らいちゃんの家庭菜園日記

家庭菜園、家庭果樹栽培及び雑学日記

こけしの由来

2023-03-11 | 雑学

先日のNHKニュースで、京都市の東本願寺の前に、長さが12メートルもある大きな「こけし」をかたどったアート作品が展示されたと紹介していました。
この作品は、大阪市に住む男性2人組のアートユニット、「Yotta」が、京都市下京区の東本願寺の御影堂門の前に展示したもので、訪れた人たちの注目を集めています。
こけしの名前は花子と言い、東北地方のこけしを参考に作られたそうです。

防水加工した厚手の生地を空気で膨らませた、この「こけし」は、微笑みを浮かべながら横たわっており、こけしからは「ゆっくりしていってね!」といった音声も流れ、訪れた人たちは驚いたり、写真に撮ったりして、楽しんでいるようです。
この巨大こけしは、明日12日まで展示されます。

・長さが12メートルもある大きな「こけし」の花子です。


ところで、私たちには馴染み深い「こけし」にはどのような意味があるのでしょうか?

「こけしの由来」
こけしとは、東北地方に共通する名産品で郷土玩具です。
ろくろで挽いて作った木製の人形玩具に、一般的には丸い頭部に顔が書き入れられ、手足はなく円筒状の胴というシンプルな姿をしていますが、その由来には諸説あります。
その一つとして考えられているのは、仏像が変化したものではないかという説です。
他には、木地師(きじし)と呼ばれる木工職人たちが、山の神信仰をもとにしてこけしを作ったのが由来だとする説もあります。
更に、山間部で冬の仕事がないときに、ミズキやケヤキ、桜などの木材を加工して赤ん坊や幼児が握りやすい太さのこけしを作り、おしゃぶりやおもちゃとして与えたとする説などがあります。

「名前の由来」
こけしが誕生した当初は共通の名称はなく、木で作ったから「きでこ」、芥子(けし)人形からきた「こげす」、魔除けの人形這子(ほうこ)からきた「きぼこ」など、各地で異なる名前で呼ばれていました。
漢字では、木を削ってできたから「木削子(こげし)」と表記されたり、江戸時代の男児や女児たちの髪型、芥子坊主(けしぼうす)に似ていたから「小芥子(こけし)」と表記されたりしていました。

しかし、あまりにも名称が多過ぎてそれでは不便だということで、1940年(昭和15年)にこけし工人(職人)や愛好家などの関係者が集い「こけし」とひらがな3文字に統一することが決められたという事です。

こけしは、お土産や縁起物として全国に広まった東北地方を代表する伝統工芸品です。
東北方面にご旅行された時は、お土産に「こけし」を検討されては如何でしょうか?

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クレープの由来

2023-03-09 | 雑学

今日3月9日は「クレープの日」だそうです。
なぜ、クレープの日なのか? その理由を調べてみました。

「クレープの日」
その理由はクレープを上から見たら、数字の「9」に見えることや「クレープをもっと身近なおやつにしたい」という思いから、スイーツの製造販売会社である「株式会社モンテール」が日本記念日協会に申請し『毎月"9"のつく日はクレープの日』として認定を受けました。
「9」のつく日は9日以外にも19日、29日があり、更に毎月この3日はクレープの日になります。
語呂合わせから定められた記念日はたくさんありますが、「クレープの日」のように見た目から定められた記念日は稀だと思います。

「ガレットからクレープへ」
・ガレット
クレープの原型は13世紀頃のフランス北西部のブルターニュ地方が発祥の地方料理「ガレット」、というのが通説になっています。
ブルターニュ地方は土地が痩せていて、気候も冷涼であるため、小麦の栽培が困難でそばが常食とされていました。
蕎麦をそば粥やそばがきにして食べていた時、そば粥を偶然焼けた石の上に落としたところ薄いパン状に焼きあがる事を発見し、そば粉を焼いてパン代わりに食べるようになりました。
石で焼いた事からフランス語で小石を意味するガレ(galet)にちなんで「ガレット」と名づけられたと言われています。

そば粉は次第に小麦粉に代わり、16世紀頃から2月2日に行われているキリスト教の行事の「聖母マリア清めの日」では、今と同じクレープを食べて、その年の幸運を願っていたそうです。

