10日間台湾にいて、台湾から高雄、あるいは八田ダム最寄りの隆田など、
台南を中心に30分ほど電車での移動をしました。
台湾の鉄道は統治時代に日本が敷設したものですから、線路は勿論、
駅舎のたたずまいや運行システムに至るまで、日本式と言っていいでしょう。
先日台南駅でその日本時代の建築そのまま使用しているこの駅について
いろんな角度から語ってみましたが、今日は、その台南駅をも含む
「鉄道百景」と題して写真を淡々と貼っていきます。
駅前のロータリーにはタクシー乗り場も。
タクシーには何度も乗りましたが、総じて皆運転は荒かったです。
都会の運転手ほど飛ばす傾向にあり、車を運転しないTOは、
何度も青くなってシートベルトをチェックしていました。
おなじみ台南駅の裏口。
写真を撮っているエリス中尉が写っていますが、気にしないでください。
「区間」は各駅停車、「ろこう」(漢字が出ない)は区間特急、「自強」は特急。
どうやらそうであろうと理解したときには、帰る日になっていました。
晩、というのはわたしのかすかに残る中国語の知識によると「遅れている」。
高雄行き、塀東行きともに2分、3分遅れである、と表示にあります。
いかん。いかんぞー!
どんな山の中の無人駅でも、一分違わず電車がホームに滑り込み、
数センチの狂いもない場所に停車してドアが開く、というミラクルさが、
もはや世界の「伝説」ともなっている日本の鉄道ですが、
その流れを引く「弟子」とも言うべき台湾さんがこんなことではいかん。
だいたい、当たり前みたいにどの路線も微妙に遅れてんじゃねー。
公衆電話も健在。
統治時代のホームに最新式のエレベーターと通路。
しかし、完璧にバリアフリーと言うわけではなく、裏の改札口からは階段を使わないと、
ホームにはいけない仕組みになっております。
全面的に広告(観光地のお誘いが多い)をプリントした電車。
大阪環状線あたりでそっくりの駅を見たことがあるような気がする。
高雄に行くとき「自強」つまり特急に乗りました。
一部指定席です、
台湾の電車は新幹線は勿論、古い車両もとても清潔でした。
どうも全体的に台鉄はオレンジ色をメインカラーにしている模様。
車体に見える台鉄のマークは「台」と言う字と、線路のレールを輪切りにした形を
組み合わせた意匠であろうと思われます。
上方の看板には鉄道警察はこちらにありますという表示が見えます。
なんと、ホームの端っこに警察署があって、それが鉄道警察。
駅のホームに警察があるというのも珍しいですが、さらにホーム上に、
パトカーや白バイ、さらには警察官の通勤用の車までちゃっかり停まっています。
さらにホームの最先端に行くと、ここは全く使用されないスペースなので、
駅員さんの趣味のガーデニングコーナー(たぶん)として利用されていました。
高雄に行く途中目撃した、おそらく陸軍の駐屯地。
カーキ迷彩のトラックが所狭しと並べられていました。
列車で軍用車を運べるように線路の近くにあるのでしょうか。
それにしても不用意と言うか、何かとオープンですね。
この、線路をまたぐ渡り廊下も日本っぽい。
電梯、電気の梯子がこれすなわちエレベーター。
ただし中国語では「梯」一字で「階段」の意味があります。
台湾の少数民族がポスターになっていました。
何かイベントかと思ったのですがそうではなく、
ただ、「こんな民族がいるよ」と改めて告知しているのです。
かれらも現代の台湾で普通に文明社会を享受しているはずですが、
民族衣装や風習などをこのようにして守り続けているのでしょうか。
日本の津々浦々で地方特有の風習を受け継ぎ、お祭りやしきたりと言う形で、
次世代に残すのと同じように。
それにしても高雄には原住民の種類が多いですね。
日本統治前は言葉も様々だったため、日本政府は
台湾語と日本語を共通言語として彼らに与えました。
高雄駅構内のセブンイレブン。
だいたい日本のと同じような品ぞろえで、というか、
普通に日本語で書かれた日本製品(温感下着とか)などが置いてあるのですが、
お菓子やジュースなどは台湾独特のものが多かったです。
わたしはこのコンビニで売っている台湾のアーモンド味ののど飴が気に入り、
去年に続けて今年も買って帰りましたが、もうすでに残り少なくなりました。
たくさん買い込んで来ればよかったと思っているくらいです。
夜の台南駅に戻ってきました。
成功大学の学生らしい若い人を駅ではよく見かけます。
わたしたちが切符を買うのにまごまごしていたら、
英語で話しかけてきて手伝ってくれた男の子もいました。
このガラスケースの中身ですが、横の売店のための「物入れ」。
全体的に整理整頓が悪い感じはどうしてもぬぐえません。
ここは新幹線台南駅のできたばかりの駅コンコース。
どこもかしこもピカピカで、フロアにはお土産用のお菓子屋さんが
それこそ迷ってしまうほど種類も豊富に取り揃えられています。
「桜波プリン」。
日本の会社にちがいないと思わせるネーミングですが、
調べてみると台湾にしかないお菓子。
日本のスイーツ風、と言うイメージで売っているのでしょうかね。
新幹線台南駅からの眺め。
やたら広い緑地帯が向こうに見えますが、公園にしては何もなさすぎるし。
向こうが新幹線のホーム。
中国語を知らずとも、意味はよくわかります。
わたしは日常あまり電車で移動しないので知らないのですが、
日本でもこの液晶の電車内のお知らせは、このように
「あなたの乗っているのは二両目で、次の台南駅には
階段はホームのどこにあって、ついでにトイレもどこにあるか」
までを教えてくれるこのような親切なものなのでしょうか。
ちょっとでも早く移動したい人にとっては実にありがたいですね。
下の「閉門時強行進出」は、
「扉が閉まりそうなときに無理に降りないでください」かな?
大阪に行ったときに、「指つめ注意」という表示、さらに英語の
「Watch your fingers」
という注意書きに心から驚いたのですが、ここ台湾では、
大阪よりはずっとスマートにそれを伝えることに成功しています。
小心夾手。
さすが孔子の国の文化。
この四文字熟語で「手を挟まないように気をつけてください」
という意図が余すところなく表せているではありませんか。
小心とは中国語で「気をつける」です。
さらに英語では
「Caution keep hands clear the gates」
素晴らしい!
(挟まないように)ゲートから手をどけておいてください。
思うに日本は、五七五の「俳句標語文化」があり、
このような注意書きは英語ですら
「短く、できるだけ17文字くらいで治まるようにしなければいけない」
とか考え過ぎなのではないでしょうか。
この注意書きの文句、大阪市地下鉄に教えてあげようかな。
八田ダムを観に行ったときの最寄駅、隆田。
改札を出るのにわたしたちはちゃんと地下道を使ったのですが、
階段をあがってみるとみんなは当たり前のように、
線路の上の通路を歩いていました。
駅員さんもいたので、おそらく禁止されてはいないようです。
日本にも小汚い建物はありますが、こちらのはレベルが違う。
水辺の光景。
いまどき橋げたまで木製の橋です。
すごく新しそうですが、全く使用されている様子もなければ、
しかも河原に歩けるような道もない。
向こうの方は土砂崩れ通行もできない状態です。
・・・・トマソン?
八田ダム以降、この地方には水が潤沢に供給されるようになり、
このような養殖池があちこちに造られました。
「飛虎将軍」の杉浦飛曹長が集落を避けて飛行機を落としたのも
このような養殖池の集まっている地帯でした。
工場も線路沿いに見られました。
右から「ひまわり油」「しょうゆ」次は、
「壺底油」・・・・・?????
あまり景観に気を遣っているように見えないのが台湾ですが、
たまにはこんな光景も見られます。
アパートのベランダは、どこも独自に泥棒除けのフェンスを付けています。
結構な高層階ですが、それでもこうしておかないと入られるのでしょうか。
香港の貧民屈の風景を思い出してしまいましたが、
もしかしたらこれくらいは普通のアパートなのかもしれません。
この区画は、どうやらコンパートメント三つが一軒のようですね。
しかし、ベランダから見える外の景色がいつも格子越し、
という生活は、なかなか辛いものがあります。
でた。
デンジャラスセカンドハウス。
ゼーランディア城の付近で、実にキッチュでシュールな、
黄色い「屋上に乗っけるだけの施行方法」の家を発見し、
我々は非常に盛り上がったのですが、気が付けばこの様式は、
台湾全土に見られることがわかってきました。
しかも、物置などではなく、立派な「住居」として使われている模様。
ただし、ここのは住居は住居でも「鳥小屋」。
極限までアップしてもこの鳥がなんなのかわかりませんが、
どうも大きさから見て鶏では無いでしょうか。
屋上に鶏小屋を建てて、マイ菜園ならぬ「マイ養鶏場」?
大家さんが屋上のスペースを利用して副業でもしてるんでしょうか。
ちょっとした収入にもなるし、なんといっても毎朝産み立ての卵が食卓に!
それに、万が一地震が来て建物が下に落ちるようなことがあっても、
しょせんほら、鶏だし・・・・・・・・・って、いやいやいやいや、これまずいだろ。
そこで冒頭のセカンドハウスですが、どうやらここも住居ではなく、
何かの作業場で、ここには鳥は鳥でも、どうやらハトもいる様子。
鶏らしいシルエットもありますが・・・・まあ、中国人、ハト食べるらしいからなあ。
それはそうと、このマネキン人形はいったい何のために?
台湾にはまだまだ、はかり知れない奥深さがありそうです。
台湾旅行を機に台湾の歴史について調べるうち、
台湾が親日であることに始まって、日本が統治時代にしたことの数々、
たとえばこのブログでもお話しした八田ダムなどのインフラ建設や、
教育、そして社会基盤を整えたことなどを挙げるブログをいくつも発見しました。
わたしのように台湾旅行をきっかけにそのようなことを知った、というブロガーも
かなりいるように見受けられました。
しかし、彼らの記述を見て気になったことがあります。
日本が統治時代に台湾にしたことのいろいろを挙げ、だからこそ台湾は親日なのだ、
と書きながら、最後に言い訳のように
「しかし、日本が台湾を植民地にしたことは決して許されることではないが」
「統治したことを正しいというわけではないが」
などと、お約束のように付け足している言論が非常に多いことです。
いつも思うのですが、日本人には、どういうわけか歴史を自分のことのように捉え、
かつそれに対して罪悪感を感じ、ときとして謝罪までしてしまう「善人」が多すぎます。
それが日本人らしい美点と言えば美点でもあるのですが。
二国間の間に支配、被支配の関係が生じるとき、そこにあるのはパワーバランスの不均衡、
強いものが支配し、弱いものが支配されるという事象があるだけで、
何度も言うようですが、それは善と悪という関係ではなかったのです。
しかも支配した側でありながら統治を悪であると反省してしまうような民族は、
世界広しと言えども日本人だけです。
中国や韓国がそれをいまだに善悪で語り「謝罪と賠償」を要求するのも、
日本が戦後、前代未聞の自虐史観によりそれを自ら認めてしまったからなのです。
そもそも、歴史上支配側が支配したことを悪と考え、支配された民族に謝罪する、
こんな例は古今東西探してもどこにもありません。
(ドイツの首相の謝罪は言っておきますがノーカウントですから念のため)
ただ日本だけが、GHQに与えられた自虐史観を拗らせた「謝罪マゾヒスト」、
(ある種の人たちは懺悔によってアドレナリンが出て、陶酔するという心理に至るらしい)
またはその揚げ足を取って政治利用しようとする政治家などによって、
「被支配側」あるいはさらに謝罪の必要などない戦争相手に遡及のすきを与え、
それを政治カードに取られてしまったというだけのことです。
NHKの「Japanデビュー集団訴訟問題」でNHKを訴えた台湾人たちは、
統治していた日本を恨んでいるわけでも、全面的に肯定しているわけでもなく、
「統治にはいろんな面があった。
しかし、少なくともNHKの捏造したような、
一方的な弾圧や差別を含む過酷なものなどではなかった」
という主張のもとに訴訟を起こしたわけです。
(いえーい、NHKの人見てる?)
