朝日夕刊「闘うフランス語」について 4

(「闘うフランス語」原文はこちらで御覧下さい)

ここで「闘うフランス語」第三回全体で扱われているアカデミーフランセーズのことを少し考えます。「闘うフランス語」での扱いは少しおいた、一般論に近くなりますが。
フランス語をその完成された形に維持する使命をもった「アカデミー・フランセーズ」は、フランスの保守性の象徴であり、またその存在は言語を「お上」がコントロールしようとする意志と力の具現したものとみなされ、日本人の潜在的嫌悪感を刺激するように思います。「言葉なんて、お上に言われてどうこうするものかね? フランス人はなんと傲慢か。だいたいお上の号令で言語を固定するなど不可能に決まっているではないか」という思いです。

しかしアカデミーは、ひとつのファクターにすぎないと思います。全能ではないし、まったくとるに足らない存在でもないのでしょう。このあたりの感覚が日本の読者には分かりにくそうですが、アカデミーを紹介するときには少なくともアカデミー関係者の言葉が全フランス人の意識を代表しているとは到底言えないことが少し読者の念頭に浮かぶような書き方がなされた方がいいのでは、と考えます。

ちなみに、いわゆる「新語言い換え」の問題は先にも述べたように日本では「フランスでは自国語をこんなに大事にしている。しかるに日本は」と言いたいか、あるいは「なんとちまちまと面倒な作業をするものだ。しかもこれは国家主導の事業だ。ナショナリスム的には問題があるが、英語でもなんでもどんどん取り入れないと時勢に乗り遅れるのに、保守的な国だ。やがて『一等国』からすべりおちるに違いない」と言いたいか、どちらかの文脈でしか扱われないものですが、やっぱりフランスにとってある種の実利があるからやっていることだとわたしは思います。
日本語を勉強する外国人の大きな不満は、現代日本語には英語が入り過ぎていて奇麗でないし、面白くない、というものであることの意味を考えるべきでしょう。それに英語があまりできない人々は、英語「も」覚えないと日本語がしゃべれないことになって負担になる、ということにもなります。

またより一般的に「言語をあまり変化しないようにする」という努力は、それだけ「文化資本」を蓄積することにつながるのを忘れてはいけません。現代フランス語を勉強すれば十七世紀のラシーヌも問題なく「楽しく」読めますが、現代日本語を学んだってそれだけでは近松が楽しく読めるわけではないですね。どんどん変化する日本語は、せっかく日本人が生み出した言語芸術の傑作をどんどん「賞味期限切れ」にしてしまっているのです。こういうところからもフランスの「文化大国」という自負がダテではなく、一朝一夕に真似るわけにいかないものであるのが分かります。
言語の変化を完全に止めることなどできはしません。しかし現代フランス語をラシーヌやモリエールを楽しめる言語にとどめることには成功しているのですから、アカデミーの努力はそれなりの成果をあげているわけなのです。


ここまでけなしてばかりきましたが、「闘うフランス語」はもちろん有益な記事であることは疑いありません。第四回の冒頭、アメリカ史観で自国の歴史の解釈を塗りつぶされてしまってはたまらない、という思いなどは日本人も非常に共感できるところですから、フランスの試みもみんながみんな利己的で滑稽なものばかりではない、と日本の読者も了解するでしょう。自分達もそういう試みを考えておかねばならないという気にさせられるでしょう。

でもフランスの試みが自国語、自国文化「防衛」、ときには滑稽な様相を呈する防衛の相でばかりとらえられているのは問題です。またときにはそれがエスカレートした形で、自国語に世界での「覇権」を得させようとしているかのような印象を与えるのはよりいっそう問題だと思います。

また同じ第四回で、フランスでは、英語力はともかく、小学校高学年から外国語を必修にしているし、中学後半から第二外国語を学ばせていることを「闘うフランス語」が伝えているのは、日本の外国語教育事情の貧困を痛感させることになり、よいことだと思います。
しかしバルニエ外相が英語ができず特訓中という話で日本の読者の笑みを誘うのはよいですが、それならかの緒方貞子氏が要職につかれてから多忙な時間を割いて必死にフランス語を勉強されたという事実にも、もっと日本の読者の注意を喚起してしかるべきではないでしょうか。それでこそ「遠い国のめずらしい話」でない、フランスとフランス語、日本が互いに持っている関係についてのより実質的な情報を日本の読者に提供することになります。

