今年も年賀状を準備する季節となりました。
元日に配達してもらうためには12月25日までに投函する必要があります。
今から少しずつ準備して遅れないようにしましょうね。
ところで、年賀状に欠かせない「謹賀新年」や「恭賀新年」、「頌春」、「迎春」、「賀正」などの「賀詞」ですが、今日はその意味などについて調べました。
「賀詞」
「賀詞」とはお祝いの言葉のことです。
●1文字の賀詞とその意味
・賀(が)・・・・・・喜び祝うこと
・春(はる)・・・・ 新年
●2文字の賀詞
・迎春(げいしゅん)・・・新春(新年)を迎えること
・賀正(がしょう)・・・・・ 正月を祝うこと
・頌春(しょうしゅん)・・ 新春をほめたたえること
●4文字の賀詞
・謹賀新年(きんがしんねん)・・・・つつしんで新年を祝うこと
・恭賀新年(きょうがしんねん)・・・うやうやしく新年を祝うこと
●口語調の賀詞
・あけましておめでとうございます
・新年おめでとうございます
・謹んで新春のご祝詞を申し上げます
・輝かしい初春をお慶び申し上げます
など。
「賀詞を使うときの注意」
●目上の人には2文字の賀詞は避ける
「賀正」や「迎春」など2文字の賀詞は「謹んで」「恭しく」といった意味が含まれず、丁重さに欠けるので、目上の人には使わないようにしましょう。
●賀詞は重複して使わない
・イラストやデザインに「頌春」や「Happy New Year」といった賀詞が記されているにも拘らず、本文に「あけましておめでとうございます」と書いてしまうこと。
・また、次のような賀詞自体の誤りもあります。
「新年あけましておめでとうございます」・・・ これは「新年」と「あけまして」の意味が重複しているので誤りです。
「新年おめでとうございます」か、もしくは「あけましておめでとうございます」にします。
・「A Happy New Year」は冒頭のAは不要です。
Aがあると意味が変わってしまいます ・A HAPPY NEW YEAR・・・「よいお年を」という意味になり、
・HAPPY NEW YEAR・・・・「あけましておめでとう」という挨拶になります
「日付の書き方」
・日付は、一般的には「元日」や「元旦」を使います。
元日は「一年の始めの日」という意味であり、元旦の「旦」の字は水平線から太陽がのぼっている様子を表して「一月一日の朝」を意味します。
従って「一月一日元旦」や「一月元旦」という表現は重複するので使用しません。
・一月一日を過ぎてから書いた年賀状など、元旦に届かないことが明らかな場合は「元旦」とは書かず、「一月」「正月」などの言葉を使います。
・松の内(1月7日)を過ぎる場合は年賀状ではなく、寒中見舞いとして出します。
紅一点
男性の中に混じる唯一の女性を意味する言葉に「紅一点」があります。
この言葉は何となく艶やかな感じのする言葉ですよね。
そうなんです。この言葉の元々の意味は艶やかに咲いている花が由来なのです。
今日は「紅一点」の由来について調べることにしました。
この言葉の由来は中国の詩からで、次のように言われています。
中国・北宋の第6代皇帝神宗に仕えた政治家で詩人・文章家に王安石(おうあんせき:1021~1086)と言う人がいます。
彼は1070年、皇帝の信頼を得て宰相になった人ですが、その王安石の作った詩に「柘榴(ざくろ)の詩」があり、その中に「万緑叢中(ばんりょくそうちゅう)に紅一点あり 人を動かす春色は多きを須(もち)いず」とあります。
その意味は、「見渡す限り緑のくさむらの中に、ただ一輪、紅色の花 (ザクロの花) が艶やかに咲いている。人の心を動かす春の景色に多くのものは要らない。赤い一輪の花だけで充分だ」となります。
これが本来の意味なのですが、日本では明治以降、①たくさんある中で一つだけ異彩を放つものの意味として用いられ、その後、「紅」という色や艶やかに咲く花の印象から連想されて、②男性の中に混じる唯一の女性の意味で用いられるようになり、特に現代では②の意味で用いられるようになっていると言うことです。
「紅一点」、元々の意味は草むらに咲くザクロの花の事だったようです。
・これがザクロの花です。
一昨日、つくね芋の収獲をしました。
今年も台風並みの暴風雨が数回吹き荒れましたが、支柱の倒壊などの被害を受けることなく、収穫期まで勢いよく生長してくれました。
・まだ勢いのよいつくね芋の蔓です。
収穫は、支柱に巻きついた蔓を除去することから始めます。
・蔓を切り取った株です。この後スコップで深く掘って収穫します。
つくね芋は根を深く張っているのでスコップで掘り起こします。