戦後日本には、お人好しで根が善人の日本人が、自分の歴史に対し、
「いいこともしたけど、やっぱり植民地化はよくない」と―善良な市井の人までが、
なんとなく言い訳しないといけない気になってしまう土壌が築かれてしまいました。
もちろんこれはNHKや朝日毎日の日々の刷り込みによるところが大です。
その昔台湾や朝鮮がどんな国で、なぜ彼らが日本政府の治世を受け入れたかとか
台湾では日本統治の後、国民党によって殺戮や弾圧が起き、皆統治時代を懐かしんだとか、
こんなことをほとんど知りもしないのに、なんとなく日本を「悪者」にしてしまう。
メディアと左翼の刷り込みによって今日「愛国者」=「右翼」と思い込む日本人のなんと多いことか。
もう半年以上前になりますが、台湾の高砂族部隊について書いた稿に、
予科練にもおられたという戦中派の読者の方がコメントを下さっていました。
その方が30年前、この忠烈祠を見学した時の話で、
館内の資料ケースの中に敗戦後、復員する日本兵の船上の写真が有りました。
そこには「以恩報怨」 と書かれてました。
蒋介石が過去の事を忘れて日本軍を早く帰国させる為に取った措置だそうです。
中共やソ連と雲泥の差があり感心しました。
というものでした。
一方、今回忠烈祠の見学を薦めてくださった読者の方は
「抗日関係の展示物には凄まじい”モノ”が有った印象があります。
怨念というか・・・」
と書いておられました。
これでわざわざ見なくても忠烈祠の展示内容がわかってしまいました(笑)
当時、蒋介石の国民党は、毛沢東率いる共産党に対する
「自由主義陣営」という位置にありました。
言わば日本にとっては「仲間」というわけです、
そして特に戦中派、大陸から引き揚げてきた日本人は
「蒋介石は以徳報怨といって、復讐をしないように中国の民衆に呼びかけた。
しかも、日本に対して賠償を放棄して一銭も求めなかった」
などといって、蒋介石を尊敬したりこれに感謝したりしたのだそうです。
しかし、わたしが台北で今回お会いした「元日本人」蔡焜燦(さい・こんさん)氏は、
こういう日本人を、このように評します。
「日本人は律儀すぎるほど律儀なのだ」
戦後の日本が外交政策として自由主義陣営とされる国民党と手を組むのは、
中国共産党への対抗上仕方のないことであったと言えます。
そもそも日本人は、当時台湾が凄惨な虐殺を伴う戒厳令下にあることなど、
全く知る由もありませんでした。
表面的な賠償放棄と「以徳報怨」ですっかり騙されたのも致し方なかったといえます。
・「戦後賠償放棄」の真実
そこで改めて、この冒頭の絵をご覧ください。
蒋介石とその妻、宋美齢の仲睦まじい様子ですが、
注目していただきたいのは、宋美齢の写真に見られるいでたちです。
まあ、趣味がいいかどうか、というのは読者の個人的な見解に任せるとして、
チャイナドレスの上に洋風のジャケットを羽織り、大きな指輪をはめ、
全く必要もなさそうなポーズのためだけの皮手袋を、気取った様子で持っています。
この宋美齢が中国4大財閥のご令嬢で、幼き日からアメリカに留学し、
アメリカで抗日を訴え、反日の象徴としてマドンナのようになっていた、ということは
もしかしたらみなさんも「宗家の三姉妹」などという映画でご存知かもしれません。
彼女はこの写真からも覗えるように、非常に自分の容姿に自信を持っており、
さらに自他ともに認めるお洒落番長(笑)だったので、何しろその維持が大変。
アメリカで抗日を訴えてアメリカ人から集めた寄付金は、
全て彼女の滞在した高級ホテルや衣装宝石自家用車お化粧代に消えてしまったそうです。
まあ要するに、この彼女のお衣装にも途方もないお金がかかっていたわけですね。
趣味はともかくね。
さてそこで質問です。
この妻を満足させるだけのお金を、蒋介石は戦後どうやって捻出したと思います?
戦争が終わり、日本の台湾統治も終わりました。
実は、日本が台湾に施したインフラは勿論、台湾に残された「日産」(日本の資産)及び、
日本人の私有財産、これを蒋介石は、日本が持ち帰ることを一切許しませんでした。
台湾にいた日本人が国に持ち帰るのを許されたのは手荷物だけ。
国家予算の5パーセントに当たるこの巨額の資産を、国民党は実質
「賠償金」として全て私的に(つまり国としてではなく党として)接収してしまったのです。
ちなみに、日本はこの残した資産を清算するように国民党に何度も要求しています。
さらに、国民党政府は、日本が残していった事業を設備から何からそのまま引き継ぎ、
安定した利益をすぐさま上げることができたのです。
戦後内戦に敗れて大陸から無一文で逃げ込んだも同然の国民党は、
これら日本人の残した財産によって肥え太り「世界一の金持ち政党」となったのです。
しかも蒋介石は、戒厳令によって台湾人を弾圧し、表向きは日本と自由主義陣営同士の
連携を謳いながら、実は国内では強烈な反日教育を推し進めていたのです。
「東洋鬼」
「小日本」
と日本をあざけることを教え、同時に統治時代の痕跡を尽く破壊していきました。
利用できる堅牢な日本の建築物はちゃっかり残して。
現在この忠烈祠の在る場所には、昔、日本の護国神社がありました。
日本の英霊を祀る場であるからこそ、蒋介石はこれをあえて潰して、
抗日戦争で亡くなった中国人の魂を顕彰する祠を作ったのです。
自分の神格化も勿論のことしっかりと行っております。
そしてこれ。
台湾に行ったことのある方は、この非常に目立つ、
とても趣味がいいとは言えないこの巨大な中華風建築の建物が、
「宋美齢が日本の神社を潰して作った超高級ホテル」という事をご存知でしたか?
ここには、隣の護国神社と寄り添うように「台湾神社」がありました。
それを宋美齢は壊して、国有地にわざわざホテルを作り、それで私腹を肥やし、
さらになんだかんだ言い訳をして税金すら払わなかったというのですから畏れ入ります。
この目障りで風情もくそもない醜悪な建物は、空港からも非常によく見え、
そんな彼女の極道ぶりを今に伝える立派な証拠となっております。
一度ここが火事で焼けたとき、蔡さんら「トウサン世代」の台湾人は皆
「ざまあみろ!」
と快哉を叫んだというくらい、評判の悪い建物でした。
蒋介石と宋美齢はたった半世紀の間に15億ドルもの蓄財を為しています。
蒋介石は、狭い台湾に40箇所もの「行宮」(あんぐう)という豪華な別荘を建て、
視察に泊まるときだけ利用しました。
日月潭も、日本から取り上げた宿泊施設を行宮にしたものです。
夫妻のためだけに造られたこの行宮は、夫妻が一度泊まると、
そのたびに浴槽と便器を壊して取り替えたと言われています。
ちなみにこの行宮は「あんぐう」を変換すると出てくる単語ですが、
中国の「皇帝」の別荘のことを言うのです。
まさに、この二人は自分たちが「皇帝、皇后」になったつもりだったのでしょう。
宋美齢はかつて
「私が”中華民国”だ」
と言い放ちました。
「宗家の三姉妹」の宣伝文句によると、
「一人は金と、一人は国家と、そしてもう一人は権力と結婚した」。
実業家と結婚した長女、中国革命の父孫文と結婚した次女、
そして三女の美齢は国民党の首領であるこの蒋介石と。
「権力と結婚した女」。
これは、絶大な権力をほしいままにした宋美齢を何よりも表しています。
・「以徳報怨」
これについても少し。
蒋介石に対する評価は政治家ですから毀誉褒貶はなはだしいのも当然ですが、
もちろんのこと評価する声は今日もあります。(昔ほどではありませんが)
この人物に対するわたし個人の評価はやはり「日本の台湾統治」と同じ。
良くも悪くも政治家である限り、善悪ではくくれないとしか言いようがありません。
ただし、日本人がこの人物をやたら評価していることに対しては、
228事件の痕跡などを今回見る限り、疑問を持たずにはいられないのも事実です。
まず、好評価の一つとして蒋介石が「陸軍士官学校に学んだ」と言う経歴があります。
実際本人にとってもこれが「売り」で、また彼個人は日本で結婚式を挙げたがったほど。
日本と日本の文化に傾倒していたというのはどうやら事実だったようです。
しかし蒋介石が留学していたのは「振武学校」といういわば陸士の予備校でした。
つまり「士官学校卒」は思いっきり経歴詐称だったのです。
一個人として蒋介石が日本に対してどう思っていたかはともかく、政治家としての彼が
在日中の経験から学んだのは要するに「美辞麗句に騙されやすい日本人の性質」と
それに基づく「日本人のあしらい方」であった、というのは少し言いすぎでしょうか。
表向きは「戦後賠償放棄」「以徳報怨」などとぶてば、日本人は単純に感激する。
実は戦後補償どころではない資産を没収されたとも知らず。
これが政治家蒋介石の日本分析であり、それに基づき日本にしたことであったとも言えます。
・蒋介石と金
政治家蒋介石が、いわば中国の腐敗体質を象徴するような「金に汚い男」
であることを、実はアメリカですら苦々しく思っていたようです。
涙ながらに反日を訴え、アメリカの要人に取り入った宋美齢には、
彼女をいわば利用したアメリカ男たちも非常に甘かったようですが・・・・・。
たとえば「フライングタイガース」の結成の時、カーチスのP-40を一機購入するたび、
当時で一万ドルが蒋介石の懐に不正操作されて入っていましたし、
日中戦争の際にはアメリカは支援物資を送りましたが、それは必ずと言っていいほど
途中で行方不明になり現地に届いたためしはありませんでした。
つまり、それらは横流しされて、お金はこれも蒋介石のポケットに、というわけです。
トルーマンはそのことを知っており、
「もうあんな国に誰が援助金を送るか!
あの国に金を送っても、ただアメリカの土地が高くなるだけだ」
と怒りをあらわにしたと言われています。
しかし、わたしは蒋介石を「悪」だと決めつけるつもりはありません。
日本統治が台湾にとって「善でも悪でもなかった」と評価するのと同じで、
蒋介石に対しても単にそういう歴史上の人物がいたと評価するのみです。
ただ、このことから言えることは、
「統治したことは決していいことじゃない」
なんて言い訳をわれわれ日本人がする必要もなければ、
ましてや戦後の賠償放棄や「以徳報恩」を恩義に思う必要もないということです。
その時日本はそこで「日本」を作ろうとした。
ダムを造り、鉄道を敷いて学校を作り、道徳と秩序ある、日本と同じような、
いや、日本そのものを台湾に造ろうとした。
そこには抵抗するものや差別される者も、敵対する勢力もあった。
感謝する者も恨みに思うものも、どんな体制にもあるように一定数いた。
どこの世界にも普通にある社会の構図。歴史という事象。
真実はそれだけなのです。
蒋介石の言葉を借りるならば
「以史知実」・・・・・うーん、もう一つかな(照れ)
「今台湾にいます」
と旅行しながらブログでそのようにアナウンスしたところ、
いくつか「今まで台湾に行ったことがある」という方々から
アドバイスやコメント、あるいはご提案をいただきました。
在台中に総統府の見学をしたかったのですが、総統府は
土日は公開していないことを知り、さて最後の日曜日、
台南から帰ってきて半日どうやって過ごそうと考えていたとき、
ある読者にこの「忠烈祠」のことを教えていただきました。
コメントによると
「中尉がもし行かれるなら、必ずや又様々な感想を持つと思います」
その理由は「台湾の靖国神社みたいなものなので」
お察しの通り、その一言で即見学を決め、調べると、
最後の衛兵交代儀式にちょうど間に合う時間。
さっそくタクシーで現地に向かいました。
いかにも中華圏の建物。
衛兵の交代は1時間に一度。
もうそろそろ始まるので人が集まり始めています。
この入口に立っている二人の衛兵がこれから次の衛兵と交代します。
右の人。
衛兵は陸海空全軍から選抜された兵士で、身長体重は勿論、
人物素行成績が優秀で家もちゃんとしていること、という条件があり、
これに選ばれることは大変な名誉なのだとか。
陸海空軍はそれぞれの制服を着用して衛兵業務に臨みます。
台湾軍の制服は陸(緑)海(白)空(青)であるとのこと。
この衛兵たちは空軍の兵士ということのようです。
左の人。
衛兵に立っている間、彼らは一時間微動だにしません。
なんでも、できるだけ瞬きも控えているそうです。
夏の間、鉄兜を被ることによって汗もかくわけですが、
その汗は係りの人が定期的に拭ってくれるのだとか。
左の人アップ。
衛兵には容姿も考慮されるのだそうです。
背が高くて太っていなければ、それ以上はあまり必要でないような気もしますが。
交代の儀式を行う衛兵と言えば、バッキンガムの近衛兵を思い出します。
バッキンガムの近衛兵と言えば、あの独特のモップみたいな帽子ですよね。
あの帽子を「ベアスキン帽」と言うのですが近衛兵と言えばベアスキン、
ベアスキンと言えば近衛兵ってくらい、象徴となっているデザインです。
というか、あれ、熊の毛皮だったのか・・・・。
話を戻します。
忠烈祠で衛兵交代をして、ちょっとした名物にしようじゃないか!
