サラーム海上さんの「夢紀行」~「好きになる」ということ

サラーム海上さんのレクチャー「エキゾ夢紀行」でインド(古典)音楽の魅力に触れてきました(ゲスト:タブラ奏者U-zhaan さん。4月30日、於アップリンクファクトリー。渋谷は東急百貨店の前の道をずーっと行って右手。ローソンのはす向かい)。

インド音楽というのは、聞けばわたしもノリますが、わたしの内部ではまだなんかいまいちピンと来てないです。サラームさんからもったいなくも現地での貴重なビデオを特別に見せていただいたのに、のめりこむまでの「とっかかり」をつかめていない感じがします。なんというか、インド音楽にまつわる「ストーリー性」がつかめてないせいもあると思います。わたしってほんとにオハナシにこだわってしまう性質なので。ちなみにわたしの大好きなアルジェリアの「ライ」なんかだと、これはもう本当に強烈なストーリー性があります。植民地支配からの解放、近代的国家建設、イスラムの台頭、テロリスム、移民二世のアイデンティティ探索などなど、現代世界のいちばんホットな「オハナシ」にしっかと絡み付いてますから。

ところでもう少し一般的なお話をすると、「好み」「愛好」というものは「ピンボール」みたいなところがあると思うんですよ。
音楽を例にとりましょう。いくら「いい音」であってものめり込むだけの思い入れを自分の中で得るに至らない音というのはたくさんあります。そのうちのいくつかの音が、なんかのはずみに「ストン」と魂のどこかにはまって「あ、これは『これ』なんだ」みたいな感じがする瞬間が来ると思うんです。そうなっちゃうともう、めったなことではその音は心を離れてくれません。というか生そのものみたいな感じに、実際にCD聞いてなくても体の中に音が流れる感じになるんです。この「ストン」には、理屈はつけられないです。自分では把握しきれない、これまで自分が聞いた全ての音、聞いたり読んだりしたすべての言語、すべての体験の歴史--というのがとりもなおさず「わたし」そのものだと思うんですが--の上に、なんとはなしにやって来るものです。
そういう、音楽が魂にはまるときの感覚というのは、板の上をあてどなくごろごろころがっているピンボールの玉が、あるときストンと穴にはまる、それでポイントがどさどさどさっと入ってくる、その感じに似ていると思うんですね。こう思うの、わたしだけなのかもしれませんが。

サラームさん、U-zhaanさん、興味深いお話と貴重な音源、映像、ありがとうございます。
ところでタブラの名手ザキール・フセインて可愛い人ですね。なんか昔のThe Who の Keith Moonみたい。彼がリズムの強拍を入れる時にひょいっひょいっとひょうきんに目ん玉動かす映像が面白かった。 (^_^)
『バングラデシュ救済コンサート』のなつかしい映像も見れてよかったです。
ストーリー性「をつかむ」(or 「につかまれる」?)には至りませんでしたがこのレクチャーでインド音楽、わたしにとっては「ストン」までいかなくて「スト」ぐらいはいったかもしれません。 (^_^)

さて、そんな大宣伝もしてないはずなのに、こんな異国文化の紹介に100人近くの若者が、オモテからは入り口もよく分からない場所に集っているというのは、さすが東京。というか最低このくらいは「外」に目を向け、異なる文化に生きる人々の感性の理解を志向する人たちがいないと、先行き日本も危ういに違いないのです。もっと大がかりな宣伝ができれば何倍の人が来るんでしょうか。サラームさん、そのうち「エキゾ夢紀行」武道館でやってくださいね。 (^_^)
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朝日夕刊「闘うフランス語」について 1

朝日新聞夕刊2005年4月16日、19日、21日、22日の4回にわたって「闘うフランス語 ~『英語支配』への挑戦」と題する記事が連載されました(担当は冨永格、沢村亙両氏という記載があります)。金沢では朝日新聞に夕刊がありませんが福岡のAさんのご厚意で写しをお送り頂いて読むことができました(ちなみに後で東京版では5回シリーズであったことが判明、朝日新聞社のご厚意でこれも読むことができました)。それから、朝日新聞社の許可をえて、全文を掲載させていただけることになりましたので御覧下さい。→ 「闘うフランス語」原文

