アートの意味


 8月19日までやっていた日経最終面の服部正氏による『勝手にアーティスト十選』は面白かったですね。「ワイヤーマン」の作品はぜひ見てみたいです。

 このコラムは要するにいわゆる「芸術家」でない人、とくに精神に障害のある人の「作品」十選ということです。

 18日のエミール=ジョゾム・オディノの細密画についての回で、オーギュスト・マリーというフランスの精神科医のことが書いてありました。

「マリーのような収集家がいなかった時代には、この手の作品はすべて破棄されていた。ある絵が美術として後世に伝えられるか、ゴミとして捨てられるか、それはほんの紙一重の歴史の綾にすぎないことも多い」

と服部氏は書いておられます。

 こういう「妙な」ことを始めるのは、フランス人のお家芸のような気がしますね。政府の文化政策うんぬんより前に、何か「面白いもの」に敏感に反応する精神、またそういう反応をすることを奨励する風土は、この土地に住む人たちに古くからある性向のように思われます。

 さらにいうと、十九世紀末の時期に、ある「ワザ」の極致を意味していたはずの art が、人間の自我や理性の下に眠る「なにものか」を引きずりだしたり、あるいはそういう「なにものか」との関連を予感させるようなもの「でもある」、という意味の広がりをもった、ということも意味していると思います。

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カメルーンからの声


 カレース・フォツォKareyce Fotsoさんは、だいたいワン・ウーマンのパーフォマンスです。ギターを弾き語りしたり、打楽器みたいに扱ったり、あるいは他の楽器(?)を持ち出したり。
 小柄でエネルギッシュなところなど、同じカメルーンのサリー・ニョロを思わせますね。

 シンポジウムでの彼女の発言では、ラップのような形態のリズミカルな言葉にを紡ぎ出すジャンルはカメルーンにも昔からあった、現在ではフランスのマーケットを目指してフランス語でラップするアーチストが多い、というのが関心を引きました。
 アメリカが外国の音楽に非常に閉鎖的である以上(まさに、そうなのです)、フランスのマーケットを目指すアーチストは後をたたず、それだけフランス語というのは世界的に生命を保つことになるわけです。
 このへんが『日本語が亡びるとき』の視野に入ってないところが、困るんですよね(このエントリーなど、一連の考察をごらんください)・・・

 さて、スキヤキ・ミーツ・ザ・ワールドのお話はこれくらいにしておきましょうか。来年は20周年だそうで、例年以上に盛大に開かれるでしょう。楽しみですね。



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