朝日新聞の方々には、今度はもっと日本の人々に直接ためになるフランス語の様相を扱ったシリーズをお願いしたく思います。ご一考くたされば幸いです。(つづく)

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朝日夕刊「闘うフランス語」について 3

(「闘うフランス語」原文はこちらを御覧下さい)

わたしは、音楽の分野にはいまも厳然としてフランス語の実質的利益、オリンピックの公用語などというシンボリックな話でない、実利があると認識しています。実際、世界の音楽を少し詳しく研究しようとすると、フランス語を知らないとひどく不便だというのがすぐ分かります(なぜそうなのかというのを簡単に説明するのは難しいのですが・・・ひとつには白人居住区と黒人居住区が截然として別になっているのが当然というアメリカは、場として「ワールドミュージック」というものをはぐくむ条件が弱く、その結果この分野ではどうしても英語はフランス語にある程度名をなさしめてしまう、ということなのだと言えそうに思います)。
ですから「闘うフランス語」がこの分野におけるフランス語を「防衛」の相でしか見ていないのはかなり困ったことのように思えます。しかも問題になっているのは「国家の」防衛のようなのです。「闘うフランス語」によればフランスでは、ラジオ局のDJのモニターに

曲名が赤く点滅すればフランスの曲、青と緑なら外国の曲。色で「国籍」を管理する

ようになっているとのことです。このような話はわたしには初耳なので現在照会中なのですが、これは「フランス語の曲」「それ以外の言語の曲」ではないのでしょうか? 「国籍を管理する」とはなんとも露骨なナショナリスムですが、そういうことはフランス政府も考えてはいないと思うのですが(わたしの誤りでしたらお詫びいたします)。

ポップ音楽の旋律に乗ってなだれ込む英語への防波堤として、フランスは96年、ラジオで使う歌の「40%以上はフランス語の歌詞であること」と法律で義務づけた。

というのは有名な話です。しかしこの措置が移民二世三世のラップをやる若者たちに大きな利益をもたらしていることも認識しておくべきだと思います。彼等のフランス語曲が電波に乗る機会が増え、名前をあげるチャンスが広がったわけですから。
フランスは「血」によるアイデンティティがずいぶん昔から成り立たなくなった国です。20世紀初頭の右翼の巨頭バレスも、民族的にフランス人を定義することが不可能であることを認めています。多民族国家フランスでは、フランス語を使いさえすれば民族的出自を問題にすべきでない、というコンセンサスが形成されてきていているようで、ラジオ放送におけるフランス語優先も、当然そういう形の「多民族のフランス」擁護なのです。言語の純粋性の擁護は民族の多様性の擁護と直結しているのです。社会事情の甚だしく違う日本の読者には、このあたりをしっかり認識してもらうような報道が必要であるように思います。

以上は内向き、フランス国内向けの音楽の話です。「闘うフランス語」では「洋楽の世界」におけるフランス語の問題も紹介されていますが、それが世界の音楽界における話なのか、日本の音楽界の特殊事情なのか、提示の仕方があいまいであり、同じような問題を引き起こしています。たとえば、

洋楽の世界は英語圏アーティストの独壇場。日本でも人気のポップバンド「タヒチ80」は、スウェーデンの「アバ」のように英語で歌ってそこに食い込んだ。

というような書き方がされているとき、日本「でも」人気のタヒチ80、と言うからには、話の射程は全世界を覆っているのでしょう。「そこ」に食い込んだという「そこ」というのは「世界の」ポップ音楽マーケットを指すように見えます。だからそれに続けて以下のように語られる時、東京事務所の山田氏の言葉が引用してあるにせよ、問題になっているのが世界一般の事情であるかのように読まれる危険が大だと思います。だいいち、このシリーズではここまで「日本における」フランスは話題になっていなかったのですから。

「フランス語を強調すると、CDは『ワールド・ミュージック』や『民族音楽』のコーナーに並べられ、一般のファンの手に届きにくい」と、同事務局東京事務所の山田蓉子代表は悩む。
だがフランス語でファンをつかむ人も現れた。セネガル出身、2歳でフランスに移住した男性シンガー・ソングライター「テテ」。美しいフランス語を力強く響かせる。NHK教育テレビ「フランス語会話」で紹介され人気に火がついた。

