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バーキン片手に靖國神社

旅淡シリーズ~陶芸家の窯元探訪

2013-02-23 | つれづれなるままに

今回の旅行は仕事をメインにいろんなイベントが目白押し。
いろんなところに行った、というよりいろんな人々に会ってきました。

その中でも、感動を残したのが備前焼の陶芸家のお宅に伺ったこと。
この方は父上が人間国宝、重要無形文化財であった方です。

市内から車で40分ほど行った里に、その陶芸家の窯元がありました。
おりしもこの日は朝から冷たい雨が降る日でしたが、
このような風情がこの歴史のある陶芸家の邸にふさわしく思われます。



わたしたちをここにご案内くださったのは先日茶室でお茶をごちそうになった
某銀行の会長さん。
29年落ちの国産車をプライベートで運転するこの方も、
公務となれば運転手つきの黒塗り車で移動です。



応接室でお抹茶とお菓子をいただきました。
勿論この茶器も菓子皿も先生の作品です。

そこに先生がいくつかの作品を持ってきました。


会長さんがわたしに「どちらがいいと思います?」
何の気なしに
「左ですね。形がシュッとして、色の変化が面白いから」
というと
「じゃそれにしよう」

・・・・って、そんな簡単に意見を採用されても困るんですけど。
選んで、それをどうなさるおつもりですか。

「S堂の会長さんに差し上げるんだけど」

い、いいんですか?わたし全然何も考えて発言してませんよ?



これも最初に「どちらがいい?」と聞かれたので、
「左は面白いので飾っておきたいですが、使うなら右です」
とわりと当たり前の返事をしたら、
「ふむ・・・」

後で陶芸家に同じ質問をしたら、先生が
「左は面白いけどねえ・・。右がいいと思いますよ」
と全く同じことをおっしゃったので、これも意見は採用されました。

先生はわたしに会うなり「音楽をされているというので楽しみにしていたんですよ」
と、それからは「すぐ消えてしまう空間芸術である音楽」がいかに素晴らしいか、
という話になったのですが、その中で「形が残るっていうのはね、考えもんです」
とおっしゃったのが印象的でした。
無から形を作り出す芸術に携わる人間の業と言うか葛藤を垣間見る気がしました。



先生には息子さんが二人いて、どちらも同じ時期に結婚し、
今はその二家族と、数年前に奥様を亡くされた先生が同居しています。

息子さんに窯を見せていただきました。
窯は年に数回、どちらの窯も現役で稼働します。
空気の抜け方とか、気温とか、なにしろ少しのことが
焼き物の出来上がりに大きな影響を与えるのだそうです。
まさに、土に火の神様が命を吹き込む現場は、人智を超えた力が働くのです。



窯の奥に電気をつけて見えるようにしていただきました。
焼き物を置く場所はたくさんありますが。「いい場所」は中央で、
窯入り口近くは「あまりよくは無い」と言うことです。
この入口は写真ではわかりにくいですが、とても狭く、
焼き物を持って入っていくのは大変なことに思われます。
思わず先日の茶室のにじり口を思い出しました。

にじり口は「茶室に入るものはすべて同じ身分」、つまり
何者でもない個人となってその茶室に入っていくという意味があるそうですが、
この窯の中にも火の神のもとに平等な宇宙が展開していそうです。

ちなみに先生が何年か前に大きな壺を作ったとき、
土は形にしてから少し縮むのだそうですが、縮んだ後もここから入らず、
なんと入口を壊して入れたということです。
芸術家の執念恐るべし。



まるで発掘現場のような窯の中。
奥の窓のような部分から空気が抜けます。
写真だと広く見えますが、もちろんそんなことはありません。

私事ですが、実はわたしの愚妹は某芸大の陶芸科を卒業しております。
窯に火が入ると、その場から離れられないので、徹夜も度々、
年がら年中土の塊を自宅に持ち帰っては倉庫や居室を土だらけにして
母親に悲鳴を上げさせていたので、この世界について少々知らないわけでもありません。

そういえば母親はわけの分からないオブジェばかり作っている妹に
「もう少し食器とか花器とか(母は生け花をするので)、
役に立つものを作ってくれたらいいのに」と愚痴をこぼしてもおりましたっけ。



窯に火が入ったときはずっとつききりで見ていなくてはいけません。
勿論妹もそれでよく家に帰ってこなかったりしたものですが、
その間、何をしているのでしょうか?

「インターネットなんてなさらないですよね?(確信)」
「しませんね」
「本は」
「本も滅多に読みませんね。音楽をかけることはありますが、
火が入っているのがどんな空間であるかにわたしたちはこだわるので」

ああ。わかります。

インターネットは無数の世界に開けられたのぞき穴みたいなものですから、
逆にいろんな世界の空気が良きも悪しきも流れてきてしまう。
そんな雑駁な空気に支配された空間で火との真剣勝負などとんでもない、
と言うことなんでしょう。



陶芸とは、土との対話、そして火との勝負。
しかし、そこにあるのは小賢しい技術ではなく、
自然のなかに生かされていることへの感謝です。

ちなみに、この方は一晩窯についている間、
「ずっと炎を見つめている」のだとか。

わたしも昔、増上寺の護摩を焚く炎の前で、
その渦巻く火の中に自然への惧れ、それを人智の及ばぬ神の知恵
と呼ぶしかない「何か」への感動のあまり、何時間も立ち尽くしたことがあります。



この日、陶芸家はわたしたちに自身の持つ作品作りの、
芸術への、そして自然や神や祈りについて語りました。
何の衒いもなく。

人間国宝になるのを何度も打診されているのに断り続けている、
というこの芸術家は、微塵も傲岸さを感じさせないいい意味の
「青さ」「純粋さ」と「熱さ」を60歳過ぎた今も持っていました。



一日にこの方は六度、神への祈りを捧げるのだそうです。

これもわたくし事ですが、TOは朝晩、必ずお祈りをします。
どんな急いでいるときも、どんな危急のときも、
嬉しいことがあっても悲しいときも、たとえ人を待たせていても(-_-)

ちなみにわたしはいまさらですが靖国への定期的な参拝を欠かしておりません。

陶芸家が祈りの話をしたとき、わたしが(本人は決して言わないから)
TOの「祈り体質」の話をすると、彼はことのほか感激しました。
「そんな方ならお分かりだと思いますが」

そう頭に付け加えながら、彼は無から有を作り出すことへの
「畏れ」と、だからこそものを造る者は真摯に祈るのだということを語りました。



工房の隅で丸くなっていた老犬。
わたしが写真を撮ると急に起き上がり伸びをしました。
この土と水と火の創造の場にとても似合う、
実にしみじみとした風情の老犬でした。

わたしはなぜかかれに非常に気に入られたのですが、
そんなお話をまた後編でさせていただきます。