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らいちゃんの家庭菜園日記

家庭菜園、家庭果樹栽培及び雑学日記

疑問符の使い方

2017-07-11 | 情報

毎日ブログを書いていますが、文章につける感嘆符(!)、疑問符(?)の使い方に迷うことがよくあります。
そこで、その使い方を調べていたら、何と、最近では疑問文ではないのに疑問符の「?」をつける人が増えているのだそうです。

疑問符の「?」や感嘆符の「!」は「疑問」や「驚き」を表すものとして一般的に広く使われおり、使い過ぎでなければ特に差し支えはありません。
その使用は一般的には文章の終わりに使います。
疑問符は、問いかけや疑問に思ったことを表す時に用い、感嘆符は驚きやその時の感情を表す時の記号です。
句点の「。」は文章の終わりに使いますが、感嘆符・疑問符の後には打たないというルールがあります。

ところが、近年、『疑問』ではない文に「?」をつけている人が増えているのだそうです。
例えば、「もう終わったかもしれない」という自分の考えを相手に伝える場合、「終わったのかもしれませんよ?」のように「?」を付けるということです。

「疑問」とは、疑い問うこと。疑わしいことです。また、「自分よりも、相手のほうが確かな情報を持っているとか確かな判断ができそうだ。」と思われるときに、相手に尋ねるものです。
このようなときに、「疑問」を表すものとして「?」が使用されます。

例えのように「終わったのかもしれませんよ」という文章は疑問文ではなく、おそらく「自分のほうが、相手よりも確かな情報を持っている。或いは確かな判断ができそうだ」と思われることから、「?」を付けるのは一般的ではない使用例となります。

NHKがウェブ上でアンケートを実施したようです。
質問は、「終わったのかもしれませんよ」とメールで書くときに、最後に「。」と「?」のどちらを使うか、というものです。
その結果が下のグラフです。



その結果、30代以上では「。」のみで「?」は使わないという人(グラフの赤線)が大半でしたが、20代では「「。」と「?」の両方とも使う」(緑の線)という答えが主流でした。
SNSなどをよく使うこの世代では「終わったのかもしれませんよ?」という、このような書き方がきわめて普通なのかも知れません。

アンケートの結論として、おそらく現代の日本語は、「?」の指し示す意味が、「疑問」から「文末の音が上昇すること」へと変化しつつあるのではないかと予想される、と結んでいました。

日本語の乱れが指摘されている昨今ですが、感嘆符や疑問符などの符号にも変化が見られるようです。


庖丁(ほうてい)牛を解く

2017-07-10 | 雑学

最近、料理の番組をよく目にします。
健康志向の高まりからそれに沿うような料理、或いは男性のための「男の料理教室」や一流料理店の料理長が教える「料亭の味」など、家庭でもできる美味しい料理の作り方などを教えてくれています。
料理は女性の仕事とばかり思っている男性の皆さん、男も積極的に料理に関わりる時代となったようですよ。

さて、料理に欠かすことができない道具の一つに包丁があります。
その包丁という名称が人の名前に由来していることをご存知でしょうか?
今日は包丁の名前の由来についてご紹介します。

包丁は、本来は「庖丁」と書いていました。
「庖」は「くりや」即ち調理場の意味で、「丁(てい)」は「男」で、庖丁(ほうてい)とはくりやの男、 つまり板前さんの事です。
でも、調理人なら誰でも庖丁かと言うとそうではなく、「庖丁」は2300年ほど前の中国の古典(戦国時代の思想書)【荘子】に出てくる、当時の王に仕えた伝説的名調理人の固有名詞とされていたようです。

「庖丁(ほうてい)牛を解く」と言う諺があり、その故事は次のように伝えられています。

「故事」
中国戦国時代、庖丁(ほうてい)はある時、魏の文恵王の御前で、牛を一頭料理してみせました。
この時の庖丁の刀捌きは見事の一言で、あっという間に肉は骨からはなれていき、その手捌きはリズムを刻むように心地よいものでした。

