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57万石の最上氏が改易により山形から去って以降22万石から5万石の中小大名の左遷地に堕した感のある山形藩にこれほど壮大で優美な池泉回遊式庭園を備えた大寺院が維持されてきたとは驚きである。
その大寺院とは山形地方の真言宗の触頭(統括寺院)であった宝幢寺であるが、神仏混淆の寺院であつたために明治維新政府の神仏分離令により住職が神職を選択し、廃寺となった。
以後、現在の公園敷地(茶室等の建物を含む)の約10倍もあった境内や付属樹林・農地の大半が切り売りされ、本堂を始めとする多くの寺院施設も解体され(※下記参照)、庭園と庫裡を残すのみとなり、昭和20年代後半に山形市に移管されるまで荒廃の一途を辿るのみとなっていた。
それでも宝幢寺という名は戦後もしばらくまで市街地図の表記などに使用されていた。
藩政時代の寺領の石高(幕府つまり徳川将軍により承認されたいわゆる朱印高)は1370石というから京都の大寺院なみの財政力である。
この宝幢寺は公的性格を持つ寺院として国家鎮護と藩の繁栄・安寧を祈願するのが主たる任務の寺院であったから、歴代藩主による支援が続き、宏大な庭園は藩主松平氏により寄進されたとされている。
しかし、松平下総守が寄進者だったとしても藩主としての石高はわずか15万石で、後の松平大和守の場合は更に減って10万石でしかなかった。
いわば既に中小大名でしかなかった彼らにあれほど宏大で優美な庭園の作庭を支援(寄進)できたとは考えにくい。
また、市内薬師町にある薬師堂は明治末に解体された旧宝幢寺の本堂が移築されたもので、その巨大さに圧倒されるが、宝幢寺の境内にはその他にも大きな建物が甍を並べていたことを考えると、庭園を含めた寺院全体の維持のための財政支出は膨大であったと思われる。
しかも、松平氏以降の山形藩の石高は更に縮小されて最後の水野氏の時は5万石になっていた。
城郭と殿館はむろん家臣住居の維持や補修もほとんどできない中で宝幢寺に藩主だけが支援するのは不可能であったはずである。
つまりは藩主だけが支援したというのではなく、山形藩の近辺の幕領や山形を去った大名の飛び地(陣屋が管理)、更には城下の豪商らによる支援もあったと考えられるのではないか。
いわば宝幢寺は山形地方全体の共有財産であったのである。
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旧宝幢寺庭園(もみじ公園)は現在山形市随一の紅葉の名所として市民に親しまれているが、雪景色の眺めもなかなかである。
◆下の写真は清風荘(旧庫裡 国の登録文化財)の広縁の窓越しに眺めた庭園
もみじ公園懐かしいですね。多分30年ぐらい行ってません。
小学校の時の通学路でしたので、道草は当然。
冬は池の氷を雪玉で割ったり、夏はヒルに血を吸われたり、池の周りを巡ったりしていました。
ゆっくりと茶の湯でも嗜みたい年になりましたので、訪れて見たいものです。
私は一小卒です。
もみじ公園のすぐ西北に瀟洒な洋館がありました。
旧制山形高校のドイツ人教授の宿舎でした。
彼ももみじ公園の紅葉を楽しんだのでしょうね、
Homeさんも是非錦秋の旧宝幢寺庭園を楽しんでください。