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『みちしるべ』 by 阪神間道路問題ネットワーク

1999年9月創刊。≪阪神道路問題ネット≫交流誌のブログ版。『目次』のカテゴリーからの検索が便利。お知らせなども掲載。

『みちしるべ』黒住先生を偲んで**<2002.5. Vol.17>

2006年01月06日 | 山手幹線の環境を守る市民の会

黒住先生を偲んで

天道町 木下幸三

 黒住先生の存在を初めて知ったのは近くの医院の待合室に置いてあったネパールの写真集であった。神々の住むヒマラヤの写真と共に麓の村落での医療活動が書かれていた。誰もが出来ない地道で暖かいボランティア活動に感銘した。

 山幹武庫川架橋反対運動に参加するようになって、黒住先生を見かけるようになった。町会長だったようだが、いつも控えめで温顔、実に真面目に運動に参加されていたのが印象的だった。本当に市の勝手な行動に腹を立てておられたのだと思う。

 芦屋での先生を偲ぶ集いでは会場に溢れる人を見て、先生の医者として、人間として如何に人望があったかが分かった。

 本当に惜しい人を亡くし残念であるが、ご真福を祈るばかりである。

 武庫川架橋も殆ど完成、これから通行となれば、いよいよ目が離せなくなる。

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『みちしるべ』黒住さんが亡くなられた**<2002.5. Vol.17>

2006年01月06日 | 山手幹線の環境を守る市民の会

黒住さんが亡くなられた

水戸市  茶屋道 宏
(元甲子園口北町町内会)

黒住さんが亡くなられた
幽明境を異にすると言うけれど
「ゆっくりお休みなさい」と言うけれど
なんだかしっくりこない
お別れに行ってもほら
前よりも若返って微笑んでいるではないか
すこしはにかんだような表情で
集まった皆から目をそらして

詩人はうたう

 この人はもう死んだのか嘘みたい
 話しかけても返事をしないがそんなことは何度もあった
 なんだか知らないが考え込んでいて
 じっと草ぼうぼうの庭を見ていたこともあったが
 あのときは生きていた

 でも黒い塊みたいな後姿ははっきりぼくの目に残っていて
 ちらっと見た仮面のような無表情な顔も忘れることが出来ない
 それにくらべれば死顔の方がまだ生きているように見える

 生きているのに死んでることが人にはある
 だとすれば死んでいるのに生きてることもあるんじゃないか
 ……………………………………

 ……………………………………
 今でもぼくはこの人が何か言ってくれるのを待っている
 (谷川俊太郎、この人はもう )

幽明の境なんて
死者にも残された者にもありはしない
あるのはだだ少しずつうつろうぼんやりした時の流れだけだ

この人なしでこれからはやって行かなければならない
この人だったらどうやっただろうと考えながら
それだけ

南無阿弥陀仏

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『みちしるべ』黒住先生といっしょに**<2002.5. Vol.17>

2006年01月06日 | 山手幹線の環境を守る市民の会

黒住先生といっしょに

山幹の環境を守る市民の会
山本すまこ

 黒住先生と親しくおつきあいをさせて頂くようになりましたのは12年前の平成3年からです。私どもが先生の家の裏に住むようになったのは28年前ですが、先生のお母様や奥様に時々お会いしお世話になりました以外は先生には親しくお話することは殆どありませんでした。

 平成3年に地域の環境を壊したくないとの思いで住民運動を始めることになり、私たちの住む一角の住民、当時は20世帯ありましたが団結することになりました。そこで先生にも一緒に中心になってやって頂きたいと主人が膝づめでお願いしました。平成3年10月のことでした。そのとき先生は「私は争いごとは好きではありません。しかし一度やると決めたら絶対に裏切りません」と言われたことがずっと印象的に残っています。先生はご自分は誠実に約束を守られてこられましたが、先生の30有余年に亘るボランティア活動のなかで裏切られた思いをされたこともあったようですが寛大な心で受け止められておられた先生の言葉に敬服しておりました。先生は言われた通り最後の最後まで一緒に闘って下さいました。倒れられた2月17日も道路問題ネットワークの集まりに一緒に参加する予定でした。