文恵王は、「実に見事なものだ。技も極めるとここまでになるものなのか」と驚嘆の声をあげて褒め讃えると、
庖丁は刀を置き、「これは技ではございません。技以上の「道」であります。 」とその極意を語ったのです。
庖丁の言を聞いた文恵王は、「これは良い話を聞いた。無理をしないのが人生を全うする極意と心得た。」
と言って、料理する刀を庖丁と呼ぶようになったと言うことです。

庖丁(ほうてい)が日本に伝わると「ほうちょう」と読まれるようになり、庖が当用漢字外となった際に「包」があてられて「包丁」となりました。

なお、「庖丁(ほうてい)牛を解く」と言う諺は日本の文献にも記されているようです。
『日本山海名物図鑑』宝暦4年(1754年)刊に、
荘子曰く、「庖丁能く牛を解く」、庖丁はもと料理人の名なり。その人使ひたる刃物なればとて、つゐに庖丁を刃物の名となせり。むかし何人かさかしくもろこしの故事を名付けそめけん。今は俗に返してその名ひろまれり。」
と、庖丁の名前の由来が記されているそうです。

庖丁(ほうてい)こと包丁は、元は名調理人の名前でした。包丁は粗末に扱えないですね。


「有耶無耶(うやむや)」

2017-07-09 | 情報

私の実家の檀那寺(だんなでら)のご住職は、法事でお経をあげていただいた後に法話を話されます。
若い頃はそれほど関心がなかった法話ですが、歳をとるに従って聴くのが楽しみになってきました。
仏に仕える方のお話は、老後を生きる上で心の安らぎになるのでしょうか?

そこで法話についてネットを調べていたら、兵庫県豊岡市の盛重寺(せいちょうじ)住職・平尾宗信さんの「有耶無耶(うやむや)」という法話がありましたのでご紹介します。

「法話」
安心とは一般に、心が落ち着き心配のないことをいいます。仏教では、信仰や実践により到達する心の安らぎ、或いは不動の境地を意味します。
元は阿弥陀仏の救いを信じて往生を願う心の意味で用いられたものでした。

「うやむや」という言葉があります。ぼんやりしていてはっきりしない様子をあらわす言葉です。
私たちは兎角すべての物事に対して明確にしようとする傾向があります。それは「わからない」ものに対する不安があり、それを払拭するために、無理矢理すべてを明確にしてしまっているのです。
しかし、世の中には、はっきりと決めつけることのできないものが沢山あります。いや、わかったつもりでいるだけで、ほとんどのことをわかっていないのかも知れません。

その一つに私たちが亡くなった後、どうなるのか、どこへ行くのか、そんなことはいくら考えてもわかることはないでしょう。
そこで、私たちが死んだ後、「必ず死後の世界が存在する」と決めつける考え方と、「亡くなれば全てが終わる。死後の世界なんて存在しない」と決めつける考え方がありますが、このような「どちらか偏った考え方、見方をしてはいけませんよ」と仏教では説かれているのです。

そのような偏見から迷いや不安が生じ、人との争いも生まれてくるのです。
わからないものはわからないで良いのです。有るとか無いとかに囚われてはいけません。これを「有耶無耶(うやむや)」というのです。

京都清水寺の貫主としてお勤めになっておられた大西良慶和上さんという方がいらっしゃいました。
ある日、その和上さんのところに、大学の先生がこんな質問をしに来られました。
 「貫主さん、極楽って本当にあるんですか」。
すると和上さんは、
 「それはなあ、例えば小僧が『お風呂沸きました』と言うて来たとき、わしはその言葉を信じて寒い風呂にいくのや。裸になって、戸を開けて、突っ込むまで、その湯が熱いんか、ぬるいんか、わからんわけや。そやけど『沸きました』という言葉を信じんことには、わしは寒いところで裸になれんやないか。そやから法然さんや親鸞さんが『南無阿弥陀仏と唱えたら必ず極楽に往生する』と言えば、それを信じんとあかんのや。極楽があるとかないとかと言う世界と違う。」
とこう答えられたというのです。