・クレープ
その後、スペイン王フィリップ3世の長女でルイ13世の妻であったアン王女が、ルイ13世に伴われてブルターニュ地方へ狩りに訪れた際、現地の庶民が食べていたガレットを偶然口にして気に入り、宮廷料理に取り入れたといわれています。
生地はそば粉から小麦粉へ変更され、粉と水と塩のみであった生地に牛乳やバター、卵、砂糖などが加えられるように変化していきました。
名称も焼いた際にできるこげ模様が縮緬を連想させる事からクレープと呼ばれるようになったということです。



「日本のクレープ」
日本では70年代に東京・原宿に専門店がオープンして話題になり、クレープは原宿の象徴的な存在になっています。
クレープの種類は、主原料の違いで2種類あって、
・小麦粉を使っているものがいわゆる「クレープ」。
・そば粉を使っているものが「ガレット」です。

しかし、日本では「ガレット」と言っても全員が知っているわけではないので、「そば粉のクレープ」という表現をすることが多く、日本でのクレープは、小麦粉の生地を丸く焼き、生クリームやアイス、フルーツ、チョコレートソースなどをトッピングして、くるくると巻いたものが一般的となっています。

私の住まいしている住宅地内でも、クレープ設備を備えた自動車を自宅前においてクレープを販売している人がいますが、学生や近所の人たちがよく利用しています。
クレープは人気のある食べ物のようですね。

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水戸の少年が発案した「オセロ」ゲーム

2023-03-07 | 雑学

都道府県の魅力度を測る調査に「地域ブランド調査」という指標があります。
2021年度の都道府県魅力度ランキングで最下位だった茨城県が、2022年度調査では最下位を脱出して46位になりました。
茨城県の皆様よかったですね。
最下位脱出おめでとうございます。

「都道府県魅力度ランキング」(下記ランキング表をご参照ください)
この調査は民間の調査会社「ブランド総合研究所」が発表している自治体別の魅力度ランキングで、インターネットを通じて「地域ブランド調査」を行っているものです。
全国の1000市区町村と47都道府県について、各地域の全国的な認知やイメージ形成などを明らかにすることが目的で、各地域の認知度や魅力度、訪問経験、観光意欲度、居住意欲度など89項目について調査しているもので、2022年度のランキングは以下の通りです。

しかし、このランキングは僅か3万5000人ほどの回答者の集計であり、その人たちの主観によって大きく左右されることから、順位に一喜一憂することはないと思いますが、でも下位にランクされている自治体関係者は辛いかも知れませんね。


都道府県魅力度ランキングでは下位に低迷している茨城県ですが、茨城県には、長谷川五郎さんという素晴らしい方がいらっしゃいます。
この方は、今では世界で6億人もの人がプレイしている「オセロ」ゲームを発案された人なのです。
茨城県の皆さん堂々と胸を張って自慢してください。

「オセロゲームの発案」
1945年(昭和20年)9月、当時水戸市の中学生だった長谷川五郎氏が、碁石で相手の石を挟んで取る「ハサミ碁」という遊びからオセロの原形を考案しました。
当時は、第2次世界大戦の終戦直後で、友だちと遊ぶためのゲームはほとんどありませんでした。
そんな時、長谷川五郎さんは、囲碁の黒と白の石を使って、相手の石をはさんだら取るというゲームを思いついたのです。

囲碁の石を使ってオセロの原型が生まれたあと、長谷川五郎さんは飲んだ牛乳ビンのフタを利用して、オセロの石を作りました。
今の学校給食は牛乳パックになっていますが、当時は牛乳といえばビンであり、フタはプラスチックではなく紙でした。
牛乳ビンのフタとオセロの石を比べると、サイズがぴったり合います
戦災で校舎が全焼して青空授業が行われていた学校で、10分間の休み時間内に決着がつくゲームとして生徒のあいだで人気になりました。

「ゲームボード オセロの誕生」
その後、会社勤めをしていた長谷川氏でしたが、かつて生み出した遊びを思い出し、牛乳びんのフタで石をつくって試作品を玩具メーカーに持ち込みました。
その企画がとおり、1973年4月29日に「オセロ」という登録商標で販売されたのが、ボードゲーム・オセロの正式デビューになります。
発売されるやいなや、人気はみるみる広まり、空前の大ヒットを記録しました。
牛乳びんのフタとほぼ同じ直径34.5mmのオセロ石は、発売当初から変わらないオセロ石の公式規格になっています。



「名前の由来」
オセロという名前は、シェイクスピアの四大悲劇のひとつ「オセロ」が由来です。
黒人の将軍・オセロと白人の妻・デズデモーナを中心に、敵味方がめまぐるしく寝返るというストーリーに、黒白の石がひっくり返りながら形勢が次々変わっていくゲーム性をなぞらえて命名されたのだそうです。
そして、緑の盤面は、戯曲「オセロ」の戦いの舞台、緑の平原をイメージしてつくられたと言われています。

