retifの都市探検日記(高層ビル編)

東京の街並みなどを報告します

赤坂(ホテルニューオータニタワー)

2007-02-14 20:59:18 | Weblog
高田馬場から山手線、新宿から中央線、四谷で下車。
赤坂方面に坂を下る。
ホテルニューオータニの敷地にホテルニューオータニタワーが聳える。
高度成長期の終わり頃に竣工している。
ホテルニューオータニは、大谷重工業を設立し、戦前、戦後に鉄鋼王と呼ばれた大谷米太郎が、東京オリンピックのころ、開業している。
せっかくの東京オリンピックなのに、来日客のためのホテルがない、ということがホテル開業の動機だったらしいが。
このとき建てられた本館(1964年)は、かなり高い(70メートル以上はある)ので、実は霞ヶ関ビルの前にも高い建物はあったわけだが。
他の高層ビルとしては、バブルのころに建てられたニューオータニ・ガーデンコートがある。
鬱蒼とした濃い緑とその緑を水面に映している陰気な弁慶濠、その奥には巨大な特徴のあるデザインの高層ビル。
それが高度成長期に日本が到達したある一つの高みなわけだが。
北側が正門なのかどうかわからないが、入れそうなところはここしか思い当たらないので北側から入る。
本館の西側を南へ。そしてプールの脇を抜けさらに南へ進むと日本庭園がある。
堅苦しいような庭園には興味はないけど、弁慶濠に沿う深い木立は歴史を感じさせる。
しかし、もっと面白いのは、野良猫がやたらとたくさんいたことだ。
林の中、ひんやりした地べたに気持ちよさそうに寝そべっている。
視線を少しそらすと、気張ったような庭園とそのすぐ向こうに巨大なモニュメントのようにそそり立つ、サイケデリックな妙なデザインの高層建築物が視界に入る。
そのとき、ふと、高度成長期に日本が到達した高みがなんなのか、なんとなくわかったような気がしてしまう。
もう一度、野良猫を見やりながら木立の下を通り北側の門を抜けて外へ出る。
(2006年9月記)

丸の内(東京ビル)

2007-02-13 23:20:40 | Weblog
青山通りを東へ歩き、永田町駅へ。有楽町線に乗り有楽町で下車。
北へ、東京駅方面に歩く。東京駅西口、南側に東京ビルが聳え立つ。
北側に東京中央郵便局、南側に東京国際フォーラム、そして西側に三菱東京UFJ銀行。
基本的に、東京ビルは三菱のビルなのだが。
もともと丸の内は、明治時代初に明治政府から三菱に払い下げられた土地だ。
東京駅ができる前の話である。
そして、日本経済を支えるオフィス街となっていく。
ところが、バブル崩壊後、失われた10年を経て、巨大ビルへと次々と生まれ変わった行く。
今もその動きは継続中である。東京ビルもそのようにして生まれ変わった巨大ビルの一つだ。
巨大ビルが建っていく様を見ると、バブル全盛期に三菱が発表した丸の内マンハッタン計画を思い出す。思い出す、ではなく、今、目の前でその丸の内マンハッタン計画が実現されているのだが。
発表当時、その丸の内マンハッタン計画は東京都知事をはじめ、全面的な猛反対によって実現しなかった。
バブル経済のころと、今では、ベクトルの方向は正反対だということだろう。
今は、そしてその先は、集中化、集積化に向けて、そのことしか考えにないのだろうが、またその先はどうなってしまうのだろうか。
まったくわからない。
(2006年9月記)

赤坂(赤坂4丁目薬研坂南地区再開発ビル)

2007-02-12 18:28:19 | Weblog
西側に歩く。TBSの北側を西へ抜けると薬研坂のある小道。
薬研坂を北に歩く。坂を下る手前に赤坂4丁目薬研坂南地区再開発ビルの工事現場。
青山通り沿いの薬研坂北地区(赤坂ガーデンシティ)はもう完成している。
まわりは住宅地も残っているようだが、容赦なく高層ビルが建っていく感じだ。
赤坂4丁目薬研坂南地区にはもとはレコード会社のコロムビアがあった。
明治の終わりごろ登場した日本最初のレコード会社。レコードばかりではなく歌謡界に絶大な影響力を持った。
赤坂絶頂期に赤坂を見下ろすこの地に移転してくる。まるで引き寄せられるように。
しかし安定期に入り、赤坂が凋落するのと合わせるように衰退していく。
音楽がレコードという商品の流通に集束していくことについていけなかったのだろう。
そしてバブルからバブル崩壊にかけて完全に赤字経営に転落。
もっとも他のレコード業界もバブル景気で儲かっていただけで、バブル崩壊後に続く失われた10年以後、急速に売上げは落ち込む。
バブル崩壊が遅れただけだったのだが。
現在、音楽はイコールレコード、よりも、音楽イコールデジタル化されたデータ、となっている。
デジタル化されたデータの方が、資産の集積化とはるかに親和性が高いからだ。
そのことを意識したのかどうか、コロムビアレコードは、六本木へと移転していく。
まるで引き寄せられるように。赤字からは脱却したようだが。
そして、跡地には、また巨大ビルが建つ。
(2006年9月記)