 この運動のために町内会の活動にも積極的に係わっていくことになりました。黒住せんせいのことを想うと同時に染原元会長が急逝されたことを想い出されてなりません。染原会長は平成8年12月はじめの町内会のバスツアーにお元気に参加されておりました。その二週間後に急遽入院されたのでした。今でも時々少し白くなった髪の男性が自転車にちょっと前屈みで走っているのを見かけることがあります。あれ、“染原さん?”と一瞬蘇ってくることがあります。町内会での活動、そのころマンションが次々と建設されており、その説明会とか道路反対の市民の会での説明会などで正義感溢れる積極的な発言のお姿が昨年のことの様に思い出されてきます。平成7年秋からの測量阻上のための座り込み154日間から5月20日早朝の「武庫川の決戦」と反対運動が毎日毎日非常に緊張しながら市当局と遣り合っていた時期でした。そんな時先頭を走って下さっていた会長が入院から約2ヶ月後に帰らぬ人になってしまわれたときのショックと悲しみははかりしれませんでした。奥様は会長の靴を履いて悲しんでいる間もなく毎日河川敷に通って闘って下さいました。

 平成9年2月元会長の染原さんが急逝され、後任の会長に黒住先生にお願いしました。「一番苦手なことです」と断られましたがどうしてもと無理やりお願いしました。ところが先生に会長を引き受けて頂いてすぐに住民運動に対して西官市が住民を訴えるという卑劣な裁判ざたに巻き込まれる事態がおこりました。町内会長と市民の会代表に市当局は座り込みで測量を妨害すれば一日各々の会に30万円の罰金を取ろうというものでした。先生にも大変な心労をおかけしてしまいました。それでも先生は一言も愚痴めいたことはおっしゃいませんでした。いつも優しい先生に男らしさを感じました。そんな折、先生は外務大臣から表彰を受けられることやネパール国王から勲章を頂かれることを伺いながら皆裁判などという未経験の大事件にてんやわんやでお祝いも出来なくて今になって申し訳なかったと反省しています。この度の先生のお別れ会を記念して配られました「七曜」に市民運動のことに触れられていました。先生の正直な一言が陳情に行く代表を外されて別の人が行くことになった。とありました。私は覚えがないのですが、そんなことを言ったのはきっと私くらいではなかったかと、人のいい先生が文に書くくらいですからきっと“失礼なやつだ”と思われたにちがいないと、申し訳ありませんでした。遅まきながらお詫びします。町内会長の仕事も想像通りずいぶん先生の大事な仕事の邪魔をしていたんだとわかりました。“先生ごめんね”先生が事務所の若い方とよく武庫川河川敷に座り込んで下さっていた姿や、活動に行き詰まった時にいつも奥様ともどもよく相談にのって頂きました。「ウーン困りましたねー」と一緒に悩んで下さった時の先生の顔、そういいながら解決の糸口を見つけて下さいました。私たちはどれほどか精神的に助けて頂きました。また食事をご一緒させて頂いたときちょっとほんのりした顔でほんとうに楽しそうに「うれしいですねえ、たのしいですねえ」といわれたお顔をみて私は「先生ってほんとうにいい人なんだなあ」とつくづく思いました。今でもその時のお顔を忘れません。先生はライフワークとして大きな仕事をもっておられましたから、もっと早くそれだけに専念して頂くべきでしたのに、反対運動のためにはどうしても先生でなければならないと町内会の会長を無理にお願いしてしまいました。奥様にも「染原会長の残任だけだよ」と言われながら無理やり次の二年もお願いしてしまいました。引き受けて下さったのも先生の優しさであったと感謝しています。勝手な解釈ですが先生はきっと「山本さんだけ重荷を背負わせられない」と思ってがまんしてつきあって下さっていたのではなかったかと思います。いつも見えない大きな心に支えられていることを感じていました。このたび突然このような悲しい結果になり、支えのつっかいぼうをはずされたようでとっても悲しくそしてほんとうに先生が居られないことが信じられない気持ちです。「私のためにそんなに悲しまないで下さいよ」といつもの先生の声が聞こえてくるようです。私のようなおばさんといつも偉らばらずおつきあいくださった先生の誠実な人格と寛大さに尊敬と感謝です。