あるとかないとかを考え、決めつけるのではなく、「信」を得ることが大切なのです。信じて止まない心を養うのです。
猫を見て「あれは猫だと信じている」とは言いません。知っているものには「信」を使わないのです。また、「明日は晴れると知っている」とは言いません。いくら天気予報で晴れと言われていても、その日にならなければわからないのです。
しかし、わからないだけではそこに不安が生じます。その不安を乗り越える力が「信」なのです。明日は晴れると信じている。ただそう受け止めるだけで大いなる「安心」を得ることができるのです。

信じて迷わず疑わず、教えの通りに仏道を歩めば良いのです。
仏の教えを信じ、自らの心を信じ、信の心を養いながら、私たちも日々の生活の中で、「安心」を得てゆるぎない心、確固たる心を得ていきたいものであります。


七夕と洗車雨

2017-07-08 | 季節

多くのドイツ人は節約・倹約の生活が暮らしの習慣になっているのだそうです。
その一つに雨の日の愛車の洗車があります。
雨の日の僅かな晴れ間を見つけて、大きなスポンジを取り出すと、車のボディに残っている雨滴を使って、せっせと車体を洗い、窓やミラーを磨きます。
どうしても、雨が降らない晴れ続きの日には、小さなバケツに1杯の水だけで汚れをゆっくり拭き取り、ワックスで磨き上げるのだそうです。

いきなり、雨の日の洗車を取り上げましたが、今日のテーマ「洗車雨(せんしゃう)」は雨の日にクルマを洗う事ではないのです。
「洗車雨」は七夕に関係する言葉なのでご紹介します。

「洗車雨」
7月と言えば「七夕(しちせき)の節句」の行事があり、七夕とは、7月7日の夕方を意味しています。
七夕の行事は、中国に古くから伝わる牽牛・織女星の伝説から発達した乞巧奠(きこうでん)の行事に、日本古来の棚機津女(たなばたつめ)の信仰が混ざり合って形成されたものです。
その七夕の前日の7月6日に降る雨を「洗車雨(せんしゃう)」と言います。

洗車雨は七夕伝説において、彦星(牽牛)が織姫(織女)に会う際に乗って行く牛車を洗う水になぞらえているとされています。
即ち、牽牛は七夕の前日の6日に、翌日、織女と逢うために乗って行く牛車を洗うのですが、その時の洗車の水滴が雨となって地上に降ると言われているのが「洗車雨」なのです。
そして、もし、七夕の当日の7月7日に雨が降れば、その雨は「催涙雨(さいるいう)」または「洒涙雨(さいるいう)」といい、織姫と彦星が流す涙だと伝えられています。

「催涙雨」
七夕伝説では、牽牛と織女は7月7日に年に1度だけ天帝が会うことをゆるし、天の川にどこからかやってきたカササギが橋を架けてくれて会うことができるのですが、ここ数日は、九州北部から見る天の川は大雨のようであり、水かさが増して織姫は渡ることができず、彦星も彼女に会うことができなかったようです。
きっと彦星も織姫も天の川をはさんで大粒の涙を流し、大声で泣いているのだと思います。
その涙(催涙雨)が九州北部に線状降水帯と呼ばれる積乱雲を発生させ、豪雨をもたらしたのかも知れません。

折角、天帝が許した逢瀬なのに、お天道様はひどい事をなさいます。
せめて、「洗車雨」程度の雨にとどめておいてくだされば、今回のような大きな被害は出なかったろうにと悔しくてなりません。
被災者の皆様には心からお見舞い申し上げます。