赤坂(プルデンシャルタワー)

2007-02-11 12:43:44 | Weblog
白金高輪で南北線に乗り。溜池山王で下車。
北側、赤坂見附の方に歩いて行くとプルデンシャルタワーが聳える。
シンプルなデザインの白亜の塔が空に向かって聳え立つさまは清冽の極みだ。
なにか宗教的な遺跡にも見える。
江戸時代の以前は桜田村という集落があったらしい。桜田門にその名が残る。
江戸城が出来て、まず最初に飲料水の確保に悩むことになる。
そこで、上水を引いてくる間は、小川をせき止めて人造湖を作り対処する。
これが赤坂見附から南、溜池山王、虎ノ門まで広がる溜池だ。
桜田村は、池に沈むことになるので赤坂台へ移転したらしい。
明治のころ池はなくなり、歓楽街となる。
特に戦後、高度成長期前が全盛だった。
発展途上国にあるようなけばけばしい華やかで輝いていたようだ。ということは、このころは発展途上国だったのかな。
安定期(1980年代)に入るといつの間にか、賑やかさが消えてしまう。
バブル崩壊後、ポツポツと巨大ビルが建ち始める。プルデンシャルタワーもその中の一つだ。
プルデンシャルタワーのある場所には、戦前は、日本料亭、幸楽があり、226事件で蜂起した反乱兵士が立ち寄っている。
戦後は、ホテルニュージャパンが開業し、付属していたナイトクラブ、ニューラテンクォーターで力道山の夢が絶たれている。
そしてバブル前夜、1980年代初、ホテルニュージャパンは炎に包まれ、廃墟となる。赤坂の凋落を象徴するように。
さらに、土地を取得した千代田生命は、バブル崩壊とともに破綻する。
今はきれいさっぱり何もなくなり、白亜の塔が空に向かって聳え立つのみだ。
抱えきれないさまざまな想いを、できるだけ空高く、昇華しているように見える。
(2006年9月記)

白金高輪(TAKANAWA The Residence)

2007-02-07 23:05:56 | Weblog
高田馬場から東西線、飯田橋で南北線。
白金高輪で下車。桜田通りを南へ歩くとTAKANAWA The Residenceが聳えている。
北側には並ぶようにシティタワー高輪。さらに北側には白金アエルシティがある。
TAKANAWA The Residence、シティタワー高輪は白金台、高輪台のへりに建っていて、東側の坂を下ると品川港南へ出る。
もとは高縄という地名で縄を張ったようにまっすぐな尾根道かららしいが、もっと深い意味があるんじゃないかな。
江戸時代は、高台は大名の屋敷、東側の斜面は多くの寺で占められ、くだりきった海岸に東海道が走っていた。
それらの寺の中には泉岳寺がある。
泉岳寺といえば忠臣蔵である。
赤穂浪士は討入り後、両国から泉岳寺のあるこの地まで歩いてきたのだが、どんな気持ちだったろうか。
おそらく歩く途中は、勝利の高揚感しかなかったのではないだろうか。
なぜなら、戦闘集団(討入りの経緯を見ると武士とは徹頭徹尾、戦闘集団だと思わざるを得ない)がターゲットを見定めて、冷徹に目的を達したわけだが、それが幕府の裁可を受けることを想定していた行動とはとても思えないからだ。
その後は、英雄と称えられ、うまいものをご馳走になり、暖かな部屋でぶ厚い布団に寝かされ、ついには、心身を完全にとろけさせられてしまったのに違いない。
あとは幕府の裁可を受けるしかなかっただろう。
このあまりにも切ない結末があるからこそ、この物語は永遠に人々の心に響いているのではないだろうか。
わいろなどの受け入れがたい人間関係、社会の仕組みに結局は依存しなければならないということに対する、悲しいファンタジーなのだ。
この高輪台の高み、東京湾を見渡せる景色は、それらを超越したと思わせたかもしれない、でもそれも一瞬だけだったわけだ。
(2006年9月記)

錦糸町駅北口(Brilliaタワー東京)

