retifの都市探検日記(高層ビル編)

東京の街並みなどを報告します

東池袋(エアライズタワー)

2007-01-17 21:13:00 | Weblog
日暮里駅から山手線、池袋駅で下車。東池袋まで歩く。
サンシャインシティの南側にエアライズタワーの工事現場。完成は来年(2007年)初めかな。タ
かつてここには鬱蒼とした森があったらしい。護国寺から池袋にかけてだが(グリーン大通りの「グリーン」は森からきているのかも)。
江戸時代には旗本中西氏の拝領地だったため中西の森と呼ばれ、明治時代からは東武鉄道を作った根津氏が買収したので根津山と呼ばれた。
おそらく大塚(現南大塚の南側、現大塚はもともと巣鴨)への鉄道の延伸のためだったと思われる。
しかし、例えば、目白駅の手前で山手線は駒込まで北東に進む予定だったが、反対運動のために池袋まで大回りせざるをえなかったことを考えると、東武東上線の池袋から先の延伸も無理だったと思われる。
また、大塚駅の設置も無理だったので現大塚駅(当時は巣鴨の村外れ)に移されている。
(そのわりに学習院大学はいとも簡単に移転してきているが)
この森の南側、神田川の北岸の台地は目白台(住所は目白、雑司が谷、目白台)であり、文京山の手に続く、今でもそうだが、豪邸街である。
そんなところに鉄道など、地下鉄にでもしないかぎり通るわけもないのだが。
そう考えるとこのグリーンベルトのような森は、池袋や現大塚などの湿地帯だった捨て地と山の手とを区分けしていた緩衝地帯だったのかもしれない。
ともあれ、その森が消え、高層住宅が建つわけだ。
(2006年8月記)

日暮里駅東口(ステーションガーデンタワー)

2007-01-16 20:47:57 | Weblog
日暮里駅の正面には、ステーションガーデンタワーの工事現場。
日暮里駅前の再開発で建つ3棟のビルのなかでは最高峰である。(最も低いビルはひぐらしの里西地区再開発ビルである)
再開発はビルの建築にとどまらない。新交通日暮里・舎人ライナーも来年(2008年)のはじめに開業予定となっている。
おそらく、新しいビルと交通機関はペデストリアンデッキで結ばれ、まさにどっかのおしゃれな郊外ニュータウンの駅前のようになる。
また交通機関は足立の取り残された地帯を通るので、沿線もニュータウンとして開発され、都心に比較的近いので、人気が出るかもしれない。
そうなれば、日暮里駅周辺の客層はがらりと変わってしまうだろう。
そして、昭和の遺物のような街並みも変わってしまうにちがいない。
何年か前の風景の記憶がよぎる。
焼鳥屋、居酒屋、スナック、そして古めかしい小さな雑居ビルたち。
何年も前から変わらぬ風景、ずっとこのままだと誰しも思っただろう。
足立区に行くには駅前からバスに乗るしかなく、そして、バスに乗りそびれて、ぼんやり次のバスを待っている。ふと気付く。時代に乗り遅れたこの街と重なるのだ。
時代に乗り遅れてもいいのかな。どうせ永久に時代についていくことなんて出来ない。
時代に乗り遅れてもいいのかな。砂埃の中、消えていく街並みを見ていると、そんな声がこだまのようにかすかに響いてくる。
でも、何年か前の風景は、もうここにはない。
やっぱり、時代に乗り遅れることは許されないのかもしれない。
(2006年8月記)

日暮里駅東口(ひぐらしの里北地区再開発ビル)