甘い梅干し作り

2017-07-07 | 地元紹介

家内が懇意にしているFさんから南高梅(なんこううめ)を頂きました。
昨年までは南高梅で梅酒を作っていたのですが、今年は初めて甘い梅干し作りに挑戦することにしました。
今日は、わが家の梅干し作りをご紹介します。

参考にしたのは2012年6月に放送されたNHKの「きょうの料理~甘い梅干しの作り方~」です。
梅干しの漬け方にはいろいろな方法があるようですが、初めての挑戦はこの漬け方で行うことにしました。

それによると、4日間の下漬けの後、本漬けをします。
「下漬け材料」
・完熟梅    1kg  梅は黄色く完熟した梅がよい。緑色の梅の場合は常温で3~4か追熟させると黄色になります。
・塩      100g
・水     1リットル

1.梅は水でよく洗い、水気を紙タオルで拭き、なり口についているヘタを丁寧に取り除きます。

・手順「1」の水で洗った梅1kgです。


2.保存容器に塩100gと水1リットルを入れてよく混ぜ、「1」の梅を入れます。わが家ではジッパー付きの保存袋に入れました。
  水に対して塩は10%が基本だそうです。塩分が高すぎると甘みがのらず、低すぎるとカビの原因になります。
3.「2」を暗くて涼しい場所に4日間置く。わが家ではジッパー付きの保存袋の空気を抜いて冷蔵庫に保存しました。

・手順「2」のジッパー付きの保存袋に入れた梅です。


「本漬け」
.梅・・・・土用干ししたもの100g
・粗塩・・・25g
・酢・・・650~750ml
・氷砂糖・・・350~500g

「土用干し」
4.梅を塩水から取り出して、平らなざる等に梅同士がくっつかない様に並べ、風通しのよい場所で3日間干す。
  昼間に一度梅をひっくり返し、まんべんなく日が当たるようにする。夜間は室内に取り込む。
  下漬けしていた塩水は梅が雨に当たった場合に使うので干し終わるまで保管しておく。

・手順「4」の、4日間冷蔵庫に置いた梅を3日間の天日干しにしているところです。


5.3日間干して梅の表面が白っぽく乾き、全体が柔らかくなって少しシワがよれば干し上がりです。

・3日間干した梅は表面が少し白くなりました。天日干しはこれで終わりです。


参考レシピではここで赤シソを入れるようですが、私は紫蘇はいつでも入れられるので、この時点では紫蘇なしで作ることにしました。

6.保存容器に35度の焼酎を吹き付けて消毒します。
7.保存容器に「5」の梅を入れヒタヒタになるまで酢を注ぎます。
8.氷砂糖350~500gの6分の1を入れて涼しい場所に保管する。残りの氷砂糖は2ヶ月かけて5~6回に分けて加えます。
  甘みを少しずつ加えることで味がよく乗ってくるようです。もし、甘みが足りないようであれば適量追加してください。
9.最後の氷砂糖を入れてから4カ月ほどたったくらいが食べごろで、1年間は美味しく食べられるそうです。

今回漬けた甘い梅干しは秋には食べられそうです。

・手順「7」「8」の保存容器に入れた梅です。この後2ヶ月かけて氷砂糖を追加していきます。



舟に刻みて剣を求む

2017-07-06 | 時事

先の都議選では自民党は大敗、小池知事率いる「都民ファーストの会」が大躍進し、自民党に代わって第1党の座を確保しました。
小池知事が記者会見で「期待以上の成果で、都民の理解を得たことに感動すると同時に、責任の重さを痛感する」と話しているように、都民は「都民ファーストの会」主導の都議会に相当大きな期待を寄せているようです。

今回の自民党大敗の要因は、
・加計学園問題を巡る疑惑に安倍政権がきちんと答えなかったことや、通常国会終盤の強引な運営、閉会中審査の拒否などに有権者が不信感を持ったこと。
・都議会自民党が、小池氏の改革に抵抗しているイメージを払拭できなかったこと。
・稲田防衛大臣の応援演説における失言問題。
・豊田議員の暴言、暴行。
・更に、麻生副総理兼財務相や自民党の二階幹事長が応援演説で、独自のメディア批判を展開したことも、政権党の慢心を印象づけ、逆風を加速させたと言われています。