と決めた台湾の関係者の皆さんは、おそらくその衛兵のスタイルを決定するとき、
陸海空の制服をそのまま着用するからには、バッキンガムの近衛兵のベアスキンのように、
帽子をオリジナリティあふれるものにしようと考え、このような、
世界のどこにもないヘルメットを考案したのではないでしょうか。
あまりにユニークというか斬新なデザインなので、ついそのように考えてしまいました。
きっとこれ、指紋や汚れが付かないように毎日磨くんだろうな。
「ヘルメットに少しでも曇りがあれば、それは貴様の心が曇っているからだ!」
なんて言われながら。
これが忠烈祠。
いかにも中国人の建てた建築物、という感じですが、
ここには統治時代、台湾護国神社がありました。
つまり、靖国神社の祭神が祀られ、台湾に縁故のある英霊が祀られていたのです。
1942年に開かれたこの神社、終戦後、台湾から日本の神社がすべて姿を消したとき、
取り壊され、その後1969年に同じ場所に創建されました。
創建後も国の英霊を顕彰する場にしたということですね。
こんなことを言うのはなんですが、日本の神社を取り壊して、そのあとに、
主に抗日の戦争で亡くなった英霊を祀る、というのはいかがなものか。
この件について、蒋介石の正体を暴く目的でアップした稿で、
わたくしなりの考察をしてみましたので、後日ご照覧ください。
さて、そのちょっとした予告編?ですが。
我々日本は確かに戦争をして負けたわけですが、これも言わせてもらえば、
中国を相手に戦争をして負けたわけでもなんでもないわけでね。
中国が、しかもその中国本土から追われたも同然の蒋介石が戦勝国ヅラして
「抗日戦争に勝利し」みたいなことを言うのを見ると、ソ連にほどではないにせよ、
「あんたにそこまで威張られる筋合いはない」なんて言葉がついでてきます。
奥に交代する兵士とそれを守る儀仗兵が姿を見せています。
昔はきっと石畳と灯篭がここを続いていたのだと思われます。
やはり中華式の祠というのは、こういう空間を持て余している感があります。
この本堂から山門までの距離があるからこそ、衛兵交代という儀式も生まれたのでしょうが。
三人に見えますが、あまりにも動きがシンクロしているので、
後ろにいる二人が完璧に見えなくなってしまっています。
儀仗兵恐るべし。
この5人が奥から出てくるところからセレモニーは始まります。
真ん中にいる銃剣を持っていない兵士がいわゆる「引率係」。
セレモニーのリーダー役です。(たぶん)
左足を上げていますが、この動きは非常にゆっくりで、
この重たそうな銃を持ったまま全くふらつかないというのも、
なかなか大変なことであろうと思われます。
左に目つきのスルドイ黒スーツ黒ネクタイがいますが、
これはこの忠烈祠の係員で、このセレモニーの時に観客が邪魔したり、
必要以上に近寄らないように周りを警備しているのです。
ちなみに彼の左胸の赤いワッペンですが、右から読んで
「空軍儀隊」と書いてあります。
あの、どうでもいいことですが、この兵士たち、皆顔が似てませんか?
ゆっくりと行進する衛兵たちの周りを、こんな風に観光客が
ぞろぞろと撮影しながら取り囲んで付いていきます。
中華民国三軍儀隊、下には「Honor guard」(儀仗隊のこと)とあります。
でもね。
エリス中尉、防大でも自衛隊音楽隊でも、こういう
「軍的な」(←一応配慮)セレモニーや集団で行うあれこれを見るのが好きで、
無条件で「かっこいい!」とワクワクしてしまう人間であるはずなのに、
なぜかこの衛兵交代の儀式、この軍服の皆さんに対しては、失礼ながら
そのワクワクやドキドキを一ミリも感じなかったのです。
なぜなんだろう、と考えてみたのですが、まず、制服。
念のためにいま一度、陸海空と防大の儀仗隊の制服をチェックしましたが、
やっぱり文句なく我が自衛隊の儀仗隊はかっこいいんですよ。
まず、上半身はともかく、このズボンの長さがイケてないと思うの。
そして何と言ってもこのピカピカのヘルメット。
南国の兵士の日焼けした顔に、このシルバーといいブルーの明るさといい、
ことごとく似合っていない気がしてしかたありません。
それに、これはおそらくですが、ファッション的にどうの、という問題だけではなく、
どうやらこれが「他国の兵士である」という一点によって「かっこいい!」という気持ちに
リミッターのようなものがかけられてしまうらしく、センサーが全く反応しないんですよ。
そう、この世界に興味を持つようになって結構いろんな国の軍人の制服を見てきたけど、
たとえどんなにお洒落で粋であろうと、外国軍の軍服には、全くピンとこないのです。
・・・・ナチス親衛隊の軍服は例外ですが////
顔を全く本堂に向けず、目も動かさずに、どうやってわかるのか。
交代される方もゆっくりと準備を始めます。
台から降りるために足をあげて・・・・・たっぷり10秒微動だにせず。
向かいのバディも同じ動きをしています。
向こうから交代の兵が近づいています。
本当にどうやってタイミングを知るんだろう・・・不思議。
台から降りてようやく正面を向きます。
ゆっくり正面を向く間に、向こうからもかなりこちらに近寄ってきています。
この制服、ブーツをロングにして、ズボンを中に入れればかなりイケるんじゃないかしら。
この中途半端な長さのズボン、ブーツを脱いだらたぶんかなりかっこ悪いよ?
日本のように「靴を脱ぐ」ことが生活様式に無ければ、
それを考える必要もないのかもしれませんが。
あれ、そういえば台湾って家の中でも靴を履いているんだっけ?
向かいにいた衛兵とともに合流。
銃を振り回す儀式を行っています。
ここでの儀仗はそんなにアクロバティックなものではありません。
ただ、どの動作も一糸乱れず動きを合わせないといけないので、
そんなに簡単なことではなさそうです。
銃を回した後、交代の衛兵の銃となぜか交換。
真ん中の引率係はずっと立っているだけで終始楽な役回りです。
でも、きっと隊長とかだったりするんだろうな。
銃の交換後、敬礼。
銃にブルーの小さな布が付けられているのは空軍のしるしでしょうか。
もう一度銃を回します。
セレモニーをバックにしてなぜか自分の写真を撮らせる人。
うーん、その発想は無かったわ。
セレモニーが終わって、いよいよ交代の衛兵が位置につきます。
やっぱりさっきの衛兵と似ている気がするの。
言われなければさっきの衛兵がまた帰ってきたと思ったかもしれません。
敬礼をしてから任務に就きます。
交代前とも似ていますが、交代後の二人がまたそっくりなんですよ。
ちなみにこれが左の人なんですが、
これが右の人。
この二人がこのように似ていて、さらに念のため、
交代前の左の人。
ね?同じ顔でしょ?
こういう顔の人ばかり大量に採用しているんではないだろうかってくらい皆似ていました。
彼らは二年間の兵役の間だけ軍にいる兵士だったりするので、
いわばプロフェッショナルの軍人ではないようです。
今回、いろいろ情報を検索していたところ、あるブログに
「制服を脱いだらただの青年なので、見学の女性、特に日本女性に声をかける者も多く、
中には遠距離恋愛をしている衛兵もいるそうだ」
って書いてあるんですけど・・・・・。
いや、まあ、無い話ではないかもしれないけど・・。
だいたい、彼らは何語で意思疎通してるっていうのでしょうか。
銃剣をアップにしてみました。
ブルーのリボンだと思っていたのは房でした。
やっぱり空軍の色なんでしょうね。
ところでこの忠烈祠ですが、ここに誰かがいたり国宝があったりするわけではありません。
ただ、国のために亡くなった英霊が祀られているだけです。
バッキンガムの衛兵のように「女王」というはっきりとした対象があるわけでもありません。
つまり、国に命を捧げた人を顕彰する場を、軍が護衛している、という図式です。
この衛兵は完璧に「セレモニー」のためだけにここに配置されているわけです。
英霊を顕彰するという意味において挙国一致、
日本のような屈折した国には考えられません。
本堂の方には早々に交代した衛兵がここにも二人。
この交代の儀式は最終の回だったのですが、この時間を以て
内部の見学は締切になってしまっていました。
それを知らずにこの衛兵たちを見ながら中に入っていき、
黒服に「もう終わりだから出て行け」と言われました。
中の見学はできませんでした・・・・
この忠烈祠見学を薦めてくれた方が
「抗日関係の展示物には凄まじい怨念のようなものを感じた」
と感想を書いてくださっていたので、楽しみに?していたのですが。
わたし、この忠烈祠に祀られている人の「内訳」に興味があるのですよ。
で、忠烈祠についていろいろと検索してみたのですが、
「中華民国建国および抗日戦争の戦死者」
としか書かれていないのです。
うーん。
国民党の弾圧下で亡くなった台湾人たちは?
日本統治下で日本軍人として亡くなった、台湾人たちは?
高砂族、パイワン族などの少数部族は?
つまり、これは
こういう誇らしげな瞬間やら、
こういう神格化された蒋介石やらの絵からもわかるように、
台湾とはいってもすなわち「国民党」の立場でしか存在してないってことなんですね。
そこで、次回はその蒋介石とその夫人、宋美齢についてお話しすることにします。
三島由紀夫
映画「Mishima―A Life In Four Chapters」
http://blog.goo.ne.jp/raffaell0/e/8b0bad8656081d713cc3bc737e1794e4
絶対に笑ってはいけない行進曲「軍艦」
http://blog.goo.ne.jp/raffaell0/e/1b191176da22bfd6c53ff39081a20442
三島由紀夫が世間でどう言われていようと、わたし個人が持つ彼への評価は
「太宰と同類のナルシスト」。
その生涯を知るにつけ、なんだかその自意識のありように一種いたたまれないような、
目を覆った掌の隙間から見なくてはいけないような「恥ずかしさ」を感じずにはいられません。
「恥の多い生涯を送ってきました」
というのは三島が大嫌いだった太宰の「人間失格」ですが、わたしに言わせると、
もし三島自身が自分の人生を振り返ることがあっても、同じように言ったのではないか。
そして、あたかも自分の美意識と現身の自分との乖離を埋めるためにあがくような、
三島の行動のあれこれ・・・、マスコミを利用した自己演出、たとえばテレビで
行進曲「軍艦」を指揮してみたり、私設の軍隊を組織しておそろいの制服を特注し、
そのメンバーで歌を吹き込んでみたり、映画でチンピラや死体を演じたり・・・・、
そういう自分をもし三島が俯瞰で眺めることがあったら、彼もまた唾棄していた太宰のように
「わあっ」と叫びたいような「恥」を感じたのではないだろうか。
彼の太宰に対する嫌悪は「近親憎悪」のようなものではなかったか。
そんな、わたし個人の三島に対する勝手な「思い入れ」を、いくつかの稿で語ってみました。
誤解のないように書いておきますが、わたしは三島由紀夫の作品は
(少なくとも大江健三郎などより)
日本を代表する文学作品として、世界的に評価されるべきだと思っています。
現に「ミシマ」文学の汎世界的美学は、いまや「日本」を象徴するものとなっており、
その死の伝説と相まってその存在は神格化すらされています。
わたしもまた、その文学の価値には何の曇りもないと考えるものです。
インターネット時代になって、いろんな―時として昔なら封殺されたような―情報が、
世界を駆け巡るようになりました。
たとえば、手塚治虫という人物について実に狭量で嫉妬深い面があった、
なんてことが「伝説」としてばらまかれてしまっているわけですが、
手塚が漫画の神様であり、その業績の偉大さには毫も疑いを差し挟む余地はない
ことを誰も疑わないのと同じです。
三島については、アメリカで上記の「MISHIMA」と「憂国」を手に入れ、
一時は三島の世界に集中してのめりこみました。
http://blog.goo.ne.jp/raffaell0/e/a328135978a50b794f58672324abef39
市谷での切腹のとき、三島が「作家の目」を以て、
わが身の苦痛の瞬間を見届けたかったのではないか、という仮説に基づき、
この稿を書いてみました。
あるいは三島の「恥の多い人生」の部分に光を当てて
http://blog.goo.ne.jp/raffaell0/e/acec195f7b5fc384d275e7a78da3adf9
三島由紀夫の「悪趣味」という考察をしてみました。
いずれにせよ、三島を絵に描くのは非常に楽しい、というか胸躍る作業で、
これらのどの絵も結構ノリノリで描いた覚えがあります。
日系部隊の兵士たち
「アメリカ陸軍第442戦闘部隊」
http://blog.goo.ne.jp/raffaell0/e/f36950a552a89d522e3d818bdde28089
「GO FOR BROKE!~陸軍第442連隊戦闘団」
http://blog.goo.ne.jp/raffaell0/e/0f1fb95131b02518e3a0a93b8b404b4c
アメリカと日本が戦争に突入したとき、日系人たちがどのようにそれを捉えたか。
彼等は日本人の顔をして日本語をしゃべりながらも、彼らはアメリカに忠誠を誓い、
アメリカのために戦いました。
今日、そのことを以て「裏切り者」だと彼らを非難する言論もないではありません。
しかしこの稿で書いたように、
日本人は「武士」であり、武士というものは
血よりも君主と国家に忠誠を示すものである
こういった考えを日本人であればどこにその住処があろうと持っていたのです。
当時日系人社会に宛てて書かれた東条英機の手紙にもそれが表されていました。
全世界に、祖国を捨てて移民をし、移民先で自分権利を主張するだけの中国人、
移民先でなぜか過去の怨念を晴らすべく、反日の政治活動する韓国人、
これらの「武士道を持たない国」の移民たちには決して与えられない尊敬と称賛が
彼ら442部隊の命を捨てた働きゆえに日系アメリカ人には与えられています。
日系政治家は、その公正さゆえ、アメリカ社会で尊敬される存在でした。
その代表が、先日亡くなった上院議員ダン・イノウエです。
上段右側のダニエル・ケン・イノウエ少尉は、ご存知かもしれませんが、
日本名井上健といい、2012年12月17日に亡くなりました。
オバマ大統領、クリントン国務長官もその死を悼む声明をだし、
「彼は真の英雄だった」とイノウエ議員を称揚しました。
当時の民主党政権からは、藤村官房長官の
「在米日系人社会の結束を強化するなど、日系関係の発展に尽力され」
などという談話が出されたと言います。
官房長官はおそらくこの英雄について何も知らなかったのではないでしょうか。
イノウエ議員は決して日系人のために議員として働いたのではなく、
純粋にアメリカ市民の代表としてアメリカのために政治をしてきました。
自民族への利益誘導などは決して行わないその公正さが、
中国や韓国系の政治家とは大きく違い、
「武士たる日本人」イノウエ氏がアメリカで高く評価された点だったと思います。
イノウエ氏は死に臨んで
「ハワイと国家のために力の限り誠実に勤めた。まあまあ、できたと思う」
という言葉を残しています。
この言葉のどこに、日系人や日系社会のために利益誘導したり、
その立場を利用して日系人を結束したり発展させたりしたなどということが
読めるのでしょうか。
(さすがは、日本社会に入り込み、自分達や祖国の利益を
