『みちしるべ』 by 阪神間道路問題ネットワーク

1999年9月創刊。≪阪神道路問題ネット≫交流誌のブログ版。『目次』のカテゴリーからの検索が便利。お知らせなども掲載。

『みちしるべ』**世界情勢と参議院選挙2022**≪2022.春季号 Vol.112≫

2022年07月18日 | 藤井隆幸

世界情勢と参議院選挙2022

藤井隆幸

ウクライナ紛争の本質は何か

 日本のマスコミも政府も、「プーチンは悪、ゼレンスキーは英雄」の一辺倒ではある。日本国民の殆どが、それを無批判に受け止めているようだ。が、世界情勢に詳しい向きでは、かなり違った見方をしているように見える。

 そもそもソ連時代(1991年以前)は、ロシアとウクライナの区別は確たるものではなかった。ロシア語を話すウクライナ国民と、ウクライナ語を話す国民が存在する。ウクライナ語はロシア語の方言のような存在という人もいる。

 ソ連崩壊後のロシアでは急速な資本主義化の中で、国営企業を叩き買って急速に富を得たオルガルヒ(新興財閥)と、社会保障の急落による貧困に陥った大多数の国民がいた。それを立て直したのがプーチンで、国民的支持は強い。

 一方、ウクライナはソ連時代には、航空機・宇宙産業や原発・重工業の中心地であった。しかし、資本主義化の中で、国家の体をなさないほどの貧困国になり下がり、現在はネオナチが支配する国になり下がっている。戦争がなかったにしても、国家財政が破綻しているのだ。

 汚職と貧困の中で、アメリカはウクライナに深く介入していた。第二次世界大戦下の民族過激主義者の残党(ネオナチ)を、対ソ連作戦で擁護してきたのもアメリカである。特に2014年の暴力クーデターは、オバマ政権の副大統領であったバイデン(現大統領)と、国務次官補のビクトリア・ヌーランド(現国務次官)が指揮していたと言われている。

世界はウクライナを如何に見ているか

 ウクライナ紛争は今年(2022年)2月24日に、ロシア軍が侵攻した時に始まったと思っている人が多いようだが、既に8年前から始まっていた。2014年の暴力クーデター後に、支持率は数パーセントのネオナチ政党が、国の要職を占めるようになり、ロシア語話者を排斥しだした。ロシア語話者の多い東部と南部は、それに抵抗をし、対してウクライナ政府軍(特に外人傭兵多数のネオナチ・アゾフ大隊)は軍事進攻を開始した。

 このような背景は、西ヨーロッパの首脳陣は百も承知なのだが、ネオナチ政権に兵器を供給し続けている。アメリカの圧力が如何にあるのかは分からない。東ヨーロッパ諸国は、旧ソ連が憎いという感情が強いのは理解できるが。

 そんな中でのアメリカ主導のロシア制裁ではあるが、世界広しと言えども制裁しているのは41ヶ国に過ぎない。アジアでは日本・韓国・シンガポールのみである。岸田首相と林外務大臣が、制裁同調行脚に回ったのだが。

日本とアメリカの本当の関係

 その日本であるが、戦後はアメリカの属国となり下がり続けているようだ。昨今、日米同盟と言っているが、70年代にアメリカは日本バッシングに明け暮れていたのは、忘れてしまったのだろうか。

 かつて日米貿易摩擦が話題となり、日本の半導体王国が叩かれた。日本の最大貿易相手国は中国となり、米中貿易摩擦に日本は忘れられたようだ。かつての半導体王国も、半導体劣国となってしまっている。世界では厄介者の原発産業を、東芝と日立が買わされ、企業崩壊しだしている。その内、三菱も同じ運命になるのではないのか。

 台湾と中国本土は、密接に結びついているので、両者はお互いの紛争に最も否定的だ。が、アメリカと日本は紛争ありきで準備をしている。アメリカの思惑で、日本がウクライナと同じ目に遭い、アメリカが傍観するという事態も考えられる。

