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「秋水」の青春~犬塚豊彦大尉

2013-02-26 | 海軍

      

犬塚豊彦大尉
海軍兵学校七十期 佐賀中学出身
第38期飛行学生 
ロケット戦闘機「秋水隊」隊長として昭和19年10月着任
昭和20年7月7日、秋水テスト飛行にて殉職


少し前に、名古屋の三菱航空博物館で、黄緑色の、
実にかわいらしい機体を持つ有人ロケット戦闘機秋水に魅せられ、
「秋水くんとコメートくん」という漫画まで描いてしまったわけですが、
そのときには秋水にかかわった、テストパイロットとなったこの
犬塚豊彦大尉や、秋水隊の面々についてほとんど触れませんでした。

そのときに秋水に関する資料を一通り集めたのですが、
計画と実験の段階で終戦を迎えてしまった武器ですので、
それほどたくさんの文献があるわけではありません。
しかし、その中で、
「有人ロケット戦闘機 秋水―海軍第312航空隊写真史」という、
大日本絵画出版、柴田一哉著の本は、圧巻でした。

秋水、特呂エンジン、訓練用の減圧装置の図面は勿論のこと、
隊員が懲罰覚悟でこっそり撮影した、テスト飛行で滑空する秋水の写真、
そしてなんと付属のDVD。
CGによるリアルなテスト飛行の再現、そして、
「もし秋水が運用されていたら?」という仮定もののムービーは、

上空の重爆撃機に向かって凄まじいスピードで上がってきた秋水が、
瞬く間に下からの攻撃によって敵機を墜とし、そのあと、
グライダー滑空になりグラマンに追われるも、零戦に救われ、
隊員は蜂の巣のようになった秋水から零戦に手を上げて挨拶する。

という、秋水の健気さについ涙ぐんでしまう出来映えです。
(↑実話)

この本には、未公開の写真、ことに隊員たちの素顔を語るものや、
テスト飛行で殉職した犬塚大尉の葬儀(神式)の写真など、
秋水の開発とそれに関わった人々を知るための、一級の資料が
多数掲載されていて、秋水を知りたい方必携と言っても良いでしょう。

値段を抑えるためか(それでも高額)版が小さくそのため字が小さくて、
ことに写真のキャプションは翻訳者まで雇ったらしい英訳文が見にくいのが、
惜しいと言えば惜しいですが。



秋水隊には十六人の予備学生が採用されました。
いずれも師範学校、理科系の大学卒。
13期予備学生の戦闘機専修者ばかりです。

秋水という名は、犬塚大尉の前隊長、海兵64期の小野次郎大尉と、
犬塚大尉が、名刀の名から取って付けたと言われています。

よく、兵学校卒士官と予備学生士官の間には確執とも言える軋轢があり、
それは主に兵学校出士官の予備学生に対する虐めのようになって現れた、
という話を見聞きしますが、この隊ではそんな対立は全くありませんでした。

「とにかく紳士でした」
予備学生が口をそろえて言う小野次郎大尉。
「十六人もの大学を卒業した偉い人たちの隊長になるのは少し恐ろしかった」
当の小野大尉はこのように戦後語ったそうです。
兵科士官にしては控えめで、予備学生に近いものを持っていたのかもしれません。

そして、皆の兄のように慕われた「ワンちゃん」こと犬塚大尉。
部下もこの隊長を「ワンちゃん」と(面と向かってではないでしょうか)呼びました。
宴席でも、飲めない隊員には徳利にお茶を入れて注いでやるような隊長で、
「白面の好青年、優しくて穏やか、しかし武人の剛胆さは備えた」士官でした。


こんな彼らが仲間同士で収まる写真からは「共に死のうと誓った血より濃い繋がり」
と言うより、まるで学生同士のような和気藹々とした雰囲気が見て取れます。
一人一人を写真と共に紹介する文章は、たとえば

「おとなしく(ウソツケ)ハンサムだが、気が短い男」
「まじめで勉強家、風流人タイプ」
「ダンディで怖いもの知らず、気っ風のいい男」

士官は基本的に長髪が許されており、この隊の雰囲気も「気を引き締めるために皆坊主」
というようなものからはほど遠かったのか、さすが予備学生、娑婆っ気満点、ロン毛の隊員多し。

「えむいーひゃくろくじゅうさんにあつ」
という奇妙な命令の書かれた電文で、何をするのかわからないまま集められた彼らの、
見たこともないロケット戦闘機に乗るための訓練がはじまりました。