最後の「NHK教育テレビ」云々は日本の話であることがあきらかですが、この流れで読んできた読者は、タヒチ80と同じ「日本でも」という一語をテテに関しても無意識に加えて読み、そこまでの話は世界全体に当てはまることとうっかり読みかねないのではないでしょうか。そうなると日本の一般大衆には、セネガル系のテテのようなヨーロッパ系の出自でないアーチストが世界レベルでフランス語でヒットを飛ばすようなことがこれまで例をみなかったように読めてしまいそうです。
少し音楽界の事情を知っている人なら、そういう例はこれまで数えきれないほどあり、世界もそういうフランスをよく知っているということを、当然のように知っています。アルジェリア人のKhaledがAicha をフランス語で歌いラオス系のWilly Denzey がフレンチr'n'bをフランス語で歌うように(ちなみにテテの場合、自分のアフリカ・ルーツを意識しない音を出しているのでいささか特異な存在としてフランスでは目立っているのですが、そのため日本では日本でのフランス・イメージ(この国の民族的多様性というのが視野に入っていないイメージ)にうまく合ったことが、テテの日本における成功の大きな要因だと思います)。

フランスは自らの持ついわゆる「ソフトパワー」の資源を最大限に生かすことにかなり成功している国といえます。だからこそ経済力や軍事力で米国の足下に及ばなくても世界内でかなりの存在感を保ち得ているのではないでしょうか。
そしてフランスのソフトパワーは、この国が内包する民族的、文化的多様性を大きな資源としているのです。
そういう視点が「闘うフランス語」では欠けているのが残念です。「純粋性」「防衛」の話ばかりで、「多様性」「ソフトパワーによる攻撃」の視点がないのです。これでは日本の読者に資するところがないのではないでしょうか。(つづく)

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rai info/ライ・ニュース 002

LE NOUVEL ALBUM DE CHEB MAMI EN SEPTEMBRE 
シェブ=マミもハレドに負けてはいません。(^_^) 9月の新アルバム発売を予告しました。今回のアルバムは全体がエジプト録音で、マミ自身の言葉によれば rai oriental と呼ぶべきものになるだろうとのことです。ハレドとの方向性の違いも見えますね。もっともこのアルバムにマミはイラクのKadhem Essaherとの共演曲をおさめていますが、エッサヘルとはハレドも共演予定ということです。なお今年もマミは7月5日の独立記念日にアルジェでメガコンサートを予定しています。05.05.09.
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朝日夕刊「闘うフランス語について」 2

(「闘うフランス語」原文はこちらで御覧下さい)

日本で「フランス」と「言語」とが結び付けられて話題にのぼるとき、その結論は「フランスではこれだけ自国語を大切にしておる。しかるに我が日本では・・・」という慨嘆であるか、その反対に前回述べたような先入見の確認、あるいは「フランスでは政府、アカデミーが目を光らせていて、フランス語を固定しようとしている。これでは現代社会についていくのは難しかろう」という一種の嘲笑になるように思われます。
そしていまだにかのドーデの『最後の授業』のイメージ、すなわち「言語を奪われてしまう哀れなフランス」が連想されます。往時の日本の読者がほとんど気付かなかったことながら、ドーデの作品は「敗戦によって母語が奪われる」という話ではなかったことを注意しておく必要があります。ともかく「闘うフランス語」におけるフランス語提示の背景にもこのイメージがしっかり残存しているように思われます(詳しくは田中克彦著『ことばと国家』(岩波新書)などをお読み下さい)。
人がその母語の差によって差別されることは、あってはならないことです。母語が差別され、教育機会を奪われ、おとしめられようとしているなら、時には無謀といえるような反抗、成功の望みの薄い努力をしてもそれを阻止しようとするのは当然のことです。
しかしこの「闘うフランス語」の扱うフランス語がそういうレベルで闘っているのでないことは明らかです。そこにあるのは「いまなお世界で英語と張りあおうとしている 」フランス語です。
「自分の言葉、自分の母語を守るべきだ」という話と「自分の母語を世界的に英語と張り合う大言語にしたい」という話とは全く別物なのに、「闘うフランス語」ではイメージ的に同じもののように扱われているのではないでしょうか。
「戦いは厳しい。相手は英語だ」(第一回)という、いささかからかいの調子が感じられるひとことが象徴的です。こういう提示の仕方は、様々な傾向が存在するフランス語擁護者をいっしょくたにして「英語が世界の国際語の地位を獲得した」という現実に目を背ける者と見えさせ、かえってフランス語への無用な反感、国益や世界益を損なうような反感を育てることにつながりはしないでしょうか。