参院選2022の動向

 この『みちしるべ』が、皆さんのところに届くころには、参院選2022の結果が出ているのかもしれない。予想が外れると、みじめになるのだが、選挙戦の裏側事情を見てゆくことにする。

 ネット社会になり、TV・新聞よりもWeb情報が国民を支配しているのだろう。そのWebの在り方の中で、支配層の国民コントロールが強力になってきている。とはいえ、完全に支配層の思うようには、なり切っていない所に未だ面白いところがある。

 ウクライナ情勢で、CIAによるマスコミ情報と対立するWeb情報が結構ある。日本の左翼も右翼もCIA情報一辺倒なのであるが。「プーチン悪、ゼレンスキー英雄」と言わない流れには二通りある。日本の左派に絶望したリベラルと、そもそも右派なのに、そういう主張をする勢力である。

 トランプ元大統領がウクライナから手を引く考えであるようだ。キッシンジャーもダボス会議で、同じことを言っている。アメリカの中でも、意見が割れているようだ。対して、トランプ派は対中強硬派でもある。日本の右派でウクライナ(ネオナチ)支援否定派は、トランプ勢力の応援団なのだろうか。

 トランプ寄りで有名な安倍元首相だが、自民党最大派閥でありながら、バイデン勢力に批判的なのだろうか。維新の鈴木宗男氏は、ロシアの立場に理解を示しているが、維新自身は不正事案に明け暮れている。今秋のアメリカ中間選挙次第では、ジャパンハンドラーが、一気にトランプ派になるのだろうか。

【投稿日2022.6.17.】

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『みちしるべ』**坂本龍馬は英雄か国賊か?国際的視点から**≪2021.秋季&冬季合併号 Vol.111≫

2022年03月01日 | 藤井隆幸

坂本龍馬は英雄か国賊か?

国際的視点から

藤井隆幸

はじめに

 何だか唐突な表題ではある。中身がなくとも、読者に興味を持たせる方法として、週刊誌などが良く使う手法。くだらないか否かは、皆さんで評価願いたい。

 歴史に興味がない方でも、坂本龍馬の名を知らない日本人は少ないように思う。彼を有名、そして英雄にしたのは、司馬遼太郎だと聞き及んでいる。物語の主人公を、英雄に仕立て上げるのは別に構わない。が、それに乗っかって、行過ぎたご当地自慢になったり、商業目当てに煽り立てるのは如何なものか。

 NHKの大河ドラマで、徳川家康が主人公になると、豊臣秀吉や織田信長は悪人に仕立て上げられる。また、反対の事も起こっていたりした。作り話であるから、良しとしよう。が、視聴者はそこそこ真実として受け止めるきらいがある。

 その昔、足利尊氏が主人公の大河ドラマがあった。当然、彼は英雄に仕立て上げられた。ところが、戦前の絶対主義的天皇制の教育を受けた人たちには、違和感があったものと感じている。足利尊氏は南北朝時代に、後醍醐天皇に刃を向けたということで、国賊という汚名を着せられた教育を受けていたからである。

 歴史に誤解を持っていても、現代生活に支障はないように感じる向きもあろう。しかしである。そんな風潮に惑わされて、現実生活に迷っているのは災難ではある。

明治維新は何であったのか

 さて、坂本龍馬である。最初に断っておくが、歴史に詳しいわけでもなく、司馬遼太郎のように勉強を深くしたわけでもない。あくまでも、槍玉に挙げやすい人物であっただけで、良くも悪くも思っているわけではない。

 日本は島国ということで、近代にいたるまでは、国際的な情勢に巻き込まれることが多くなかったように思う。それはアメリカ大陸やオーストラリア大陸、それにアフリカ大陸が、植民地侵略される前の現地人らと似ているのではないか。反対に、ヨーロッパ大陸は、常に支配者が入れ替わり、国際的荒波にもまれてきた地域である。常に国際的感覚を持たざるを得なかったものと考える。