・掘り起こした8株です。
よく生長した株には、大小含めて10個くらいの芋が付いているものもありました。
・これが最もよくできた1株のつくね芋です
・つくね芋は、サツマイモと違い、イモの上部、茎の付け根からこのようにたくさんの根を張ってイモをつけます。
「栄養素と健康効果」
つくね芋の栄養素の主成分は糖質ですが、ビタミンB群、ビタミンC、各種ミネラル、食物繊維を含み、消化酵素のアミラーゼやジアスターゼ、活性酸素を除去するカタラーゼを多く含んでいるそうです。
芋をすりおろした時のネバネバは糖たんぱく質のムチンによるもので、胃の粘膜を保護して胃炎や胃潰瘍を予防する作用、タンパク質の消化を助ける作用があるということです。
更に、ミネラル類ではカリウムの含有量が多く、体内の余分なナトリウム(塩分)を尿とともに排泄してくれるので、高血圧の予防にも役立つそうです。
これらの健康効果を期待して、早速とろろ汁で食べてみたところ、掘りたてと言うこともあって、とても美味でした。
今年は7月から9月にかけてアライグマを3頭捕獲しました。
その後、暫く出没がなかったので、捕獲器を役場に返却したのですが、先日、またもやアライグマの被害が確認されました。
被害に遭ったのは色が付き始めた富有柿です。
昨年までは、柿のアライグマによる被害はなかったので、カラス対策だけをしていました。
それが甘かったようです。
アライグマは網の隅間から入っって20~30個の柿を食い散らしていました。
アライグマ被害にあった柿です。
被害を発見したのは一昨日です。
地面の近くに実っていた柿2個が蔕だけを残して食べられていたのです。
そこで枝を上に引き上げて全体を見回したところ、上の枝に実っているカキもたくさん食べられているではありませんか。
急遽、網を地面に固定し、隙間を無くす処置をすると同時に役場に行き、再度アライグマの捕獲器を借り受けてきました。
夏に3頭捕獲した時には、これで当分アライグマの被害から解放されると思っていたのですが、まだ畑の近くの竹藪に棲息していたようです。
昨日、捕獲器を見てみると、餌のゴボウ天だけが食べられてなくなっていました。
上手く逃げられました。
我が家ではアライグマとの対決が暫く続きそうです。
13日の大河ドラマ「真田丸」は、いよいよクライマックスに差し掛かり、大坂夏の陣での真田幸村の活躍シーンが紹介されていました。
天王寺の茶臼山に陣取っていた徳川家康の悔しさがよく表現されていましたが、その徳川家康の陣には家康の馬印となっている「厭離穢土・欣求浄土」の幟り旗が立てられていました。
家康の馬印は「金扇」が知られていますが、この「厭離穢土欣求浄土」の旗印は初期に用いられていたのだそうです。
今日は「厭離穢土・欣求浄土」について調べました。
先ず馬印とは、戦国時代から江戸時代において戦国武将達が己の位置・武威などを誇示する為に備の旗や自身の周りに置く印のことで、「厭離穢土・欣求浄土」は徳川家康が馬印に用いたことで知られています。
「厭離穢土・欣求浄土」は「おんりえど・ごんぐじょうど」と読みます。
「厭離穢土」とは、浄土教の用語です。この娑婆世界を「穢れた国土」として、それを厭い離れるという意味であり、「欣求浄土」とは、阿弥陀如来の極楽世界は清浄な国土であるから、そこへの往生を切望するという意味です。
戦国の世は、誰もが自己の欲望のために戦いをしているから、国土が穢れきっている。その穢土を厭い離れ、永遠に平和な浄土をねがい求めるならば、必ず仏の加護を得て事を成すとの意味なのだそうです。
・家康の旗印「厭離穢土 欣求浄土」です。
家康がこの「厭離穢土・欣求浄土」を用いた経緯は次のように言われています。
永禄3年(1560年)桶狭間の戦いで総大将の今川義元を失った今川軍は潰走、拠点の大高城で織田方の水野信元の使者からの義元討死の報を聞いた松平元康(徳川家康)は、追手を逃れて手勢18名とともに菩提寺である三河国大樹寺へと逃げ込んだのです。、
しかし、ついに寺を囲んだ追撃の前に絶望した元康は、先祖の松平八代墓前で自害して果てる決意を固め、この寺の第13代住職登誉天室に告げました。
登誉は問答の末「厭離穢土 欣求浄土」の教えを説いて諭したところ、元康は奮起し、教えを書した旗を立て、およそ500人の寺僧とともに奮戦し郎党を退散させたのです。
以来、家康はこの言葉を馬印として掲げるようになったのだそうです。
今日は七五三です。
七五三のはお子様の成長を祝う行事ですが、何故11月15日になったのでしょうか?