2007-02-05 21:39:50 | Weblog
オリナスタワーの東側にはBrilliaタワー東京が聳える。
この巨大すぎるツインタワーを中心にショッピングセンターなどを加えて再開発地、オリナスは構成されている。
他の高層ビルとしては、北側に都営横川五丁目第2アパートがある。
もうこのへんになると押上の方が近いが。
南側は錦糸公園。そして半蔵門線の入口もある。
もともとこの場所は時計のSEIKO社、精工舎工場の広大な敷地だった。
明治時代、この地に工場が建てられ、バブル、失われた10年を経て、消滅している。
近代国家の工業化、そしてその果ての空洞化、その歴史そのままだ。
それはそれとして、このツインビルの巨大さには圧倒される。
駅周辺のアルカタワーズぐらいなら、地方都市としての枠に収まるが、このツインビルはその限度を超えてしまっているように見える。
さらに言えば、微妙に駅から離れている、ということからも、錦糸町のビルではもはやないのではないかと思える。
ではなんなのかというと、少し北に行くとある押上と連動しているのではないだろうか。
つまり新東京タワーが押上に建つので、城南の中心が錦糸町より北側にシフトしていく、その中心部を形成するビルになっていくような気がする。
もっともそうなると、まるで田園都市線の植民地みたいになるかもしれない。
そういえば、錦糸町はもとは、本所といった。
本所といえば、荘園領主の支配地のことだ。
そんなことにはならないだろうが、気がついてみると、やはり本所になってしまったんだ、ということになるのだろうか。
(2006年9月記)

錦糸町駅北口(オリナスタワー)

2007-02-04 21:07:09 | Weblog
両国駅で総武線。錦糸町駅。
駅東側の四ツ目通りを北へ
蔵前橋通り交差点の南東側にオリナスタワーが聳える。
他の高層ビルとしては、錦糸町駅周辺では、駅北口に東から順番に錦糸町アルカタワーズ(アルカイースト)、錦糸町アルカタワーズ(アルカセントラル)、東武ホテルレバント東京、錦糸町アルカタワーズ(アルカウェスト)、南口には富士ソフトABCビルがある。
錦糸町は、江戸時代、両国橋が架けられ、江戸の新興住宅街となってその歴史が始まる。
同じころ、亀戸天神が開かれているが、このことと、関係があるのではないだろうか。
新興住宅地として、そして亀戸天神の門前町として寂しいながらも街を形成する。
なお、錦糸の地名は現在の駅北口を東西に流れていた錦糸堀からである。
明治時代になり、江戸の新興住宅地がたいていそうであるように、工場が進出し、かなり栄える。
そして、また、それらの地域がたいていそうであるように、高度成長期を経て、忘れられた時代遅れの下町になってしまう。
錦糸町は、その中にあっても、場末の変な居酒屋みたいに、妙に盛り上がっていて、城東では一番好きな街だったが。
北口にあった錦糸堀は埋め立てられ(関東大震災の後)、国鉄用地になり、やがて、その空地にバブルの再開発が開始される。
しかし、ビル群ができあがったころは、とうにバブルは崩壊していた。失われた10年のころで、世間の風当たりはさぞ強かっただろう。
だが、現在、都心回帰、集積化の波を受けて、駅からかなり離れているが、再開発、オリナスが完成する。
アルカタワーズがかわいく思えるほどの巨大さだ。
もっとも、錦糸町のビルというよりも、田園都市線(半蔵門線)のビルという気がする。
半蔵門線から降り立つと、ほとんど違和感がないんじゃないかな。
(2006年9月記)

両国(NTTドコモ墨田ビル)

2007-02-03 23:32:25 | Weblog
再び大江戸線。両国で下車。
駅北側にNTTドコモ墨田ビルが聳える。
JR両国駅の特に北側は不便だ。むしろ最初から北側にある大江戸線から降りた方がまだましだ。もともと近在の住民のための駅ではないからだろうか。
他のビルとしては、東側に第一ホテル両国、駅南口、京葉道路の南側に両国シティコアがある。
両国という地名は、西側の武蔵国、東側の下総国、この二つの国の間にある橋、両国橋からとられた。
江戸幕府は当初、防衛上の観点から橋は架けなかったのだが、大火災が発生したとき、逃げ場を失った住民に大きな被害が出たことを契機に両国橋を架ける。
また、この惨事を契機に回向院が作られ、その境内で相撲が始まり、それが後の大相撲になる。
そして、架橋後は、対岸の本所、深川が新興住宅地となり、発展する。
その新興の住宅地の中には吉良上野介の屋敷もあった。
駅北側は、御竹蔵という幕府の倉庫があった。明治時代になって軍の施設に変わる。
そして、関東大震災のときの大火災により、その軍の施設に避難して来た住民にまたしても大きな犠牲が出てしまう。
東京大空襲でも本所、深川は被害が大きい。
こうして改めて振り返ってみると、この土地の犠牲者の数の多さに絶句してしまう。
両国駅がいびつな駅であるのは、ひょっとしたらそのせいかもしれない。
なにか生活のための駅という感じがしないのだ。
江戸、東京、と都市が発展していくときの、忘れてはいけないが、ひどくつらい記憶。
そのために歴史の博物館があり、大相撲があり、そして必ず毎年、年末の討入りの話の舞台となっているのかもしれない。
そうであれば、両国駅は、不便でもなんでもないのだろう。
(2006年9月記)