ピッコロ便り

ピッコロシアター、県立ピッコロ劇団、ピッコロ演劇学校・ピッコロ舞台技術学校など、劇場のトピックをご紹介します。

ピッコロ Side Story (7)ピッコロ演劇学校開設30周年

2013年03月31日 | piccolo side story

3月9・10日、ピッコロシアター大ホールで、「ピッコロ演劇学校・舞台技術学校」の平成24年度合同卒業公演が行われた。

演劇学校一年目の本科生36名、二年目以上の研究科生27名、舞台技術学校生18名、計81名が一年の過程の成果を披露し、生き生きとした舞台を創りあげた。

演劇学校本科30期生・舞台技術学校21期生卒業公演「この空の下」(台本・演出=本田千恵子)

演劇学校研究科29期生卒業公演「新天地へ~ある移民の物語~」(台本・演出=島守辰明)

終演後に行われた修了式では、学校長の井戸敏三兵庫県知事が修了証書を授与するとともに、『人の世のひとコマでさえドラマあり舞台空間心動かす』と、恒例の一句を詠み、門出を祝った。

修了式で井戸敏三校長(左)から修了証書を授与される

「ピッコロ演劇学校」は、今から30年前の1983年に開設された。全国の公立文化施設では初めて演劇を学べる場として、また、劇作家の別役実氏、山崎正和氏、女優の岸田今日子氏など、一流の演劇人が講師ということもあって、大いに注目された。

今年、第30期生卒業という節目の年を迎えたが、第1期生の卒業公演はどんな様子だったのだろうか?


『本読みに熱込る卒業公演目指し練習』(1984年1月20日毎日新聞)
『人間の愛と憎しみ描く「人質追走」』(1984年3月14日産経新聞)
『「人質追走」を熱演一期生が卒業公演』(1984年3月18日神戸新聞)と、各紙が大きく取り上げた。

開設当時から主任講師を務めた故秋浜悟史先生(劇作家・演出家・大阪大学教授・兵庫県立ピッコロ劇団初代代表)は、「一年間教えてきて、生徒が真面目なのに驚いた。(中略)急速に演技力が伸びた高校の演劇部員などもおり、全体的にレベルは高い。」(1984年2月8日毎日新聞)と語っていて、生徒はもちろん講師陣の意気込みも伝わってくる。

演劇学校1期生卒業公演「人質追走」(台本・演出=秋浜悟史)1984年3月17・18日


先週27~29日、甲子園球場で高校球児による熱戦が繰り広げられていた頃、ピッコロシアター中ホールでは、恒例の「兵庫県高等学校演劇研究会阪神支部春期発表会」が開催され、地元高校の演劇部員たちが熱演を見せていた。賑やかな高校生の中に、県立伊丹西高校演劇部顧問の五ノ井幹也先生(48)を見つけた。高校演劇の全国大会にも出場経験を持つ指導力で、各校顧問のリーダー的存在の五ノ井先生。実は、「ピッコロ演劇学校」の第1期生でもある。当時の様子を聞いてみた。

「同期生は個性が強く不良も多かったが、芝居となると結束は固かった」とか。ピッコロで学んだことは?という質問には、「たくさんあって…」としばらく考え、「『面白くないことはしちゃいけない』ということを、秋浜先生から教わりました」と答えてくれた。大学入学と同時にピッコロで学び始め、無から有を生み出す芝居の面白さ、創造の楽しさに魅せられたという。

生徒から「ゴンちゃん」と呼ばれ慕われる五ノ井先生の指導の秘訣は?「今しか創れない、このメンバーでしか創れない尖ったものを創ること。身体の1/3はピッコロ演劇学校で出来ていますから」と笑顔を見せた。

プロの舞台人への道も模索したが、母校の演劇部員たちの成長ぶりに心打たれ、「これを一生の仕事に」と、若者に芝居の魅力を伝えられる教師の道を選んだ。普段は物理の教鞭をとる。

 

五ノ井幹也さん

そんな五ノ井先生を生徒はどう見ていたのか?元伊丹西高校演劇部部長の宮川亜沙さん(24)は、「セリフ一つでも『自分ではどう思う?』と訊いてくれた。ゴンちゃんは、私たちの考えを尊重して、応援してくれる仲間みたいな存在」と話す。先日、先生を囲む元演劇部員たちの会が開かれた。「ゴンちゃんの教えた演劇部員数を数えたら109人でした。その内75人が集まったんですよ」と、宮川さんは誇らしげに語った。演劇部らしく、歌や芝居などの出し物で大いに盛り上がったそうだ。

「ピッコロ演劇学校・舞台技術学校」両校の卒業生は、のべ2000人を超えた。演劇のプロや地域の文化リーダーなど、卒業生のその後は様々だ。“ピッコロ”とは、イタリア語で“小さい”という意味だが、小さな学校が積み重ねたものは決して小さくはない。新たな31年目へ。来月4月26日には、平成25年度生を迎える。

(ピッコロシアター 広報 古川知可子)