 日本では江戸時代の後半には、鎖国を解き開国を求める、列強帝国主義国の圧力が加わる。その中で開国に向かい、急速に軍事帝国主義化を推し進めることになる。その端緒に、「明治維新」という出来事があった。これをめでたいことととらえる向きが多いのは事実だろう。その名を冠した政党が出来たのではある。

 幕末の出来事を殆ど、日本人の動きだけで語られることが殆どである。しかしながら、欧米列強は東アジアの殆どを植民地化し、残る日本を標的にしていたことは間違いない。現代軍事技術では、島国を制圧することは簡単なのかもしれない。が、江戸時代の日本は、世界最強の軍事国家だったと聞く。上陸しても、一夜にして殲滅されることは、欧米列強も心得ていたものと考える。それに、識字率などは欧米列強に劣らなかった。

 そんな日本を陥れるためには、内紛を起こさせるのが良いと考えられたのではないか。漁夫の利である。イギリスは薩長連合に加担し、フランスは幕府に加担した。両者が争ったのは、ご存じの通りである。

 龍馬については色々と説がある。本当のところは迷宮入りというところか。とはいえ、脱藩した浪人が軍艦を持ち、何十人もの社員を食わせるのは、如何にして可能となったのか。様々疑問が生じるのではある。イギリスのスパイであったのかも……。

 浦賀に黒船を乗り込ませたペリー提督は、本国の南北戦争で幕末の介入に後れを取った。ヨーロッパでもクリミア戦争があり、戦後処理で日本どころではなかったのかもしれない。日本が植民地にならなかったのは、幸運な世界情勢の中であったという説もある。

 世界情勢の中で、「明治維新」を考えてみると、多くの日本人の思いとは乖離があるのではないのか。

現代日本社会の国際的視点

 話は現代社会に戻り、身近な生活問題に言及したい。世界はグローバリズムの極限で、日本国内にだけ目を向けていても、自らの生活を規定しているものが見えない。ところが、政治の世界では国際情勢が、よそ事以上に語られることがない。

 幕末に外国人の裁判権を放棄させられた、いわゆる不平等条約。その撤廃に成功するのは、半世紀を過ぎた明治になってから。それが戦後の米軍に、またも復活しているのである。

 日米合同委員会というものが、毎年行われているが、日米地位協定を名目に、日本の行政の殆どに影響を与えていると言われている。この委員会、アメリカ側のトップは太平洋軍副司令官で、日本側は外務省北米局長なのだ。

 貿易摩擦で公共事業を世界で異例の規模にさせたり、最近は軍事費をGDPの2%にせよとの圧力が。口の悪い人は、日本人は自らの生活の為には3割、アメリカのマネーゲームに吸い上げられるのは5割の労働をしている、と言っている。

 政治の世界で、このことに切り込む話は、あまり出てこない。日米地位協定には、米軍基地からの新型コロナ・オミクロン株の蔓延など、多少の意見があるのだが。

ウクライナ情勢とキューバ危機

 ところで、東ヨーロッパがきな臭い。マスコミではロシアがウクライナに進駐しそうだと大いに騒がれている。プーチンに味方するわけではないが、余りにも一方的だと感じている。

 かつてキューバ危機というのがあった。ケネディー大統領は戦争も辞さないと、キューバの上空に戦闘機を飛ばした。当時は大陸間弾道ミサイルがなく、中距離ミサイルだけであった。ソ連が中距離ミサイルをキューバに持ち込んだのだ。喉元にミサイルを持込まれたアメリカは、慌てたのだが。そもそも、イタリアとトルコに中距離ミサイルを先に持ち込んだのはアメリカであった。

 当時、ホットラインと言って、米ソに直通電話が開設されていた。ケネディーとフルシチョフは電話で話し合い、双方がミサイルを撤去することで事なきを得たのである。

 今回、NATO(北大西洋条約機構=アメリカ中心の軍事同盟)がウクライナに、ミサイルを持込む下地を作ろうとしていることに起因する。モスクワ近傍にである。バイデンはキューバ危機の事を失念してしまったのか。