この記事でのオリンピックの公用語に関する報道ではそれが顕著です。
フランス語圏の諸国からもっとメダリストが輩出するようになれば別なのかもしれませんが、今のところフランス語ができるのが「ボランティア全体の3%」くらいだという現状になっていることが報告されています。そういうオリンピックの公用語としてのフランス語をもっと強化するために「中国政府への働きかけを強める」という元仏国営テレビ社長の決意が紹介されています。
しかしこのような決意は結局、英語にフランス語を加えて、象徴的ではない実質的な特権的言語を、一つ(英語)ではなく二つ(英語+フランス語)作ろうとしていることになります。
その論理でいけば英語、フランス語ときて、三位以下の言語は知ったことではない、フランス人はそれ以外の言語とそれらの言語を母語とする人々のことには関心がないということになりかねません。
このようなものが「フランス語振興」の正体だとしたら、日本人にとってはどうでもいい、むしろ腹立たしい、「フランス人が勝手にやっておればいい」話ではないでしょうか。
このようなオリンピックにおけるフランス語の話の後に、仏文化省仏語委員会代表の

「単にフランス語のためというだけでは仲間が広がらない。グローバル化の中で多様な言語を守る戦いにしていきたい。」

というような言葉が引用され、

この考え方は「多極世界」で影響力を保とうとする仏政府の外交戦略とぴったり重なる。

という解説が加えられると、読者にはどうしても「衣の下から鎧が見えている」印象を与えるように思われます。「多様性の擁護などというのは口実であり、実は自国語の覇権しかフランス人の頭にはないのだ」という印象です。

またこの連載の最初には、仏独露西の首脳会談で同時通訳が聞こえないトラブルがあったときドイツのシュレーダー大統領が口火を切って英語コミュニケーションが始まったという逸話があげられていました。これが「外交舞台の『英語支配』を活写した」ということなのですが、率直に言ってこういうケースで皆が英語で話し出すのはまったく当然のことで、なにも驚くにはあたらないことです。プレスの人たちがどよめいたとしたら「こんなふうにわざわざ同通用意してなんのかの面倒なことするのってままごとみたいなところあるよなあ。(『欧州』作りのために)大事なことではあるんだけどね」というおかし味が関係しているのではないでしょうか。

フランス語の独自性を守るためにフランスが戦うのはいいことです。しかしそれは外交の場でヨーロッパ首脳がみんな英語を知っていて、必要に応じて共通語として使えるということと全く両立可能なことのはずです。
もしこういう場合でもフランス語を「共通語として」使ってほしい、という心がフランス人にあるのだとしたら、それは「英語にとって替わって」ということになるはずですが、そのような高望みに誰がつきあう必要があるでしょうか。

このような事例は、「闘うフランス語」を執筆された記者の方々の意図がどのようなものだったにせよ、「フランス人の高望み」の例として記憶されるようなものになってしまっています。前にも述べたように、フランス語の現在のステイタスは、「闘うフランス語」では、以下のように過去の威光の名残りとしてしか提示されていません。

国際フランス語圏機関(OIF)が3月に出した報告書によると、中国語、英語、インドのヒンディー語、スペイン語、ロシア語、アラビア語などより少ない人口規模だ。
だが、フランス語の存在感はこの実態以上に大きい。20世紀初めまで上流社会の共通語だったためだ。

この文脈では当然のことかもしれませんが、比較の対象がヒンディー語を除いて見事に国連の公用語の列挙になっているのは興味深いことです。記者の意図はともかくとして、「フランス語は過去の栄光にしがみついているだけだからそれと並んで、あるいはとってかわって日本語が国連の公用語になっても構わないのだ」という認識につながりうるものになっています。また

フランス語はかって、先進的な思想や優れた文化を広める「文明化の先兵」だった。

という、かつての「白人種の文明化使命」を思わせるような表現は、今日においては反発を招かずにはおかないもののように思えます(アメリカ思想界におけるフーコーやデリダの権威などを考えれば現在でもそんなにはずれてはいない話だとわたしには思われますが)。

