らいちゃんの家庭菜園日記

家庭菜園、家庭果樹栽培及び雑学日記

大阪城史跡めぐり(その6)難波宮跡

2014-10-15 | 地元紹介

「大阪城史跡めぐり」シリーズ、最終回の今日は「難波宮跡」をご紹介します。
難波宮跡は大阪市中央区法円坂の一帯に広がっている史跡公園で、大阪城から中央大通りを挟んで南西方向へ約1㎞ほどのところにあります。

「難波宮(なにわのみや)跡」
昭和36年(1961年)の発掘調査により、難波宮跡は大きく分けて前・後2回の宮殿遺跡とそれ以前の建物跡があることが明らかにされたそうです。
ここには、前後2期の難波宮の遺跡のほかにも、それ以前の大規模な建物跡がほぼ全域で発見されているそうです。
このことから、港を控えた難波の地は、5世紀以降、外交・文化・経済・政治の要衝として栄えていたことが窺えるということです。



難波宮史跡案内図です。赤色部分が前期難波宮史跡、青色部分が後期難波宮史跡。(ネットより)


「前期・難波宮」
前期・難波宮跡は全ての建物が掘立柱で、7世紀の中ごろ飛鳥の曽我氏が滅ぼされて後、都が難波に移されて造られた難波長柄豊崎宮(なにわながらとよさきのみや)ではないかと言われており、天武天皇朱鳥(しゅちょう)元年(686年)に、火災で全焼するまで続いたと考えられているそうです。
この宮殿は最初の本格的な中国風の都と言われる大和の藤原宮に先行するもので、古代国家の成立期の貴重な遺構だそうです。

・前期難波宮の模型です。(ウィキペディアより)


「後期・難波宮」
後期・難波宮跡は、奈良時代の神亀3年(726年)聖武天皇の時に造営された宮殿です。
大極殿や朝堂院の中心建物には礎石が用いられ屋根には蓮華文・唐草文・重圏文軒瓦などの瓦が葺かれていました。天平16年(744年)には、ここ難波宮が首都と定められましたが、翌年再び平城宮へと遷されました。

・後期難波宮の模型です。。(ウィキペディアより)


飛鳥板葺宮での蘇我入鹿の暗殺によって始まった大化の改新ですが、その際、孝徳天皇が遷都したのが難波宮(難波長柄豊崎宮)でした。
難波の宮はそれ以来、8世紀末までの約180年間、首都としてまた副都として日本の古代史に大きな役割を果たしました。

・難波宮史跡公園の南側から眺めた大極殿跡です。


・難波宮史跡公園の西側から眺めた大極殿跡です。


・大極殿跡上にある復元された礎石跡。


「法円坂遺跡 倉庫構造模型」
難波宮史跡公園のすぐ傍の法円坂遺跡には、わが国の5世紀倉庫群としては最大規模の法円坂倉庫群がありました。
そのなかの1棟を復元したのが下記の倉庫です。
上町台地の北端に当たるこの地に、5世紀後半(古墳時代中期)16棟以上の大型建物群が建てられていました。
建物は高床式倉庫と考えられており、1棟の大きさは90㎡、当時としては最大級の規模だったそうです。
床を支える束柱と別に、巨大な屋根を支える柱が建物内部に立てられているところに構造上の特徴があるそうです。

・大阪歴史博物館前に展示されている、縮尺1/20で復元された古墳時代の倉庫です。

コメント (1)
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