13日の大河ドラマ「真田丸」は、いよいよクライマックスに差し掛かり、大坂夏の陣での真田幸村の活躍シーンが紹介されていました。
天王寺の茶臼山に陣取っていた徳川家康の悔しさがよく表現されていましたが、その徳川家康の陣には家康の馬印となっている「厭離穢土・欣求浄土」の幟り旗が立てられていました。
家康の馬印は「金扇」が知られていますが、この「厭離穢土欣求浄土」の旗印は初期に用いられていたのだそうです。
今日は「厭離穢土・欣求浄土」について調べました。
先ず馬印とは、戦国時代から江戸時代において戦国武将達が己の位置・武威などを誇示する為に備の旗や自身の周りに置く印のことで、「厭離穢土・欣求浄土」は徳川家康が馬印に用いたことで知られています。
「厭離穢土・欣求浄土」は「おんりえど・ごんぐじょうど」と読みます。
「厭離穢土」とは、浄土教の用語です。この娑婆世界を「穢れた国土」として、それを厭い離れるという意味であり、「欣求浄土」とは、阿弥陀如来の極楽世界は清浄な国土であるから、そこへの往生を切望するという意味です。
戦国の世は、誰もが自己の欲望のために戦いをしているから、国土が穢れきっている。その穢土を厭い離れ、永遠に平和な浄土をねがい求めるならば、必ず仏の加護を得て事を成すとの意味なのだそうです。
・家康の旗印「厭離穢土 欣求浄土」です。
家康がこの「厭離穢土・欣求浄土」を用いた経緯は次のように言われています。
永禄3年(1560年)桶狭間の戦いで総大将の今川義元を失った今川軍は潰走、拠点の大高城で織田方の水野信元の使者からの義元討死の報を聞いた松平元康(徳川家康)は、追手を逃れて手勢18名とともに菩提寺である三河国大樹寺へと逃げ込んだのです。、
しかし、ついに寺を囲んだ追撃の前に絶望した元康は、先祖の松平八代墓前で自害して果てる決意を固め、この寺の第13代住職登誉天室に告げました。
登誉は問答の末「厭離穢土 欣求浄土」の教えを説いて諭したところ、元康は奮起し、教えを書した旗を立て、およそ500人の寺僧とともに奮戦し郎党を退散させたのです。
以来、家康はこの言葉を馬印として掲げるようになったのだそうです。