わたくしの個人的経験からすれば、現在の一般のフランス人にフランス語を英語と同じレベルの国際語にしようなどという大それた、はた迷惑な思いが支配的であるとはとても思えません。
フランス人一般を警戒し反感を持つべきと信じる人はいるかもしれません。しかし日本語を母語とする一般人として大事なことは、フランス政府の言語政策が日本、および世界の利益につながっている場合にはそれに協力すべきで、そうでなければ協力すべきではなく、フランス語学習に(単に「かっこいいから」というようなものも含めて)なにかの意味での利益を見いだすなら勉強すればよい、と考えることではないでしょうか。
やみくもにフランス語振興を絶叫しているフランス人ばかり提示するのは、かえって日本の読者に対して日本におけるフランス語に反感を持たせ、その実質的価値を隠蔽し、おとしめることにつながるのではないでしょうか。
「闘うフランス語」が、立場上フランス語普及を促進しなければならない部署の「偉いさん」の談話ばかり載せて、フランスの庶民の感覚にほとんど触れていないのはまことに残念なことです。(つづく)

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rai info/ライ・ニュース 001

GRAND CONCERT DE KHALED A ALGER
ひさしぶりにハレドがアルジェで大コンサートを開きました(4月28日、於 Stade du 5 juillet)。去年最新アルバム Ya Rayi でアルジェの歌謡ジャンルであるシャアビを大きく取り上げたこともあり、これは順当な戦略だと思います。El Watan 紙の報道によれば受けは良かったようです。Trigue Lycee, Didi, Aicha, Chaba, N'ssi n'ssi とヒットナンバーを総ざらえにして、Abdel Kader ではラシード・タハの歌い方を真似たりするご愛嬌(?)も見せたとのこと。カルロス・サンタナとの共演曲を追加した Ya Rayi 英米盤発売も控え、どうやらハレドは今、アングロ=サクソン世界への本格的進出を視野に新たな飛躍をはかっているところのようですね。これがある程度うまくいけば、日本制覇まであと一歩です。期待しましょう。(^_^) ところでこの「RAI INFO/ライ・ニュース」はこのブログと「ライ大好き!」の両方に載せています。よろしくお願いいたします。
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ベルギー

渋谷東急BUNKAMURAのベルギー象徴派展行ってきました(5月1日)。
ご存知のとおりベルギーという国は大きく分けてフランス語を話す地域とオランダ語を話す地域の二つでなりたっていますが、面白いのは象徴派がらみの場合、ベルギーのフランス語地域の人よりむしろオランダ語地域出身の人の方がフランス語を使って活躍しているというところです。フランス語地域は結局文化的にフランスと一体をなしている感じで、かえってその外部の人の方が合理主義を越えた影の力みたいなものを自分達の中に見いだすことができて、それをオリジナリティとしてフランス、パリという文化中心向けて発信することができた、っていうことでしょうか。だとしたらフランス、フランス語というもののあり方、ベルギーという国のあり方をよく示した現象ですね。
あと現代における Hergeや Franquin、E.P. Jacobs といったマンガ界の大物たちの貢献を考えれば、1830年に生まれたベルギーという若い国のパワーがフランス語圏文化にもたらした影響力とその特質というのは、そのものとしてしっかり研究する必要があるように思われます・・・つまりはベルギー単独のストーリー性の探索、ということになりますかね。(^_^)v
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サラーム海上さんの「夢紀行」~「好きになる」ということ

サラーム海上さんのレクチャー「エキゾ夢紀行」でインド(古典)音楽の魅力に触れてきました(ゲスト:タブラ奏者U-zhaan さん。4月30日、於アップリンクファクトリー。渋谷は東急百貨店の前の道をずーっと行って右手。ローソンのはす向かい)。

インド音楽というのは、聞けばわたしもノリますが、わたしの内部ではまだなんかいまいちピンと来てないです。サラームさんからもったいなくも現地での貴重なビデオを特別に見せていただいたのに、のめりこむまでの「とっかかり」をつかめていない感じがします。なんというか、インド音楽にまつわる「ストーリー性」がつかめてないせいもあると思います。わたしってほんとにオハナシにこだわってしまう性質なので。ちなみにわたしの大好きなアルジェリアの「ライ」なんかだと、これはもう本当に強烈なストーリー性があります。植民地支配からの解放、近代的国家建設、イスラムの台頭、テロリスム、移民二世のアイデンティティ探索などなど、現代世界のいちばんホットな「オハナシ」にしっかと絡み付いてますから。

