山形の過去、現在、未来

写真入りで山形の歴史、建物、風景を紹介し、併せて社会への提言も行う

炭焼藤太と金売吉次が通った道 ⑩

2009-01-16 23:07:55 | 郷土史
 またまた、かなりしばらくぶりでこのシリーズを再開することとなった。
 前回は11月26日だったから約50日ぶりのことになる。
 馬見ケ崎川扇状地の突端にある妙見堂の小丘を背にしてしばらく西の方向に歩くと、左手前方ににここがキリスト教小国とは思えぬ天を突くかのような尖塔が聳える教会堂(ただし牧師も信徒も居ない、ふだんはキリスト教などほとんど信じていないウエディング・クリスチャンだけが集う魂の無いチャペル)が見えてくる。
 この辺りからやや右手に歩を進めれば小白川街道、そしてやや左手に進めば千歳山の北の麓にある萬松寺の門前に至る。
 炭焼藤太の妻である豊丸姫が婚姻前にはるばる京都方面から出羽の国に入り、宝沢の里に向かう途中、恥川を渡って千歳山の麓を迂回したのと反対のコースになる。ただし、平安末期と思われるこの時代にはたして萬松寺がここと同じ場所に在ったかどうかはわからない。
 いずれにせよ萬松寺の門前辺りは近年まで熊野前と呼ばれていたから、熊野信仰と関係があるらしい。だが、現在は寺とも神道とも無関係なキリスト教もどきの西洋建築が天を突いている。炭焼藤太親子がこの光景を見たら何と思ったであろうか。[※この写真は3年前のものであり、現在このチャペルは白系の外壁に化粧直しされている。]

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すわっ! 大地に亀裂が・・・。安心なされ!

2009-01-14 23:17:17 | 風景
 高層ビルの展望室から見下ろしてみたら、広場な亀裂のようなものが三方に走っているではないか。なんとも不気味な光景に見えなくもない。
 だが、山形は安心安全の街。
 むろん、これは“大地の裂け目”ではない。
 機械力によって造られた道ではなく、人間の手作り、否、足作りによる道路である。
 最初にこの“雪原”に足を踏み入れた人が誰かは知らないが、その時ははっきりとした足跡が点線を形成していたであろう。
 その後、多くの人がここを歩くようになって、点線が実線になったのである。  それはそうと、こごはどごだべ?

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映画『嗚呼、満蒙開拓団』上映近し

2009-01-12 12:03:16 | イベント
 
 旧満州と言えば、何かと山形県とは縁が深い。
 石原莞爾や甘粕正彦という人物は好悪を別にして旧満州の歴史を語る上では欠かすことができないが、2人とも山形県出身であり、昨年11月下旬に山形で李香蘭・山口淑子主演の映画の特集上映会を開催したが、李香蘭時代の山口淑子さんは甘粕が理事長をやっていた時の看板女優であった。
 何と言っても旧満州(及び内蒙古)には開拓団員として長野県に次ぐ多数を送り込んだのが我が山形県なのである。
 だが、ソ連軍の侵攻により開拓団の多くが大変な悲惨な目に遭うことになる。
 このような労苦も長い年月の経過とともに忘れ去られようとしているが、女性ドキュメンタリー映画の草分けとも言うべき羽田澄子監督による映画が全国に先駆けて今月の24日~26日と山形市内で上映される。

 上の写真を二段式クリックすれば詳細がわかります。裏面も見られます。

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楽しめる渋滞といらつく渋滞

2009-01-10 23:57:55 | 街づくり

   ↑ クリックにより写真画面拡大

今日は山形市に400年前から伝わる旧の初市
 旧市街地の七日町から本町、そして十日町の大通りの1km以上に露店が並び、大勢の人たちで賑わった。
 しかし、昨夜から降り続いていた雪もここではほとんど目につかないまでに消え失せており、かつての雪の中の初市というような、いかにも雪国の真冬の行事らしさの情緒は味わえなかった。
 この日はほぼ一日この大通りは車の通行は不可能で、文字通りの歩行者天国(ホコテン)になる。しかもかなりの人出で、歩行でも渋滞の状態だ。
 でも歩行者たちはこの大渋滞をむしろ楽しんでいるかのようである。
 とかく人間には人混みを楽しむ傾向があるようだ。人混みがと賑やかさなければ華やかな気分が味わえないからだ。
 でも下の写真のような渋滞を楽しむ者はまず居ないであろう。
 今なお相次ぐ公共事業としての道路新設や道路拡幅はほとんどの場合クルマ通行における渋滞解消を口実に施行されるからである。
 道路を人間本位の道路として歩行者で溢れる道路にするのが行政の仕事なのか、それともクルマ離れの現在もなおクルマの渋滞を解消するのが行政の仕事なのか、道路行政の見直しをすべき時ではないだろうか。
 ◎真ん中の写真左から、団子木、山形の郊外で生産されるウス、縁起ダルマ、「山形の市の発祥碑と神輿」