この記事は国際会議の場、オリンピック、ラジオ、映画、音楽など様々な領域において「英語支配」に抵抗するフランス語の現時点における諸様相を伝えたものです。
しかし全体として、フランス語について日本人がもつ否定的先入見をそのまま反映、助長するだけのような形になっていて、現時点の日本における適切な提示の仕方とは言えないと考えます。


連載記事の締めくくりはこのようになっています。

 仏文化省高官は「欧州の本質は、常に翻訳し合っているところにある。『訳す』という営みを通して、多様性を理解し、互いの価値が尊重できるのです」と話す。
 「だから共通語は要らないのです」

このような箇所を見る限り、執筆者の意図の少なくとも一部は、欧州各国が「欧州」のアイデンティティを作り上げるために欧州内部の内輪の論理を優先する最近の傾向を伝えることにあったのかもしれません。「共通語は要らない(つまり英語で全員がコミュニケートするという体制はとらない)」というのは紛れもなく現在の「欧州」の論理なので。
しかしこれが「闘うフランス語」というタイトルのもと、フランスという場でフランス語の防衛、フランス語使用振興策の諸例が紹介された連載の最後に置かれてしまうと、「多様性の理解」だの「互いの価値の尊重」だのというのが、フランス人が自国語「だけ」を振興したい気持ちの隠れ蓑に見えてくるように思います。
そうすると結局、日本に広く根強く存在する「フランス人は自文化至上主義だ(文化はみな平等であるはずなのに)」「フランス人は自国語が一番美しく論理的だと言って絶対視する(言語はみな平等で等しく美しく論理的であるはずなのに)」という先入見にぴたりとはまってしまい、「また(まだ?)フランスはこういうことをやっている」という嘲笑、あるいは義憤の対象にしか見えなくなってしまうのではないでしょうか。

「フランス人には勝手にやらせておけばいいさ」でおしまいになればまだいいですが、この記事が「フランス語の存在感はこの実態(世界の使用人口)以上に大きい」原因を「20世紀初めまで上流社会の共通語だったためだ」(第一回)ということで話を止めてしまっているのをそのまま受け入れた読者の場合、フランス人とは「過去の栄光が忘れられず、既に力をなくしているのに国際語のステイタスに無理にしがみつこうとする、愚かで、はた迷惑な者たちだ」という印象を受けるのが必至です。
これが結果的に日本の一般大衆に「フランス語教育など、もうあんまり必要ないのだ」という認識を持つことにつながるとしたら、これは有害です。あきらかに国益にも世界益にも反しています。ただでさえ「フランス語ができて技術ももっているという日本人」がきわめて少なくてJICAやNGO諸団体は絶望的に困っているし、国連をはじめとする国際機関での日本人の活動が著しく制限されてしまっているのです。

この記事の報道内容がフランス、フランス語に関する現実の一側面を伝えていることは否定しませんが、それは限られた一側面にすぎません。
この側面だけを伝えるのでは、せいぜい遠い国のめずらしい話を伝えることにしかならないと思います。フランスと日本とが同じ世界にあって、互いに大きな影響を及ぼしあっている存在とはとらえられていません。日本人にとってフランス語がなにを意味するのか、なにをもたらすものであるかが、この記事からはまったく見えてこないのです。
そういうことがこの記事の目的ではない、と言われればそれまでですが、こんどはそういう報道をお願いできないものかと思います。

わたしはフランス語教員のはしくれであり、たしかにフランス語教育が振興することによってなんらかの利益を得る立場のものです。
しかしわたしでも、全世界において、また日本のような国においては特に、フランス語はLOTE(languages other than English)のひとつということで十分だと思います。
ただLOTEとしてはかなり修得しがいのある言語であり、必要性のある言語だということ、『フランス語で広がる世界』(日本フランス語教育学会編)から理解される以上に使いでがあるということ、だから中等教育にも導入した方がいいし高等教育でフランス語教育を縮小するなど愚の骨頂であるということを、ぜひ日本の多くの人、初等、中等、高等教育を司る人々に理解してもらうべきだし、そのための努力がなされるべきだと思っています。(つづく)

(この記事へのご意見、ご批判はコメントとして書かれるか、または粕谷祐己 raidaisuki@mail.goo.ne.jp(←注意:@が全角にしてあります)までお寄せ下さい)
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