
■ パンアメリカン航空の隆盛
フアン・T・トリップの指揮の下、パンアメリカン航空は
米国の国際航空会社として優位を占めるようになっていきます。
同社の有名な「クリッパー」は、中南米に就航し、
大西洋や太平洋を無尽に横断しました。
1939年には、いよいよボーイング314飛行艇による
定期大西洋横断サービスを開始しました。
前回、空の豪華客船、ボーイング314についてお話ししましたが、
そのジオラマの上にあった模型について触れておきます。

314の上に3機がありますが、まず、

そのジオラマの上にあった模型について触れておきます。

314の上に3機がありますが、まず、

シコルスキーS-40 アメリカン・クリッパー


パンアメリカン航空発の大型飛行艇で、同航空のクリッパー機群の
いわば旗艦と位置付けられ、「アメリカン・クリッパー」として
3機生産され、主にワシントン周辺を飛行していました。

38の座席と6名の乗務員を擁するシコルスキーS-40飛行艇は、
当時、米国最大の旅客機でした。
製造されたのはわずか3機でしたが、
その後のパンアメリカン航空の航空機すべてに付けられた
「クリッパーズ」という名称の最初の機体として、
今もなおその名を残しています。

前々回にご紹介した、マーティンM-130 「チャイナクリッパー」です。
1927年に設立されたパンアメリカン航空は、飛行艇と陸上機を使用して、
ラテンアメリカ全域に定期商業サービスを開始しました。
1935年に、フアン・トリップはこれで
初の定期太平洋横断サービスを開始しました。
ラテンアメリカ全域に定期商業サービスを開始しました。
1935年に、フアン・トリップはこれで
初の定期太平洋横断サービスを開始しました。
ちなみに、パンナムの「クリッパー」は、
1860年代の中国茶貿易のクリッパー船に敬意を表して名付けられました。
クリッパー船が当時最も速い船だったことを受けています。
1860年代の中国茶貿易のクリッパー船に敬意を表して名付けられました。
クリッパー船が当時最も速い船だったことを受けています。

ハワイ行き一泊の旅が278ドル。

シコルスキー S-42
S-42型機により、パンナムの乗客はマイアミとブエノスアイレス間の
移動時間を大きく短縮することができました。
移動時間を大きく短縮することができました。

さらに、パンナムは1935年に太平洋、
1937年に大西洋を横断する予定のルートを調査するために
改良型のS-42型機を使用しました。
1937年に大西洋を横断する予定のルートを調査するために
改良型のS-42型機を使用しました。
ただ、パンナムは国際線の独占権と引き換えに国内線から締め出されます。
海外独占は第二次世界大戦まで続き、国内線制限は1978年まで続きました。
■ トライアンフ・オブ・テクノロジー

航空機と航空技術の向上は、
低迷していた航空業界の活性化に重要な役割を果たしました。
低迷していた航空業界の活性化に重要な役割を果たしました。
1930年代半ばは航空会社にとって困難な時期でした。
連邦政府あ航空業界を支配していた大企業を解体し、
航空会社への補助金を削減したため、航空輸送規制は混乱状態だったのです。
連邦政府あ航空業界を支配していた大企業を解体し、
航空会社への補助金を削減したため、航空輸送規制は混乱状態だったのです。
この困難な時代に生き残るために、航空会社はより大きく、
より良く、より速い飛行機を求めました。
安全性と効率を高めるために、新しい航法・通信機器も必要です。
そして航空業界はこれに応えました。
1930年代後半までには、最初の近代的な高性能旅客機が登場します。
上の写真はボーイング247。
「近代初の旅客機」という名に相応しいこの機体は、
1933年にユナイテッド航空で就航を開始後、
航空輸送に革命をもたらしました。

より良く、より速い飛行機を求めました。
安全性と効率を高めるために、新しい航法・通信機器も必要です。
そして航空業界はこれに応えました。
1930年代後半までには、最初の近代的な高性能旅客機が登場します。
上の写真はボーイング247。
「近代初の旅客機」という名に相応しいこの機体は、
1933年にユナイテッド航空で就航を開始後、
航空輸送に革命をもたらしました。