台湾有事が何を意味するのか

 ウクライナは対岸の火かもしれないが、台湾はお隣の話。中国本土は台湾の経済に大きく依存している。台湾とて同じこと。最も有事を忌み嫌うのは、両者であることは間違いない。

 ところが、お隣の家庭内の問題を、ことさら介入しようという輩がいる。そう、アメリカである。ウクライナも台湾も遠い他国だからなのだろう。その尻馬に乗っかって、事を荒立てようとする日本政治家がいるのは、驚きなのである。

 台湾有事は米軍が出張らないと有り得ないことだ。そうなると、日本は戦争に巻き込まれることになる。戦闘とは別問題でも、日本の最大貿易相手国の中国と、事を構えて得をすることは100%ありえない。壊滅的被害である。自立国であれば、中台に対して平和であることを求めるのが筋であるのだが。

 なんだか、台湾有事を望んでいるような発言が、有力政治家から飛び出すのは何ということか。国民が、それほど反発していないのも不思議なのだが。本当は、怒り心頭を通り越しているのかもしれないが……。

 生きていれば、坂本龍馬に聞いてみたい気がするのだが。はたして、彼は何というのだろうか。

【投稿日 2022.2.17.】

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『みちしるべ』**10年後の私**≪2021.夏季号 Vol.110≫

2021年08月21日 | 藤井隆幸

10年後の私

編集長代理 藤井隆幸

 この『みちしるべ』第110号(夏季号)を発行するにあたって、メンバーの皆さんへ編集長代理として、お題を提供しました。毎度のこと、原稿集めに四苦八苦しています。そこで「事務連絡」の中で、原稿を書きやすいように、「10年後の情勢」という仮題を提案させていただいた次第です。

 であるならば、メンバーの一員として、何も書かないわけには行かないということで、書いてみることにしました。考えてみるに10年後に、この世に生息し続けているのだろうか? もうそんな年齢に達しているのではあります。

 死後の世界を推測するのは、臨死体験などを調査するなどの研究もあるようではあります。これに関しては、宗教の分野では多く語られているところです。が、無神論者である者にとって、また唯物論という制限の中で、死後を語るのは誠に困難なことです。

 生物が意識するというのは、その脳細胞の働きであるとされています。生物死は当然のことながら、脳細胞の死滅をも意味します。したがって、死後には自らの意識もろとも、消滅するということになります。今、意識のある自分の思考というものが、死後は無くなるということ。考えにくい現象ではあるのですが……。

 さて、そう言ってしまえば、何も書くことが出来ません。自らの意識が消滅した後の世界を論じることになるかも知れないからです。しかしながら、人は社会性の動物です。個人主義という思想もあるのですが、さりとて社会を構成する一員であることに変わりはありません。社会とかかわり、その制度の中で生きているのです。

 そうすると、自らが消滅したとしても、残った社会に生きている人がいるわけです。特に、子や孫に対する思いは、特段のものがあることでしょう。その意味では、生きていようが亡くなっていようが、その社会を議論する価値はあろうかと思います。

 住んでいる近くに、規模も大きく有名な公園があります。また、小学校もあり、幼い子供さんを見ることが多くあります。歳のせいか、やたらと可愛く感じているこの頃です。コロナ禍でマスクをしているので、微笑みかけても判らないみたいですが、目が合うと手を振るようにしています。子供さんの反応は、とても癒されます。

 この子たちが将来にわたって、幸せであってほしい。そう願うのは、人類の社会性からくるものでしょう。自らは消滅しても、将来を構成する同胞が、豊かに生息していることを願うもの、それが社会的動物の本能なのでしょう。一寸の虫にも五分の魂と言いますが、生物には死ぬことを回避する本能があります。だからこそ、種を保っているのだと思います。社会性の動物は、自らの直系の子孫だけではなく、社会全体の生息を心しているものと思います。

 『みちしるべ』では、そんな社会に対するご意見が、多々論じられてきました。現在のコロナ禍、その中で行われようとしている東京五輪・パラリンピック。結果は、この号が発行される時には、既に出ているのかもしれません。