そこで今日は七五三について調べることにしました。
「七五三の由来」
「七五三」はご存知のように7歳、5歳、3歳の子供の成長を願う行事で、その起源は室町時代といわれています。
現在では医療技術の向上で乳幼児の生存率が高くなっていますが、当時は3歳まで子供が生き延びるということはとても大変だったようです。
いわんや、5歳、7歳までとなると尚更のことでした。そこで、7歳までは子供は神様からの預かりものという認識を抱いていたようです。
このようなことから、7歳まで成長できた子供はお祝いをした後、氏神さまにお参りして氏子札をもらい、初めて人格として認められて地域社会の仲間入りを果たすことができたようです。
「七五三」を祝うという文化は、この神様から子供を預かっている7年間を、「よくぞここまで生きて成長してくれた」という喜びを持ってお祝いするようになったのが始まりといわれています。
「11月15日の由来」
では、何故11月15日に行われるのでしょうか?
調べてみると二つの説がありました。
①11月15日に祝うこととなったのは、この日が二十八宿の鬼宿日(きしゅくにち)にあたり、婚礼以外は何事の祝い事にも吉とされていたからだそうです。
また、旧暦の11月は、秋の実りを神に感謝する月でしたので、その満月にあたる15日に、氏神に収穫の感謝とともに子供の成長を感謝したことからとする説。
②もうひとつは、江戸時代、「お犬様」で有名な徳川5代将軍綱吉の息子・徳松君の「袴着のお祝い」をこの日に行ったことから、徐々にこの日に定着したという説です。
「年齢ごとの祝いの由来」
・3歳は男女共に「髪置(かみおき)」のお祝いの名残です。 昔は3歳までは男女ともに髪の毛を伸ばさないで剃り続けたそうです。
その理由は、頭髪から病気が入ると考えられていたので、子供が病気にならないようにとのことからです。 そして、3歳まで元気に成長したら、そこから髪の毛を伸ばす
区切りとしていました。
・5歳は「袴着(はかまぎ)の祝」といって、5歳の男の子が初めて袴を着るお祝いのことであり、その名残といわれています。
・7歳は「帯解(おびとき)のお祝」といって、女の子がそれまでの紐で着ていた着物に代わって、本仕立ての着物と丸帯を締めるという大人の装いをする行事の名残りといわ
れています。
なお、年齢の数え方は、昔は「数え年」でお祝をしていましたが、現在では数え年、満年齢と、両方のお祝いがあるようです。
「千歳飴の由来」
千歳飴は、親が自らの子供に「7歳までよく育ってくれた。これからも長生きして欲しい」という願いを、細く長く伸ばした「1000歳(千歳)」という名前が入った飴に託したもので、江戸時代に浅草の飴売り・七兵衛が売り出したのが始まりとされています。
今日は各地の神社では着飾ったお子様や喜びいっぱいの御両親たちで賑わうことでしょうね。
先月27日に昭和天皇の末の弟宮で今上天皇の叔父にあたる三笠宮崇仁親王殿下が薨去されました。
新聞やテレビの報道では、「薨去」と報じていましたが、昭和天皇の時は「崩御」でした。
兄の天皇陛下と弟の宮様の報じ方にどのような違いがあるのでしょうか?
