山形の過去、現在、未来

写真入りで山形の歴史、建物、風景を紹介し、併せて社会への提言も行う

ワークシェアの米沢・上杉藩

2009-01-08 23:47:16 | 郷土史
 派遣社員など非正規労働者の問答無用の解雇が吹き荒れている。
 民主国家の中で勤労者の生存権まで脅かす行為が許されてよいものなのか。
 ところが殺戮が相次いだ武士の時代のさ中でも、徳川家康によって石高を大いに減額されたにも拘わらず配下の武士たちの大量リストラをせずに、自らの禄高を大いに削減して武士たちに分け与え、日常は農耕にいそしむよう指導した武将がいた。
 その名こそ直江兼続である。
 関ヶ原で東西両軍が激突していた頃、彼が率いる2万の上杉軍は最上義光の居城の山形城を攻撃しようとして山形盆地になだれこみ、山形城の支城の長谷堂城の攻略に手間取っているうちに西軍敗北の報が届き、軍を領地の米沢に引き返した。
 直江兼続は上杉景勝の重臣であったが、上杉の領地の120万石は大きく削られてわずか30万石にさせられた。
 そこで多くの武士を抱えていた上杉藩は武士の数を約四分の一に減らさねばならないことになったが、直江を始めとする上級武士たちは自分の禄高を大幅に削減して下位の武士たちに分け与えるとともに武士とて質素で額に汗をかく生活を心がけるようになった。
◎写真 農耕生活をやった米沢武士の住宅(いわば屯田兵であった。31年前の写真) 現在はこのような住宅は多くが消滅。でも「うこぎ」の生垣は数多く維持されている。
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