かすめ取ろうとする帰化議員が多数在籍してた民主党の声明ですね)
戦線で右腕をうしなったイノウエ氏は、志していた医学の道をあきらめ、
祖国アメリカのために政治家としてその一生を捧げました。
最後の言葉は「アロハ」だったそうです。
かつてヨーロッパ戦線でアメリカのために米軍将校として戦い、
腕を失った痛みに耐えながらも小隊を指揮し続け戦線を確保した往年の英雄は、
この世を去るときもまったく見事だったのでした。
ラダ・ビノッド・パル
パル博士の「日本無罪論」と映画「プライド」
http://blog.goo.ne.jp/raffaell0/e/6d6f78e243d55d5b6c0780f10708b0f8
今度、東京裁判の行われた市谷法廷跡を見ることになりました。
またそのあとにでもその感想を書かせていただきます。
ラダ・ビノード・パル博士のおかげで、わたしはアメリカで会う多数のインド人に対し、
なぜかとても好感を持つに至っております(笑)
偉大な恩人のいる国に対して、人は無条件でこのようなシンパシーを感じるものだ、
ということをわたしはアメリカで(やたらインド人のITエンジニアが多い)実感しました。
今回、安倍政権の「中国包囲網」においてもお互い協力連携が進みそうですし、
インドとは「敵の敵は味方」の構図からだけでなく、パル博士の国、
つまり日本の恩人の国として友好を深めて欲しいと、個人的に熱く願っています。
安藤輝三陸軍大尉
「鈴木貫太郎と安藤大尉」
http://blog.goo.ne.jp/raffaell0/e/98a921af14967741e53b53f319bb313f
鈴木貫太郎本人が語った2・26事件についての文章を手に入れ、
事件の首謀者であった青年将校のひとり安藤輝三大尉と鈴木とは、
事件前には面識があり、安藤大尉が鈴木を私淑していたことを知りました。
クーデターを起こした将校たちの中にも安藤のような考えのものもおり、
さらに安藤大尉がその私情をおいても鈴木を暗殺に赴かなければならなかった、
という悲運が当事者によって淡々と語られたこの文章(水交会での講演)は、
非常に衝撃的でした。
鈴木本人が断言を避けていた
「なぜ安藤大尉は鈴木家を襲撃しながら鈴木本人と対峙せず、
発砲の瞬間、部下に任せて本人はそこにいなかったのか」
について、この二人のそれまでの交誼から大胆にも
安藤大尉の行動心理について推測してみました。
しかし、この件を調べていて不思議だったのは、安藤大尉の鈴木邸での行動を、
この交誼と関係づけて見る文章をどこにも発見することができなかったことです。
どなたか、このことについて何か読まれたことのある方、もしおられたら、
ぜひ書名を教えていただきたく存じます。
無名の高砂族兵士
「薫空挺隊~高砂義勇軍の兵士たち」
http://blog.goo.ne.jp/raffaell0/e/66ec08a0da4147b7b20356ad8b0fab64
今回の台湾旅行で残念だったことの一つは、高砂族のが見られなかったことです。
台湾の部族について知る旅をいつかしてみたいと思っていますが、
今回はまだテーマがそこには行っていなかったため、なりませんでした。
例の、NHK訴訟問題でパイワン族の人々が、パリの博覧会のとき、
当時日本であった台湾の少数部族であるパイワン族を紹介する展示をしたところ、
それを「人間動物園」と称して彼らを動物のように扱った、
というねつ造をNHKがしたことについても書いたことがあります。
しつこく何度も言いますが、その稿は何者かによってサイト内に侵入された結果、
その部分が全く消されてしまいました。
この稿では、わたしが今回台湾を知ろうとするきっかけとなった一冊の本を
中心に話を進めています。
鄭春河、元皇民 上杉重雄著の「嗚呼大東亜戦争」です。
仮綴じのようなおそらく自費出版のこの冊子を、わたしはNHKいうところの
「二万冊の資料を丹念に読み解いた」というのには負けるかもしれませんが、
とにかく大変衝撃を受けつつ真剣に読みました。
その中に書かれていた高砂族が日本人として雄々しく戦った様子、
この義に我々は報いるべきである、ということをこの稿で述べました。
彼らは総督府が志願を募集するや、募集をはるかに上回る数の応募によって高砂兵となり、
戦いに臨んでは軍区も厳正、しかも純朴で勇敢、たちまちのうちに
日本軍の将兵からの尊敬の念まで勝ちえたのでした。
この高砂義勇隊は、空挺作戦やバターン、コレヒドールでも非常に活躍しました。
両作戦の成功の陰には夜目が効きジャングルの中を静かに音もなく進み、
そして死を恐れぬ勇気ある彼らの活躍があったと言われています。
そして、日本軍が次第に劣勢に立ってからは、彼らはジャングルでの食糧調達に、
自分たちを後回しにしても日本兵のために働きました。
中には、そのため餓死した高砂兵もいたということです。
戦後、南方から帰国した多くの日本兵は
「私たちが生き延びられたのは高砂兵たちのおかげだった」
と感謝の念を述べました。
高砂兵が日本軍として戦いに身を投じたのは、
白人の植民地支配からアジアを解放させるという大義ゆえ、
「その魅力には勝てなかった」
と、のちに高砂族の日本兵だった一人はこう述べています。
板垣征四郎
「板垣征四郎の武士道精神」
http://blog.goo.ne.jp/raffaell0/e/4f37f26e17a95dad2be3a93ed63c670b
東京裁判について述べた児島譲の「東京裁判」でも、
この板垣征四郎について今回わたしが知ったようなことについては
全く触れられていませんでした。
板垣の名前と石原莞爾の名から、あの世界的指揮者の
「小沢征爾」の名前が生まれたという話は、個人的にツボでした。
「征四郎」
「莞爾」
「征爾」
どの名前も、なんとなく清廉な響きがあり、好きな男性名です。
光山文博陸軍少尉
「光山文博少尉と地球市民な人」
http://blog.goo.ne.jp/raffaell0/e/e21f3312edde337dc5250df196ce4028
当時日本政府は統治国である朝鮮人には士官になる道も開いていました。
同じ統治国でも、台湾人はそののち志願兵を募集したものの、
陸士に入ることは許されなかったのですから、たとえば蔡焜燦さんによると、
「朝鮮人は(台湾人に比べ)むしろ優遇されていたと言える。
日本軍人として祖国に報いんとしていた我々台湾人にとって、
こうした制度の違いこそ『差別』だったと言わざるを得ない」
「我々台湾青年たちは血書を添えて嘆願し、日本とともに大東亜戦争を戦った史実を
日本人はどうか忘れないでいただきたい」
とその著書に書いています。
ちなみに、台湾人の蔡さんから見た朝鮮人兵士たちですが、
南北の出身者の間でしょっちゅういさかいを起こして、教官なども、
どちらかというと穏やかで成績の良い台湾人生徒を可愛がっていたそうです。
この「地球市民な人」であるところの媚韓女優の黒田福美という人が、
その夢枕に立った光山少尉が「創氏改名させられ日本名で死んだことが心残りだ」
と言ったのを聞いた、ということから起こした「慰霊碑建立騒ぎ」。
そもそも黒田福美は創氏改名が強制だった、という誤った認識のもとに、
これだけの壮大な自爆に向かって突っ走ってしまったわけですが、
蔡さんは「蔡焜燦」で通し、不利益や不都合があったことは無かったと言っています、
台湾出身者はほとんどが台湾名をそのまま使っていましたが、朝鮮人は、
なぜか全員が残らず日本名にしていたのだそうです。
蔡さんから見た「朝鮮人兵士」の実態についてはまた稿を改めます。
この特攻に志願し戦死した光山少尉は、少なくも日本名を強制され、
特攻を強いられたのではなく、おそらく蔡さんが友人に語ったように、
「チャンコロといって俺を馬鹿にする内地人は嫌いだ。
しかし俺は日本という国が好きだ。
天皇陛下が好きだから、俺、立派に戦ってくる!」
このような闘志に燃えて志願した純粋な青年の一人だったのでしょう。
しかし、残念なことに現在の韓国、北朝鮮という国は、このような
「日本人として戦った」人たちを「敵」であると言って憚りません。
特攻死した光山少尉、いや卓庚鉉に対しても、
「日本に協力した加害者である」
というのが彼らの正式な表明だったのです。
光山少尉の祖国がかれをこのようにしか遇しない以上、われわれは
他の日本人戦死者と同じように、その魂を靖国神社で顕彰するのが、
その魂にとって最もふさわしい扱われ方であると思います。
黒田福美の「韓国に慰霊碑」というのは問題外ってことで。
平賀春二海軍兵学校教授
「海軍兵学校の平賀源内先生」
http://blog.goo.ne.jp/raffaell0/e/ca832fe84b6efacfc3bd3181131b5419
この源内先生がご自身でお書きになった本を持っていますが、
これがまた、闊達でのびやかな文章と言い、たくまざるユーモアといい、
この兵学校生徒に慕われた名物教授がいかに魅力的な教官であったかを
伝える、全く素敵な好著です。
「嗚呼江田島羊羹」
http://blog.goo.ne.jp/raffaell0/e/1de1611e8dbc1c79bd0573f93e34b571
や、
「課業はじめ」
http://blog.goo.ne.jp/raffaell0/e/d48bfa7c65220eed00bb6460aeb4eaef
などにも登場していただいたこの「源内先生」。
海軍に憧れ、海軍が好きで好きで、兵学校の教授になったという御仁ですが、
終戦の際、海軍の消滅に伴って兵学校の廃校が決定したとき、
この源内先生はその処理と生徒たちのケアに奔走しました。
ただの海軍好きで海軍風敬礼をこなし「艦長」と呼ばれて悦に入っているだけの「ミーハー」
ではなく、筋金入りの「海軍さん」でもあったのです。
源内先生の子息は戦後第14期幹部候補生として赤レンガの元海軍兵学校であった
幹部候補生学校を巣立ち、自衛官となりました。
かれはのちに潜水艦隊司令官となり、海将で退官しています。
みなさん。
この平賀源内先生の息子さんの名前、知りたくありませんか?
それは
平賀源太郎
でした。(微笑)
1000日記念ギャラリー、第三弾は人物です。
といいながら今日で1011日が経ったわけですが。
年が明けたと思ったらもう2月も上旬です。
まったく時の過ぎるのは早いものです。
スティーブ・ジョブズ
「追悼 スティーブ・ジョブズ」
ジョブズが死んだ日、アップルのHPのトップにこの写真があったので、
鎮魂の意味を込めて描きました。
その後、ジョブズの若き日を描いた映画を観て、
この天才がいわゆる「紙一重」の鬼畜だったことがわかったのですが、
そういったことが世間に明らかになっても、アップルの人気にはあまり陰らなかったような。
マイケル・ジャクソンがたとえどんな性癖を持って何をしていようと、
その「キング・オブ・ポップス」の地位に何の揺るぎもないというようなものですね。
アップルさんについては、むしろ最近の「ipad mini」の失敗のほうが
言っちゃあなんですが、ダメージが大きかったのではないかしら。
映画では若き日のビルゲイツとの関係が描かれていましたが、
昨夏に訪れたスタンフォードショッピングセンターには、
アップルの一軒となりに、なんと「ウィンドウズショップ」がありました。
アップルはどこのアップルもそうであるようにいつも人でにぎわっていましたが、
ウィンドウズショップはいつ見ても森閑としていました。
なぜあんな罰ゲームのようなところにマイクロソフトがショップを構えて
公開処刑のような不人気ぶりをさらしているのか、いまだに謎です。
というか、ウィンドウズ使用者は、わざわざショップに行かないような・・・。
ハンス・ショル、ゾフィー・ショル、クリストフ・プロープスト
映画「白バラの祈り ゾフィー・ショル 最後の日々」
http://blog.goo.ne.jp/raffaell0/e/aa32ce56775f1bd445e5b55d3b77c320
このドイツ映画を観て、改めてナチス政権下の異常な言論統制について、
深く考えさせられました。
ハンス、そしてゾフィーのショル兄妹。
若い父親であったクリストフ・プロープスト。
学生が、大学でナチス政府を批判するビラを撒いただけで、
裁判で完膚なきまでに人格を辱められたうえ、その日のうちに斬首による処刑。
そして、映画で強調されていたナチス讃美の「殺人裁判官」、
ローラント・フライスラーの存在には、慄然ととする思いでした。
ゾフィーには婚約者がいて、戦争を生き延びた彼はゾフィーの姉と結婚し、
彼らと同じミュンヘン大学を卒業後裁判官となり、一生を平和運動に捧げました。
彼らの遺体はミュンヘンの墓所に三人並んで埋葬されているということです。
斉藤博
「重巡洋艦アストリアの運んだもの」
http://blog.goo.ne.jp/raffaell0/e/e63d6ae116ea0722e0b847878b78fef0
開戦前、駐米大使を務めた斉藤博。
評論家で暗殺された犬養毅首相の孫である道子さんの叔父さんです。
ハーバードに留学しF・D・R(ルーズベルト)とは「俺お前」の仲であったという知米で、
何より日本とアメリカが戦争に突入することを何とか回避しようと、
大使という立場で文字通り体を張って闘いました。
無理がたたって血を吐き、アメリカで客死した時に、その亡骸を
丁重に日本に送り届けたのが、重巡洋艦アストリア号でした。
国民はみなこのアメリカの礼を尽くした葬礼に感動し、アストリア号の乗員は、
日本国民に各地で大歓迎を受けました。
こわばった日米関係が斉藤大使の死によって一時和らいだのでしたが、
ご存知のようにその後両国は戦火にあいまみえる敵同士となります。
そして、斉藤大使の棺を横須賀に送り届け、桜の日本を感動とともに満喫した
アストリア号の乗員たちは、その後サポー沖の海戦で海軍の攻撃により
海の藻屑と消えたのでした。
このことを書いた「重巡洋艦アストリア号の運んだもの」という稿は、
斉藤大使の姪であった道子さんの証言、そして捕虜第一号として、
アメリカの刑務所で終戦までを過ごした甲標的乗員の酒巻和男氏が、
捕虜収容所の所長から聞いたという話を交えて構成してみました。
ところで。
大使と言えば(笑)、このブログでさんざんやり玉に挙げたBKD前中国大使ですが、
失うものが無くなってから連日のように「中国様」のスポークスマンとなって、
商売人の立場に立ったBK発言をいまだに繰り返しています。
昨日の「レイテストBKD発言」によると、
「中国が一番望んでいるのは国有化の棚上げ化取り消しです。
頭を冷静にするために、中国が領海侵犯をそたときは
日本は海保の船をここまで出すとか、戦争に至らないよう事前に暗黙のルールを作る。
決して戦争はしないと約束して、両国で話し合いを始めるんです。
解決なんてしなくていいんですよ。どうせ解決できないんだから。
100年でも何年でも永久に話し合えばいい。
そのうち、尖閣諸島近海に眠る石油についても、良い知恵が出てくるでしょう」
要するに、国有化をとりあえず撤回しろと言いたいのですかね。
そういえばそんなことをこのブログへのコメントで言っていた方もいましたね。
いい知恵が出るどころか、向こうは射撃レーダー照射してきたんですけど。
「永遠に話し合う」というのは、
「中国様が空海軍を増強するからそれまで何もするな」
って意味でOK?