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ワークシェアの米沢・上杉藩

2009-01-08 23:47:16 | 郷土史
 派遣社員など非正規労働者の問答無用の解雇が吹き荒れている。
 民主国家の中で勤労者の生存権まで脅かす行為が許されてよいものなのか。
 ところが殺戮が相次いだ武士の時代のさ中でも、徳川家康によって石高を大いに減額されたにも拘わらず配下の武士たちの大量リストラをせずに、自らの禄高を大いに削減して武士たちに分け与え、日常は農耕にいそしむよう指導した武将がいた。
 その名こそ直江兼続である。
 関ヶ原で東西両軍が激突していた頃、彼が率いる2万の上杉軍は最上義光の居城の山形城を攻撃しようとして山形盆地になだれこみ、山形城の支城の長谷堂城の攻略に手間取っているうちに西軍敗北の報が届き、軍を領地の米沢に引き返した。
 直江兼続は上杉景勝の重臣であったが、上杉の領地の120万石は大きく削られてわずか30万石にさせられた。
 そこで多くの武士を抱えていた上杉藩は武士の数を約四分の一に減らさねばならないことになったが、直江を始めとする上級武士たちは自分の禄高を大幅に削減して下位の武士たちに分け与えるとともに武士とて質素で額に汗をかく生活を心がけるようになった。
◎写真 農耕生活をやった米沢武士の住宅(いわば屯田兵であった。31年前の写真) 現在はこのような住宅は多くが消滅。でも「うこぎ」の生垣は数多く維持されている。
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直江兼続、履中天皇、最上義光

2009-01-06 19:08:25 | 郷土史
 大河ドラマ『天地人』がスタートしたばかりだが、上の写真のうちいずれかが舞台として現れるのは恐らく10月以降のことであろう。
 ただし主人公の直江兼続の居城ではない。
 直江が率いる軍勢が攻撃しようとしたものの落城しなかった山城である。
 そして、去年の12月上旬に訪れた大阪府堺市にある巨大古墳も現在は山城の史跡のように見える。ただし「民のカマドは・・・」と申した天皇の陵墓ではない。
 また、かつて織田藩の城下町で将棋の駒の生産で有名にして、男女2人のクリハラ(※注)で有名な小都市の旧山城は織田藩の居城ではない。織田氏の居城はこの旧山城のすぐ麓に造成されていた。つまり、この天然の要塞は山形城主最上義光によって 破却され、山城として使えなくされたからである。
 しかし、天下の名将の直江兼続すら落とせなかった城もあったのである。
 それにしても、上の三つの写真はよく似ているものだ。
(※注:天童市は広島カープの栗原健太選手の出身地、バレーボールの栗原恵選手が所属するパイオニアの所在地)
◎写真説明「上」山形市西南部の長谷堂城跡(今月3日の写真参照)この山城に向かって進撃する上杉軍に対して最上軍は山城から鉄砲で狙い撃ちした 「中」履中天皇陵 仁徳天皇陵の近くにある 「下」天童市の舞鶴山 天童氏の居城であったが、最上義光軍の攻撃により落城、破却された 今は人間将棋の会場  後に織田信長の子孫が天童藩主として天童に入部したが麓の平城を居城とした

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奥羽の関ヶ原は今、雪ヶ原

2009-01-03 21:04:23 | 郷土史

 いよいよ明日からNHK大河ドラマ『天地人』の放映が始まる。
 妻夫木聡が演ずる主人公の直江兼続が主君の上杉景勝から米沢盆地の統治を任され、また関ヶ原の戦いの際は山形盆地を攻略して山形城主最上義光と戦ったということから、山形県や米沢市、そして山形市は「天地人」効果を狙っての観光キャンペーンに力を入れているものの、ドラマの舞台の山形県入りはだいぶ後のことであろう。
 直江兼続が率いる2万人余の軍勢を迎撃した最上義光の配役すら未定のままの放映スタートである。
「奥羽の関ヶ原」と言われる一連の戦いの中で、緒戦が行われた畑谷城跡方面や長谷堂城跡、上杉軍の陣営が置かれた菅沢台地、関ヶ原での西軍の敗北を知らされて引き返す上杉軍を最上軍が激しく追撃した富神山方面などを山形駅西の高層ビル(※)の展望室から一望してみたが、最も多数の戦死者が出たと言われる長谷堂城北の平地は一面に雪でおおわれているのが見えた。(※ここもかつては山形城三の丸の内側)
◎写真「上」右手の雪原が上杉軍と最上軍との古戦場 真ん中の黒い部分が長谷堂城跡(山形城の出城)「下左」山形駅改札口付近の通路に並ぶ「天地人」の旗 向こうに来期からJ1入りしたモンテディオ山形の垂れ幕 「下右」追撃戦の号令をかける最上義光の騎馬像(山形城跡内) ↑ 写真をクリックにより画面拡大

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国宝「吉祥天女画像」はちょっぴり山形美人

2009-01-01 21:43:39 | 郷土史
 謹んで新年のお慶びを申し上げます。
 今日1月1日から15日まで奈良西ノ京薬師寺で特別開扉されている国宝の「吉祥天女画像」は聖武天皇妃の光明皇后を描いたものとする説もあるくらいだが、この補彩修理には山形市出身の日本画家(画伯、故人)KK氏がかかわっている。
 氏はその他、安芸の宮島にある厳島神社の国宝「平家納経」なども補彩修理しているほか、法隆寺金堂正面壁画を焼失前に委嘱により模写している。
 氏は確かに京都在住が長いが、やはり山形出身ということもあり、彼により化粧直しを施された天平美人たる吉祥天女はどこかしら山形美人に見えないこともない。
 そういえば、光明皇后は民衆の医療等にも尽力したというが、山形女性にもよく夫に尽くし人に尽くすタイプが多いとも言われている。
 女性に限らず、政治家、公務員、実業界の男性たちも誠心から社会や人に尽くそうとするなら、不況克服や温暖化抑制も夢ではないような気がする。
 「吉」と「祥」という文字だけでなく、ふくよかな容姿はまさに「福」を呼ぶようにも思える。
 
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