小池知事は昨年8月の就任以降、豊洲市場への移転の件については盛り土問題などを追及し、都の縦割り組織の弊害や無責任な体質を浮き彫りにしました。
更に、情報公開による都政の透明化を掲げて都民の支持を得てきました。

これに対して自民党は、豊洲移転問題を「決められない知事」と批判してきましたが、小池知事は告示直前に、豊洲に移したうえで築地を再開発する案を示し、自民党の批判をかわしたのです。
それらの姿勢が都民に評価され、今回の都議選結果となったようです。

自民党の姿勢は「舟に刻(きざ)みて剣(けん)を求む」を地で行っているような愚かさを感じます。
この諺の意味は、時勢が移り変わった事も知らずに、いつまでも昔の仕来たり通りを守り、時代の移り変わりに気がつかないことの愚かさを例えて言う諺なのです。

この諺の出典は「呂氏春秋(りょししゅんじゅう:紀元前239年完成)」で、中国、楚(そ)の国の話です。
楚の国のある男が舟で揚子江を渡っていました。
その途中で舟の中から剣を水中に落したので、素早く剣を落とした舟べりに刻み目を印して次のように言ったのです。
「ここが私の剣が落ちていった箇所だ。印をつけておいたからもう安心だ」と。
そして、舟は対岸について止まりました。
男は刻みをつけた印の舟べりから、水中に入って探しましたが剣は見当たらなかったのです。
この故事から、時勢を見る目の無い愚かさを例える諺、「舟に刻みて剣を求む」が生まれたのだそうです。

日本にも驕り高ぶる平家を揶揄した格言がありましたよね。
そうです。よくご存知の「驕(おご)る平家は久しからず」です。

自民党の大敗はこの二つの諺のように、安倍1強体制に驕り、都民、国民の政治を見る目の変化に気付かなかったことが最大の敗因ではないでしょうか?


地上の星

2017-07-05 | ナツメロ

ご記憶されている方も多いと思います。
2000年3月28日から2005年12月28日まで放映されていたNHKの番組に「プロジェクトX ~挑戦者たち~」がありました。

番組内容は、主として終戦直後から高度経済成長期までの、産業・文化等の様々な分野において、製品開発プロジェクトなどが直面した難問をどのように克服し、成功に至ったかを紹介するドキュメントで、身近な自動車や家電を初め当時の日本経済を牽引した重厚長大産業、地図に残る公共事業(ハコモノ、橋梁)などが多く紹介されました。

放映当初は、NHKが題材となる企業・団体や従業員・商品名を実名で取り上げるという前例の無い演出スタイルが話題となり、瞬く間に高視聴率を記録し、人気番組の1つになりました。
中島みゆきが歌うオープニング主題歌「地上の星」も話題となり、年配者の間でもよく歌われたものでした。

今日は10年ほど前の番組主題歌「地上の星」をお聴きいただきたいと思います。

・「プロジェクトX ~挑戦者たち~」のオープニング曲「地上の星」です。 歌:中島みゆき



イタチの夫婦愛

2017-07-04 | 地元紹介

今年5月にアライグマを捕獲した後も引き続き檻を仕掛けています。
しかし、アライグマの捕獲はなく、代わりにカラスやイタチなどが入ることがあります。
もしかすると、畑の周辺に棲息していたアライグマは5月以降いなくなったのかも知れません。

でも、それ以降も気を緩めることなく、檻を仕掛け、そこに誘導するように餌をばら撒いて獲物が入るのを待っているのです。
不思議なことに、ばら撒いた餌はよくなくなります。仕掛けの檻には何も入っていません。
この餌を狙ってハトやカラス、キジなどの野鳥やイタチや猫などの小動物がやってきて餌を食べているのではないかと思うのです。
案の定、先日はイタチが入っていました。
このイタチは近くの竹やぶで夫婦で棲息しているようです。

