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台湾を行く~台南駅と台南航空隊

2013-02-04 | お出かけ

走る車から撮ったので、傾いてしまいました。
台南駅の駅舎と、高層ビルシャングリラホテル、そしてヤシの木。
とりあえず一番「台南らしい」写真であると思われます。


窓の形、その形に呼応する駅入り口の形、丸窓。
コロニー風というのか、白い外壁の色は建築当初からまったく変わっていません。
夜になれば庇の上に「謹賀新年」と中国語で、
そして「Merry Christmas」などの電飾がビルを美しくライトアップします。

この駅舎を建設したのは勿論、日本統治時代の台湾総督府。
1936年に造られたと言いますから、もう軽く80年ここにあるのです。



台南は高雄と並ぶ台湾南部の大都市。
この台南駅はこの地方のシンボルとされてきました。
繁華街のある市街地から少し離れているのですが、街の玄関口であることは間違いありません。

この地方に鉄道が敷かれたのが1900(明治33)年。
まだ「打狗」(ターカオ、犬を叩く)と表記していたころの高雄との間に開通しました。
前にも書きましたが、「ターカオ」だったこの地は「高雄」になり、
現在はこれを中国語読みで「ガオション」と読む土地になっています。

この駅舎の完成したのはこの地に鉄道が敷かれてから36年後の1936年3月15日。
決して大きくありませんが、天井が高く、実に美しい建築です。
きっと完成当時は白亜の城のように見えたに違いありません。



今思うと、なぜこのとき、これだけ貴重な建築物のある場所にいながら
もっと細部を見学したり、内部に入って中を観察しなかったのか悔やまれます。
そのときこの駅舎の歴史的価値を知らないわけでもなかったのに・・・。

このときも改札口がこの駅舎とは反対側だったので、改札内からしか写真を撮りませんでした。
したがって、肝心の駅舎の天井などを見ることなく終わってしまったのです。
旅行中というのはえてして体力を使い果たしながら移動することが多いので、
このときもおそらくなんとなく疲れてボーっとしながらここにいたせいかもしれません。

その反省はともかく、この駅舎の天井の高さがお分かりでしょうか。
「熱帯である台湾でも空調がいらない駅舎」と当時の新聞は報じたそうです。
昭和11年当時において空調ってもう出回っていたんですね。
このころの空調もやはり「ダイキン」=大阪金属の仕事だったのかしら。




なんかぎりぎりに、しかも歩道に乗り上げて車を止めている人がいるんですけど。
それもたくさん・・。
できるだけドアトゥードアになるようにここに車を付けたのでしょう。
しかし、これはどう見ても危ない。

東京駅は赤レンガですが、この頃、建築界ではいわゆるモダニズム建築への移行があり、
その流れを汲んだデザインになっているのではないかと思われます。
公共の建築物としてシンプルかつ、より実用性を(おそらく耐震性も)重視しているのです。



建築には1年4か月が費やされました。
設計は台湾総督府鉄道部改良課の日本人技師の手によるものです。

 

駅待合室から改札を通ってホームに出るのは、日本の駅と全く同じ。
このホームも、土台は当時からのものだと思われます。



何日前かの228事件の稿で挙げた高雄駅の写真。
このホームの屋根の仕様をご覧ください。
まったく、ではありませんが、現在の台南駅と同じです。

台南駅ホーム屋根、柱は相当できて時間が経っているものでした。
おそらくこのホームもできた当初のままであると思われます。
こうして見ると、日本の建築は地震が無ければ半永久的に持つのではないか、
と思わずにはいられません。
実際その技術はときとして大地震にも耐えたという例もあります。

終戦後、シベリアに抑留されていた日本人捕虜が作った建物(ナヴォイ劇場)が、
1966年にこの地(ウズベキスタン)を襲った地震にびくともせず、
ほとんどの建物をこの地震で失ったこの地の人々は、日本人の建築技術と、
煉瓦作りから内部の彫刻まで真面目にコツコツと労働していた日本人たちに
絶大な称賛の気持ちを持ち続けているという話です。





この駅舎は、当時の「最新テクノロジー」が採用されていました。
なんと1936年においてすでに「構内放送」があったというのです。
皆、駅舎の待合室(一等と二等で分かれていた)で電車を待ち、
構内放送を聞いてからホームに向かったそうです。


今思い出したのですが、海軍兵学校66期卒のクラスヘッド、
航空士官の坂井知行大尉が、家族への手紙に

「人生わずか五十年、軍人半額二十五年」

と冗談を書いて、その通り25歳で戦死した、という話を書いたことがあります。
このフレーズは「電車賃一等一般50銭、軍人半額25銭」のもじったものでした。

当時、軍人は半額で一等に乗れたということらしいですが、ここでまたふと、
台南航空隊としてこの地を訪れていた坂井三郎中尉や笹井醇一中尉は、
この台南駅から何度か半額25銭払って高雄に行くことがあったのかもしれない、
と考え、ついしみじみとしてしまいました。