何がいいたいかというと、同じ大使という職にある者で、どちらも
「戦争を避けたい」ということをその使命と心得ながら、
両者の「国体」に対する考え方が真逆となっているということ。
その昔、日露戦争に満足な賠償金が取れなかったといって、当時の小村寿太郎内閣に
不満を持った民衆が暴徒化し、「日比谷焼打ち事件」が起こりました。
日本人というのはこういう面も持っていた、ということなのですが、
開戦前、「海軍パネー号事件」
で、海軍機が米軍艦船を攻撃沈没させた事件の時、この斉藤大使は、
独断でラジオ放送の時間を買い取り、誠意溢れる謝罪を米国民に対して行いました。
大きな開戦への流れを阻止することはできなかったとはいえ、この果断によって、
事件は一応の収束を見せ、しかも国民は斉藤大使に対し、決して
「売国奴」などとは言わなかった、ということを改めて書いておきたいと思います。
当時インターネット言論があったとしても、おそらくほとんどの日本人は
斉藤博大使を高く評価したのではないでしょうか。
加藤セチ
「秋水」と美人過ぎる科学者」
http://blog.goo.ne.jp/raffaell0/e/4a3b93ba495ce654d1af13a40ab461a6
名古屋の三菱航空博物館に展示されていたロケット戦闘機秋水。
そこには復元された零戦もあったのですが、ついついこちらの可愛さに、
すっかり悩殺されてしまったエリス中尉。
秋水について調べていて、その燃料の開発したのが、理研の俊秀女性科学者、
加藤セチ博士であったことがわかりました。
「美人だからきっと学者としては大成しないだろう」
こんな反対意見が教授会の入学審査で出されたという、この「美人過ぎる科学者」は、
結婚し子供を二人設け、一般的な「女の幸福」も、そして科学者としての栄光も、
どちらもあきらめることなく追求し、手に入れた幸運でしかも強い女性でした。
セチ博士が海軍にかかわったのは、ドイツから送られてきた設計図を基にエンジンと
機体をつくったものの、特殊な燃料であるため開発できなかった部分を補うためです。
彼女の提案で燃料の内容物の割合を変えることが決定され、燃料問題は解決しました。
そのテスト飛行は別の原因で失敗に終わり、一か月後には終戦になったため、
秋水は未完のままその歴史を閉じてしまうのですが・・・。
セチ博士と秋水の関係について考察しているの今のところどうやら当ブログだけらしく、
「加藤セチ」で検索すると、この記事がウィキの次に出てきます。
1000日記念ギャラリーは、何日かに分けて、また後日続きをお送りします。
欲望、などというと大層ですが、街にあふれる広告や看板を見ると、
その国の人々のの消費傾向や何を欲しているか、どんなものが人心にアピールするか、
何が流行っているか、そんな欲望の方向性がわかってなかなか面白いものです。
海外旅行の楽しみとは自国と現地とのそういった相異を改めて確認することにあります。
というわけで、台湾の街中で目を惹いた広告やお店を今日はご紹介します。
冒頭写真は、大型書店にあった演劇のポスター。
これ、なんだと思います?
カンのいいあなたならお分かりだと思いますが、「ノートルダムのせむし男」。
え?せむしは差別用語だろって?
今これはなんていうタイトルなんです?「ノートルダムの鐘」?
まったく、この「言葉狩り」ですが、本当にいい加減にしてね。
昔、深夜のテレビでアイスショーの宣伝をしていたんですよ。
どうやら「白雪姫」を題材にしたスケートショーのようでしたが、
このお話に欠かせないのが7人の「小人」。立派な「放送禁止用語」です。
というわけで困った広告会社がひねり出したらしい文句が、
「白雪姫と七人のおじいさんの楽しいショー!」(;・∀・)・・・・ハ?
・・・・・・・・・・・・。
七人の老人をかいがいしく介護する白雪姫の姿が彷彿としてしまいました。
おじいさんじゃないでしょ?ドワーフ、つまり小人症の7人でしょ?
アメリカのドラマにはしょっちゅうと言っていいほどこの小人症の俳優が出てきます。
小人症の男が故人とデキていたゲイでおまけに悪い奴だった、という映画も見たことあるな。
つまり、小人症も肌の色や人種のように、普通に「特色」として扱われているのですね。
その言葉すら「いうことができない」日本ってどんな言論封殺社会なの。
それはともかく、この原題は「ノートルダムドパリ」。
つまり「パリのノートルダム」。
鐘つき男のカジモドが「せむし男」であることからそれをタイトルに採用したのは、
我が日本の翻訳者だけだったんですね。
ちなみにこのビクトルユーゴーの原作、登場人物全員が死んでしまい、
ディズニーのとは大違いの悲惨な結末です。
走る車から撮ったのでわけわかりませんが、ペットショップの看板。
ペットのお洋服半額、となっています。
このとき結構夜遅かったのですが、ペットショップが遅くまでやっている傾向は日本と一緒。
前にも少しお話しした学習塾。
補習班と言います。
学歴社会ならではで、台湾の街角にはこの補習班が角ごとにあります。
数少ないパチンコ屋の一つ。
高雄の街角で見つけました。
まるで、日本の温泉街にある古いパチンコ屋のようなたたずまいです。
日本のほど広告が外に出ていないので、それほど目障りではありません。
前にずらりと並んだバイクはこのパチンコ屋の客のもの。
いわゆる「換金システム」がここにもあるのかは知るすべもありませんでした。
車でお金を借りられる、という金貸しの宣伝。
借りたことも今後その予定もないので、この「車でお金を借りる」
というシステムの意味がいまだにエリス中尉まったく分からないのですが、
つまり車を担保にして利息を加算しない、ってことなんですね?
車を投棄するのが違反であることはおそらく台湾も同じだと思うのですが、
それでもこのような空き地には時々不法投棄された車が転がっています。
これでもかと貼られているポスターは、つまり
「廃車にするなら家に電話してね」
という産廃物処理業者の宣伝広告ですね。
誰に向かって広告を出しているかというと、つまりこの車の持ち主。
おそらくこんな捨て方をする人は、車体番号を削ってわからなくしているのでしょう。
「犯罪行為をするくらいなら、ウチに連絡すれば安く廃棄できるよ」
ということを通りがかりのドライバーに訴えているともいえます。
交通関係でもう一つ。
横断歩道ありのマークですが、左が台湾のもの、
右が日本の基本的な横断歩道のマーク。
日本で道路標識が制定し始められたのは1920年代のことですから、
この「元ネタ」が、台湾において少しずつ変化していき、左のように
なっていったのではないか、と思われます。
リボンの位置や形、大きさなどがずいぶん大胆に変わっていますね。
それではこの辺で「お店の看板」を。
刃物屋さん。
しかし、包丁やナイフだけでなく、武士刀、つまり日本刀もあると。
誰が武士刀を台湾で買うのだろう。
アウトドアグッズのお店。
「荒野を開拓する者」?
なんとなく感じが出てますね。
映画の宣伝。
このバス広告も台湾の、特に台北ではよく見かけます。
窓のところにまでプリントできるらしいのが今風です。
「驚爆危城」。
四文字熟語ではありませんが、完璧にこれで内容がわかります。
この4文字で、もう映画を観た気にすらなってしまうのは少し問題かもしれません。
春夏秋冬。
台湾にはっきりした春夏秋冬があるかどうかはともかく、これは日本食レストラン。
最近、日本各地で雪が猛烈に降り、また非常に寒い日が続きました。
ほんの数か月前の地獄のような夏の暑さを思うと、
日本の四季は実にはっきりしていると改めて感心した次第です。
この「春夏秋冬」という言葉は四季のはっきりした日本特有のものとして認識されているようです。
お弁当屋さん。
台湾の弁当は「便当」と書きます。
この「べんとう」言葉そのものが日本語由来のものです。
台湾語でこれを読むと「べんとん」になるそうですが、
駅弁を売る人は日本式に「ベント―」と叫ぶのだそうです。
一般に中華圏では冷え切った食品は受け入れられないので、
台湾のお弁当はたいてい保温された状態で売られているそうです。
日本統治時代に日本語が現地に浸透した例はほかにもいろいろあって、
「ダイジョブ」「マゼマゼ」「ユックリネ」「モッタイナイ」「ネエサン、トウサン、オバサン」
「モンダイ」「バカヤロ」「ハナ」「ソツギョー」「ヒリョウ」・・・・
原住民にのみ残る言葉もあるそうですが、この弁当は台湾ではポピュラー。
ちなみに「の」という日本語は、表記そのものが残っているので
看板などによくつかわれているというわけです。
「LIの店」などというお店を台湾ではよく見かけます。
日本語で「&」などと使う感覚でしょうか。
これはしかし台湾人は「の」と読まず「へー」と発音するそうです。
ブティックです。
猫のイラストをロゴと組み合わせたのはお店の人かな。
精品服飾はおそらく「セレクトショップ」という意味。
ちょっとかわいいと思ってしまったシロクマのキャラクター。
耳かきしてます。
なんの看板だかちゃんと写真を撮らなかったのが悔やまれます。
耳かき屋さんかな。
この「日本原宿」というのは美容院のチェーン店で、あちこちにあります。
原宿というのは世界で最先端のお洒落な街、という感覚から来た
このネーミングであると思われます。
確かに、台湾に限らず原宿を行きかう人々のファッションは、世界の
エッジなお洒落をする人々にとって注目の的。
先日乗馬クラブに行ったのですが、新しくコーチに来たスウェーデン人の女の子は、
「日本に行ったら原宿に行きたい!」
と来日前から熱望していて、最初のお休みであったその日、
御殿場から原宿まで、早朝からうきうきと出かけて行ったそうです。
世界のお洒落な女の子の憧れの場所みたいになっているようですね。
これは結婚式に備えていろいろお手入れしましょうね、というサロンの広告。
上から、
「レーザーで(指輪をする)手の甲を美しく」
「3D式の、まつ毛エクステンション(まつ毛をノリで貼って長くする。3Dはわかりません)
「瞼のお手入れ(これはわからない。トリートメント、って感じでしょうか)」
「スリムになるためのバンデージ美容法」(包帯でぐるぐる巻きにして細くなったように錯覚させる美容法)
要するに、ブライダルコースってやつですね。
こんな顔出し広告が、しかも巨大な看板となってあちらこちらにありました。
肥満を解消するためのサロンか薬かわかりませんが、
「使用前」「使用後」に目隠しなしで一般人が写真を出しています。
「あの人、駅前の肥満広告に出てなかった?」
なんてひそひそされても平気なのかな。
痩せた後はともかく、痩せる前のかっこ悪い写真まで一緒にさらされるのは、
わたしならとてもじゃないけど耐えられませんが・・・。
しかし、こんなもので驚いてはいけない。
台北の駅でこんな美容整形外科の広告を見ました。
おおおお、手術前手術後の劇的ビフォーアフターが、名前と年齢入りで。
真ん中の人が「キャンディ」さんですが、どうして中国人や韓国人は、
こういう全く顔にそぐわない自称を平気で出来るのだろう・・・。
それはともかく、これこそ恥ずかしくないのかしら。
よりによって人通りの多い駅のコンコースに・・・、と思ったら、
それでころではなく、同じ人たちのビフォーアフターが台南にも・・・。
全国チェーンなんですね。
これはビルの上の巨大看板でした。
つまり、ここで広告協力(おそらく手術代割引?)に応じた人たちは、
全国レベルで術前術後をさらされているというわけです。
台湾で美容整形というのがそれなりに行われているなあと感じるのは、
テレビに出ているキャスターや女優のお嬢さん方が、明らかに不自然な、
目と目が異様にひっついていたり、眉間から鼻が急に突出していたりといった、
人体構造上とてもありえない不自然な顔をしているのを見るときです。
「あ、この人、やってますね」
というのが一目でわかってしまうのです。
台湾の整形業界には「日式」「韓式」なる流派に分かれているようです。
日式の美容整形外科のテレビのコマーシャルで知ったのですが、
「とっても自然で一目ではめだたない」のが日式、
逆に韓式は「ドラスティックな変化を求めるあなたに」という位置づけになっているようです。
自然を売り物にする「日式」なら、ほとんどしたとわからないくらいの控えめさなので、
「お化粧変えた?」といわれるくらいらしいですが、
逆にじゃあその程度しか変わらないのならそもそも手術なんて必要なのか、という・・。
日本でも整形をする人がいないわけではありませんが、
知り合いの医者が言うところによると、日本人は「整形した」と思われるのを嫌うので、
微妙なところをちょこっといじる方法が好まれるのだそうです。
たとえばある芸能人は、ごく若いときからちょこっと目、ちょこっと皺、って感じで
歳とってからもそういうメンテナンスをしょっちゅう繰り返しているので、
「変わった」「手術した」などと言われることなく今日まで来ているのだとか。
手技としてはこの「微妙な手術」というのは非常に難しいらしく、センスも必要です。
というわけで、もちろん日本にもいい加減な医者はいっぱいいますが、
「職人」というような手先の細かい術技と芸術的センスが要求されるこの分野は、
手先の器用な人が多い日本人医師の独壇場なのだそうです。
ところでこの美容外科の広告、これどう思います?
