先日、堺観光コンベンション協会の「銀座の柳」の由来についてご紹介しましたが、同協会はこれ以外にも観光案内板を設置しています。
今日は堺市材木町東2に設置されている観光案内板「一休さんと堺の言い伝え」についてご紹介します。
その観光案内版によれば、応仁の乱後、堺に来ていた一休さんは、このあたり(現・材木町東)にあった扇屋から婿入りをお願いされた時、白い扇子に真っ黒なカラスの絵を描いたところ、その扇が次々に売れたそうで、
その様子を堺市民が詠んだ狂歌が次のように伝えられているとのことです。
「一休が 墨ごろも着て 婿入りは 扇に描いた カラスなるらん」
「一休さん」について
案内板にはこの事だけだったので一休さんについて調べてみました。
一休さんは臨済宗の禅僧で、その名を一休宗純(いっきゅうそうじゅん)と言い、「一休さん」の愛称で親しまれていたようです。
出自は後小松天皇(ごこまつてんのう:在位1382~1412)の落胤(らくいん)とする皇胤(こういん:天皇の血統)説が有力視されています。
『一休和尚年譜』によれば、母は南朝方の高官藤原氏の血筋であり、後小松天皇の寵愛を受けていましたが、帝の命を狙っていると讒言されて宮中を追われ、民間に入って一休を生んだと言われています。
一休さんの人柄は自由奔放で、奇行が多かったと言われています。
その奔放の中には、「男色はもとより仏教の戒律で禁じられていた飲酒・肉食や女犯を行った」と言う逸話も伝わっているそうです。
このような彼の戒律や形式にとらわれない人間臭い生き方は民衆の共感を呼び、江戸時代に彼をモデルとして一休咄(いっきゅうばなし)に代表される頓知咄(とんちばなし)を生み出す元となったと言われています。
因みに、幼少時代の有名な頓知(とんち)に、「屏風の虎退治」や 「このはし渡るべからず」があります。
・「屏風の虎退治」
足利義満が一休に出した問題の一つで、
「屏風絵の虎が夜な夜な屏風を抜け出して暴れるので退治して欲しい」と義満が訴えたところ、一休さんは「では捕まえますから虎を屏風絵から出して下さい」と切り返し、義満を感服させました。
・「このはし渡るべからず」
桔梗屋が一休さんに出した問題の一つで、
店の前の橋を一休さんが渡ろうとすると、「このはしわたるべからず(『この橋を渡るな』の意)」と書いてある、との問いに対し一休は、「この端(はし)渡るべからず」と切り返し、橋の真ん中を堂々と渡った、と言うものです。
子供の頃によく聴いた懐かしい頓知(とんち)話ですね。