 4月7日の偲ぶ会の席上で、AOCAの次の理事長を決める会がいつも先生が仕事をされていた事務所でもたれ、新理事長が誕生して終ったのが9時ごろだったと伺いました。その直後の9時27分先生が安心されたごとく息をひきとられたそうです。

 2月17日朝先生からネットワークの集まりは欠席されるとのお電話を頂きました。それが先生との最後の会話でした。それから13時間後に倒れられそのままものいわぬ人となり帰らぬ人となってしまわれるなどとは……。2月17日から3月7日まで奇跡を祈りほんとうに辛く悲しく胸が痛む日々でした。時々奥様から様子をお伺いし先生のねばりを感じるとともに、自分自身にと問うていました。「先生は誰を待っているのですか?と」上記の新しい理事長云々のお話を伺って、先生はそれが一番心配されておられたんだと、うがった解釈かもしれませんがそう思いました。身を挺して歩かれた先生の足跡に多くの種を蒔かれたと思います。きっとそれぞれの場で先生の思いを携えた色々な大輸の花を咲かせられることと思います。先生の姿から人は何年生きたかでなく何に生きたかであることを教えられました。今更ながらもっと先生といろんなことをお話しておけばよかったのにと悔まれます。毎月先生と一緒にネットワークの集まりに電車やバスに乗って行っていたのに。私は行動派のように見えますが知らない土地に行くのはとっても遠いように思え苦手でした。でも今は川西にも北六甲台にも行けるようになりました。これも先生と二人で行くからできたことでした。

 今反対運動が終結し、道路はすっかり出来上がりました。橋の開通は5月末の予定です。交通量や車種が心配ですが工事そのものは住民が頑張った分結果は得られたと先生も認めて下さいました。そして平成13年11月小さな倉庫も出来その一部を会議室として町内会の集まりや、ネットワークの集まりに使えるようになりました。先生は「良い場所が出来た」と何回も何回も喜んで下さいました。先生は照れやさんですから言葉には出されませんでしたが「山本さん頑張ってよかったねと褒めて頂いているんだと勝手に嬉しく思っています。

 先日のお別れ会でたくさんの先生方のお話を伺って改めて黒住先生の偉大さを今更ですが知りました。凡人である私には偉人を知ることができず随分失礼があったに違いないと反省しています。何だか反省ばかりですがお許し下さい。

 生前先生の講演を伺った時、「私はもっと若い自由な時に先生にお会いしていたらきっとネパールに連れていって下さいとお願いしたであろうに」と思ったんですよ。

 黒住先生といっしょに闘えてうれしかったです。ありがとうございました。

平成14年4月

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『みちしるべ』座るのは誰か**<2002.1. Vol.15>

2006年01月05日 | 山手幹線の環境を守る市民の会

座るのは誰か

甲子園口北町
黒住 格

 ネパールの眼科医療の支援活動も30年になった。今年は2名のネパール人眼科助手を研修のため日本に呼んだ。研修生はサイレスとシブという、どちらも30代半ばの男性であった。彼らは、私たちが支援している眼科病院で10年以上働いている。

 彼らの研修は、主に串本と和歌山市内二つの病院にお願いした。病院での研修が終わり、最後に医療機メーカーを見学させた。愛知県や大阪のメーカーを訪問するとき私が付き添うことになった。こうして私は2人と長い時間接触する機会を持った。私は彼らと何度も電車に乗った。

 座席が一つあると私が座る事にした。もう一つ空席ができたとき、気が付いてみるといつもサイレスが座っている。私はそれが気になってきた。一方シブは私からずっと離れた場所で吊革を持って立っている。

 こんなことが度重なって、私は「次は、絶対にシブを呼んで座らせてやろう」という気持ちになってきた。しかし、その機会はとうとう来なかった。

 彼らを空港で見送った日、カウンターの受付嬢が二人のパスポートを取り違えて返した。しばらくしてサイレスがそのことに気がついた。彼は不快な顔をして前を歩くシブを呼び止めてパスポートを交換させた。