調べてみました。
人が亡くなられた場合に使用する言葉には、「逝去」「崩御」「薨御」「薨去」「卒去」がありますが、これらの言葉は共通して「人が亡くなること」を意味しています。
では、それぞれにはどのような違いがあるのでしょうか?
1.「逝去(せいきょ)」
意味は人が亡くなることであり、その尊敬語が「逝去」、つまり、亡くなった人を敬う時に使うのが「逝去」なのです。
従って、身内に対して「逝去」を使うのは間違いです。
例えば、「先日、祖父が逝去しました。」とか、ビジネスなどの場面で、社内の人間が亡くなった時、社外に伝える際に「弊社の○○が逝去しました。」という使い方も間違い
なので、注意が必要です。
2.「崩御(ほうぎょ)」
崩御という言葉は使う場面がかなり限定された言葉です。
日本では、天皇陛下をはじめとして皇后、皇太后、太皇太后などが亡くなられた時に「崩御」という言葉を使います。
また、皇帝、国王、君主など特別な位に位置する方が亡くなられた時にも使用され、昔は上皇、法皇にも使用していました。
つまり「逝去」よりも敬った表現が「崩御」となります。
3.「薨御(こうぎょ)」
難しい漢字ですね。読み方は「こうぎょ」です。
意味は共通して「人が亡くなること」ですが、皇太子や大臣が亡くなられた時に使う表現となります。
大臣は内閣の大臣などを指すのでは無くて、皇族に位置している大臣のことです。
4.「薨去(こうきょ)」
これも薨御と同じく、特定の身分の人に対して使う言葉となります。
薨去については少しややこしいですが、皇太子妃や親王・親王妃や内親王などの皇族、または位階が三位(正三位・従三位)以上の人が亡くなられた時に使う表現
です。
5.「卒去(しゅっきょ、そっきょ)」
読み方は「しゅっきょ」又は「そっきょ」です。
これについても特別な身分の方が亡くなられた時に使う言葉で、位階が四位(正四位・従四位)・五位(正五位・従五位)以上の人が亡くなられた時には、この表現を
使います。
以上のように区分されていることから、冒頭の昭和天皇と三笠宮親王殿下の報道の表現が異なっているのは、「2」と「4」の違いからでした。
人が亡くなられた時の表現は難しいですね。
センブリ
センブリの花をご存知でしょうか?
先日、某テレビ局が季節の花で取り上げていたので調べてみました。
センブリはリンドウ科、センブリ属の花で、関東以西の本州や、四国、九州の少し湿り気味で、水はけがよい山野に自生する2年草です。
発芽した芽はそのまま冬をこして、翌年の秋に、小さな草丈いっぱいに花を咲かせます。
和名は「千振」で、名前の由来は「薬の成分を千回振って出してもまだ苦い」ということからで、その由来通り非常に苦味が強いようです。
「良薬は口に苦し」と言う諺がありますが、センブリの苦さは半端ではなく、最も苦い薬草だそうです。
日本では主に苦味健胃薬(くみけんい)として消化不良、食欲不振、胃痛、腹痛、下痢などに用いられるようです。
・これがセンブリの花です。
小春日和
一昨日までの数日間、大阪地方は強い北風が吹き、最高気温も13~14度と12月上旬並みの寒い日が続きましたが、昨日は一転して、温かい小春日和となり、今日、明日もこの暖かさは続くようです。
ところで、初冬のこの時期をなぜ「小春」と言うのでしょうか?
