退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「狩蜂たちの見事な技とどこでそれを手に入れたのかという謎あるいは『凡人の非凡さ』」について

2022-08-12 02:48:12 | Weblog
晴れときどきくもり。今日も湿度が高い。

田仲義弘「狩蜂生態図鑑」を見て読む。

エサとなるイモムシを「生かさず殺さず」の状態にして「新鮮」に保ったり。
あるいは獲物に卵を産み付けて「幼虫のエサ」にしたり。

獲物の運び方もさまさまで。
ゴキブリを歩かせて巣まで連れて行くというのには驚くのみ。

イモムシの神経機能だけを奪う「外科医」のような針刺しも。
「長い」からきちんと2か所に刺す念の入りようたるや。

いったい「どこでそんなことを覚えた」のだろう。
実に不思議だと言うよりなく。

「特定のエサ」のみを狩るというかたちで「棲み分け」もしていて。
仮にそれが「生存」のための「途方もない年月のなせる業」だとしてもやはり謎。

バート・レイトン「アメリカン・アニマルズ」(’18)を観る。

かの虫たちと比べると何とも「お粗末」な若者たちの姿を描いた作品。
要は「田舎町」に何の楽しみも見い出せずいたずらに「刺激」を求めて。

本人たちを出演させるという趣向もあり。
冒頭の言葉に注意しておこう。

主人公のひとりは言う。
「自分たちは『特別な存在』でないからこそ『特別なもの』を求めた」のだと。

この言葉の意味をじっくり噛みしめたいもの。
この種の「正しさ」はシンプルだが感得されにくいものなので。

ウォーレンのエヴァン・ピーターズの「いかにもな『破天荒ぶり』」。
スペンサーのバリー・コーガンの「不穏な顔」はやはり魅力的だが今回は「おとなしい」。

「絵が上手い後者」の「芸術家には『悲劇』が必要だ」という「考え方」の「貧しさ」よ。
「本物」は別に望んだわけでもなくそれを引き寄せてしまっただけという「事実」を理解せず。

要するに。

「探さなければ見つからないような自分」に「確固たる自分」などない。
「何気ない毎日」を楽しく生きるのが「凡人の非凡さ」だと知っておきたいところ。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「『理想』と『自分』の差を... | トップ | ’22 盆休み1 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事