2007-01-15 06:31:28 | Weblog
新宿駅から埼京線、池袋で山手線。日暮里まで行く。
日暮里駅北口。ひぐらしの里北地区再開発ビルの工事現場。
山手線、および京浜東北線はこのあたりでは、西の台地と東の低地の間を走る。
だから、駅があると西口は山の手、東口は下町と対照的な風景となる。
ただし、西口のすぐ西側は不忍池から王子まで旧石神井川の谷筋が南北にある。
流路が変わった後も、谷筋を谷田川(下流は藍染川)という小川が流れていた。
したがって、不忍池から王子まで、千駄木だが、少し下町っぽいところがある。
しかし全般的には文京山の手といっていいだろう。
ここで例えば、日本橋、神田、日暮里、巣鴨あたりを下町とする場合があるが、これは城下町での下町、つまり、城=武士、下町=町人、という意味での下町と思われる。
この意味でいくと豪商の若旦那まで下町に含まれてしまうし、江戸時代ならそういう区分けも意味があったかもしれない。
だが、近代以降では、山の手に対する低地を下町とした方が圧倒的にリアルだ。
谷中ののんびりした雰囲気は決して下町とは思えない。
日暮里駅の西口には用はないので東口へ。
昔、東口へ階段を降りると、正面に広場、北側に飲食店街、そして南側にはもっとチープな飲食店街があったような記憶があるが。
今は一帯が再開発工事中になっている。
3棟の高層ビルが建つ予定だが、ひぐらしの里北地区再開発ビルもその1つである。
この再開発に先立って、南側、尾久橋通り沿いに日暮里アインスタワー、リーデンスタワー、と2棟の高層住宅が建っている。
東側にも人工の山の手が拡がり、日暮里駅を包み込んでしまうだろう。
(2006年8月記)

南新宿(小田急サザンタワー)

2007-01-14 00:00:45 | Weblog
南側にはJR東日本本社ビルと並ぶようにして小田急サザンタワーが聳える。
そして線路を挟んで東側には、タイムズスクエアビルA棟(新宿高島屋)がある。
昔、大新宿駅構想なる計画があって、それによると、代々木駅は新宿駅と一体になるらしかった。
たしかに、今でも代々木駅を降りて、西口に出て北に歩き、小田急線の踏み切り手前で階段を上がると、新宿駅南口のペデストリアンデッキ、サザンテラスに出てしまう。
小田急サザンタワーなら代々木駅のほうが近いかもしれない。
また、東側のビル群は代々木駅に近いどころか代々木駅にあるといってもいい。
しかし、代々木駅は、たとえば南新宿駅のような駅名にはならない。
小田急線も京王線も開通していなかったころ、代々木の最寄り駅は現代々木駅しかなかったからだ。つまり代々木のための駅だったのだ。
もっとも、位置的にみても、小田急線の南新宿駅と山手線の代々木駅は名前を交換したほうがいいかもしれない、と思ってしまう。
代々木のためには小田急線がある。
一方、西新宿高層ビル街も無制限に西へ拡大できるわけがないので、限界に達すれば、おそらく南新宿へ目を向けるだろう。大新宿駅構想の復活があるかもしれない。
そうなれば、やはり代々木駅は南新宿駅になるのだろうか。
(2006年8月記)

南新宿(JR東日本本社ビル)

2007-01-12 23:11:56 | Weblog
西武新宿線で新宿へ。
西口高層ビル街を横目で見ながら南へ歩く。甲州街道を渡り、新宿駅南口のペデストリアンデッキへ。
駅西側にJR東日本本社ビルが聳える。
西新宿の高層ビル街があるが、一応、新宿駅南口でひとまとまりのビル群となっている。
しかし、この新宿駅南口ビル群のビルは駅にぴったりと身をよせるように建つ。
駅の南西側は、すぐにその西側に代々木の住宅街が広がるからだが。
代々木の住宅街は文京山の手に次ぐ古い山の手住宅街である。
また、代々木といっても代々木公園や代々木上原から北に広がる台地を指していて、代々木駅周辺は、本来は千駄ヶ谷であるようだ。
そして、そのような山の手の周辺にビルが建っていき、代々木の山の手住宅街と新宿の繁華街とは隔絶される。
まるでシェルターのようだ。
最近のアメリカのゲーテッド・コミュニティ―になっていくのだろうか。
あるいはすでに巧妙なゲーテッド・コミュニティ―が出来上がっているのだろうか。
ペデストリアンデッキでは多くの人々が行きかい、たまにまぶしそうに高層ビルを見上げる。
高層ビルから見下ろされていることに気付き、すぐ視線を下に落とす。
空間、あるいは社会を隔絶している壁があることに気付く前に視線を落としてしまうのだ。
そして、行きかう人々の中に埋没してしまう。
(2006年8月記)

西五反田(DNP五反田ビル)