ところでもう少し一般的なお話をすると、「好み」「愛好」というものは「ピンボール」みたいなところがあると思うんですよ。
音楽を例にとりましょう。いくら「いい音」であってものめり込むだけの思い入れを自分の中で得るに至らない音というのはたくさんあります。そのうちのいくつかの音が、なんかのはずみに「ストン」と魂のどこかにはまって「あ、これは『これ』なんだ」みたいな感じがする瞬間が来ると思うんです。そうなっちゃうともう、めったなことではその音は心を離れてくれません。というか生そのものみたいな感じに、実際にCD聞いてなくても体の中に音が流れる感じになるんです。この「ストン」には、理屈はつけられないです。自分では把握しきれない、これまで自分が聞いた全ての音、聞いたり読んだりしたすべての言語、すべての体験の歴史--というのがとりもなおさず「わたし」そのものだと思うんですが--の上に、なんとはなしにやって来るものです。
そういう、音楽が魂にはまるときの感覚というのは、板の上をあてどなくごろごろころがっているピンボールの玉が、あるときストンと穴にはまる、それでポイントがどさどさどさっと入ってくる、その感じに似ていると思うんですね。こう思うの、わたしだけなのかもしれませんが。

サラームさん、U-zhaanさん、興味深いお話と貴重な音源、映像、ありがとうございます。
ところでタブラの名手ザキール・フセインて可愛い人ですね。なんか昔のThe Who の Keith Moonみたい。彼がリズムの強拍を入れる時にひょいっひょいっとひょうきんに目ん玉動かす映像が面白かった。 (^_^)
『バングラデシュ救済コンサート』のなつかしい映像も見れてよかったです。
ストーリー性「をつかむ」(or 「につかまれる」?)には至りませんでしたがこのレクチャーでインド音楽、わたしにとっては「ストン」までいかなくて「スト」ぐらいはいったかもしれません。 (^_^)

さて、そんな大宣伝もしてないはずなのに、こんな異国文化の紹介に100人近くの若者が、オモテからは入り口もよく分からない場所に集っているというのは、さすが東京。というか最低このくらいは「外」に目を向け、異なる文化に生きる人々の感性の理解を志向する人たちがいないと、先行き日本も危ういに違いないのです。もっと大がかりな宣伝ができれば何倍の人が来るんでしょうか。サラームさん、そのうち「エキゾ夢紀行」武道館でやってくださいね。 (^_^)
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朝日夕刊「闘うフランス語」について 1

朝日新聞夕刊2005年4月16日、19日、21日、22日の4回にわたって「闘うフランス語 ~『英語支配』への挑戦」と題する記事が連載されました(担当は冨永格、沢村亙両氏という記載があります)。金沢では朝日新聞に夕刊がありませんが福岡のAさんのご厚意で写しをお送り頂いて読むことができました(ちなみに後で東京版では5回シリーズであったことが判明、朝日新聞社のご厚意でこれも読むことができました)。それから、朝日新聞社の許可をえて、全文を掲載させていただけることになりましたので御覧下さい。→ 「闘うフランス語」原文

この記事は国際会議の場、オリンピック、ラジオ、映画、音楽など様々な領域において「英語支配」に抵抗するフランス語の現時点における諸様相を伝えたものです。
しかし全体として、フランス語について日本人がもつ否定的先入見をそのまま反映、助長するだけのような形になっていて、現時点の日本における適切な提示の仕方とは言えないと考えます。


連載記事の締めくくりはこのようになっています。

 仏文化省高官は「欧州の本質は、常に翻訳し合っているところにある。『訳す』という営みを通して、多様性を理解し、互いの価値が尊重できるのです」と話す。
 「だから共通語は要らないのです」

