山手幹線拡幅架橋に反対して
山手幹線拡幅・架橋に反対する市民の会(当時)
山本寿満子
平成3年秋、山手幹線拡幅・架橋事業に伴う地域の環境悪化に対して私たち沿道住民は“反対する市民の会”を結成しました。地元町内会のバックアップを得るために元会長を罷免し団結を固めながら、西宮市当局にこの事業の中止を訴えつづけてきました。
平成7年10月30日より、強行された測量調査を阻止するために、雨降る寒い日も154日にわたるテントを張っての座り込みとパトロール。平成8年5月20日、早朝の武庫川河川敷での調査阻止とてその後のパトロール、夏の暑い日も行いました。今思っても、よくあれだけローテーションを組んで出来たと、感心しています。ネットワークの方々の応援にはどれほど力強く感じたこか。
西宮市当局は、このような私たちの抵抗に対して平成9年3月10日、仮処分申請を行い住民を訴えたのでした。正に前代未聞の恥知らずの行為であった。裁判所の決定は、妨害すれば一日30万円の罰金を、“市民の会”と甲子園口北町の二団体それぞれに課するというものでした。私たちはそれでも闘いつづけました。弁護士さんから、裁判所を甘くみたらあかんとまで言われました。裁判所の決定が出てから1年。再度市当局は仮処分決定を盾に、測量調査を強行してきました。平成10年2月でした。厳寒の河川敷での座り込みにも、高齢者と女性だけでは限界があり、事故が起こることを懸念し、無念の涙をのんで引きました。悔し泣きする人、今まで何だったんだろう、空しさを感じる人、腹立たし<思う人、住民運動に限界があったんだ。それまで誰も終わりも予想せず、また勝敗も予想しませんでした。初めての経験験ではありましたが、自分たちの知恵と力で出来るところまでやろうというのが合言葉でした。
思えば、平成3年に昭和21年の都市計画決定を盾に周りの環境がすっかり変わっているにもかかわらず、住民の意思に耳をかすことなく権力で押し進めてきた、住民不在の行政の在り方に疑問を抱くとともに、一体誰がこれらの公共事業を支えているのか、国民、市民の税金ではないのか。怒りはおさまりません。
山手幹線道路は生活道路として、環境のいい住宅地のなかを走っています。誰が考えても、この道を大きなトラックやトレーラーが走ってよいとは思いません。これからの高齢者社会にむけて、今でも道路を渡っての交流は希薄となってい意す。その道路が2車線以上の幅になり、交通量をが4倍以上になれば、ますます地域の分断を余儀なくされることになります。人にやさしい云々とは、至る所で簡単に使われている昨今です。しかし、日ごとに福祉が後退していく不安を感じている高齢者が多く、そのうえ住む環境は危険にさらされる方向へと変化しようとしています。これでは人と人との交流も希薄となり、ますます地域の分断の中で孤独な寂しい生活を強いられることになります。
道が広くなれば便利になるという単純な考えで、あたかも市民のためによい事をしているかの如く傲っている行政に対し8年間、私たちは怒りの声をあげ、抗議をつづけてきました。この8年間に費やした時間と労力を、決して無駄であったととは思いたくない。平成10年2月より測量が始まりました。と同時に住民との話し合いも具体的な交渉に入りました。そして平成10年9月28日「山手幹線は拡幅・架橋されても環境基準を守れる道路とすることを文書で約束してもらいたい」という、5000余名の署名を西宮市長に提出しました。その結果10月2日付にて市当局は、8年間過ぎて初めて「環境保全目標を越えた場合は、その目標を達成できるよう速やかに対策を講じていく」と文書で約束いたし意した。
それをもとに平成10年10月25日の市との協議の場で、具体的な数値などをはっきりと盛り込むこと、細かい表現の訂正を求めました。当局は11月から着手することを譲らず、私たちは最終的に(①2車線で供用する件、②中津浜線まで低騒音舗装をこの事業と同時に行う件、③固定の測定所を設置する件)の3点について、平成10年12月13日の当局との話し合いの席上で、再度文面の訂正を申し入れましたが、その場で即答を得ることができなかったため、市の最高責任者に直接申し入れることとしました。
平成10年12月28日、市庁舎にて市側は助役、局長、部長他、住民側は市民の会代表、町内会長他10数名出席し面談しました。上記①②については約束し、 ③については固定の建物を建設し、測定所を設置することは現状では難しいが、測定することは方法を考えることができるとし、通年測定という表現としていました。この件に関して、当局は常に現況値がわかる状態であれば、ほぼ住民の方々の目的は達せられるのではないかとの見解でした。
平成11年1月10日の「反対の会」の集会で、平成10年12月28日の回答を受け入れることを決議するとともに、会の名称を「山手幹線の環境を守る市民協議会」といたしました。この最終の回答書の内容は西宮市が発行する「山手幹線ニュース」で沿道住民にお知らせすることを市当局は約束し、平成11年6月配付致しました。
8年以上の長きにわたっての私たちのたたかいが、このような結果で終止符を打つことになりました。この住民運動は負けたのか。私は決して負けたとは思いません。あれほどの強い抵抗をした運動は西宮市にとって初めてのことであったに違いありません。行政当局に文書でここまで約束をさせることができたのは皆の団結と強い思いがあったからです。市当局に、この反対の会の存在感を与えた事は事実であったろうと自負しています。振り返って悔しい、空しい、残念、様々な思いがあります。しかし、供用後の問題が残されています。粘り強く当局を監視していかなければならないと思います。大勢の人たちの応援をほんとうに感謝します。これらを簡単に報告することは、まことに難しく表現にも誤解を生む危険を危惧しながら報告させていただきました。将来、この多くの人たちの思いがあったからと言える山手幹線沿道の環境になることを祈ってやみません。
最後に、今後も当局に対して正々堂々と正義を訴えつづける姿勢はつらぬきたいと決意しています。