「小春日和(こはるびより)」とは、旧暦10月の異称で、晩秋から初冬にかけて日に日に寒さが厳しくなる中、穏やかで暖かな日和のことをいいます。
広辞苑でも、小春(こはる)」とは、(暖かで春に似ているからいう)陰暦10月の異称。冬の季語。と説明しています。
旧暦10月は、新暦では11月ごろ(今年は10月31日から11月28日)になり、日本ではこの時期の温かい日を小春日和と呼びますが、外国では「春」ではなく「夏」を当てて呼ばれています。
そこで、外国における「小春日和」の呼び方を調べてみました。
・アメリカでは「インディアン・サマー」
その由来は、一説には昔、北米の現地人たちは秋に狩をしており、暖かい日が続くと動物たちが活動的になり、苦労せずに狩ができるという利点があったため
「Indian Summer」といわれるようになったと言う説。
他には、”Indian”という言葉は「偽りの」とか「安っぽい」という意味の使われ方もしており、白人はインディアンは嘘をつくものとして軽蔑して、夏みたいな気候だけど実は
インディアンに騙された「偽りの夏」ということで「Indian Summer」となったとの説。
・イギリスでは「セント・マーチンの夏」
”St.Martin’s”は「偽り」の意味を持っており、アメリカの由来と似ているそうです。
・ドイツでは「アルトワイベルゾンマー(老婦人の夏)」
晩秋から初冬にかけて、風が弱くポカポカと暖かい日に、お年寄りが公園のベンチでのんびりとくつろいでいる風景からといわれています。
・ロシアでは、「バービェ・レート(婦人の夏)」
由来ははっきりしないですが、ドイツと同じようなことではないかといわれています。
・フランスでは「サンマルタンの夏」
由来は分かりません
同じような初冬の温かい日でも、日本人と外国人では感じ方が違うようですね。
先日、堺市へ出かける用事があったので旧堺港周辺を歩いてきました。
「旧堺港」
堺港の歴史は、源平合戦時代が起源と言われ、南北朝時代を経て対明貿易の中心地として発展し、室町、安土・桃山時代には朱印船、南蛮船等の往来が活発となりました。
戦国時代には、今日の中国、フィリピン、ポルトガル等との交易により「堺商人の堺港」として全盛を極めましたが、徳川幕府の鎖国主義とともに衰微しました。
現在は堺泉北港として、大阪湾東部沿岸に位置し、堺市、高石市、泉大津市の3市、約14キロメートルにわたってまたがる港湾となっており、昭和44年3月に特定重要港湾の指定を受けています。
旧堺港には、「旧堺燈台」と「龍女神像」が建っており、この一帯はプロムナードとして整備されて、思い思いの時間を過ごすことができる新たな親水ゾーンとして親しまれているようです。
・旧堺港です。
「呂宋助左衛門之像」
呂宋 助左衛門(るそん すけざえもん)は、戦国時代の和泉国堺の伝説的貿易商人で、本名は、納屋助左衛門(なや すけざえもん)と言います。
堺戎町の豪商で文禄2年(1593年)小琉球(呂宋:現在のフィリピン諸島)に渡航、珍奇の貨物を仕入れて翌年帰国し、堺代官石田政澄を介して豊臣秀吉に唐傘、真壺などを献上しました。
特にその壺は公家・武将間に茶の湯が隆昌を極めていたことから珍重され、かつ高価な茶器として秀吉に愛蔵され、呂宋壺の名で諸大名や家臣にも分配されたことから、競って買い求められるようにもなり,助左衛門は呂宋壺を主とした貿易により巨利を占めたと伝えられています。
・旧堺港に建つ呂宋 助左衛門の像です。
「龍女神像」
堺旧港の北波止突堤に龍女神像が建っています。
像の高さは10m、台座の高さは16mとかなり大きな像で、「乙姫さん」と呼ばれて港のシンボルとなっています。
この像は港の内を向くように設置されており、停泊する船や港を訪れる人々、さらには港の奥に広がる堺のまちを見守っているのだそうです。
「旧堺燈台」
旧堺燈台は堺旧港南波止場に明治10年築造された高さ11.3mの六角錘形の灯台です。
埋め立てが進み役割を終えた後、堺のシンボルの一つとして現地に保存されており、現存する日本最古の木造洋式灯台として国指定史跡になっています。
旧堺港は、室町時代から安土桃山時代にかけて海外貿易港として発展しました。
その南波止場に、明治10年(1877年)堺の人々の寄付などにより高さ11.3mの六角錘形の木造洋式灯台が築造され、およそ1世紀にわたって堺港に出入りする船の航海の安全を守ってきましたが、周辺の埋め立てが進んだ昭和43年(1968年)にその役割を終えました。
・これが六角錘形の旧堺燈台です。
「工場の壁画」
旧堺燈台の対岸にある工場の壁面には、南蛮貿易が栄えていたころの堺の街並みが描かれていました。
この壁画は平成25年に描かれたようであり、設置されている壁画の説明板には「浪漫やさかい~…」と紹介されていました。
大阪弁の「~さかい」と「堺」をかけたダジャレで説明しているところがいかにも大阪らしい趣向となっています。
・工場の塀に描かれた大作です。