このような箇所を見る限り、執筆者の意図の少なくとも一部は、欧州各国が「欧州」のアイデンティティを作り上げるために欧州内部の内輪の論理を優先する最近の傾向を伝えることにあったのかもしれません。「共通語は要らない(つまり英語で全員がコミュニケートするという体制はとらない)」というのは紛れもなく現在の「欧州」の論理なので。
しかしこれが「闘うフランス語」というタイトルのもと、フランスという場でフランス語の防衛、フランス語使用振興策の諸例が紹介された連載の最後に置かれてしまうと、「多様性の理解」だの「互いの価値の尊重」だのというのが、フランス人が自国語「だけ」を振興したい気持ちの隠れ蓑に見えてくるように思います。
そうすると結局、日本に広く根強く存在する「フランス人は自文化至上主義だ(文化はみな平等であるはずなのに)」「フランス人は自国語が一番美しく論理的だと言って絶対視する(言語はみな平等で等しく美しく論理的であるはずなのに)」という先入見にぴたりとはまってしまい、「また(まだ?)フランスはこういうことをやっている」という嘲笑、あるいは義憤の対象にしか見えなくなってしまうのではないでしょうか。

「フランス人には勝手にやらせておけばいいさ」でおしまいになればまだいいですが、この記事が「フランス語の存在感はこの実態(世界の使用人口)以上に大きい」原因を「20世紀初めまで上流社会の共通語だったためだ」(第一回)ということで話を止めてしまっているのをそのまま受け入れた読者の場合、フランス人とは「過去の栄光が忘れられず、既に力をなくしているのに国際語のステイタスに無理にしがみつこうとする、愚かで、はた迷惑な者たちだ」という印象を受けるのが必至です。
これが結果的に日本の一般大衆に「フランス語教育など、もうあんまり必要ないのだ」という認識を持つことにつながるとしたら、これは有害です。あきらかに国益にも世界益にも反しています。ただでさえ「フランス語ができて技術ももっているという日本人」がきわめて少なくてJICAやNGO諸団体は絶望的に困っているし、国連をはじめとする国際機関での日本人の活動が著しく制限されてしまっているのです。

この記事の報道内容がフランス、フランス語に関する現実の一側面を伝えていることは否定しませんが、それは限られた一側面にすぎません。
この側面だけを伝えるのでは、せいぜい遠い国のめずらしい話を伝えることにしかならないと思います。フランスと日本とが同じ世界にあって、互いに大きな影響を及ぼしあっている存在とはとらえられていません。日本人にとってフランス語がなにを意味するのか、なにをもたらすものであるかが、この記事からはまったく見えてこないのです。
そういうことがこの記事の目的ではない、と言われればそれまでですが、こんどはそういう報道をお願いできないものかと思います。

わたしはフランス語教員のはしくれであり、たしかにフランス語教育が振興することによってなんらかの利益を得る立場のものです。
しかしわたしでも、全世界において、また日本のような国においては特に、フランス語はLOTE(languages other than English)のひとつということで十分だと思います。
ただLOTEとしてはかなり修得しがいのある言語であり、必要性のある言語だということ、『フランス語で広がる世界』(日本フランス語教育学会編)から理解される以上に使いでがあるということ、だから中等教育にも導入した方がいいし高等教育でフランス語教育を縮小するなど愚の骨頂であるということを、ぜひ日本の多くの人、初等、中等、高等教育を司る人々に理解してもらうべきだし、そのための努力がなされるべきだと思っています。(つづく)

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フランス語に対する偏見

このブログの名前を「フランス語系人のBO-YA-KI」としてみました。すこしフランス語の現状を知る立場にあるわたしのような「フランス語系人」には、日本では「フランス語」が誤解と偏見の的になっていて、おかげでフランス語教育が変に冷遇されているため、日本人はつまんない損をずうっとし続けているとしか思えないな--というのがその心です。
「そういうブログに何故『ワールドミュージック』なんかのカテゴリーがあるんだ?」と言いたくなる方には、はい、既にあなたは誤解と偏見に完全にとらわれています、と申し上げておきます。別にワールドミュージックはこのブログの「従」「つけたし」ではありません。ブログを書き進めていったら、むしろワールドが主になるかもしれません。以前雑誌『ふらんす』に「フランスはワールドだ!」という記事を連載させていただいたことがありましたが(なんとあの北中正和氏と交互に!)、まさにそういうことだと思うのです。

てなことを書いているうちに、ちょうど朝日新聞夕刊で興味ある記事が連載されましたので、まずこれについてお話しすることから始めます。その記事は『闘うフランス語』というのです。先に申し上げておきますが、わたしにはこの記事の基本姿勢はほめられません。
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