菜園仲間のT氏から、「畦道の処でイタチが1匹顔を出して捕獲器の方を向いてキーキー鳴いて呼び合っていたが、檻の中に入っているのと違いますか?」と言われ、「そうです。」と答えると、続けて「あのイタチは夫婦でしょうなぁ。何度もキーキー、キーキーと鳴いて呼び合っていましたでェ。」と教えてくれたのです。

T氏が言うように、畦道の処で顔を出していたのはイタチのお母さんかも知れません。
お父さんの帰りが遅いので様子を見に来たのでしょう。
その話を聞いてイタチが可哀そうになり、イタチの夫婦愛に免じて放してやることにしました。

捕獲したイタチをT氏に見せるため、檻を持ちあげて畦道まで運んだところ檻の中にイタチがいません。
周りには臭いにおいが漂い、イタチが“最後っ屁”を放って逃げ去った後でした。

扉が閉まっているのにどこから逃げたのだろうとよく調べてみたら、奥の底の部分が3㎝×5㎝ほど金網が破れて穴が開いていたのです。
イタチは持ち運んでいる間にそこから逃げたようです。

・檻の底の部分が金網が破れている捕獲檻です。


この穴は以前にアライグマを捕獲した時にできたようです。
過去にはアライグマが中に入った時、暴れて檻がひっくり返っていたことが何回もあったので、その時に壊れたのだと思います。
そこで早速、修理することにしました。

・底の破れている部分です。


修理は奥の扉を固定する留め金が金通しの穴から外れていたので、それを穴に戻し、破れている金網の所を二か所結びました。

・破れていた金網の修理個所です。


修理後、上から見た修理個所です。
1枚目の画像と比較すればよく分かりますが、これでイタチのような小動物でも一度捕獲すれば逃げる事は出来ない筈です。

これからはブドウや梨、柿などの果物が大きくなってきます。
アライグマの被害に遭わないように、この檻が活躍してくれることを期待したいものです。

今日はイタチの夫婦愛と捕獲檻の補修を取り上げました。




「未亡人」という失礼な言い方

2017-07-03 | 雑学

今年3月1日、厚生労働省は日本人の平均寿命が男性80.75歳、女性86.99歳と過去最高を更新したことを公表しました。
都道府県別では男女とも、第1位の長野県と最下位の青森県の平均寿命の差は、男性3.6歳、女性1.84歳で、地域によって差が見られます。
更に、男性と女性の全国の平均寿命差は6.24歳ですが、1位の長野県では6.93歳、最下位の青森県では8.06歳と女性が長くなっています。
この事は婚姻関係があることを前提にすれば、ご主人が亡くなった後、平均で6年から8年ほどは奥様が長生きをし、この期間は、所謂、未亡人になることを意味しています。

おっと、未亡人と言う表現はご主人を亡くされた奥様に大変失礼な言い方をしました。
この言葉はご本人が謙遜して言う言葉であり、第三者が使う言葉ではなかったですね。
今日は「未亡人」と言う言葉の本来の意味について調べました。

夫と死別した女性を「未亡人」と言い、漢字では、未だ亡くなっていない人と書きます。
漢字だけを見ると「生きていたらいけないのか?」と言いたくなるようなこの言葉ですが、何故、女性に対してのみ使用される言葉なのでしょうか?