 私は昔あった事件を思い出した。ネパールのある村で野外手術をしていたとき、患者たちがベッドのことで揉め事を起こした。手術後の患者はみんな土間の上に毛布を一枚敷いて寝かせるのだが、その中の1人が自分の家からベッドを持ち込んで、どうしてもそれで寝ると言って聞かなかったのである。この一件は、結局ネパール人医師の指示に従って、ベッドの持込を認めることで収まった。彼は高いカースト(身分)の人で、どうしてもみんなと同じ土間に寝ることはできなかったのである。

 手を振りながらゲートに消えてゆく二人を見送りながら、私はシブを空いた席に座らせたりしなくてよかったとつくづく思った。

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『みちしるべ』カトマンズの電気テンプー**<2000.10. Vol.7>

2006年01月03日 | 山手幹線の環境を守る市民の会

カトマンズの電気テンプー

甲子園口北町
黒住 格

 発展途上国と言うと、交通や食事の不便はあるが、その代償として水と空気はきれいだと思い勝ちである。事実はまるで違っている。私はネパールの水は飲めないしカトマンズやビルガンジなどの都市の空気がきれいであったのを見たことがない。この頃めっきり増えてきたクルマは、費用の点からジーゼルエンジン車ばかりだし、その上、世界各国で使い古された中古車が買われてくるから、どの車もどの車も、不完全燃焼の真っ黒な排ガスを吐き出して、車が一斉に発車する交通信号のあたりでは、道の向こう側が見えなくなってしまう。カトマンズは小さな盆地だから、汚染された空気が町中に溜まる。無色無臭であるはずの空気が、この町では味さえ付いている。昨年ここを訪ねた時、この町を行く人たちは、いちように先の尖った形のマスクをしていて、私はふと狐の町に迷い込んだという錯覚に陥ったものである。

 ところが、今年カトマンズに行ってみて、空気がきれいになっているのに驚いた。ジーゼルエンシジンを使っていたテンプー(三輪タクシー)を、政府がカトマンズの町から、追い出したのだという。追い出されたテンプーは、またどこかの町で汚染活動を続けているとしても、カトマンズに関する限りきれいになった。

 カトマンズでは、今までのジーゼル・テンプーに代わって、電気自動車を使うようになった。その名も「サファー・テンプー(清潔テンプー)と言う。

 「政府は、よく思い切った決定を下したものですね一」と感心すると、現地代表をしている桐生氏は、

 「新しい問題と擦り替っただけですよ」と笑っている。

 「新しい問題?」と聞き返すと、

 「エンジンの鉛の捨て場ですよ。これこそ、始末が悪い」と桐生氏は言う。

 「あっちを叩けば、こっちが頭を出すですか」と言いながら、古いエンジンを放射能物質のように言うのが不思議だった。エンジンを使っていたからといって、放射能を持つようになる筈がない。放射能を持たない鉛なら、再生がきくのではないか、と子供のころ鉛を溶かして鋳型に入れて遊んだことのある私は思う。多分、古くなった鉛のエンジンを処理する能力がないままに電気自動車に代えてみても新たな公害を作るだけだといういうのだろう。私はその時、話が深いところへ落ちて行くのが面倒で、尋ねることをしなかった

 ネパールのような発展途上国でも、人々はまず目先の利得と便利を追求する。しかし、人々の批判精神は低く、見張る視線は高くはないし、後から起こる問題に対処する技術もないから、問題は最悪のところまで行ってしまう。

 私たちは、失明防止の目的でこの国に入ってきたが、たった一つのことをやり遂げるにも、いろいろな面でのレベルアップがない限り目的をやり遂げることはできない。要求されるのは文化の高さかもしれない。それにはきっと、五十年も百年もかかるだろう。問題は根深く広く存在するようである。

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『みちしるべ』**山手大橋の橋脚は安全なのか**<2000.6. Vol.5>