この「手術後」の女性の顔・・・・。
改造人間臭がすごいです。
写真でこれなんだから、実物はさぞ不自然なことになってしまっているのでは・・。
肥満の広告なら「あら、隣の陳さんじゃないですか」となるけど、
美容整形の方は、キャンディさんだろうがマリリンさんだろうが、
はっきり言ってみな同じ顔になってしまっているではありませんか。
手術前のキャンディさんなら「ああ、この人知ってる」といわれても、
手術後はもうだれかわからないし、覚えてももらえないレベル。
一般的には、そして何より本人には上のキャンディさんの方が美人だと思われるのでしょう。
しかし、いくつかの「改造後」を今回台湾のテレビで見た限り、写真と違って実物は
きれいとかきれいでないという以前に「誰が見ても整形後の人」でしかなくなってたりします。
広告下の「普通の人」に生まれた女性が、上の「お人形さん」になりたいと思う。
いくら不自然だろうが、歳を取ればこの顔がどうなるかということとか、
医者の腕にすべてを任せるリスクは百も承知の上で、元の顔を捨ててでも手術を受けたい、
そんな煩悩はここ台湾でも普通に存在します。
日本人だから言うわけではないですが、どうしてもやりたかったら、
目立たない「日式」くらいでとどめておいた方が無難かもしれません。
いきなり剣呑な話題ですが、かつてNHKの「ジャパン・デビュー」訴訟について、
思いっきり訴訟側に立った言論の上から激しくNHKを糾弾したことがあります。
台湾から提訴した人が来日した時に靖国神社に参拝し、
「私たちの父親がこんなところに祀られている」と涙したこと、
裁判のあと、自分たちのインタビューを不本意に編纂したうえで
ねつ造ともいえる恣意的な偏向報道を行った当事者に対し、
提訴した台湾人が深々と頭を下げたことについて触れ、
さらにはディレクターがこの問題について「二万冊もの関係書を読み込んだ」
と、物理的にありえない発言をしたことを皮肉って、
「この裁判そのものをドキュメンタリー番組にすればどうか。
二万冊の資料を読み込む必要もないし」
と結んだ、渾身の(ってほどでもないけど)ログだったのですが、ある日
何者かのサイト内侵入によって後半の文章を削除されていました。
そんなこと実際にあるのか、って?
わたしもにわかには信じられませんでしたが、「やわらか戦車」の「アニジャ」によると(←)
定期的にパスワードを変えないと、サイト侵入は難しいことではないらしいです。
とにかく、ある日このページへのアクセスがあったと思ったら、
原稿のおよそ3分の2がきれいに消されていました。
この稿は今でも証拠のためにそのまま放置してあるので、興味がある方は
「NHKジャパンデビュー訴訟問題」でサイト内検索していただけば、
わたしのいつものまとめ方にはありえない、支離滅裂で惨憺たる「嵐の後」が
実際にご覧になれるかと思います。
というか、もう一度作り直すのも面倒なので放置してあるだけなのですが。
ネットで不用意なことを言うと何が起こるかわかりませんので、
この件についてはそういう事実があったということを言うに止めますが、
この事件以降、そしてそれからほどなくして行われたこの公判で、
東京地裁がこの訴訟に対して無罪判決を出したのを知って、
この放送局に関するすべてのことが信用できなくなっているどころか、
うっすらと「背後の黒い影の存在」すら感じている今日この頃です。
しかし組織全部が悪の集団というわけでは(おそらく)ないですし、
ここにはエリス中尉の個人的な知り合いも二人いることです。
彼らに免じてというわけではありませんが、本日は「敵に塩を送る」といいますか、
いわゆる番組制作アイデアの提供をさせていただくことにしました。
前年度も大コケだった大河ドラマ、今年も出だしから難航しているようですが、
つまり取り上げる人物の「ネタ」が尽きてきた、というのが不調の原因の一つではないかと、
エリス中尉、テレビが無いので全く観ていませんが、そのように思うのです。
しかし、考えても見てください。
そんなにたくさんいるわけでもない誰でも知っている日本の歴史上の人物を取り上げて、
ついでにその出身地が、ブームにあやかって一儲け(?)を期待する、みたいな
従来の「お約束」は、もうそろそろ終わりにするべきなのではないでしょうか?
本日御局にプレゼンさせていただく企画は、
近松門左衛門作、「国性爺合戦」。
台湾中興の祖と言われた鄭成功が主人公の大河ドラマです。
中国語をしゃべらなくてはいけないので、主人公は金城武を起用しました。
「国性爺合戦」(こくせんやかっせん)とは、台湾を拠点に明朝の復興を図った超人、
「和藤内」を描いた人形浄瑠璃(のちに歌舞伎)で、モデルの鄭成功は、
38年台湾を支配していたオランダと戦い、台湾人の手に国を取り戻した人物でもあります。
決め台詞は「国を、取り戻す」。
自民党の党首の言葉でなかったら、きっと流行語大賞になったこのセリフ、
おそらく現政権は長期に亘ると思われるので、2015年度に取り上げても、
決して「オワコン」にはなっていないことを保証いたします。
少なくとも「海賊王に、俺はなる」よりは皆に受け入れられるに違いありません。
とはいえ、
「いくら原作が近松だからといって台湾人を大河に取り上げるのは・・・」
と思った大河国粋主義のあなた、それはもっともです。
それでは、この主人公になぜ金城武を起用するかということからお話ししましょうか。
台南には、昔オランダが38年間統治していた時の名残、
ゼーランディア城があるということを前回お話ししたのですが、
ここには鄭成功の石像があります。
まるで上野の動物園のような城への入場門。
石像の前でモデル立ちしてポーズをとる女の子。
この木もどうやらガジュマルの木のようです。
傘のような繁り方が美しい。
オランダ人の残した大砲。(たぶん)
城壁を守るかのように転々と。
当時を再現しているようですが少なくともこの部分は
後から作られたものでしょう。
それではこのいかにも古そうな部分は?
右はどうやら本物だと思いますが、左は微妙ですね。
どこが本物なのかさっぱりわかりません・・・。
往年の姿。
それにしてもこの模型も古すぎないかい?と思ったら、実はこの遺跡、
昔(といっても写真が存在した時代)にはこうだったのです。
この写真はだれが撮りましたか?
そう、もちろん日本の台湾総統府ですね。
日本政府は、この統治国のこのような遺跡まで当時再現したのです。
何度も何度も言いますが、ただの搾取するだけの植民地の、
このような遺跡をわざわざ巨費を投じて保存する国がほかにありましたか?
むしろ、彼らの精神的よりどころであるものであるほど、それを破壊するのが、
GHQなどに見られる統治政府の本来の姿なのではないでしょうか。
こういう武器も残されていた模様。
こういった鉄製のチェストや、
家具調度のたぐいも保存されています。
左は当時のオランダ総統府の偉い人。これもたぶんです。
右が鄭成功ですが・・・うーん、金城武は少し男前すぎるかな・・・・。
しかし、もしこの企画が実現するなら、鄭成功をぜひ金城武にしたい理由があります。
鄭成功は1624年、日本の平戸に、中国人の父、日本人の母の間に生まれました。
幼少期の名を「福松」といい、7歳まで平戸で過ごし、その後福建に渡りました。
・・・・・ね?
日本人の父と台湾人の母の間に生まれた金城武にぴったりの役じゃないですか?
日本人の母と一緒の幼き鄭成功の像。
半分日本人であることを台湾の人々は尊重しているようです。
浄瑠璃「国性爺合戦」は、「国姓爺」と呼ばれた鄭成功が、明の復権をめざし、
それに成功(シャレ)して、息子を帝位につけるというハッピーエンドなので、
近松はオリジナルに敬意を表し、実際の「姓」を「性」に変えて執筆しました。
事実は、南京での戦いに大敗した鄭成功軍は、立て直しのために台湾に渡り、
そこにいたオランダ人をあっという間に追い出し、ここを根城にしたのですが、
わずかそののち1年で病に倒れ、38歳の若さでこの世を去るのです。
近松門左衛門のハッピーエンドよりもこの史実の方がNHKの好みに合うかしら。
だったらいっそ、台湾人作家陳舜臣が鄭成功を描いた「旋風に告げよ」とか、
日本人白石一郎の手による「怒涛のごとく」なんていう題の小説が、
司馬遼太郎っぽいタイトルでより大河っぽくていいかもしれませんね。
台湾であちらこちらにある蒋介石由来の場所には必ず「国父」と記されています。
本当に蒋介石が台湾の国父にふさわしい人物であったかどうかは、
少なくとも大陸出身ではない本省人がそれを認めていない、ということが、
この国の一筋縄でいかないややこしい歴史を物語っています。
(もう少し後に、蒋介石の悪行を暴くログがありますのでどうぞお楽しみに)
この「中興の祖」そして「国父」、鄭成功もまた、中国人と日本人の血を持ち、
純粋な台湾人ではありません。
しかし、台湾の「中興の祖」が台湾の人間ではない、ということは、
あるいは、この小さな、しょっちゅう異民族がが流れてきては同化していった
激動の島の人間にとって、もしかしたら大した意味を持たないのかもしれません。
とはいえ島国のわれわれ日本人にとって、今も昔もそれは大きな関心事となります。
近松門左衛門がこの題材で物語を書いたのも鄭成功が半分日本人だったからで、
日本政府が統治国の遺跡を復刻保存したのも、それが大きな理由だったでしょう。
というわけで、大河のネタがすでに枯渇したとお嘆きのNHK制作のあなた。
これ、結構いいアイデアだと思うんですが、いかがですか?
え?
町興しを狙う地方がどこも恩恵を受けないからダメって?
何をおっしゃる、7歳まで鄭成功が住んでいたのは平戸ですよ。
ザビエル教会にカトリック天主堂、昆虫自然園、立派な観光地です。
ブームにする下地は十分すぎるくらいあります。
それにこの際、台湾の台南地方が町興しになるのもいいじゃないですか。
日台合作すれば話題にもなるし、台湾の人々がしてくれた地震の寄付金への恩返しにもなる。
何より、例の件の罪滅ぼしにもなりますし。
そうそう、関係ない話ですが今後NHK関係のログは保存することにしましたからね!