2007-01-11 23:29:36 | Weblog
品川駅に戻り再び山手線、五反田駅で降りる。
西口へ出て、山手線に沿って北西へ歩く。
首都高の高架の北側にDNP五反田ビル。
以前は、大日本印刷の工場だったが、いまでは大日本印刷のオフィス棟になっている。
目黒川沿いには、工場や施設が多くあったが、バブル以降、次々と高層ビルに置き換わっている。
とくにバブル崩壊以降、都心部への回帰として、その傾向が著しい。
その中で大日本印刷の工場もオフィス棟に変わったというわけだ。
また西側一帯、目黒川までは住宅棟がいくつか建ち並び、その中の1棟、ファミーユ西五反田東館は高層住宅となっている。
こうして下町的だったところが、いつしかきれいで静かなビル街になっていく。
特に五反田では、最近、大崎側から、あるいは目黒側からとビル化が進み挟み撃ちのような感じだ。
五反田という街は消えてしまうのだろうか。
たとえば、小さな店が寄り集まってラビリンスのような空間をつくっている場所が再開発で更地になってしまうと、非常に狭い空間だったことに驚かされることがある。
いわば実体のない意識の中の空間だったわけだ。
五反田は目白や大崎と違ってもともとの地名ではない。(駅近くの地元でも知られていないような場所の名前だったようだが、おそらくたんぼが多くあったのでその場所から取られた地名だろう)。つまり作られた地名といっていい。
だからこそ、人々の欲望を刺激し、妄想を肥大化させ、ありもしないごく個人的な桃源郷の居場所になりえたような気もする。
このままビル街に呑み込まれ消えてしまったとしても、夢からさめた、という感じしかないのかもしれない。
すっかりこぎれいになって、見通しよくなった街並みにあっては、猥雑なエネルギーに満ちた歓楽街にあったものは、また意識の中へと封じ込められていく。
(2006年8月記)

品川駅東口・港南(港南四丁目第3団地)

2007-01-10 21:02:01 | Weblog
水道橋駅に戻り総武線、秋葉原で山手線に乗換え品川まで行く。
東口へ出て、東へ、海岸通り近くまで歩く。
港南四丁目第3団地の工事現場。
港南地区に高層住宅が相次いで建っているが、このビルが最後である。
今のところ、他に高層住宅が建つ情報はない。
何年前のことだろうか、高浜運河を新港南橋で渡ると右手に団地があり、そして、通りに面して、昔の団地ならたいていそうなのだが、1階がお店で2階が住居といった、細長い棟が横たわっていた。
当時もまだ何軒か店を開いていたはずだ。
そのときでも、コンビニは24時間だし、スーパーの方が安くて品揃えも豊富なのだ。
それに、ここは港区なのに、なんで江東区か足立区みたいにレトロな店たちがあるのだろうか。
そうこうしているうちに背後の住宅棟は消え去り、なにもない原っぱが広がる。
でもまだまだ、倉庫や工場の従業員がお客になってくれるかな。
そう思っていると、今度は昔の団地よりはるかにでかい高層住宅がまわりに何棟も建ち始めた。
おやおや、これから忙しくなる、みんないなくなってしまったかと思っていたら、とんだ勘違いだった。また、昔みたいにお客が来てくれる。
でも、今回は、そんな古ぼけた店たちもきれいさっぱりなくなっていた。
その場所でいま工事中の港南四丁目第3団地の高層棟が完成すればほぼ港南の街づくりは完成する。
これが望んだ未来だったのかどうかわからないけど、また、以前のようにゆっくりと時間が流れていくかな。
(2006年8月記)

文京区春日(文京シビックセンター)

2007-01-09 22:47:55 | Weblog
秋葉原に戻り総武線、水道橋駅で降りる。
東口へ出て白山通りを北へ、そして東京ドームの北側へ。
文京シビックセンターが聳える。
バブル崩壊のころに竣工。したがって、できあがってみると非難轟々だったと記憶している。
もっとも、小石川後楽園と東京ドームのまわりを取り囲むように高層ビルは建ち並び、今も少しづつ増えている。そう考えると、いつかはある程度の規模の建築物は建ったと思うのだが。
この場所は、もともと西から神田川、北西から小石川が流れ込む沼沢地帯が広がっていた。
江戸時代に入り、徳川御三家の一つ水戸藩の上屋敷となる。
そして水戸光圀が庭園を完成させる。小石川後楽園である。
徳川将軍家から、このような捨て地を押し付けられたことに対する意趣返しのような気もするが、現在ならおそらく高層ビル街にするしかない土地だったはずだ。
もっとも実際、現在は何棟も建っていて、その1棟が文京シビックセンターなのだが。
その北側は、台地、文京山の手が広がる。
実は文京区の面積の大半はその山の手が占めているのだが。
そして、その山の手こそは、東京、あるいは日本でも最古参にして屈指の山の手住宅地なのだ。
その庁舎がこの巨大な威容を誇る、いや、異様なフォルムをもつ巨大建造物だったとしたら、近代以降の歴史に対するある種の、これも意趣返しなのだろうか。
(2006年8月記)