このDC-2はボーイング247に対抗するために作られました。
ダグラス・エアクラフト社は、B247の競合機としてまずDC-1を開発。
DC-1は、B247よりも大きく、快適で、12人乗りでした。
さらに座席を14席に増やし、DC-2と改名したこの飛行機は、
競合機(つまりボーイング247)を簡単に凌駕しました。
その後、ダグラス社は、ジェット機時代が到来するまで、
アメリカ国内の航空機製造を独占することになります。
■ 航空交通管制の始まり
航空旅行の普及に伴い、国内の航空路、
特に空港周辺における航空交通管制の必要性も高まりました。
航空会社は最初に自社の航空交通を管理するシステムを開発しました。
しかし、1930年代半ばに発生した一連の重大な事故、特に
ニューメキシコ州上院議員ブロンソン・カッティングが死亡した、
DC-2の墜落事故は、航空交通管理システムの必要性を浮き彫りにしました。
しかし、1930年代半ばに発生した一連の重大な事故、特に
ニューメキシコ州上院議員ブロンソン・カッティングが死亡した、
DC-2の墜落事故は、航空交通管理システムの必要性を浮き彫りにしました。

事故現場
1935年5月6日、アルバカーキからワシントンD.C.へ向かう途中、
ミズーリ州アトランタ近郊の悪天候により、
TWA6便(ダグラスDC-2 )は墜落し、操縦士2名と乗客3名が死亡しました。
ミズーリ州アトランタ近郊の悪天候により、
TWA6便(ダグラスDC-2 )は墜落し、操縦士2名と乗客3名が死亡しました。
搭乗者数は8名で、3名が救助されたことになります。
この事故の直接的な原因は、霧と暗闇の中で飛行機が低高度で飛び、
視界を失った結果地面に衝突したことでしたが、
まず、天気予報が気象の変化を予測できていなかったこと、
この事故の直接的な原因は、霧と暗闇の中で飛行機が低高度で飛び、
視界を失った結果地面に衝突したことでしたが、
まず、天気予報が気象の変化を予測できていなかったこと、
飛行機の双方向無線が夜間周波数で機能しておらず、不通だったのに
地上職員が飛行機を呼び戻差なかったこと、そして
通信ができないのにパイロットが飛行を続けたことなど、
いくつもの要因が重なった結果だと調査の結果わかりました。
地上職員が飛行機を呼び戻差なかったこと、そして
通信ができないのにパイロットが飛行を続けたことなど、
いくつもの要因が重なった結果だと調査の結果わかりました。
カッティング上院議員の死は全国的に衝撃を与え、このことから
議会は航空交通安全に関する委員会の報告書の提出を求めます。
議会は航空交通安全に関する委員会の報告書の提出を求めます。
連邦政府はこれに対応し、1936年に商務省が
航空交通管理の全国的な責任を引き受けました。

これが、事故後建てられたアメリカ初の管制塔です。
地上と空中、および空中と地上の無線通信を初めて採用した管制塔は、
1930年にクリーブランド空港に建設されました。

1930年にクリーブランド空港に建設されました。

1929年にエアクラフト・ラジオ・コーポレーションによって設計された
ARCモデルDは、最初の商用ナビゲーション受信機でした。

航空機用に開発された最初の軽量無線送信機(トランスミッター)です。
ループアンテナを搭載しており、なんとこれを
信号の方向を特定するために回転させることができました。
この送信機は、従来の視覚的死角航法方法から置き換えられました。
パナマ・アメリカンのヒューゴ・レウテリッツが設計・製造し、
1928年にフロリダ州キーウェストとキューバのハバナを結ぶ
パナマ・アメリカンの最初の航路に導入され、安全性に寄与しました。
信号の方向を特定するために回転させることができました。
この送信機は、従来の視覚的死角航法方法から置き換えられました。
パナマ・アメリカンのヒューゴ・レウテリッツが設計・製造し、
1928年にフロリダ州キーウェストとキューバのハバナを結ぶ
パナマ・アメリカンの最初の航路に導入され、安全性に寄与しました。