(にっこり)
走る車から撮ったので、傾いてしまいました。
台南駅の駅舎と、高層ビルシャングリラホテル、そしてヤシの木。
とりあえず一番「台南らしい」写真であると思われます。
窓の形、その形に呼応する駅入り口の形、丸窓。
コロニー風というのか、白い外壁の色は建築当初からまったく変わっていません。
夜になれば庇の上に「謹賀新年」と中国語で、
そして「Merry Christmas」などの電飾がビルを美しくライトアップします。
この駅舎を建設したのは勿論、日本統治時代の台湾総督府。
1936年に造られたと言いますから、もう軽く80年ここにあるのです。
台南は高雄と並ぶ台湾南部の大都市。
この台南駅はこの地方のシンボルとされてきました。
繁華街のある市街地から少し離れているのですが、街の玄関口であることは間違いありません。
この地方に鉄道が敷かれたのが1900(明治33)年。
まだ「打狗」(ターカオ、犬を叩く)と表記していたころの高雄との間に開通しました。
前にも書きましたが、「ターカオ」だったこの地は「高雄」になり、
現在はこれを中国語読みで「ガオション」と読む土地になっています。
この駅舎の完成したのはこの地に鉄道が敷かれてから36年後の1936年3月15日。
決して大きくありませんが、天井が高く、実に美しい建築です。
きっと完成当時は白亜の城のように見えたに違いありません。
今思うと、なぜこのとき、これだけ貴重な建築物のある場所にいながら
もっと細部を見学したり、内部に入って中を観察しなかったのか悔やまれます。
そのときこの駅舎の歴史的価値を知らないわけでもなかったのに・・・。
このときも改札口がこの駅舎とは反対側だったので、改札内からしか写真を撮りませんでした。
したがって、肝心の駅舎の天井などを見ることなく終わってしまったのです。
旅行中というのはえてして体力を使い果たしながら移動することが多いので、
このときもおそらくなんとなく疲れてボーっとしながらここにいたせいかもしれません。
その反省はともかく、この駅舎の天井の高さがお分かりでしょうか。
「熱帯である台湾でも空調がいらない駅舎」と当時の新聞は報じたそうです。
昭和11年当時において空調ってもう出回っていたんですね。
このころの空調もやはり「ダイキン」=大阪金属の仕事だったのかしら。
なんかぎりぎりに、しかも歩道に乗り上げて車を止めている人がいるんですけど。
それもたくさん・・。
できるだけドアトゥードアになるようにここに車を付けたのでしょう。
しかし、これはどう見ても危ない。
東京駅は赤レンガですが、この頃、建築界ではいわゆるモダニズム建築への移行があり、
その流れを汲んだデザインになっているのではないかと思われます。
公共の建築物としてシンプルかつ、より実用性を(おそらく耐震性も)重視しているのです。
建築には1年4か月が費やされました。
設計は台湾総督府鉄道部改良課の日本人技師の手によるものです。
駅待合室から改札を通ってホームに出るのは、日本の駅と全く同じ。
このホームも、土台は当時からのものだと思われます。
何日前かの228事件の稿で挙げた高雄駅の写真。
このホームの屋根の仕様をご覧ください。
まったく、ではありませんが、現在の台南駅と同じです。
台南駅ホーム屋根、柱は相当できて時間が経っているものでした。
おそらくこのホームもできた当初のままであると思われます。
こうして見ると、日本の建築は地震が無ければ半永久的に持つのではないか、
と思わずにはいられません。
実際その技術はときとして大地震にも耐えたという例もあります。
終戦後、シベリアに抑留されていた日本人捕虜が作った建物(ナヴォイ劇場)が、
1966年にこの地(ウズベキスタン)を襲った地震にびくともせず、
ほとんどの建物をこの地震で失ったこの地の人々は、日本人の建築技術と、
煉瓦作りから内部の彫刻まで真面目にコツコツと労働していた日本人たちに
絶大な称賛の気持ちを持ち続けているという話です。
この駅舎は、当時の「最新テクノロジー」が採用されていました。
なんと1936年においてすでに「構内放送」があったというのです。
皆、駅舎の待合室(一等と二等で分かれていた)で電車を待ち、
構内放送を聞いてからホームに向かったそうです。
今思い出したのですが、海軍兵学校66期卒のクラスヘッド、
航空士官の坂井知行大尉が、家族への手紙に
「人生わずか五十年、軍人半額二十五年」
と冗談を書いて、その通り25歳で戦死した、という話を書いたことがあります。
このフレーズは「電車賃一等一般50銭、軍人半額25銭」のもじったものでした。
当時、軍人は半額で一等に乗れたということらしいですが、ここでまたふと、
台南航空隊としてこの地を訪れていた坂井三郎中尉や笹井醇一中尉は、
この台南駅から何度か半額25銭払って高雄に行くことがあったのかもしれない、
と考え、ついしみじみとしてしまいました。
台南航空隊は1941年10月に発足。
もともと高雄基地の近くに建設中であった台南基地に、
高雄航空隊と言われていたメンバーが移り、台南航空隊と名称を改めました。
高雄基地には第三航空隊もあり、先日お話しした、
自らの命を危険にさらして台南の人々を護り、神様として祀られている、
飛虎将軍こと杉浦少尉も、ここの所属でした。
12月8日の開戦にはここから高雄基地の第三航空隊とともにフィリピンに出撃しています。
このときのマニラ攻撃には坂井三郎一飛曹、太田敏夫二飛曹、島川正明一飛曹、
田中国義一飛曹、若尾晃大尉など、このブログで何度かお話ししてきたメンバーが参加していました。
指揮官は新郷英城大尉です。
ちなみに、我らが笹井醇一中尉は、このときまだ訓練中でお留守番でした。
そのあとラバウルに行くまで、台南航空隊は東南アジアでの転戦を始めるわけです。
この比島作戦を終えた台南零戦隊は、12月30日、台湾からホロ島に一挙に飛びますから、
「台南航空隊」といいながらここに彼らがいたのはせいぜい準備期間から数えても4か月くらいのものです。
それでもその頃存在した同じ建物がいまここにある、というのは感無量でした。
この駅の歴史を調べていて一番驚いたことは、
この駅舎そのものが二階部分をホテルにしていたということです。
この窓の部分、何の手入れもなく、窓ガラスは割れるがままで、
良くこんな状態でいつまでも放置しておくものだと台湾の人ののんびりぶりに
少しびっくりしてしまうのですが、とにかくここがホテルの客室だったのです。
いやはや、表に電飾をしているのに裏はこうですよ。
電飾と言えば、この駅は戦争が始まるまで、建物にライトを当てて、
夜間ライトアップしていたのだそうです。
この白亜の駅舎が夜の明かりに浮かび上がる情景は、想像しても美しく幻想的なのですが
当時は建物をライトアップするというアイデアそのものが超斬新でした。
ライトアップは当然のことながら戦争に突入し、米軍の哨戒機が頻繁に現れるようになり、
基地が灯火管制に入るころには中止になったのですが。
ホテルは建物二階部分のワンフロアにのみあり、部屋は全部で9室。
そのうち2室がスイートルームで、宿泊料金は3円、4円、5円の三種類でした。
格式も高く、国内外の賓客を迎えられるだけの立派なものであったとか。
戦後も経営されていたこのホテルですが、残念なことに
「補修維持に費用が掛かる」という理由で1965年に廃業しました。
ホテルの部屋部分は当時のままに放置されて朽ちるがままになっています。
2008年に一度、台鉄が開業記念としてこのボロボロの建物内部を公開したというんですが、
(日本ならきっと開業記念に合わせてリニューアルしたでしょう)
その時には多くの見学者が集まり、安全上の理由で入場制限がされるほどだったそうです。
この地に住む台南の人々にとっても、この旧統治時代の建物内部は興味を惹いてやまないのでしょう。
わたしももし機会があれはぜひ中を見てみたい。
それよりこのホテルに泊まってみたかったなあ。
取ってつけたように新しい、駅舎をまたぐ通路とエレベーター。
現在、この地域は再開発の計画があり、市街地の線路を
全て地下鉄にしてしまうという案があるそうです。
そうなれば、台南駅舎は移築して郷土博物館になる予定だそうです。
この駅舎にはホテルの客を対象にした高級レストランもあったそうです。
当時台湾では珍しかった洋食を供していました。
朝食80銭。ランチコースは1円。ディナーコースが1円20銭。
開業当時の値段だとすれば、当時の貨幣価値で1円は今の約6500円ですから、
宿泊が一番高い部屋で三万少し、という感じでしょうか。
この市街地の線路が計画通り皆地下鉄になれば、この景色は無くなります。
行き交う人の姿は「今」なのに、なぜか日本人のわたしたちが
懐かしさとノスタルジーについ浸ってしまうこの台南駅。
何でもかんでも自国の古いものを壊して作り変えてしまった私たち日本人が、
日本の作ったこの駅を台湾の人々が今までずっと使い続けてきてくれたことに
感謝するのは当然としても、さらに「これからもこの光景をとどめておいてほしい」
と望むのは、全く筋違いであり、厚かましい願いと言われてしまうに違いありません。
時をとどめることはできないけれど、時の名残りがそこにある限り、
人は過去へと想念を辿らせることができます。
しかしもしかしたら次に訪れたとき、もうここ台南に、この建物と、
過去への想念を呼び覚ますこの光景は無くなっているのかもしれない。
逝く時を手を伸ばしてでも捕まえたいもどかしさと、それができないせつなさに、
胸が締め付けられる思いをかみしめたエリス中尉でありました。
台南で宿泊していたホテルの隣には、国立成功大学のキャンパスがありました。
興味を持って少し調べると、このキャンパス内に日本が統治時代に建てた
建築物が残っており、まだ現役で使用されていることがわかったので、
それを見学がてら、キャンパスを探検してみることにしました。
右側は正門のところにあった「国立空中大学」の宣伝。
うーむ、「空中大学」。
これはなんだろう。
「修身学習とか学位がもらえるとか書いてるし、通信教育じゃない?」
とTO。
さすがは大学が好きで何年も行っただけのことはある。
おそらくそういう意味なのでしょう。
大学正門横の受付。
守衛さんが学内のマップをくれました。
英語も日本語もしゃべれない人ですが、十分意思疎通できました。
雰囲気がまるで日本の大学と同じです。
TOは奨学金をもらいながら大学院まで行き、何年間も学生をやったうえ、
卒業後は大学に就職することも考えていたという筋金入りの学校好き。
同大の航空工学科にいた彼の兄も同じように学校に居座っていたため、
祖母から「あんたら兄弟はいつまで学問極道を続けるつもりなのか」
と説教されたという逸話を持っています。
そんなTOですから、大学の空気すら気持ちを浮き立たせるらしく、
「やっぱり大学はいいねえ」とはしゃいでおりました。
「ところでこの大学、台湾ではどんな位置づけなんだろう」
「京大か阪大って感じ?」
「少なくとも都内のいくつかの大学よりはるかに立派なキャンパスだね」
「なんといっても敷地が広いし」
今日は日曜で人影はまばらです。
見よこの立派な大樹を。
「このー木なんの木気になる木ー」という歌は、
言ってはなんですが音楽関係者の間で評判が悪く、
おそらく「音楽関係者がこの世で最も嫌いなCMソング」というアンケートをしたら、
まず間違いなく三位以内に入選するであろうと思われますが、
こういう木を見ると当たり前のように浮かんでくるのもまたこの曲です。
この木はガジュマルの木。
小さな鉢植えに植わっているところから想像もできませんが、
何十年もたつとこんな風に育つんですね。
植えられたのは1923年。
どうしてこんなことまでわかるかというと、この木は(前にプレートがありますが)、
この年に皇太子時代の昭和天皇が植樹されたものであるからです。
原木は鹿児島から取り寄せたもので、台湾国内でも有名な木となっているのだとか。
どこかの国ならとっくに「過酷な日帝支配の象徴!」と糾弾され、
切り倒されて今頃は跡形もなくなっていたことでしょう。(たぶん)
実はこの成功大学、建物は台湾で一番古いのだそうです。
元はというとこの大学、日本が統治時代に作った「台南工業高校」がその前身。
この日本が作った教育機関がそのまま現在の学校として受け継がれている例に、
台北帝国大学(現台湾大学)、台中師範大学(台中教育大学)などがあります。
おそらくその昔からあったに違いない木の下では、
太極拳をしているおじさん一人。
台湾旅行中太極拳をしている人を見たのはこれが最初で最後でした。
この成功大学キャンパスは台湾の中でも美しいことで有名なのだとか。
これが「大成館」。
統治時代、大正元年に造られました。
当時は陸軍本部が置かれていたそうです。
写真では美しく見えますが、近づくとあまり手入れはされていません。
「江田島の旧兵学校の校舎に似ているね」
TOが言いましたが、こちらの方が後に建てられたのに、
保存状態は言ってはなんですが雲泥の差。
台湾の街並みを見ると、一般に建築物のメンテナンスにあまり技術がないのでは、
と思われるような小汚いものが非常に多いのですが、こういう歴史的建物は、
それなりに気を遣って遺していただきたい、と思いました。
まあ、あまり気を遣わないのに普通に使えているというあたりが、
日本の建築技術のすごさというべきなのかもしれませんが。
趣はありますが・・・・すごく・・・・汚いです・・・。
大学の研究科が開発した商品などが展示されていました。
この実に手入れの悪い(と日本人には思える)建物ですが、
雰囲気があって美しいので、結婚記念の写真スポットになっているとか。
シャングリラホテルで披露宴を挙げるカップルかもしれません。
リサーチが行き届かず、帰ってきてから知ったのですが、ここには大学の歴史を展示した
大学博物館があったのだそうです。