秋葉原(パークタワー秋葉原)

2007-01-08 18:13:09 | Weblog
駅の東側に出る。
完成間近のパークタワー秋葉原(工事中はこちら)がたつ。
秋葉原駅北東側、昭和通りとの間に同じ時期に建った高層ビルとしてはインテージ秋葉原ビルもあり、ヨドバシカメラもある。
どの街も同じだろうが、街は方角によってそれぞれ別の顔を持っている。
西側は、文京山の手、御茶ノ水、駿河台。
靖国通りを通って秋葉原に入ると、まずは大型の電気店ビルに入ることになる。
資金が潤沢と思われているのだろうか。
北西側、末広町方面は、活気のある下町(まっすぐ歩けばすぐ御徒町)。パソコンのパーツなどの小さなショップがたくさんあり賑やかだ。
南側は、下町、神田、そして、問屋街である。これからはなくなっていくかもしれないが、露天商のころの秋葉原の顔が見れる。
南東側、江戸時代、伝統の町である。ほとんど行ったことはないのでわからないが。
そして、北東側は、活気のない忘れ去られた下町、台東区である。
靖国通りからでないときは、たいてい日比谷線の駅から秋葉原に入るので北東側からとなる。
秋葉原の鬼門というわけではないけど、特に昭和通りと山手線の間はさびれた感じがしてなかなか好きだったのだが。
あたかも西側の山の手という太陽の光の影になった部分といえるかな。
しかし、最近、あっという間にヨドバシカメラができ、つくばエクスプレスの駅前広場ができ、そしていくつかの高層ビルが建ち並ぶ。
影がなくなったということは、秋葉原自身が光を放つ存在になったということだろうか。
(2006年8月記)

秋葉原(TOKYO TIMES TOWER)

2007-01-07 19:41:28 | Weblog
秋葉原クロスフィールドの北側には、高層住宅棟のTOKYO TIMES TOWERが聳える。
秋葉原クロスフィールドには、このTOKYO TIMES TOWER、秋葉原ダイビル、そして秋葉原UDXビルの3棟のビルがある。
江戸時代のことであるが、かつては、この場所で、火災が発生すると、北風でしばしば江戸の中心部へ燃え広がった。
そしてついに、明治時代に入り、火除け地(空地)にされ、さらに、火除けの神様ということで秋葉権現(本当は違ったらしいが)が建てられた。
秋葉権現の原っぱ、ということで秋葉原といつしか呼ばれるようになる。
上野から線路が伸びてくると、神田川が近くを流れていることで貨物の集積所となり、やがて市場ができ、問屋が集まるようになった。
戦後になって、現東京電機大学のまわりにあった学生相手の電気部品露天商たちが総武線の高架下に移されるのだが、これが電気街の始まりとなる。
高度成長期に入ると、電化製品が売れまくり、それまで電気部品屋が軒を連ねていただけだった秋葉原が、急成長し電気街の地位を不動のものとする。
そのころ、上野、浅草は逆に衰退していく。
バブルのころまでは、それなりに繁栄していたのだが、どうもそのころから、風向きが変わってくる。
つまり、郊外型の大型電気店の進出で秋葉原に行かなくても電化製品はもとよりパソコンなども入手できるようになってしまったからだ。
しかし、秋葉原は衰退しない。
バブル崩壊の後、失われた10年を経て、都心回帰、集積化という波に乗り、今やビルだらけとなる。
ところで、秋葉原の名前の由来となった秋葉権現はどうなったのだろう。秋葉権現というのは、本当は違ったのだが、今はちゃんと正式に秋葉神社となって、上野の東に移っている。
今度は、秋葉原が火災に巻き込まれないように守っているのだろうか。
(2006年8月記)