2006年01月02日 | 山手幹線の環境を守る市民の会

山手幹線のその後
設計ミスが発覚!!
山手大橋の橋脚は安全なのか

山手幹線の環境を守る市民の会
山本寿満子

 平成10年秋より、武庫川河川敷での橋脚工事が始まり、平成12年3月には本線北側車線が完成し、供用が開始されました。ところが3月末、川の中に建設された橋脚が設計ミスであったことが判明しました。西宮市当局はそのことを伝えてきましたが、すでに尼崎側の橋脚には補強工事が終了しているとのことでした。

 平成7年に阪神大震災があり、私たちは大変な思いをし、今なお立ち直ることができず、その後遺症に悩む人も少なくありません。また阪神高速の倒壊という恐ろしい事実に、建設省では平成7年2月、橋脚の鉄筋の編み方等の基準の見直しを行ったのでした。

 山手幹線事業に反対していた私たちは、平成7年といえば、被災後の生活再建の真っ最中に、測量調査を強行しようとした行政と真っ向から対立していました。ところが、西宮市の説明では、この設計は平成7年12月にされたとのこと。いつ着工できるかわからない時期である。平成8年5月20日、武庫川河川敷でボーリング調査を強行しようとした尼崎市と西宮市の職員と、私たち住民が一戦を交えた、その半年も前に出来上がっていたというのである。

 当時、事業費の先送りに限界があり、ぎりぎりのところまできていた時期である。調査費を設計費に流用しても、否、せぎるを得ない時期であったにちがいない。住民の姿勢から、いつ使われるかも知れない設計図である。自ずと真剣さに欠けるであろうことは容易に想像がつく。

 いずれにしても建設省で変更された基準を、設計者が理解しなかったのか、それとも知らなかったのか。あの震災のあとで、阪神高速の倒壊を目の当たりに見ながら、震災以前の基準で設計していたということが理解できない。と同時に設計者としての倫理、資質を疑わざるを得ない。事の重大性の認識のなさに言葉もない。また、事実が発覚した後の関係者の受け止め方にも責任感の無さを多いに感じます。

 今までの基準では建設省として、100パーセント安全であるという自信がないから基準を変更したわけですから、そのチェックが関係各者のどの過程でもなされなかったことは、いかにそれぞれの仕事の取り組みが「夜明けの行灯」であったのかを物語るものです。一つのミスが将来どのような悲劇につながるかを考えたとき、私たちは不安でいたたまれない気持ちです。腹立たしいという気持ちを通りこして、なぜこんなことが起こるのか、悔しい気持ちです。

 今でにも人災といわれた事故が数多く起こっています。安易に「間違いでした」と言っておれないはずです。行政はきっと「二度と阪神大震災のような地震は起こらないであろう」「100年に一度の震災であったんだ」くらいに思って「補強工事をすれば問題はないんだ」「補強工事費は設計会社が負担するんだ」と。どこが負担するにしても、きっとどこかで元は取る仕組みがきっちり出来ているんでしょ?と、うがった考えは私ひとりでしょうか?

 しかし、私たち西宮市には山手幹線問題だけでなく、現在、武庫川ダムの建設を市民の意見を無視して強行しようとしています。市当局の言い分は100年に一度の洪水を仮定して、そのときのために自然破壊を肯定し、ダムは必要だとしているのです。なんと矛盾した話ではありませんか。

 そもそも山手幹線拡幅架橋事業は、地域住民の緊急時の非難場所となるとの位置づけで、沿道住民に説明しておりました。その橋の土台が安心できないものであれば私たちは緊急時にどこに避難すればよいのでしょうか。

 行政にだまされたことになります。

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『みちしるべ』ネパールの道**<1999.11. Vol.2>

2006年01月01日 | 山手幹線の環境を守る市民の会

ネパールの道

甲子園口北町町内会
会長 黒住格

 発展途上国というと、文明の便利さからは見放されているが、その分だけ澄み切った空気と水に恵まれている、と思われがちである。私の知る限り、カトマンズの空気は昔から埃っぽかった。この国の土が細かい粒子の黄土であることと、街自体が空気の淀み易い盆地であることに原因があっただろう。