中央に飛行機の機体が描かれています。
スパーリー・ジャイロスコープ社によって開発された
スパーリー・ジャイロスコープ社によって開発された
自動方向探知機(ADF)
は、1930年代半ばに航空機に初めて搭載されました。
これらは既存の4コース無線測距システムに置き換えられました。
ここに展示されているのは、制御ユニットと表示器、
および流線型の筐体に収められたループアンテナです。
ADFは既知の固定無線送信機を検出し、
その位置を航空機に対する相対位置として表示します。
このシステムは、従来の4コース制システムに比べ柔軟で正確でした。
また、計器着陸法の開発にもつながり、パイロットは夜間や悪天候時も
滑走路を特定するための大きな助けになります。
また、計器着陸法の開発にもつながり、パイロットは夜間や悪天候時も
滑走路を特定するための大きな助けになります。

1930年代後半から1940年代に製造されたほとんどの航空機、
ダグラスDC-3などを含むものは、特徴的な「フットボール」形状の
アンテナハウジングを備えたADFを搭載していました。
■ ボードゲーム「フライング・ザ・ビーム」

「フライング・ザ・ビーム」ボードゲーム
航空旅行の人気に便乗して、パーカー・ブラザーズは
航空界の新しい無線航法システムを分かりやすく説明するため、
1941年に「フライング・ザ・ビーム」を発売しました。
ゲームは、最初に無線航法システムを使用して空港に安全に着陸すれば勝ち。
ゲームピース(コマ)はゴム製のDC-3機でした。
航空界の新しい無線航法システムを分かりやすく説明するため、
1941年に「フライング・ザ・ビーム」を発売しました。
ゲームは、最初に無線航法システムを使用して空港に安全に着陸すれば勝ち。
ゲームピース(コマ)はゴム製のDC-3機でした。

ゲームボードはシステムの仕組みを視覚的に示しています:
- 無線ビーコンは、モールス信号の「A」(ドット・ダッシュ)と
「N」(ダッシュ・ドット)のパターンで信号を送信します。
- 信号が交差する点で、信号が結合して連続した音を生成し、
パイロットはこれを追跡して無線ビーコンの方向を特定できます。
- 航空機がビームの中心から外れると、「A」または「N」の信号が
パイロットにコースから外れたことを警告します。
- 範囲ビーコンの正確な位置は
「サイレンス・コーン」によって特定されます。

これを見る限り、むしろ青少年〜大人向けのゲームですね。
■ ファン・トリップの地球儀

スミソニアンに展示されている大きな地球儀は、パンアメリカン航空の社長、
フアン・トリップがニューヨークのオフィスで使っていたものです。

スミソニアンに展示されている大きな地球儀は、パンアメリカン航空の社長、
フアン・トリップがニューヨークのオフィスで使っていたものです。
今回、ハワード・ヒューズの映画「アビエーター」を観直してみたところ、
アレック・ボールドウィン演じるフアン・トリップが、
この地球儀を見つめるシーンは2回出てきます。(扉絵は映画より)
アレック・ボールドウィン演じるフアン・トリップが、
この地球儀を見つめるシーンは2回出てきます。(扉絵は映画より)
確か2回目はトランス・ワールド航空をヒューズに売ることを迫り、
それが結果として失敗したと悟った時だったと思います。
彼はこれで自社の世界展開を計画していました。
トリップはよく地球儀上の2点間に紐を張り、
自社の旅客機がその間を飛行する距離と時間を計算したといいます。
それが結果として失敗したと悟った時だったと思います。
彼はこれで自社の世界展開を計画していました。
トリップはよく地球儀上の2点間に紐を張り、
自社の旅客機がその間を飛行する距離と時間を計算したといいます。

1800年代後半に作られたこの地球儀は、
トリップの多くの宣伝写真で大きく取り上げられ、
パンアメリカン航空とトリップのパブリックイメージの一部となりました。
航空界の巨人というのは何人も存在しますが、
もしフアン・テリー・トリップがいなかったら、
現在私たちが当然のことと思っている航空輸送システムの進化は
まったく違ったものになっていたとまで言われています。
もしフアン・テリー・トリップがいなかったら、
現在私たちが当然のことと思っている航空輸送システムの進化は
まったく違ったものになっていたとまで言われています。
例えば、1950年代半ば、事実上すべての航空会社は、ピストン駆動機から、
タービンエンジン機へとに移行することを検討していました。
しかし、彼だけが、ジェット機の未来を見ていたのです。
しかもその未来がわずか2、3年先にあると予見できたのは彼だけでした。
1960年代の「ジェット時代」は、
この航空界の巨人なしにはあり得なかったといえます。
続く。