台南航空隊は1941年10月に発足。
もともと高雄基地の近くに建設中であった台南基地に、
高雄航空隊と言われていたメンバーが移り、台南航空隊と名称を改めました。
高雄基地には第三航空隊もあり、先日お話しした、
自らの命を危険にさらして台南の人々を護り、神様として祀られている、
飛虎将軍こと杉浦少尉も、ここの所属でした。

12月8日の開戦にはここから高雄基地の第三航空隊とともにフィリピンに出撃しています。
このときのマニラ攻撃には坂井三郎一飛曹、太田敏夫二飛曹、島川正明一飛曹、
田中国義一飛曹、若尾晃大尉など、このブログで何度かお話ししてきたメンバーが参加していました。
指揮官は新郷英城大尉です。

ちなみに、我らが笹井醇一中尉は、このときまだ訓練中でお留守番でした。

そのあとラバウルに行くまで、台南航空隊は東南アジアでの転戦を始めるわけです。
この比島作戦を終えた台南零戦隊は、12月30日、台湾からホロ島に一挙に飛びますから、
「台南航空隊」といいながらここに彼らがいたのはせいぜい準備期間から数えても4か月くらいのものです。

それでもその頃存在した同じ建物がいまここにある、というのは感無量でした。



この駅の歴史を調べていて一番驚いたことは、
この駅舎そのものが二階部分をホテルにしていたということです。


この窓の部分、何の手入れもなく、窓ガラスは割れるがままで、
良くこんな状態でいつまでも放置しておくものだと台湾の人ののんびりぶりに
少しびっくりしてしまうのですが、とにかくここがホテルの客室だったのです。




いやはや、表に電飾をしているのに裏はこうですよ。
電飾と言えば、この駅は戦争が始まるまで、建物にライトを当てて、
夜間ライトアップしていたのだそうです。
この白亜の駅舎が夜の明かりに浮かび上がる情景は、想像しても美しく幻想的なのですが
当時は建物をライトアップするというアイデアそのものが超斬新でした。

ライトアップは当然のことながら戦争に突入し、米軍の哨戒機が頻繁に現れるようになり、
基地が灯火管制に入るころには中止になったのですが。

ホテルは建物二階部分のワンフロアにのみあり、部屋は全部で9室。
そのうち2室がスイートルームで、宿泊料金は3円、4円、5円の三種類でした。
格式も高く、国内外の賓客を迎えられるだけの立派なものであったとか。

戦後も経営されていたこのホテルですが、残念なことに
「補修維持に費用が掛かる」という理由で1965年に廃業しました。



ホテルの部屋部分は当時のままに放置されて朽ちるがままになっています。
2008年に一度、台鉄が開業記念としてこのボロボロの建物内部を公開したというんですが、
(日本ならきっと開業記念に合わせてリニューアルしたでしょう)
その時には多くの見学者が集まり、安全上の理由で入場制限がされるほどだったそうです。
この地に住む台南の人々にとっても、この旧統治時代の建物内部は興味を惹いてやまないのでしょう。

わたしももし機会があれはぜひ中を見てみたい。
それよりこのホテルに泊まってみたかったなあ。



取ってつけたように新しい、駅舎をまたぐ通路とエレベーター。
現在、この地域は再開発の計画があり、市街地の線路を
全て地下鉄にしてしまうという案があるそうです。
そうなれば、台南駅舎は移築して郷土博物館になる予定だそうです。



この駅舎にはホテルの客を対象にした高級レストランもあったそうです。
当時台湾では珍しかった洋食を供していました。
朝食80銭。ランチコースは1円。ディナーコースが1円20銭。

開業当時の値段だとすれば、当時の貨幣価値で1円は今の約6500円ですから、
宿泊が一番高い部屋で三万少し、という感じでしょうか。



この市街地の線路が計画通り皆地下鉄になれば、この景色は無くなります。
行き交う人の姿は「今」なのに、なぜか日本人のわたしたちが
懐かしさとノスタルジーについ浸ってしまうこの台南駅。

何でもかんでも自国の古いものを壊して作り変えてしまった私たち日本人が、
日本の作ったこの駅を台湾の人々が今までずっと使い続けてきてくれたことに
感謝するのは当然としても、さらに「これからもこの光景をとどめておいてほしい」
と望むのは、全く筋違いであり、厚かましい願いと言われてしまうに違いありません。



時をとどめることはできないけれど、時の名残りがそこにある限り、
人は過去へと想念を辿らせることができます。

しかしもしかしたら次に訪れたとき、もうここ台南に、この建物と、
過去への想念を呼び覚ますこの光景は無くなっているのかもしれない。

逝く時を手を伸ばしてでも捕まえたいもどかしさと、それができないせつなさに、
胸が締め付けられる思いをかみしめたエリス中尉でありました。