 最近、その空気が車の排ガスによって耐えられないほど汚染された。街を走る車の殆どが、先進国で使い古したデーゼル車だからである。街を行<人々は先のとがったマスクをしている。私たちはふと狐の街に迷い込んだような錯覚を覚える。先進国並の便利さを求めて取り入れた利器も、この結果では発展の一方で激しい環境破壊を起こしたことになる。

 ネバールの車の弊害はこればかりではない。昨今、立派に作られた舗装道路では、たいていの車が百キロを越えるスピードでぶっ飛ばしている。

 私は昨年のネパール訪問の際、カトマンズから六百キロの南の町までジープで往復し。随分便利になったものだと思った。しかし、その途中で見たものは、川に転落した小型トラック、シャフトが折れて路上にうず<まったバス、家に飛び込んだ大型トラック、山に衝突したもう一台の大型トラックの計4台であった。いづれも、数日の間に起こった新しい事故であった。

 犬などの小動物の交通事故死体を見るのはこれまでも日常のことであったが、その日は車にはねられた牛を見た。その向こうの道の端に、ピニールシートの掛かった動物らしきものの死体を見た。私はとうとう最後のものを見たという気がした。これらはいずれも、車が新しく獲得した超スピードという能力に、運転手も動物も、対応能力が出来ていないことから起こった惨劇である。

 ネバールの車問題は、効率と便利さを第一とする先進国の合理主義を無批判に取り入れた結果である。新しい文物が取り入れられる一方では、その国古来の大切な文化や習慣が失われる。世界の文明はこうして進んで来たのであろう。だが、NGOが、発展途上国に関わるようになってからは、事情は違ってきた。それは、文物や習慣の取捨に自国民の選択が許されなくなったことである。古いものは亡びるにしても、自分が選んだことか他人に強いられたことかでは根本的な違いがある。国際NGOとして途上国に関わる者はたえずこのことを自問しなければならない。

 さて、よくない要素を含んでいるとしても、やらなければならないことがある。

 「やがて、国連とかアメリカとか日本とかいう国のおおきな力が有無を言わさず入ってくる。NGOのやることは、そのような理不尽な強圧に対して抵抗力をつけるワクチン注射である」私はそう思っている。

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『みちしるべ』山手幹線拡幅架橋に反対して**<1999.9. Vol.1>

2006年01月01日 | 山手幹線の環境を守る市民の会

山手幹線拡幅架橋に反対して

山手幹線拡幅・架橋に反対する市民の会(当時)
山本寿満子

 平成3年秋、山手幹線拡幅・架橋事業に伴う地域の環境悪化に対して私たち沿道住民は“反対する市民の会”を結成しました。地元町内会のバックアップを得るために元会長を罷免し団結を固めながら、西宮市当局にこの事業の中止を訴えつづけてきました。

 平成7年10月30日より、強行された測量調査を阻止するために、雨降る寒い日も154日にわたるテントを張っての座り込みとパトロール。平成8年5月20日、早朝の武庫川河川敷での調査阻止とてその後のパトロール、夏の暑い日も行いました。今思っても、よくあれだけローテーションを組んで出来たと、感心しています。ネットワークの方々の応援にはどれほど力強く感じたこか。

 西宮市当局は、このような私たちの抵抗に対して平成9年3月10日、仮処分申請を行い住民を訴えたのでした。正に前代未聞の恥知らずの行為であった。裁判所の決定は、妨害すれば一日30万円の罰金を、“市民の会”と甲子園口北町の二団体それぞれに課するというものでした。私たちはそれでも闘いつづけました。弁護士さんから、裁判所を甘くみたらあかんとまで言われました。裁判所の決定が出てから1年。再度市当局は仮処分決定を盾に、測量調査を強行してきました。平成10年2月でした。厳寒の河川敷での座り込みにも、高齢者と女性だけでは限界があり、事故が起こることを懸念し、無念の涙をのんで引きました。悔し泣きする人、今まで何だったんだろう、空しさを感じる人、腹立たし<思う人、住民運動に限界があったんだ。それまで誰も終わりも予想せず、また勝敗も予想しませんでした。初めての経験験ではありましたが、自分たちの知恵と力で出来るところまでやろうというのが合言葉でした。