現在はテレビゲームやスマホでのゲームをする人が殆どですが、半世紀ほど前には将棋や囲碁、オセロゲームなどが流行ったものです。
日本発祥のオセロゲームは世界に約6億人の愛好者がいると言われています。
茨城県の長谷川五郎さんは凄いゲームを発案されましたね。

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およげたい焼きくん

2023-03-05 | ナツメロ

庶民の味として人気がある食べ物に「たい焼き」があります。
「たい焼き」は鯛を形とった金属製の焼き型で焼いて作られる、餡が入った小麦粉主体の和菓子です。
この「たい焼き」、誕生は意外と古く、その起源は明治時代なのだそうです。

「たい焼きの起源」
たい焼きの起源は1909年(明治42年)創業の浪花家総本店の初代神戸(かんべ)清次郎が創作したのが始まりだそうです。
神戸市から上京した神戸清次郎・源次郎兄弟は丸くない今川焼の販売を始めました。
ところが一向に売れません。
「鯛」や亀の形をした「亀焼き」、動物、飛行船と言った様々な形を焼きましたが芳しくありません。
その中で、売り上げが飛びぬけてよかったのが「たい焼き」で、次第にこれに一本化していったということです。

「たい焼きが売れた理由」
・タイはめでたい縁起物で庶民には贅沢品だったこと。
・本物のタイは庶民の口になかなか入らない高級品であり、似たものを手ごろな価格で食べられること。
などが人気の要因ではないかという事です。



「およげたいやきくん」
「たい焼き」と言えば、この歌ご記憶していることと思います。
そうです。「およげ!たいやきくん」です。
1975年(昭和50年)12月に子門真人が歌って大ヒットしました。
この歌は初登場から11週連続で1位を記録し、更にトータル売上は453.6万枚に達した歌で、「日本の最も売れたシングル・レコード」としてギネス世界記録にも認定されました。

そこで、今日は子門真人の「およげたいやきくん」をお聴きいただきたいと思います。
                    およげ!たいやきくん / 子門真人


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「ひな祭り」「上巳の節句」の由来

2023-03-03 | 季節

今日3月3日は「ひな祭り」で、五節句の一つ「上巳の節句」です。
「桃の節句」とも言います。

節句とは、「季節の節目となる日」のことを言います。
もともと奈良時代頃に中国から伝えられた「陰陽五行説」が由来とされており、古くから年中行事を行う節目として大切に扱われてきました。
中国から伝来した当初はたくさんの節句がありましたが、日本の文化や生活と混ざり合うなかで少しずつ減少していきました。
そして江戸時代になって、幕府が特に重要な節句を公式の祝日に制定したことが、現代に伝わる「五節句」のルーツです。
五節句とは次の五つの節句を言います。
「五節句」
・1月7日・・・人日の節句(七草の節句)
・3月3日・・・上巳の節句(桃の節句)
・5月5日・・・端午の節句(菖蒲の節句)
・7月7日・・・七夕の節句(星まつり)
・9月9日・・・重陽の節句(菊の節句)

「上巳の節句の由来」
上巳の節句は、古代中国で旧暦3月の最初の巳の日である上巳(じょうし)の日に行われていたことが由来とされています。
巳(へび)は脱皮をして生まれ変わることから、穢れを祓い清める行事とされていました。
また、この時期は桃の花が咲く時期と重なることから、「桃の節句」とも呼ばれています。

「上巳とは」
なお、上巳とは、旧暦3月の最初の巳(み)の日のことです。
西暦300年頃の古代中国では上巳は忌むべき日で、「上巳節」と言って川辺で厄払いを行う日でした。
上巳が忌むべき日とされたのは、漢の時代(前220~206年)の次のような言い伝えからです。

徐肇(じょちょう)という男性のところに三つ子の女の子が生まれました。
しかし、誕生から三日後に三人とも亡くなりました。
人々は「これは何かの祟りだ」と恐れ、川で水浴をして禊をしました。この日が3月最初の巳の日だったため「上巳節」という厄払いや禊を行う日になったと言われています。

