退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「いらない男子とそのワケあるいは『医療における合理』と日本サッカーがまだまだなこと」について

2019-01-14 02:05:01 | Weblog
晴れ。日が暮れると風が冷たい。

橘木俊詔「男性という孤独な存在」を読む。

「種の保存」からして重要なのは女性。
「好ましい精子」は少しあればいいだけ。

その「事実」を思えばそもそも男性はほぼ「不要な存在」。
だからこそ「自らの存在意義」を敢えて示さざるを得ず。

「マルチタスク=同時進行で複数のことをこなす能力」にも欠けていて。
「コミュニケーション能力」についても同様に。

そう思えば「一夫一婦制」はむしろ「救い」のようでもある。
ただし誰もが結婚した時代は歴史を振り返れば「異様な時代」でもあり。

現在「性交渉からの撤退」は若い男女問わず見られるようだけれど
前者と後者には「異なる原因」がありそう。

おそらく前者は「『子ども』ゆえなくてもいいから」。
後者は「好ましい相手がいないから」。

まあ「どっちもどっち」。

少なくとも「特定の時代のルール」を必要以上に「重んじる理由」などなく。
それぞれが「好きにしたらいいだけ」。

もっと「ゆるいお付き合い」があってもいいと思いつつ。
「結婚あるいは恋愛」が「性交の独占」になるとややこしくなるわけで。

少なくとも「結婚生活」において
男性が女性に対して「圧倒的に無理解なケース」が多いことは否定できず。

「深くて暗い河」の存在は相変わらずということらしい。

マル激を観る。

今回は「医療基本法」について。

「偉い専門家」が「素人を診てあげる」時代から
「医療ミス」はいつでも起こり得るから「みんなでカバーしよう」という時代へ。

「ミスをした人」に徹底的な罰を与えるのではなく
「なぜミスが起きたのか」を考え「どうしたらミスが減るか」を考えようと。

この「合理」はいたずらに相手のミスをあげつらう傾向の強い現代では難しいかも。
その「余裕のなさ」がどこから生まれるのかについても考えないと。

治療を受ける患者が「ミスを避ける最後の砦」だというのにはふむふむ。
「いつもと違うこと」を認識できるのは彼ら彼女らだからと。

サッカー「日本vsオマーン」をながら観る。

南野や堂安の「最後の工夫のなさ」とイエローカードに「まだまだか」という感じ。
試合終了後の原口の反応の「正しさ」を思う。

PKを得たのもPKにならなかったのも「偶然」なので
「内容」としては「ダメ」だということを忘れずに。

ゴール前でのちまちましたパス回しには「自分で行く意志」が感じられなかったし。
ミドルシュートがほぼなかったことにも注目しよう。

「いろんな選手を使いたい」という監督の意図はわかるものの。
これでは「層が薄い」と言うよりなく。

とりわけ先発したトップの北川は相当に「感じるもの」があったはず。
今後の成長に期待したいところ。
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