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『みちしるべ』 by 阪神間道路問題ネットワーク

1999年9月創刊。≪阪神道路問題ネット≫交流誌のブログ版。『目次』のカテゴリーからの検索が便利。お知らせなども掲載。

『みちしるべ』街を往く(其の一)**谷崎潤一郎記念館に入る**<2009.3. Vol.57>

2009年03月03日 | 街を往く

街を歩く(其の一) 谷崎潤一郎記念館に入る

藤井新造

 この街に住んで41年が過ぎた。この街でこんなに長く住むことになるとは思ってもみなかった。

 何時も職場があった尼崎か、尼崎に近い武庫川の両岸沿いのどこか、(そこではジョギングが可能と思い)に転居することばかりを考えた時期があった。そのことが出来なかった理由の一つは、友人たちと共同住宅を建て、そこで小さい共同保育所を運営しているからである。昨年にはこの小さい保育園を社会福祉法人化したので、ますます他市への転居ができそうにない。

 勿論、もう暫らくすると体力は一層衰え、まして財力もともなわないので当分この街に住むことになるのであろうか。そう思って今日も図書本館に行ってみると、入口で「谷崎潤一郎をめぐる女性たち~作品を彩ったモデルの実像」の看板があった。

 この記念館は1988年に開館しているので、丁度20年になる。一度も入館していないので見学することにした。谷崎の作品についてあまり読んでないが、仕事を辞めて時間もできたので「細雪」をじっくり読み直した。又、映画『細雪』の俳優が違うのを観ていた。そして今日は高峰秀子が主演している作品があるのを知った。(多分映画雑誌で読んでいたのだが忘れてしまっていた。)

 まあーそれはさておき、谷崎は高峰とか京マチ子、淡路恵子等の美人女優を贔屓にし交際していたらしい。又、日劇の春川ますみのダンスショーを見に行っている。

 私など高峰の出演している映画は何十本も観ているが、彼女のトークも聞かずに終わっている。羨ましい限りである。

 そして谷崎は再婚も何回かあり、これも私にとっては出来ないことなので半分羨ましい。

 展示室でみた文豪谷崎と私と、似ているところは彼には失礼だが酒好きである点か。そして筆跡は、上手と言う程のこともなくまあまあ普通の人という程であろう。私は字が下手なので他の人の筆跡が気になるタイプである。

 4年前の冬、友人と松山市に行き正岡子規記念館で夏目漱石の端正な字を見た時、この人は非常に生真面目で几帳面な人だなーと感心したことがあった。

 谷崎の直筆は、小学生が書くように大胆に筆をおろし字は太くおおらかな感じである。そして漱石と同じく天才と謳われた谷崎なので、小説・随筆は勿論のこと、短歌を作っても上手な人なのだ。短歌のなかにあきらかに恋心をおりこみ、受取人の女性にそれとすぐわかるものを送っているのも直情型の人間である谷崎らしいと思えた。

 その次に彼は京都へよく行って遊んでいる。これは私と共通する部分である。但し、彼は祇園の高級料亭「一力」でよく遊んでいるので、私など立呑みの部類の店から比較できないぜいたくなものを食べ、美しい舞妓さんに囲まれて酒を飲んでいる。それらの写真をみると、当然と言え段違いの上等な遊び方である。

 もう一つ話は全然別になるが、敗戦の年の夏、岡山に疎開していた谷崎のもとへ永井荷風が訪ねた記述があったのを想い出し、帰宅して荷風全集をとりだし読んでみた。この年に谷崎と荷風はよく書簡を交わしているのに、佐藤春夫との交友についての記述があれど、荷風について何も触れていない。そのことが少し符に落ちなかった。

 ついでに荷風の「断腸亭日乗」のなかで敗戦の年8月15日の日記が忘れがたいので引用したくなった。

 「……午後2時岡山の駅に安着す。焼跡の町の水道にて顔を洗い汗を拭い休み休み三門の寓舎にかえる。S君夫婦、今正午ラヂヲの放送、日本戦争突然停止せし由を公表したりと言う、恰も好し、日暮染物屋の姿、鶏肉、ぶどう酒を持来る、休戦の祝宴を張り酔うて寝に就きぬ」とあり、奇人荷風がやっと空襲から解放され安眠できた様子がうかがえる。

 湯浅芳子が荷風について「荷風ぐらい徹底したエゴイストはいなかった。彼は自由を愛したといわれるが、それは自己の自由というもので、他人のことなぞ考えるひとではなかった」と痛烈な批判をし、そのことがあたっているのだが敗戦の日に「祝宴」とはいかにも荷風らしい。

 この年、10才の子供だった私は「敗戦」の意味が理解できず、何が何やらわからなかった。周囲の大人がおちつきがなくおろおろして、そして日本が戦争に敗けたことだけがわかった。荷風が「祝宴」と記した岡山の真向いの、海をはさんだ南の10kmの田舎の村で、これから先の社会の行く末について漠然たる不安な気持ちだけが先走っていたのを想い出す。

 それに比して、さすが荷風の記した「祝宴」の文句は何んと落着いていて座り心地のいい文字ではないか。

 東京の自宅。偏奇館が大空襲(3月19日)により炎上し、知人を頼って岡山まで落ちのびて一命をやっととりとめた者にとって、「祝宴」はまさしく彼にとってぴったの心境を物語っているようだ。

 話は谷崎から荷風とへ飛んだが、二人に共通していたのは「自己の自由を愛し、他人のことなぞ考える人」でなかったことであろうか。

 この谷崎記念館から10分程西に歩くと、芦屋川の右岸近くに高浜虚子記念館がある。機会を作り入館しようと考えている。

(‘08年11月のある日)

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