、常磐線沿線は変わっていくことだろう。
常磐線の列車は松戸の駅に滑り込む。
改札を出て、松戸の街へ。相変わらず賑やか。
西口へ行き、街中を北へ歩いていく。
東口は、密集してごちゃごちゃした感じだが、西口の方は、歴史があるためか、閑静な感じがする。
やがて、常磐線に架かる陸橋があり、その陸橋の北側にパークスカイタワー松戸がある。
竣工したのは、この高層住宅も失われた10年の終わり頃だろうか。
駅からは、少し離れているようだが、都心集積化で、最近、あちこち見かける、駅近くの高層住宅の一つだろう。
(2007年12月記)

京浜東北線大井町駅西口(NTビル)

2008-05-15 06:21:43 | Weblog
旗の台駅に戻り、東急大井町線に乗る。
初冬の日没は早い。
夕暮れの中に沈み行く住宅地の中を縫うように列車はゆっくりと走っていく。
第二京浜を越え、新幹線の高架を越える。北側には戸越銀座。
だんだん、ちょっとは下町っぽくなってきたかな。もう暗くなりかけているのでわからないけど。
大井町駅に着き改札を出て大井町線からは南側に降り立つ。
大井町線の高架から北側は、品川区役所やJR東日本大井工場などがあり、南側が大井町の街、というふうになっているのだ。
こうして見ると、まるでこの大井町線の高架が大井町の外壁のような感じがする。
この外壁のような高架の西側では、再開発が始まりそうで、すでに更地が広がっている。その再開発地の北側には品川区役所や高層住宅のファミーユ下神明などがあり、ビル群のようになるのかもしれない。
スーパーと京浜東北線の間を南へ歩くと駅前広場に出る。
駅前広場からは大通りが一直線に西へ伸びているが、多くの駅前のメインストリートと同じように、途中で途切れている。
もっとも、どこかに通じていても、駅前まで入ってくるのは、バスかタクシーぐらいだから、このままでいいのかもしれないが。
この途中で途切れる大通りの周囲は、新しいビルなどが建っていて、新規にできた街、という感じがする。再開発地も大通りが途切れたあたりの北側になっている。
大通りとは別に南西側に伸びる道に入る。
少し街中に入っていくとNTビルがある。
バブルが崩壊した頃に竣工している。
この頃は、りんかい線が開通し始めた時期でもある。まだ、大井町には伸びてきてはいなかったが。
時期的に見ると、バブルの頃の壮大な計画が、バブル崩壊とともに、現実的な着地をしたのが、このNTビルなのかもしれない。
もう暗くなったので、戻ることにする。
ただ、大井町には、都心集積化という形を変えた再開発が継続しているので、また来ることにはなりそうだけど。
(2007年12月記)

東急大井町線旗の台駅北口(昭和大学病院入院棟)

2008-05-14 06:20:16 | Weblog
要町駅から有楽町線に乗り、池袋駅へ。
再び、山手線に乗る。
目黒駅で東急目黒線に乗り換える。
大岡山駅で今度は、東急大井町線に乗り換える。
ジグザグに進んでいるようだ。東急の鉄道網が張り巡らされている、ということかな。
旗の台駅で降りる。
商店街のある細い道を北へ歩いて行くと、大通りの中原街道。
そして、中原街道の北側には昭和大学病院入院棟がある。
竣工は、高度成長時代が終わって、安定期に入った頃だ。
その頃も今もそうなのだが、まわりに高い建物がないので、遠くからでもよく目立つ。
沿線は、大井町や蒲田とつながっているためなのか、庶民的な感じがする。
でも、やはり山の手なのだ。
大森、蒲田の西側、本門寺あたりから北西方向へ、都心を中心に円を描くように山の手住宅地が広がっている。
その山の手住宅地は、小田急線のあたりまで広がっているようだ。
この東急沿線のように周囲が山の手住宅地の中の庶民的な駅前、というのもいいかもしれないが、不思議な感じもする。
普通の郊外なら、駅前はきれいに整備されおしゃれな店が並ぶのだが、こういう山の手の真っ只中では、そういうふうにはならないのかもしれない。
この駅から西側にある洗足池、南側にある本門寺にも行ったことがあるけど、時代の流れとは無関係に街が存在するように思えた。もはや、時代から取り残された、とは言えないのだろう。
単純にいつも行くお店が、きらびやかだったり、妙に清潔だったり、時代の最先端だったりしたら、疲れるだけだろうなあ。繁華街でも観光地でもないのだ。
もし、似ている場所があるとするなら、谷中、千駄木、駒込、あたりだろうか。
そのような街の中、高度成長期も終わった、ということで、交通量の多い中原街道沿いに勢いで高層の病院の建物が建ってしまったのかもしれない。
今後、一帯には、よほど例外を除いて、もう高層ビルは建たないだろう。
(2007年12月記)