日曜だったので休みであった可能性もありますが。
今回、この成功大について書いてあるいくつかのサイトを見ると、
「北の台大、南の成功大」
と言われるほどの一流大らしいことがわかりました。
高雄の駅構内で見つけた「中国医薬大学」の宣伝ですが、
この左に見えるのは、どうやら世界の大学ランキングですね。
台湾のナンバーワン大学の台湾大は121位。
次いで精華大、僅差で成功大が三位。
世界ランキングでは279位、という年のランキングです。
ちなみに、この2012年度のランキングで日本の大学と並べてみると、
東京大学・・・・30位
京都大学・・・・35位
大阪大学・・・・50位
東京工大・・・・65位
東北大学・・・・70位
台湾大学・・・・80位
名古屋、九州、北海道大
精華大学・・・・192位
早稲田、慶応、筑波大
交通大学・・・・238位
成功大学・・・・271位
このような感じです。
まるで日本の予備校のような学習塾の看板。
こんな塾が街中には本当にたくさんありました。
シンガポールほどではないにせよ、台湾も非常な学歴社会で、
初対面でいきなり出身大学を尋ね、出身大学で人を測るにおいては
日本の比ではないそうです。
このような補修班では、成績を
一位「状元」、二位「傍眼」、三位「探花」
とし、上位三人を「三鼎甲」「三魁」と呼ぶそうです。
なんて読むのか全く分かりませんが、これは科挙試験に使われた用語。
今日でもここ台湾では、入試を科挙に譬えるほど学歴を得るための競争が激しいということでしょう。
「学歴どころではない」という国ならともかく、学歴がものを言わない世界は
先進国と言われる国にはないのではないかと思われますが、
日本が統治中に大学の前身を作り、そして昭和天皇が植樹をされてから終戦まで、
台湾には日本式の教育が根付いてきました。
蔡さんや「トウサン世代」の古き台湾人が言うように、教育勅語がモラルと精神基盤を育て、
まじめに労働することが尊いことだという教育であったわけですが、
少なくともこの「科挙」から来ていると思われる学歴偏重からは、日本式の
「職人を大事にする」「老舗の重みを尊重する」
といった、いわば日本が日本らしさで世界に認められてきた「独創性」は
生まれにくい社会ができてしまうのではないかと思えてなりません。
もっとも、日本の教育は今「それどころではない」混乱を迎えています。
大津のいじめ自殺、大阪の体罰自殺、そして日教組問題。
台湾も日本も「教育勅語」を、少なくともその精神を見直すことを
もう一度始めてはどうかと思うのはわたしだけでしょうか。
成功大学キャンパス入口のブロンズ像。
これは、おそらくこの学校を出た文学者だと思いますが、
誰だか調べてもわかりませんでした。
お約束。
故宮博物院の国宝を模した豪華ディナーやホテルのメインダイニングが、
台湾で食べたもっとも「豪華な」食事でしたが、といっても日本と比べると
どれも信じられないくらい安いものです。
佛跳墙(ブッチョウタン)という、日本で食べれば大皿20万円の超豪華スープも、
13000円のコースの一皿として味わうことができましたし。
正確に言うと、お腹いっぱいで食べられず断腸の思い(文字通り)だったのですが。
台南で泊まったシャングリラ・ファーイーストプラザは、この地域の5つ星ですから、
ここの食事は現地の人にとっては結構お高いとはいえ、
ホテルならではのゴージャスなセッティングで美味しい料理が実にリーズナブル。
チキンテンダー。
息子はいつもこのような鶏料理を頼みます。
これ一皿で十分一食分、実だくさんのスープ。
枝豆や雑穀、エビが入って栄養バランスは完璧。
デザートは、ホテル滞在中一通り全部頼んでみました。
ティラミス。
台湾で食べたティラミスはどれも美味しかったです。
ブラックフォレストという名前のケーキ。
名前に惹かれて注文しましたが、これは普通でした。
ここのパティシエは確かオーストラリアから来ているそうです。
味だけでなく、盛り付けもお洒落なのですが、このラズベリーケーキだけは
味も見かけも「いまいち」でした。
ちなみにこのケーキは何日か滞在していた期間に三人で食べたもので、
一人ひとつずつ食べたのではありません。念のため。
しかし本当においしいのはこういう「台湾ならでは」の一品。
麺より具のほうが多い、「担担麺」。
少しだけピリ辛で非常においしかったです。
ナシゴレンとサテー。
エスニック料理は何でもあります。
しかし一番多い「異国料理」は日本式の食べ物。
日本料理は、日本におけるカレーやラーメンのように、もうすっかり台湾の味になっています。
オレンジを添えたホタテガイのサラダ。
デザートのフルーツ盛り合わせ。
台湾は果物が美味しいのですが、日本のように何かと改良したり、
加工したりしない味なので、一般に皆淡白な味です。
日本の甘い果物に慣れていると、甘くなさ過ぎて野菜のように感じます。
そして、しばしば付いてくるこのスターフルーツですが、
形はともかく味が無くて全く美味しくありません。
このホテルのダイニングでは、朝昼晩とビュッフェを供しています。
閲覧注意。
といっても、出してしまってからでは全く意味なしですが。
前にも少し書いた高層ビル101の地下フードコートでは、
鶏をこんな風にショウケースに飾ってあります。
中華圏に旅行したことのある方はご存知だと思いますが、食堂の店先には
かならずこんな風にガラスで見える窓に鶏を吊って見せているのです。
鶏がバーに腰を掛けているように見えるのが、何とも言えません。
中国人や台湾人はこういうのを見て「美味しそう!」と思うんですね。
パリの朝市などでも、カモや鶏を見ているところで羽をむしったりして売るんですが、
フランス人も日本人とはずいぶん食に対する考えが違うなあと感じる光景でした。
日本では食物に対する流通が複雑になってしまっていて、鶏は勿論のこと、
下手すると魚も切り身をパックで売っているのが普通ですから。
頭がついていると「生ごみが出る」という理由で敬遠されるのでしょうか。
前にもお話しした「日式カレー」の「チキンオムレツ五穀カレー」。
この隣には「印式カレーの店」もちゃんとあります。
ここはゼーランディア城という、38年間統治していたオランダ人が作った城。
ここでジュースを飲みました。
大きなメニューにはしっかり日本語表記があります。
「加科品」が「トッピング」ですね。
台湾でジュースを頼むと、よくこういう太いストローで出されますが、
これは下に沈んでいるタピオカを吸飲するため。
まるで日本のモダンな家のよう。
台湾のお金持ちは生活のすべてを日本製品で揃えることにステイタスを感じるようで、
これはエクステリアの会社を経営している知人に聴いたのですが、たとえば家を作るとき、
門扉やサッシ関係も「日本製」にこだわってわざわざ輸入するのだそうです。
一般的な台湾の家屋を見慣れると、このような作りの家は明らかに「日式」であるとわかります。
台南の、ゼーランジア城の近くにあった「昔日本人が利用した家を新たに再現した日式家屋」
(これも観光スポット)の隣にありました。
てっきり喫茶店だと思って入っていくと、「おこし」のような干菓子を売るお店。
ここは外も中身も「日本風」でした。
店に入っていくと、人数分のお茶を無料で用意してくれます。
別に買っても買わなくても、ゆっくりお茶でも飲んでいってください、という感じです。
清潔な制服を着たかわいらしい店員さんは、説明を求められれば丁寧に接客しますが、
買わなければいけないようなプレッシャーなど全く感じさせないおっとりした雰囲気で、
客がお茶を飲んでいる間は黙ってカウンター付近に佇んでいるのみ。
陽の差し込む明るい店内、流れるのはモダンジャズ。
すっかりこの「日本式接客」に感動したわたしたちは、すぐさまそこでお菓子を買い求め、
お茶と一緒に戴くことにしました。
パンフレットもセンスあふれるこのお店、体にいい良質の材料を使って、
丁寧に作られたお茶菓子は種類も豊富です。
「良食草堂」。
台南のゼーランジア城と日本家屋を訪れたら、ぜひどうぞ。
ただし、こんなお洒落で清潔な最新式の建物でも、
「トイレで紙を流してはいけない」というあの掟は健在でした。(-_-)
台湾の食には多くの「日本」が関係しています。
日本式というものに「先進」「洗練」を見てくれているらしい台湾の人々ですが、
ファーストフードやチェーン店もそのままのブランドで進出しています。
台南駅前で見た日本でもおなじみ居酒屋チェーンの大看板。
デパートの中に出店しているようです。
高雄にあったデパート。
「漢神百貨店」。
これを日本風に読むと「かんしんひゃっかてん」。
関西在住の方は
「はんしんひゃっかてん」を思い出すかもしれません。
それもそのはず、このデパートは、阪神百貨店の台湾版。
出資と、その内容全て大阪の阪神百貨店が提携しています。
三越はライオンですが、ここは狛犬をおいています。
中華圏の人々は建物に「風水」を取り入れることが多く、最新式のビルでも
風水師にお伺いを立ててロビーに大きな壺や甕、石を置いていたりします
高雄でお昼を食べることになったので、ここのデパ地下に行ってみました。
デパ地下食堂全景。
ブルーの大きな柱にはモニターが埋め込んであり、
デパートからのお知らせや宣伝などが流されています。
日本のデパートのように小売りのカウンターが並ぶ広いスペースと、
フードコートのような飲食エリアが一緒になっています。
「森川」というのは「もりかわ」と読むのではありませんが、すき焼き定食など、
日本風のお膳ものを扱っているお店。
日本のデパ地下と違うことがあるとすれば、お店の人の客引きがそれは苛烈なこと。
前を通るたびに日本語で
「どうぞーいらっしゃいませー!」
日本語がしゃべれない店員さんは中国語で一生懸命です。
何度通りかかっても熱心に呼ぶので、しまいには迂回ルートを通ったほど。
手前に見えているのはお掃除のおばちゃんが管理している「マイバケツ」。
片付け係のおばちゃんは、ここでずっと客を見ていて、まだお皿には食べ物が残ってるのに
「すんだ?」とかなんとかいいながら同時に手を伸ばしてくるのです。
「まだ食べてる」と身振りで説明すること二度。
実に仕事熱心なおばちゃんでした。
いつものように息子の頼んだフライドチキン。
わたしとTOで半分ずつ。
日本風ラーメンと麻婆ナス。
デザートも我が家では「少し買ってみんなで分ける」のが定番。
これは「ビアードパパ」のシュークリーム。
ちなみにこれ、サンフランシスコにもあります。
ドンクのような「ミニクロワッサン量り売り」のブースもありました。
100元出して「これで買えるだけください」と言ったら、
ごらんのようなミニクロワッサンが5個。
日本の百貨店より、一流ブランドが入っていることを強調する店構えです。
これはどこのデパートにも共通する傾向でした。
手前はカルチエ、向こうはエルメスの表示あり。
ここのエルメスの店頭で、それはそれは美しいターコイズのショールが
「ブルー好き」のエリス中尉の目を惹きましたが、
「見てみて、あのブルーのショール、きれい!」と二人に言うと、
「はいはい、きれいだねー。じゃ次行こうか」
「次は本屋だから、見てる時間ないからね」
・・・・何も欲しいなんて言ってないじゃないの。
それはともかく、出先のモールやデパートのフードコートで適当に何か頼んでも、
なかなかおいしいものが食べられるというのが台湾のいいところ。
スイーツと言えば、こんなお店もありました。
どうもせんべい屋さんのようなのですが、ここの名物、
釣鐘焼き。
釣鐘の形をしたカステラのなかにどうやらクリームが入っているようです。
高雄のウォーターフロントにある巨大モール、「夢時代」。
ここでは日本のラーメン屋に入ってみました。
看板にはほとんど日本語しか書いてありません。
台湾の人は日本語普通に読めるんじゃないか?
お店の人も「いらっしゃいませ!」「ありがとうございました!」
お客が出入りするたびに全員で声をそろえてあいさつする「日式」。
六本木ヒルズにあるサルバトーレなんとかというイタリアンレストランでは、
お客が来るたびに「ボンジョルノー!」「ボナセーラ!」
オーダーを受けるとキッチンに「なんとかかんとかポルファボール!」
とか叫んでいて、イタリア人が聞いたら妙な感じなんだろうなと思っていましたが、
まさにそのイタリア人の気持ちが理解できたというわけです。
しかし、さすがに日本語が全員しゃべれるわけではありませんでした。
ふんだんにもやしとねぎのかかった「京都風」と、チャーシュー麺。
トッピングは何種類か選べます。
手前のキャベツは酢漬け風サラダ。
ここで一番おいしかったのは、熱い鉄なべの上で卵をかきまぜて作る混ぜご飯。
少しバターを入れてくれるのですが、それでいい匂いが漂います。
家族が争うようにした食べたのが実はラーメンではなくこれでした。
さて、何を食べても美味しい台湾旅行が終わり、空港に向かいます。
少年野球のチームが遠征で訪れ、試合が終わって帰るところでした。
羽田で降りたら、保護者らしき人たちがが「おめでとう」と拍手で迎えていました。
台湾は野球が盛んなので、リーグの遠征がよく行われるようですね。
空港ビルは去年から改装が進み、出発ロビーにかなりの飲食店が移転していました。
最後の台湾らしいご飯を食べにそのうちの一つに入りました。
麺に、小皿はチョイスできます。
またしても担担麺。
生姜紅茶を頼んだら、こんなかわいいポットに入って出てきました。
・・・・・ミッキーマウス?
台湾は勿論メインが中華料理ですが、一般的にあっさりしていて、
また野菜なども日本のより流通経路が短いのでミネラルが失われておらず、
素材の栄養素がしっかりと摂取できるのではないかという気がします。
ご覧のようにいい意味で日本風が生活に溶け込んでいますし、
万が一台湾に住むことになっても、ストレスフリーだと思いました。
あえてストレスになるものを挙げれば、やっぱりあれですかね。