自分たちの任務が、初めて採用される新兵器の開発と初運用であり、
それが成功すれば本土空襲にやってくる敵爆撃機を制することができる、
そう知ったとき、彼らは一様に喜びに包まれたと言います。

まず行われたのは耐低圧訓練。
秋水は短時間で一万メートルを上昇するのですから、
気圧の急激な変化に身体を慣らさなくてはなりません。
激しい頭痛始め鼻血を出したり、耳痛のあまり、ついには
「鼓膜に穴を開けてくれ!」と叫ぶ隊員もいたそうです。

この本には、この耐圧訓練に使われた低圧タンクの図、
高高度用与圧服、与圧帽、与圧胴衣なども図解で示されています。
滑空訓練には「光六・二型」グライダーが使われました。

かれら隊員が気持ちを一つに訓練に邁進する間も、
三菱重工名古屋航空機製作所の秋水製作チームは、
わずか四ヶ月で試作機を仕上げ、さらにそれから七ヶ月で試験飛行にこぎ着けます。
この開発については一度書きましたのでそれを見ていただくとして、
いよいよ、彼らにとって運命の昭和二十年七月七日がやってきました。


このとき、整備は、実験開始予定時間に終わりませんでした。
直前にエンジンがかからず、再整備が行われたためです。
皆が不安と、悪い予感に包まれ、翌日へ延期も検討されたのですが、
犬塚大尉が強行に決行を主張し、二時間遅れのの実験開始となりました。

人間魚雷「回天」の訓練段階で悪天候にもかかわらず、それを押して
「敵は待ってくれないぞ」
と訓練に出かけ、殉職した黒木博司大尉の話をなぞるような同じ構図です。

実験開始後も、犬塚大尉は任務の遂行と成功のために、
結果的には自分の生命をみすみす危険にさらすような操作をしたらしい、
ということが、今日検証されています。

たとえば「いざとなったら船を待機させているから海に機を墜落させろ」
と言われていたのにもかかわらず、機が「パンパンパン」という異常音を発生させ、
発火、エンジン停止となった後、大尉は機を直進させず、右旋回を始めました。
海に向かわなかったのは、なんとしてでも機を失うことはできない、
そう言う判断の取らせた行動であったと思われます。

さらに犬塚大尉は、皆のいる滑走路ではなく、脇の埋め立て地に向かいます。
これも、甲液(酸化剤)の非常投棄後であったにもかかわらず、
残存の液が被害を及ぼすことを避けたためであろうと言われています。

このため秋水は失速し、滑走路前の建物を飛び越すために機首を上げ、
その後右翼先端が監視塔に接触したのち、不時着大破しました。

甲液漏洩の危険も顧みず整備隊の隊員が犬塚大尉を引きずり出しました。
軍医たちの必死の治療が施されましたが、犬塚大尉は頭蓋底骨折しており、
手の打ちようはもう残されていませんでした。

「なにか欲しいものはないか」
瀕死の床に横たわる犬塚大尉に司令が尋ねると、かれは
「カルピスが飲みたい」
と言いました。
もう自力で飲む力の残されていない大尉の唇を脱脂綿に浸した
カルピスで湿すと、犬塚大尉は
「ああ、うまい」
と言い、しばらくしてから静かに息を引き取りました。


このとき、大尉を兄のように慕う隊員たちがいかにその死に打ちのめされたか。
そして彼らの間に起こった犬塚大尉に関する不思議な話。
ほどなく彼らが迎えた終戦と秋水隊の解散。
それら、秋水隊員が直々に語ったことの数々は、是非この本で読んでいただきたいと思います。


かれら秋水隊員は、戦後も「秋水会」を作り、
毎年七月の犬塚大尉の命日に慰霊を行ってきました。
病気で隊長を犬塚大尉に変わった小野二郎大尉始め、皆の交流は途絶えることなく、
小野氏が平成3年に亡き後もそれは続いているそうです。

秋水は未知の機でした。
そのため、飛行性能の訓練は「秋草」という滑空機が特別に作られて行われました。
昭和19年12月26日。
犬塚大尉がこの「秋草」の滑空を成功させた日のことを、
隊員の一人は今もはっきり覚えています。

「ワンちゃんの見事な飛行を見て、みんなうれしくて、
手を振りながら機を追いかけました」

走りながら、皆いつの間にか泣いていました。

冬暮れの空に、鳥のように美しく弧を描く、軽滑空機。
その絵のような情景は、青春を共に秋水に傾けた隊員たちのまぶたに、
戦後も鮮明に焼き付いているのだそうです。