身体性、場の共有


 さてスキヤキ・ミーツ・ザ・ワールドが今年初めて企画したシンポジウム:「ジンバブエの現実。アーティストたちができること」(22日16時、於円形劇場ヘリオス)。

 名古屋大の松平さんによるジンバブエの歴史概観のあと、都市大学東京の平尾先生とチウォニーソさんとの対談、それにカメルーンのKareyce Fotsoさん、サカキ・マンゴーさんがコメント、という感じで進行しました。

 チウォニーソさんは英語で、カレースさんはフランス語で発言してました。カレースさんの通訳はこのイベント運営の中枢、ニコラさんが勤めざるをえないですね(↑はその様子です。黄色い服がチウォニーソさん、緑がカレースさんです。ワールドミュージックの世界ではよくこういう感じになります。金沢大学国際学類でフランス語履修した学生さん、このイベントのインターンしようよ)。

 シンポジウムの主眼、ジンバブエの現実に対してアーチストができること、というのはちょっと議論が煮詰まらなかったかな、と思います。
 でもチウォニーソは疑いなくアンガジェengagerするアーチストなので、その活動をフォローしていけば彼女の真意は明白に分かるはずです。彼女は「自分は自分が日常に出会うものを歌うだけだ」といっていました。そうするとおのずから政治は彼女の歌の中に入ってくるのです。

 ところでシンポジウムは、チウォニーソの演奏を聴く前日だったのであまり気にしてませんでしたが、書きとめたノートを見ると、彼女は「アルバムでは、自分の作るのは常にトラディショナルなもので、ただ心の中で自分がどこにいるか、そしてどういう人と一緒に演奏するかによって変わるだけです」「でもパーフォマンスではわたしはクレージーです。違う音を出します」と言ってましたね。
 たしかにアルバムとライブは別物でした。

 サカキ・マンゴーさんはピックアップのもたらした変化に言及していました。
 親指ピアノにピックアップをつけて音が増幅されると、楽器の周りにいる数人にしか聞こえなかった音が一挙に数百人、ときには数万人に聞こえるようになったのです。
 つまり、それだけの人数の人が「ひとつの場」にいることになった、アーチストとひとつの場、ひとつの時間を共有することになったわけですね。

 ふたつ前のエントリーで、チウォニーソが体を旋回させるときに発する「気」、というようなことを書きました。
 これを感じるということが、すなわちアーチストと場を共有するということで、これはCDやMP3媒体の音が持ちえない、生身のアーチストがそこにいないとえられない音の統一感なのだと思います。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« リズムの普遍性? スキヤキ夜店 »
 
コメント
 
コメントはありません。
コメントを投稿する
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。