らいちゃんの家庭菜園日記

家庭菜園、家庭果樹栽培及び雑学日記

世界遺産「二条城」(その1)

2011-04-16 | 旅行

京都御所の参観を終えた私たちは、御所から1キロ余り南西の方向に位置する「二条城」を見学することにしました。
「二条城」は世界遺産に登録されている歴史的建造物の一つです。
今日から数回に分けて世界遺産「二条城」をご紹介します。

「旧二條城跡」
京都御所から徒歩で二条城へ向かう途中の、京都市上京区烏丸下立売(武衛陣町)に、「旧二条城跡」の石碑がありました。
ここには、遺構などは無く、「旧二條城跡」と書かれた石柱碑と説明板があるだけです。

説明文によれば、1569年(永禄12年)に織田信長が、室町幕府第15代将軍 足利義昭の将軍座所(居城)として、約390メートル四方の敷地に70日間で、四方に石垣が高く築かれ、二重の堀や三層の天守閣を備えた平城を築きました。
周辺からは金箔瓦も発掘されており、短期間での築城のわりに豪華な城郭であったと推測されています。
その後、織田信長はこの旧二条城から足利義昭を追放し、東宮 誠仁親王(さねひとしんのう)を迎え入れ、城は「二条御所」として利用されましたが、室町幕府の滅亡とともに廃城になりました。
1576年(天正4年)に旧二条城は解体され、安土城の築城のための建築資材として再利用されました。



「二条城」
「二条城」の正式名称は「元離宮二条城 」と言い、古都京都の文化財を構成する17の歴史的建造物の一つとして、1994年(平成6年)12月に世界文化遺産に登録されていますが、このお城は慶長8年(1603年)、徳川家康が京都御所の守護と将軍上洛の際の宿所として築城されたものです。
その後、伏見城の遺構を移すなどして、3代将軍徳川家光が寛永3年(1626年)に今の形に完成しました。
以来、大坂冬の陣、夏の陣ではここから出陣するなど、幕府の重要な拠点となり、家康と豊臣秀頼との会見場所にもなりました。
幕末の慶応3年(1867年)には最後の将軍となった15代将軍徳川慶喜が二の丸御殿大広間において大政奉還を宣言し、政権は朝廷に返され、265年にわたる江戸幕府はここで幕を閉じました。
その後、明治維新を迎え、二条城は宮内庁の所管となり、『二条離宮』と改称されたそうです。

・二条城全図です。


「東大手門」(国の重要文化財)
東大手門は、二条城の正門で、江戸時代前期の1662年(寛文2年)に造られました。
屋根は、本瓦葺、入母屋造りとなっており、形式は櫓門で石垣と石垣の間に渡櫓を渡し、その下を門としています。



・世界文化遺産への登録の証です。


・「旧二条離宮」の石碑が立っていました。






・西築地塀です。五筋の白線をつけた薄い泥色の壁で、これは塀として最高の格式を示すものだそうです。