ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

開設1000日記念人物ギャラリー第二弾

2013-02-08 | つれづれなるままに

安藤輝三陸軍大尉


「鈴木貫太郎と安藤大尉」
http://blog.goo.ne.jp/raffaell0/e/98a921af14967741e53b53f319bb313f

鈴木貫太郎本人が語った2・26事件についての文章を手に入れ、
事件の首謀者であった青年将校のひとり安藤輝三大尉と鈴木とは、
事件前には面識があり、安藤大尉が鈴木を私淑していたことを知りました。

クーデターを起こした将校たちの中にも安藤のような考えのものもおり、
さらに安藤大尉がその私情をおいても鈴木を暗殺に赴かなければならなかった、
という悲運が当事者によって淡々と語られたこの文章(水交会での講演)は、
非常に衝撃的でした。

鈴木本人が断言を避けていた

「なぜ安藤大尉は鈴木家を襲撃しながら鈴木本人と対峙せず、
発砲の瞬間、部下に任せて本人はそこにいなかったのか」

について、この二人のそれまでの交誼から大胆にも
安藤大尉の行動心理について推測してみました。

しかし、この件を調べていて不思議だったのは、安藤大尉の鈴木邸での行動を、
この交誼と関係づけて見る文章をどこにも発見することができなかったことです。
どなたか、このことについて何か読まれたことのある方、もしおられたら、
ぜひ書名を教えていただきたく存じます。


無名の高砂族兵士



「薫空挺隊~高砂義勇軍の兵士たち」
http://blog.goo.ne.jp/raffaell0/e/66ec08a0da4147b7b20356ad8b0fab64

今回の台湾旅行で残念だったことの一つは、高砂族のが見られなかったことです。
台湾の部族について知る旅をいつかしてみたいと思っていますが、
今回はまだテーマがそこには行っていなかったため、なりませんでした。

例の、NHK訴訟問題でパイワン族の人々が、パリの博覧会のとき、
当時日本であった台湾の少数部族であるパイワン族を紹介する展示をしたところ、
それを「人間動物園」と称して彼らを動物のように扱った、
というねつ造をNHKがしたことについても書いたことがあります。
しつこく何度も言いますが、その稿は何者かによってサイト内に侵入された結果、
その部分が全く消されてしまいました。

この稿では、わたしが今回台湾を知ろうとするきっかけとなった一冊の本を
中心に話を進めています。
鄭春河、元皇民 上杉重雄著の「嗚呼大東亜戦争」です。

仮綴じのようなおそらく自費出版のこの冊子を、わたしはNHKいうところの
「二万冊の資料を丹念に読み解いた」というのには負けるかもしれませんが、
とにかく大変衝撃を受けつつ真剣に読みました。
その中に書かれていた高砂族が日本人として雄々しく戦った様子、
この義に我々は報いるべきである、ということをこの稿で述べました。

彼らは総督府が志願を募集するや、募集をはるかに上回る数の応募によって高砂兵となり、
戦いに臨んでは軍区も厳正、しかも純朴で勇敢、たちまちのうちに
日本軍の将兵からの尊敬の念まで勝ちえたのでした。

この高砂義勇隊は、空挺作戦やバターン、コレヒドールでも非常に活躍しました。
両作戦の成功の陰には夜目が効きジャングルの中を静かに音もなく進み、
そして死を恐れぬ勇気ある彼らの活躍があったと言われています。

そして、日本軍が次第に劣勢に立ってからは、彼らはジャングルでの食糧調達に、
自分たちを後回しにしても日本兵のために働きました。
中には、そのため餓死した高砂兵もいたということです。

戦後、南方から帰国した多くの日本兵は
「私たちが生き延びられたのは高砂兵たちのおかげだった」
と感謝の念を述べました。

高砂兵が日本軍として戦いに身を投じたのは、
白人の植民地支配からアジアを解放させるという大義ゆえ、
「その魅力には勝てなかった」
と、のちに高砂族の日本兵だった一人はこう述べています。



板垣征四郎

「板垣征四郎の武士道精神」

http://blog.goo.ne.jp/raffaell0/e/4f37f26e17a95dad2be3a93ed63c670b

東京裁判について述べた児島譲の「東京裁判」でも、
この板垣征四郎について今回わたしが知ったようなことについては
全く触れられていませんでした。

板垣の名前と石原莞爾の名から、あの世界的指揮者の
「小沢征爾」の名前が生まれたという話は、個人的にツボでした。

「征四郎」
「莞爾」
「征爾」

どの名前も、なんとなく清廉な響きがあり、好きな男性名です。

光山文博陸軍少尉

「光山文博少尉と地球市民な人」

http://blog.goo.ne.jp/raffaell0/e/e21f3312edde337dc5250df196ce4028

当時日本政府は統治国である朝鮮人には士官になる道も開いていました。
同じ統治国でも、台湾人はそののち志願兵を募集したものの、
陸士に入ることは許されなかったのですから、たとえば蔡焜燦さんによると、

