らいちゃんの家庭菜園日記

家庭菜園、家庭果樹栽培及び雑学日記

エルトゥールル号遭難事件

2019-09-20 | 時事

今年は(9月16日)トルコと日本の友情の礎となったエルトゥールル号の遭難事件から129年目にあたります。

日本では「エルトゥールル号の遭難」と言ってもご存じない方が多いかも知れません。
ところがトルコではこの事件のことを学校で教えていることから、子供から大人に至るまでよく知っており、国民の皆さんはいたって親日的です。

そこで今日は「エルトゥールル号遭難事件」と、それに対する「トルコの恩返し」について、その概略をご紹介します。
記事が少し長くなりますが、最後まで目を通していただければ幸いです。

エルトゥールル号遭難事件は、1890年(明治23年)9月に和歌山県串本町沖でオスマン帝国(現トルコ)のフリゲート艦「エルトゥールル号」が沈没し、587人が亡くなった海難事故です。

「エルトゥールル号遭難事件の概略」
オスマン帝国(現在トルコ)の木造フリゲート艦エルトゥールル号は、日本の皇族、小松宮ご夫妻(明治天皇の甥)のイスタンブール訪問に応えるためと、両国の友好関係の発展と相互理解を期待して派遣された艦船で、1889年(明治22年)7月、イスタンブールから11ケ月をかけ、1890年(明治23年)6月に日本に到着しました。
一行は皇帝親書を明治天皇に奉呈し、オスマン帝国最初の親善訪日使節団として歓迎を受けました。

そして3ヶ月余後の1890年(明治23年)9月16日、帰路についたエルトゥールル号が当日の夜半、和歌山県串本町大島の樫野崎付近にさしかかった時、折からの台風による強風にあおられて岩礁に激突しました。
座礁したエルトゥールル号は機関部が浸水して水蒸気爆発を起こして沈没し、司令官オスマン・パシャを始めとする乗組員587名が死亡または行方不明となる大惨事となったのです。

このとき、樫野崎灯台下に流れ着いた生存者は、十数メートルの断崖を這い上って灯台守に遭難を知らせました。
灯台守から通報を受けた大島村(現串本町)樫野の住民たちは総出で救助と生存者の介抱にあたりました。
漁業で生計をたてている村人たちは貧しい生活をしており、台風で出漁できず、食料の蓄えも僅かでしたが、それにもかかわらず、住民は浴衣などの衣類、卵やサツマイモ、それに非常用のニワトリにいたるまで供給するなどして、献身的に生存者たちの回復に努めました。
この結果、収容された69名が救出され生還することが出来たのです。

遭難の翌朝、事件は樫野の区長から大島町長に伝えられ、町長は神戸港の外国領事館に救助を求めて生存者を神戸の病院に搬送させるよう手配すると共に、県を通じて日本政府に通報しました。
知らせを聞いた明治天皇はこの遭難に大いに心を痛め、政府として可能な限りの援助を行うよう指示したと伝えられています。

こうして遭難者に対する支援が政府をあげて行われ、10月5日に品川港から出航した日本海軍の「比叡」「金剛」2隻により、生存者たちは翌1891年(明治24年)1月2日にオスマン帝国の首都イスタンブールに送り届けられました。

エルトゥールル号遭難事件はオスマン帝国に大きな衝撃を呼びましたが、新聞を通じて大島島民による救助活動や日本政府の尽力が伝えられ、当時のトルコの人々は、遠い異国の日本と日本人に対して好印象を抱いたといわれています。

 ・トルコ軍艦遭難慰霊碑です。 (2015年10月撮影)


「トルコの恩返し」
この海難事件から95年後の1985年(昭和60年)、イラン・イラク戦争勃発時、イラクのサダム・フセインが、「40時間後、イラン上空の航空機を無差別に攻撃する」という布告を行いました。
これを聞いてイランにいた外国人達は全員イランからの脱出を試みることになり、各国が迎えの航空機をよこす中、日本は憲法9条が仇となり、救出のための自衛隊を送り込めませんでした。

更に、民間航空会社もイラン・イラクの情勢が安全とされるまで航空機は出せないとして救出のための飛行機を飛ばすことができませんでした。
そこで、政府は
各国に救援を要請したものの、どこの国も自国民の救助で手一杯となっており、とても外国人を乗せる余裕はありません。
この様な事情から、イランに取り残された邦人約250名は、刻一刻と迫る刻限の時を、絶望とともに迎えようとしていました。

しかし、イラン駐在の野村豊大使は最後まで他国の大使館に要請を送り続けました。
そして、トルコ大使館に辿り着き、救援の要請をしたところ、トルコ大使館の当時の大使イスメット・ビルセル氏は、
「わかりました、ただちに本国に救援を求めて救援機を派遣させます。かつてのエルトゥールル号の事故で日本の方々がしてくださった献身的な救助活動を、今も我々は忘れてはいません」 
と答えて、要請を快諾してくれたのです。

この時、トルコ政府はトルコ航空の救援機の最終便を2便も増やし、自国民よりも日本人を優先的に乗せてくれたと言われています。
それはタイムリミットまで1時間15分に迫った時のことでした。
自国民より日本人を優先して救助してくれたトルコ政府のおかげで、日本人250人は全員無事に避難できたのです。

事情を知らない日本のマスコミは一様に「なぜトルコが?」と首を掲げていたようです。
左系の某新聞に至っては、「日本が対トルコ経済援助を強化しているからでは」とか、「これで恩を売った事にする気ってことか」などと的外れな報道をしていたということです。

1992年から '96年まで駐日大使を務めたネジャティ・ウトカン氏は、産経新聞のコラムにて1世紀近くも前の 「エルトゥールル号遭難事件」を採り上げ、ただ一言、「我々はこの恩義に報いただけなのです」とのみ伝えたそうです。

このようトルコの日本に対する親近感は、日本のトルコに対するそれよりも断然深いのが現状です。
私たち日本人はトルコに対する認識を再考する必要がありそうです。

長文を最後まで読んでいただき、ありがとうございました。