今回の“熊野古道を歩く”シリーズは今日の4回目が最終となります。
今日は武蔵坊弁慶の父・熊野別当・湛増(たんぞう)が鶏を戦わせて源平合戦でどちらに加勢するかを決めたとされる「闘鶏神社」をご紹介します。
「鬪雞(鶏)神社」
鬪雞(鶏)神社(とうけいじんじゃ)は、JR紀勢線紀伊田辺駅から10分ほどのところにある神社で、旧称は田辺宮、新熊野権現と称し、通称 は権現さんと云われているようです。
允恭(いんぎょう)天皇8年(419年)9月、熊野権現を勧請し、田辺宮と称したのが始まりと云われています。
「闘雞神社(とうけいじんじゃ)」の名前の由来は、壇ノ浦の合戦で源氏側と平氏側の両方から熊野水軍の援軍依頼を受けた武蔵坊弁慶の父・熊野別当湛増が、どちらに加勢するのかを決めるため、白を源氏側、紅を平家側に見立てた7羽の鶏を闘わせたことから来ています。
白が勝ったため源氏側に加勢したことが、壇ノ浦の合戦の勝敗を分けたと言われています。
・闘雞神社の本殿で、伊邪那美命(イザナミノミコト)の神が祀られています。
社殿です。手前から中御殿・下御殿・八百萬殿で、
・中御殿には、瓊々杵尊(ニニギノミコト)、鵜草葺不合命(ウガヤフキアエズノミコト)の神が、
・下御殿には、火産霊命(ホムスビノミコト)、弥都波能売神(ミズハノメノカミ)の神が、
・八百萬殿には、天手力男命(アマノタヂカラオノミコト)八百万神(ヤオヨロズノカミ)の神が、
それぞれ祀られています。
「御神木の大楠」
この御神木は樹齢約1200年と伝えられているものです。
2度の落雷により中央部以上が焼失欠損していますが、樹高は14m、根本周囲が11mあって、延命長寿、無病息災の信仰があるそうです。
「馬場」
幅約11m、長さ約230mの闘鶏神社の馬場です。
この馬場は、本来は若宮神社まであって、江戸時代から流鏑馬や競馬の行事が行われていましたが、昭和39年に危険防止などの理由により中止し、現在に至っています。
「熊野別当湛増と弁慶の父子像」
源平合戦たけなわの頃、熊野別当・湛増(たんぞう)は強大な戦力である熊野水軍を配下に持っていたことから、源氏と平家の双方から加勢を頼まれました。
戦況を冷静に見守った湛増は、文治元年(1185)正月、新熊野権現に参拝し、境内で紅白の鶏を戦わせて神意を計りました。
その結果、白い鶏が勝ったのを見て、源氏への加勢を決めたと伝えられます。
闘鶏の場となった新熊野権現はその後、「闘鶏神社」と呼ばれるようになったそうです。
一説によるとこの湛増が、武蔵坊弁慶の父であるといわれており、ここ和歌山県田辺市が弁慶の出身地と云われています。
・熊野別当・湛増と弁慶父子の前で戦う鶏の像です。
今回の熊野古道の終着点、JR紀勢線紀伊田辺駅です。この駅から10分ほどのところに、「闘鶏神社」があります。