『みちしるべ』 by 阪神間道路問題ネットワーク

1999年9月創刊。≪阪神道路問題ネット≫交流誌のブログ版。『目次』のカテゴリーからの検索が便利。お知らせなども掲載。

『みちしるべ』**大橋昭さんを偲んで**<2018.7.&9.&11. Vol.101>

2019年01月11日 | 藤井隆幸

大橋昭さんを偲んで

藤井隆幸

 腰痛などで、阪神間道路問題ネットワーク(以後、「当ネット」と記す。)の月例会には、長らくお休みが続いていた大橋さんでした。今年(2018年)になってからだと記憶していますが、中皮腫が新たに見つかったと伝えられました。澤山世話人などと、一度見舞いにと話していた矢先でした。8月22日の訃報を聞き、心残りが重たいです。

 当ネットには、準備会の初回から参加されておられます。澤山世話人も何度か『みちしるべ』に書かれておられるのですが、1995年5月25日に、かつて尼宝線沿いにあった砂場徹さん(当ネット初代代表)宅で、砂場・大橋・澤山・三橋の4氏と私が集まったのが初めてです。

 故 砂場代表が体調不良などもあり、2004年3月27日の月例会で、大橋さんが代表世話人の任につかれました。以後、2009年4月5日の月例会まで務められましたが、やはり健康上の問題で退かれました。次の代表世話人は決めずに、事務局だけで現在も進行しています。最後に月例会に参加されたのも、2012年1月29日に甲子園口のポケットパークハウスで行われた時でした。

 当ネットの交流誌『みちしるべ』には、合計32本の寄稿をされています。当然、代表であった期間は、年頭の辞を必ず書かれており、第30号の記念出版の際などの挨拶や、時々の時事について書かれておられます。

 大橋さんは歴史について語られることが多く、「中国街道ぶらり記」などを書いておられます。しかしながら、歴史物の記事が案外少なく、その時々の社会情勢について書いておかねばと言う、任務意識が高かったものと思われます。

 また昨今、DVD時代になり、相当数のVHSテープに映画を録画しておられたのが、無駄になったと嘆いておられました。が、そんな昔の映画に想いを馳せるなど、文化人的な側面も多かったようです。

 インターネット接続可能な方は、「阪神道路ネット」「みちしるべ」で検索して頂くと、当ネットの交流誌のブログ版『みちしるべ』が出てきます。カテゴリーから「大橋昭」をクリックして頂ければ、大橋さんの総ての記事を読むことが出来ます。

 今となっては、数々の想い出が残るのみですが、その内、冥土で再会するかもしれません。その時は、ゆっくりと語り合いたいものです。

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『みちしるべ』**大橋さんの思い出**<2018.7.&9.&11. Vol.101>

2019年01月11日 | 澤山輝彦

大橋さんの思い出

澤山輝彦

 大橋昭さんが亡くなられた。闘病中なのは知っていたが、回復されることを願い一度もお見舞いにも行かなかったことが悔やまれる。阪神間道路問題ネットワーク立ち上げの初めが大橋さんとの出会いであり、代表世話人をしていただいたことがある大事な人であった。

 今となれば、長かったのか短かったのか分からない付き合いのなかで、砕けた打ち解けた話しの記憶は案外少なく、固い話しばかりしたのを思い出すのも大橋さんらしいのではなかろうかと思う。

 そんな数少ない打ち解けた話であったと私が思っている中に、メキシコの作曲家、アグスティン・ララのソラメンテ・ウナ・ヴェスという歌がある。トリオ・ロス・パンチョスが歌っていた。どんなはずみで、どちらが言い出したのかも思いだせないのだが、大橋さんが、あの歌好きやねんええなあ、と言われ私も好きな歌だったので、意気投合したことがある。叙情性豊かな曲であるだけ、ほろ苦い思い出でになる。

 もう一つも歌のからんだ話しになるが、戦後の流行歌に岡晴夫が歌った東京の花売娘というのがあり、その歌詞の中に「粋なジャンパー アメリカ兵の」という所がある。澤山さん知ってるか、と大橋さんが教えてくれた。庶民のための流行歌にこんな歌詞が入っている、そんな時代背景が大橋さんには強く印象に残ったのだろう。

 こんな事を大橋さんは何か秘密でもあるかのように、小声で言ってくれた。顔はもちろん笑顔であった。こんな時の大橋さんを思い出にしておきたい。

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