10年後の私
編集長代理 藤井隆幸
この『みちしるべ』第110号(夏季号)を発行するにあたって、メンバーの皆さんへ編集長代理として、お題を提供しました。毎度のこと、原稿集めに四苦八苦しています。そこで「事務連絡」の中で、原稿を書きやすいように、「10年後の情勢」という仮題を提案させていただいた次第です。
であるならば、メンバーの一員として、何も書かないわけには行かないということで、書いてみることにしました。考えてみるに10年後に、この世に生息し続けているのだろうか? もうそんな年齢に達しているのではあります。
死後の世界を推測するのは、臨死体験などを調査するなどの研究もあるようではあります。これに関しては、宗教の分野では多く語られているところです。が、無神論者である者にとって、また唯物論という制限の中で、死後を語るのは誠に困難なことです。
生物が意識するというのは、その脳細胞の働きであるとされています。生物死は当然のことながら、脳細胞の死滅をも意味します。したがって、死後には自らの意識もろとも、消滅するということになります。今、意識のある自分の思考というものが、死後は無くなるということ。考えにくい現象ではあるのですが……。
さて、そう言ってしまえば、何も書くことが出来ません。自らの意識が消滅した後の世界を論じることになるかも知れないからです。しかしながら、人は社会性の動物です。個人主義という思想もあるのですが、さりとて社会を構成する一員であることに変わりはありません。社会とかかわり、その制度の中で生きているのです。
そうすると、自らが消滅したとしても、残った社会に生きている人がいるわけです。特に、子や孫に対する思いは、特段のものがあることでしょう。その意味では、生きていようが亡くなっていようが、その社会を議論する価値はあろうかと思います。
住んでいる近くに、規模も大きく有名な公園があります。また、小学校もあり、幼い子供さんを見ることが多くあります。歳のせいか、やたらと可愛く感じているこの頃です。コロナ禍でマスクをしているので、微笑みかけても判らないみたいですが、目が合うと手を振るようにしています。子供さんの反応は、とても癒されます。
この子たちが将来にわたって、幸せであってほしい。そう願うのは、人類の社会性からくるものでしょう。自らは消滅しても、将来を構成する同胞が、豊かに生息していることを願うもの、それが社会的動物の本能なのでしょう。一寸の虫にも五分の魂と言いますが、生物には死ぬことを回避する本能があります。だからこそ、種を保っているのだと思います。社会性の動物は、自らの直系の子孫だけではなく、社会全体の生息を心しているものと思います。
『みちしるべ』では、そんな社会に対するご意見が、多々論じられてきました。現在のコロナ禍、その中で行われようとしている東京五輪・パラリンピック。結果は、この号が発行される時には、既に出ているのかもしれません。
我々団塊の世代は、「戦争を知らない子供たち」でした。が、阪神淡路大震災や東日本大震災を経験しました。日本では「バブルの崩壊」、世界的にも「リーマンショック」がありました。そして、コロナ禍。米中の対立が論じられています。
経験に学ぶのではなく、歴史に学ぶという観点に立てば、何が言えるのかが焦点なのだろうと思います。ITやAIの急進的発展とともに、GAFA(Google Amazon Facebook Apple)が巨大化し、富の集中と貧困の進化が問題になってきています。これを肯定的にとらえず、Big9としてG-MAFIA(Google Microsoft Amazon Facebook IBM Apple)とBAT(Baidu Alibaba Tencent)という向きもあるようです。
団塊の世代は若者より、多くの経験をしてきました。しかし、それは人類の歴史からすれば、ほんの瞬きにすぎません。今の人類社会の在り様は、人類史上に如何に位置づけられるのでしょうか。
我々が肌身に感じている歴史は、明治以降の近代史でしょう。その近代史に対する思い込みも、何だか怪しくなってきています。坂本龍馬が英雄視されていますが、列強のスパイであったとも指摘され出しています。福沢諭吉は壱萬円札ですが、ヘイト論者であったことも見えてきています。
もっと身近に感じている歴史は、戦後だと思います。一時、戦後のアメリカ帝国主義支配の日本が語られていましたが、昨今、野党でさえ語らなくなっています。今でこそ、世界各国の映画が話題となっていますが、日本で映画と言えばハリウッド映画。かつて、TVでは西部劇・ナチス対米軍戦争映画・アメリカホームドラマが、お茶の間を賑わしていました。
我々の頭の中の歴史観、価値観に客観性はあるのでしょうか。働くということは生きる術を得ることです。本来、楽しいはずの労働が、そうならないのは何故なのか。働きたくても働けないのは、おかしな現象です。分業による労働の価値の分配に、異常な不平等が起こっています。それも、天文学的不平等。
アメリカンドリームは、理想的だったのでしょうか、それとも悪夢だったのでしょうか。2度の大戦で唯一戦場にならなかった列強のアメリカは、戦後の世界的富の多くを取得していました。が、今や世界最強の債務国。経済規模でも中国に抜かれ、徐々にその差をひらかれていて、勝負は決まっているようです。
日本はと言えば、4000万人の韓国に、1憶2千万人で、グロスのGDPでは大きいのですが、一人当たりのGDPでは抜かれているか寸前です。コロナ禍の対応でも、欧米だけでなく急成長国などにも、及ばない日本が見えてきました。
かつて、日本の海外団体旅行が「農協さん」と揶揄されたり、若い日本女性が「イエローキャブ」(米国タクシーが黄色であることから、誰でも乗せるという比喩。)と蔑まれてきました。今ではフォードは大衆車で、レクサスが高級車となっています。
嫌中・嫌韓のヘイトがまかり通る日本ですが、その内、レクサスも彼らから大衆車と言われる時代が来るのは、そう遠くないように思われます。アメリカによる対中包囲網に加担する日本ですが、日清戦争当時と逆であることは確かなようです。
経験則に過ぎない、目の前のニュースに右往左往するのではなく、歴史的大局から、立ち位置を見直す時代になっているのではないでしょうか。戦後の価値観にとらわれているのですが、その価値観が通用する時代から、何が変化しているのか、見直すことも大切ではないでしょうか。
ここに編集長代理として、お題を提供した一つの責任を果たしたように思います。それというのも、『みちしるべ』2008年7月号(Vol.53)に三橋雅子氏の「私が総理大臣になったら」という記事が載ったことがありました。この記事だけであったら、違和感を覚えた方も多かったように思います。
実は、この号が発行する前の例会で、各自で総理大臣になったとしたら如何するのか? というお題が出された。書かれたのが三橋氏だけだったので、違和感を抑えるために、当時の編集長の澤山輝彦氏が、注釈をつけておられました。
はたして、今回のお題提供に、何人の方が応えてくださるのか。お独りだけだった場合の為にも、責任は果たしておかねばならなかったというわけです。メンバーの高齢化とともに、執筆者も少なくなっています。かつて、投稿された方が多かった頃は、「頂いた原稿は没にはしません」というのが売りではあったのですが……。
【投稿日】2021.6.7.