朝鮮人は(台湾人に比べ)むしろ優遇されていたと言える。
日本軍人として祖国に報いんとしていた我々台湾人にとって、
こうした制度の違いこそ『差別』だったと言わざるを得ない」

「我々台湾青年たちは血書を添えて嘆願し、日本とともに大東亜戦争を戦った史実を
日本人はどうか忘れないでいただきたい」

とその著書に書いています。
ちなみに、台湾人の蔡さんから見た朝鮮人兵士たちですが、
南北の出身者の間でしょっちゅういさかいを起こして、教官なども、
どちらかというと穏やかで成績の良い台湾人生徒を可愛がっていたそうです。

この「地球市民な人」であるところの媚韓女優の黒田福美という人が、
その夢枕に立った光山少尉が「創氏改名させられ日本名で死んだことが心残りだ」
と言ったのを聞いた、ということから起こした「慰霊碑建立騒ぎ」。

そもそも黒田福美は創氏改名が強制だった、という誤った認識のもとに、
これだけの壮大な自爆に向かって突っ走ってしまったわけですが、
蔡さんは「蔡焜燦」で通し、不利益や不都合があったことは無かったと言っています、
台湾出身者はほとんどが台湾名をそのまま使っていましたが、朝鮮人は、
なぜか全員が残らず日本名にしていたのだそうです。

蔡さんから見た「朝鮮人兵士」の実態についてはまた稿を改めます。

この特攻に志願し戦死した光山少尉は、少なくも日本名を強制され、
特攻を強いられたのではなく、おそらく蔡さんが友人に語ったように、

「チャンコロといって俺を馬鹿にする内地人は嫌いだ。
しかし俺は日本という国が好きだ。
天皇陛下が好きだから、俺、立派に戦ってくる!」

このような闘志に燃えて志願した純粋な青年の一人だったのでしょう。
しかし、残念なことに現在の韓国、北朝鮮という国は、このような
「日本人として戦った」人たちを「敵」であると言って憚りません。
特攻死した光山少尉、いや卓庚鉉に対しても、
「日本に協力した加害者である」
というのが彼らの正式な表明だったのです。

光山少尉の祖国がかれをこのようにしか遇しない以上、われわれは
他の日本人戦死者と同じように、その魂を靖国神社で顕彰するのが、
その魂にとって最もふさわしい扱われ方であると思います。

黒田福美の「韓国に慰霊碑」というのは問題外ってことで。


平賀春二海軍兵学校教授



「海軍兵学校の平賀源内先生」

http://blog.goo.ne.jp/raffaell0/e/ca832fe84b6efacfc3bd3181131b5419

この源内先生がご自身でお書きになった本を持っていますが、
これがまた、闊達でのびやかな文章と言い、たくまざるユーモアといい、
この兵学校生徒に慕われた名物教授がいかに魅力的な教官であったかを
伝える、全く素敵な好著です。

「嗚呼江田島羊羹」
http://blog.goo.ne.jp/raffaell0/e/1de1611e8dbc1c79bd0573f93e34b571
や、
「課業はじめ」
http://blog.goo.ne.jp/raffaell0/e/d48bfa7c65220eed00bb6460aeb4eaef

などにも登場していただいたこの「源内先生」。
海軍に憧れ、海軍が好きで好きで、兵学校の教授になったという御仁ですが、
終戦の際、海軍の消滅に伴って兵学校の廃校が決定したとき、
この源内先生はその処理と生徒たちのケアに奔走しました。
ただの海軍好きで海軍風敬礼をこなし「艦長」と呼ばれて悦に入っているだけの「ミーハー」
ではなく、筋金入りの「海軍さん」でもあったのです。

源内先生の子息は戦後第14期幹部候補生として赤レンガの元海軍兵学校であった
幹部候補生学校を巣立ち、自衛官となりました。
かれはのちに潜水艦隊司令官となり、海将で退官しています。

みなさん。
この平賀源内先生の息子さんの名前、知りたくありませんか?
それは
平賀太郎

でした。(微笑)