goo blog サービス終了のお知らせ 

らいちゃんの家庭菜園日記

家庭菜園、家庭果樹栽培及び雑学日記

下関とフグ

2022-08-24 | 雑学

甲子園球場で繰り広げられていた高校野球は、一昨日、宮城の仙台育英高校と山口の下関国際高校の間で決勝戦が行われました。
どちらが勝っても初優勝だったのですが、結果は8対1で仙台育英高校が東北勢で初めての優勝を飾り、優勝旗が白河の関を超えました。
仙台育英高校の皆さんおめでとうございます。

健闘むなしく準優勝に終わった下関国際高校の皆さん素晴らしい戦いぶりでした。
敗れたとはいえ準優勝です。
学校には胸を張ってご報告してください。
お疲れさまでした。

さて、下関国際高校がある下関と言えば、昔からフグが有名です。
でも何故、下関がフグの町となったのでしょうか?
今日はその経緯について調べてみました。

「フグは6000年前から食べられていた」
日本人はふぐ料理が大好きだと思いますが、6,000年前の縄文時代の人たちも他の魚や貝とともにふぐを食べていたようであり、貝塚からたくさんのふぐの骨が出土しているということです。

「フグ食禁止令」
しかし、そのフグも食べることを禁止された時代がありました。
それは豊臣秀吉の時代です。
安土桃山時代、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、日本各地から下関(九州の唐津という説もあり)に集まった兵士たちの中に、フグを食べて中毒死する兵士が相次ぎました。
ふぐに毒があることを知らない兵士たちが、ふつうの魚のように調理して内臓まで食べてしまったようです。
慌てた秀吉は、立て札にふぐの絵を描かせ、「この魚食べるべからず」とふぐ食禁止令を出したと言われています。

禁止令は江戸時代になっても続き、各藩でふぐ食禁止の取り締まりが行われました。
中でも武士への罰則はとても厳しく、ふぐを食べて中毒死した場合には、家禄没収・家名断絶の厳しい処分が下されました。

しかし、ふぐ料理が発展したのもこの時代です。
運が良ければ美味満喫、運が悪ければ死という、まさに死を覚悟してのふぐ食でした。
そのおいしさから、幕末の志士をも魅了する食材であったフグは、厳しい取り締まりの中でも、おいしさのあまりこっそりと広がっていたようです。



「ふぐ食解禁」
明治時代になっても全国的にふぐ食は禁止されたままでしたが、それを解禁したのは、松下村塾で学び、初代総理大臣になった伊藤博文でした。
1888年(明治21年)、伊藤博文は下関市の春帆楼(しゅんぱんろう)に宿泊しました。
その日は時化で魚がまったく取れず、困り果てた女将さんは、打ち首覚悟でふぐをお膳に出したのだそうです。

ところが、ふぐを食べた伊藤博文はそのおいしさに感動し、山口県知事にふぐ食解禁を働きかけました。
その結果、山口県下ではふぐ食が認められたのです。
こうして、春帆楼はふく料理公許第一号店になり、下関はフグと共に発展していきました。

「フグと言えば下関」
ふぐ食解禁の舞台になった下関は大正時代からふぐの集積地になりました。
そして、ふぐ食が盛んになったことから、「下関といえばふぐ」が定着しました。
戦後、下関がふぐの漁獲量日本一になった時期もありましたが、次第に漁獲量が減少し、今では水揚げ量トップ3にも入っていません。
それでもふぐの街と言われるのは、下関が日本一のふぐの集積地になったからです。

下関には全国で唯一、ふぐを専門に取り扱う市場の「南風泊市場(はえどまりしじょう)」が設置されました。
この市場はふぐのセリや毒のある部分を除く解体作業、加工など、ふぐの取引に関することに特化した市場です。
こうして下関は、ふぐ取扱量が全国一位の街となり、現在に至っています。