 思えば、平成3年に昭和21年の都市計画決定を盾に周りの環境がすっかり変わっているにもかかわらず、住民の意思に耳をかすことなく権力で押し進めてきた、住民不在の行政の在り方に疑問を抱くとともに、一体誰がこれらの公共事業を支えているのか、国民、市民の税金ではないのか。怒りはおさまりません。

 山手幹線道路は生活道路として、環境のいい住宅地のなかを走っています。誰が考えても、この道を大きなトラックやトレーラーが走ってよいとは思いません。これからの高齢者社会にむけて、今でも道路を渡っての交流は希薄となってい意す。その道路が2車線以上の幅になり、交通量をが4倍以上になれば、ますます地域の分断を余儀なくされることになります。人にやさしい云々とは、至る所で簡単に使われている昨今です。しかし、日ごとに福祉が後退していく不安を感じている高齢者が多く、そのうえ住む環境は危険にさらされる方向へと変化しようとしています。これでは人と人との交流も希薄となり、ますます地域の分断の中で孤独な寂しい生活を強いられることになります。

 道が広くなれば便利になるという単純な考えで、あたかも市民のためによい事をしているかの如く傲っている行政に対し8年間、私たちは怒りの声をあげ、抗議をつづけてきました。この8年間に費やした時間と労力を、決して無駄であったととは思いたくない。平成10年2月より測量が始まりました。と同時に住民との話し合いも具体的な交渉に入りました。そして平成10年9月28日「山手幹線は拡幅・架橋されても環境基準を守れる道路とすることを文書で約束してもらいたい」という、5000余名の署名を西宮市長に提出しました。その結果10月2日付にて市当局は、8年間過ぎて初めて「環境保全目標を越えた場合は、その目標を達成できるよう速やかに対策を講じていく」と文書で約束いたし意した。

 それをもとに平成10年10月25日の市との協議の場で、具体的な数値などをはっきりと盛り込むこと、細かい表現の訂正を求めました。当局は11月から着手することを譲らず、私たちは最終的に(①2車線で供用する件、②中津浜線まで低騒音舗装をこの事業と同時に行う件、③固定の測定所を設置する件)の3点について、平成10年12月13日の当局との話し合いの席上で、再度文面の訂正を申し入れましたが、その場で即答を得ることができなかったため、市の最高責任者に直接申し入れることとしました。

 平成10年12月28日、市庁舎にて市側は助役、局長、部長他、住民側は市民の会代表、町内会長他10数名出席し面談しました。上記①②については約束し、 ③については固定の建物を建設し、測定所を設置することは現状では難しいが、測定することは方法を考えることができるとし、通年測定という表現としていました。この件に関して、当局は常に現況値がわかる状態であれば、ほぼ住民の方々の目的は達せられるのではないかとの見解でした。

 平成11年1月10日の「反対の会」の集会で、平成10年12月28日の回答を受け入れることを決議するとともに、会の名称を「山手幹線の環境を守る市民協議会」といたしました。この最終の回答書の内容は西宮市が発行する「山手幹線ニュース」で沿道住民にお知らせすることを市当局は約束し、平成11年6月配付致しました。

 8年以上の長きにわたっての私たちのたたかいが、このような結果で終止符を打つことになりました。この住民運動は負けたのか。私は決して負けたとは思いません。あれほどの強い抵抗をした運動は西宮市にとって初めてのことであったに違いありません。行政当局に文書でここまで約束をさせることができたのは皆の団結と強い思いがあったからです。市当局に、この反対の会の存在感を与えた事は事実であったろうと自負しています。振り返って悔しい、空しい、残念、様々な思いがあります。しかし、供用後の問題が残されています。粘り強く当局を監視していかなければならないと思います。大勢の人たちの応援をほんとうに感謝します。これらを簡単に報告することは、まことに難しく表現にも誤解を生む危険を危惧しながら報告させていただきました。将来、この多くの人たちの思いがあったからと言える山手幹線沿道の環境になることを祈ってやみません。

 最後に、今後も当局に対して正々堂々と正義を訴えつづける姿勢はつらぬきたいと決意しています。

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