有楽町線要町駅(高松一丁目計画工事現場)

2008-05-13 06:23:29 | Weblog
高田馬場から山手線で池袋へ。
池袋駅から有楽町線、要町駅で下車。
実は池袋駅から歩いてもいいくらいの距離なのだが。
駅は、山手通りと池袋駅から西へ伸びる大通りとの交差点にある。
駅を出て山手通りへ。北へ歩く。
昔の池袋の感じが残っているなあ。
何年か前によくこの一帯には足を運んだのだ。
たしか、ここらへん、激安店とハタスポーツプラザぐらいしか特に目立ったものはないのだけど。
あとは、昭和の頃の昔のままだ。
そんな街に、最近、首都高の高架が現れる。もっと北側、川越街道の北側には、すでに首都高の高架は伸びてきていたのだが。
その高架が分岐して山手通りの上を南へ伸びてきている。
しかも、その高架は、下り坂になって、そのまま、地面の下に入ってしまうのだ。
ものすごくダイナミックな光景だ。
一応、必要性はあるのだろうが、しかし、なにもここまでして無理に作らなくても、とも思える。
そのような、高速道路の高架の奇異な景観の近く、山手通りの西側に高松一丁目計画の工事現場がある。
山手通りと高速道路の高架に対して遮蔽物、としての役割もあるのだろう。
もっとも、奇異な景観がさらに増幅しているようにも見えるけど。
ということで、工事現場も確認したので戻ることにするかな。
本当は、ここから、山手通りを渡って、住宅地の中をかまわず東側に歩いて行くと、ひょっこりと西口繁華街に出たりするのだ。
この近さにも驚くのが、池袋の源流を巡った、という実感を持ってしまう。
今回は、そのコースは通らないけど、池袋の街の歴史を考える上で興味深いことだ。
だけど、このような、取り残された場所にも高層住宅が建ったりして、徐々に変化の波が押し寄せている、という感じもする。
山手通りを歩きながら、次に訪れたときは、どうなっているのだろうと、思いを巡らさざるを得ない。
(2007年12月記)

東西線飯田橋駅(飯田橋セントラルプラザ)

2008-05-12 06:22:41 | Weblog
いまや、静かな住宅地になりつつある一帯を南に歩いていく。
さっきの大久保通りに出て、東南方向へ。
ふいに目の前が大きく広がったと思ったら、飯田橋の交差点。
池袋から伸びてきている目白通りと後楽園の南側を東西に伸びる外堀通りが交差している。
このように交差する通りが幅広なので、必然的に交差点が広大になってしまうのだろうか。
なお、目白通りの上を通っていた首都高の高架の方は、東側にいったん折れてから再び南へ伸びている。
この広大な交差点の南側は橋になっている。
橋の下には、外濠、そして神田川もある。
どういうふうに外濠と神田川がつながっているのか、ちょっとわからないけど。
もう少し、下流、東側に行くと、日本橋川が南へ分流していく。
この複雑な川筋を見るとデルタ地帯、ということを実感してしまうのだ。
そして、飯田橋が、このデルタ地帯のとば口になっている感じがする。
交差点を西側に曲って外堀通りに入る。
すぐに外堀通りの南側に飯田橋セントラルプラザがある。
建物は外濠の南岸にあり、外堀通りは北岸にあるはずなのだが、敷地は外濠を覆うようになっているので、濠を渡る、という感じはまったくしない。
竣工は、バブルが始まる前ぐらいか。まだまだ、安定期でのんびりした時代だったかもしれない。
いちおう駅ビルらしいのだが、飯田橋と一体になっているとも思えない。
今なら、たぶん、飯田橋駅と直結していただろう。
さらに、広大な交差点も飯田橋駅と直結したペデストリアンデッキで覆ったかもしれないなあ。
いつも、この交差点の歩道橋はなんとかならないのか、と思ってしまうのだが。
まだ、山の手住宅街からオフィス街へのとば口でしかなかった頃だから、そこまでは考えなかったのだろう。
でも、夕暮れ時に佇む飯田橋セントラルプラザを見ると、まだのんびりしていた頃を思い出させてくる。
もう日が沈むので、飯田橋駅から帰るとするかな。
(2007年12月記)