「日本における上巳節」
この上巳節が遣唐使によって日本に伝えられました。
最初は厄払いが行われましたが、平安時代になると上巳の節会と呼ばれる宴会が行われるようになりました。
上巳の節会では、水の流れのある場所で盃を流し、自分の前を通り過ぎるまでに歌を詠んで酒を飲む「曲水の宴」が行われたり、人形(ひとがた)で自分の身体を撫でて穢れを移し、川や海へ流しました。
その名残りが「流し雛」です。



「ひな祭りの由来」
ひな祭りは、古代中国の「川で身を清めて邪気を払う上巳節」が日本に伝わって、日本古来の「人形(ひとがた)流し」という厄払いの風習と結びつき、さらにそれが平安時代の貴族の遊びである「ひいな遊び」と組み合わさって、徐々に今のような形になったといわれています。 
因みに、当初は3月に入って最初の巳の日に行われていた上巳節は、3世紀ごろ3月3日に固定されました。

江戸時代になると、上巳の節句には、これまで行われていた流し雛に変わり雛人形を飾る風習が根付いていきます。
雛人形には厄災を人に変わって引き受ける人形(ひとがた)の役割があったため、女児の健やかな成長や幸せを願う日となったと言われています。

今日は桃の節句ですが、我が家の桃の蕾は未だ固く、開花はまだ2~3週間ほど先になりそうです。
桃が咲けば次は桜の開花が控えています。
いよいよ心が弾む本格的な春が近付いてきましたね。

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イチゴの追肥とマルチ張り

2023-03-01 | 家庭菜園

今年も、私の家庭菜園におけるイチゴの追肥とマルチ張りの時期となりました。
私のイチゴ栽培では毎年2月下旬の新芽が伸び始める前に追肥を行い、一雨あてた後にマルチ張りを行っています。
この時期に追肥をするのは、途中での追肥が困難な事と、4~5年前に菜園仲間に「美味しくないね」と厳しい評価をもらったことがきっかけとなって、この方法を続けています。
この方法を始めて以降、美味しいイチゴが収穫できるようになり、厳しい評価をくれた菜園仲間も及第点をくれました。
今日は、イチゴの追肥とマルチ張りについてご紹介します。

1.追加する肥料
イチゴの畝には、既に昨年の定植前に元肥として堆肥や砂状ようりん等を鋤き込んでいますが、今回、更に高級有機配合肥料、砂状ようりん、化成肥料(8-8-8)の3種類の肥料を施しました。
これらの肥料を追肥することによって美味しいイチゴが収穫できるようになったのです。
菜園仲間も「美味しい」と言ってくれるし、実際、1パック300円~400円くらいの普及品イチゴと比べても、我が家のイチゴの方が優っているのが実感できます。



2.「施肥と混和」
追肥の方法は以下の通りです。
イチゴの株を囲うように株から10㎝ほどのところに施肥用の溝を掘ります。
その溝に3種類の肥料を施し、園芸用の小手鍬でよく混和します。
その後、イチゴの株にかかった土を刷毛で掃うと共に古い葉を取り除きながら畝を作り直しました。



3.「畝の作り直し」
下の画像はイチゴの株に付いた土を掃い、古い葉を取り除いて作り直した畝です。
既に花が咲いた株もたくさんありますが、今咲いている花は、寒さのため花の中心部が黒く枯れているので、それらを全て取り除きます。
この作業を6畝、168株に行いました。



4.「追肥完了」

6畝(168株)のすべてに追肥を行い、畝を作り直した後、各株に水遣りをしました。
更に、一雨降って畝を湿らせた後、銀マルチを張ります。
今年は追肥が完了した翌々日に雨が降ったので、その翌日に銀マルチを張りました。



5.「アブラムシ防除」
銀マルチは昨年から使用しています。
アブラムシは光を反射するものを嫌うと聞いていたので、銀マルチを使用しているのですが、効果は限定的でした。
銀マルチでアブラムシを完全に防除するのは困難です。
矢張り、早めの農薬散布が必要です。確実に防除できます。

6.「銀色のマルチ張り」
1列の畝全体を覆うように銀マルチを張ります。
株があるところは上が膨らむので、その場所をカッターで十文字に切り、葉っぱを引き出します。
1畝、28株の全てが完了すると、マルチが飛ばないように周りを土で押えます。



6畝すべての銀マルチ張りが完了したイチゴの畝です。
昨日、古い葉を取り除いていたところ、葉の裏に既にアブラムシが付いている株が数株見つかったので、殺虫剤を噴霧して防除しておきました。



この後アーチ支柱を設置してビニールトンネルを作ります。
順調に育てば4月下旬頃から熟れ始めるものと思います。

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