未亡人と言う言葉が使われている最古の文献は儒教の基本経典である五経の内の一つ、「春秋左氏伝(さしでん)」の魯(ろ)の成公(せいこう)と衛(えい)の定公(ていこう)の箇所です。
それによると「未亡人」とは、夫とともに死ぬべき筈であったが、残っていて未だ死なない人という意で、夫に先立たれた妻が自分の事をへりくだって言う言葉なのです。
それがいつしか「みぼうじん」と読んで夫を亡くした婦人の事を他人が指して言う言葉に変わっていきました。

この言葉の本来の使い方は、謙譲語として自らが「私は未亡人です」というのが、正しい使い方なのです。
従って第3者が使う言葉ではなく、男性中心の封建社会に生まれた本来の言葉の意味からすれば、現在の使い方はまことに失礼な使い方となっているということです。

ご主人を亡くされた奥様に対しては、失礼にならないように気をつけたいですね。


出よ!平成の上杉鷹山

2017-07-02 | 時事

昔、誰が流したダジャレだったのか忘れましたが、「なせばなる、なさねばならぬ何事も、ナセルはアラブの大統領」という、上杉鷹山の有名な言葉をもじったダジャレが流行りました。

ナセル大統領はエジプトの第2代大統領(1956年6月~1958年2月)ですが、1958年(昭和33年)2月に建国されたエジプトとシリアからなるアラブ連合共和国の初代大統領に就任しており、冒頭のダジャレはこの頃に流行ったように思います。
このアラブ連合共和国は1961年(昭和36年)9月にシリアが連合を離脱したのに伴い解体されました。

さて、このダジャレの元になった、「なせば成る なさねば成らぬ何事も 成らぬは人のなさぬ成りけり」は、米沢藩第9代藩主の上杉鷹山(上杉治憲)が残した名言です。
今日は上杉鷹山について調べました。

少し古いですが、平成19年(2007年)に読売新聞が日本の自治体首長に行った「理想のリーダー」アンケートで、上杉鷹山が1位に挙げられていました。
上杉鷹山は江戸時代屈指の名君として知られており、寛延4年(1751年)に日向高鍋(現宮崎県高鍋町)藩主、秋月種美の次男として生まれました。
宝暦10年(1760年)、10歳で米沢藩8代藩主重定の娘幸姫の婿養子となります。

14歳の頃から細井平洲に師事し、君主としての知識を磨き、その後の藩政改革に役立てています。
鷹山は17歳で家督を相続しますが、当時の米沢藩は莫大な借財をかかえて身動きが取れない状態でした。

鷹山は藩財政の再建に向けて「大倹約令」を発し、徹底した経費節減を断行しました。
体面を気にする家臣の反対を押し切り、江戸藩邸の食事を「一汁一菜」とするなど贅沢を戒め、50人いたと言う奥女中を9人に削減したそうです。
自身も安い木綿製の着物で通したと伝えられています。

・上杉神社の上杉鷹山像です。(2008年10月撮影)


「なせば成る なさねば成らぬ何事も 成らぬは人のなさぬ成りけり」

この名言は強い意志を持ってことを成し遂げる大切さを説いた言葉であり、この言葉を胸に仕事や学業に邁進している人が多いそうです。
その志は海を越え、アメリカ第35代 大統領 ジョン・F・ケネディも尊敬する日本人の一人として「上杉鷹山」挙げていたことは余りにも有名な話です。
2014年9月にはケネディ大統領の長女で、元駐日アメリカ大使のキャロライン・ケネディさんが米沢を訪れ、歓迎する市民らへの挨拶で「なせば成る・・・」と日本語で締めくくっていました。

鷹山の改革の成果は徐々に表われ、藩財政は少しずつ好転していましたが、まだ借金は多く残っていました。
鷹山は相変わらず一汁一菜、木綿服着用の生活を続けていましたが、文政5年(1822年)3月12日、体調をくずして72歳でこの世を去りました。
 
日本の財政赤字額、所謂、「国の借金」の残高は2016年9月末で1062兆5745億円と発表されています。
国民1人あたりにすると837万円にのぼり、過去最大となっています。
現在と江戸時代の藩政改革とは規模や状況が違いすぎますが、、財政改革を断行する手腕を持った平成の上杉鷹山は現れないものでしょうか?