 我々団塊の世代は、「戦争を知らない子供たち」でした。が、阪神淡路大震災や東日本大震災を経験しました。日本では「バブルの崩壊」、世界的にも「リーマンショック」がありました。そして、コロナ禍。米中の対立が論じられています。

 経験に学ぶのではなく、歴史に学ぶという観点に立てば、何が言えるのかが焦点なのだろうと思います。ITやAIの急進的発展とともに、GAFA(Google Amazon Facebook Apple)が巨大化し、富の集中と貧困の進化が問題になってきています。これを肯定的にとらえず、Big9としてG-MAFIA(Google Microsoft Amazon Facebook IBM Apple)とBAT(Baidu Alibaba Tencent)という向きもあるようです。

 団塊の世代は若者より、多くの経験をしてきました。しかし、それは人類の歴史からすれば、ほんの瞬きにすぎません。今の人類社会の在り様は、人類史上に如何に位置づけられるのでしょうか。

 我々が肌身に感じている歴史は、明治以降の近代史でしょう。その近代史に対する思い込みも、何だか怪しくなってきています。坂本龍馬が英雄視されていますが、列強のスパイであったとも指摘され出しています。福沢諭吉は壱萬円札ですが、ヘイト論者であったことも見えてきています。

 もっと身近に感じている歴史は、戦後だと思います。一時、戦後のアメリカ帝国主義支配の日本が語られていましたが、昨今、野党でさえ語らなくなっています。今でこそ、世界各国の映画が話題となっていますが、日本で映画と言えばハリウッド映画。かつて、TVでは西部劇・ナチス対米軍戦争映画・アメリカホームドラマが、お茶の間を賑わしていました。

 我々の頭の中の歴史観、価値観に客観性はあるのでしょうか。働くということは生きる術を得ることです。本来、楽しいはずの労働が、そうならないのは何故なのか。働きたくても働けないのは、おかしな現象です。分業による労働の価値の分配に、異常な不平等が起こっています。それも、天文学的不平等。

 アメリカンドリームは、理想的だったのでしょうか、それとも悪夢だったのでしょうか。2度の大戦で唯一戦場にならなかった列強のアメリカは、戦後の世界的富の多くを取得していました。が、今や世界最強の債務国。経済規模でも中国に抜かれ、徐々にその差をひらかれていて、勝負は決まっているようです。

 日本はと言えば、4000万人の韓国に、1憶2千万人で、グロスのGDPでは大きいのですが、一人当たりのGDPでは抜かれているか寸前です。コロナ禍の対応でも、欧米だけでなく急成長国などにも、及ばない日本が見えてきました。

 かつて、日本の海外団体旅行が「農協さん」と揶揄されたり、若い日本女性が「イエローキャブ」(米国タクシーが黄色であることから、誰でも乗せるという比喩。)と蔑まれてきました。今ではフォードは大衆車で、レクサスが高級車となっています。

 嫌中・嫌韓のヘイトがまかり通る日本ですが、その内、レクサスも彼らから大衆車と言われる時代が来るのは、そう遠くないように思われます。アメリカによる対中包囲網に加担する日本ですが、日清戦争当時と逆であることは確かなようです。

 経験則に過ぎない、目の前のニュースに右往左往するのではなく、歴史的大局から、立ち位置を見直す時代になっているのではないでしょうか。戦後の価値観にとらわれているのですが、その価値観が通用する時代から、何が変化しているのか、見直すことも大切ではないでしょうか。

 ここに編集長代理として、お題を提供した一つの責任を果たしたように思います。それというのも、『みちしるべ』2008年7月号(Vol.53)に三橋雅子氏の「私が総理大臣になったら」という記事が載ったことがありました。この記事だけであったら、違和感を覚えた方も多かったように思います。

 実は、この号が発行する前の例会で、各自で総理大臣になったとしたら如何するのか? というお題が出された。書かれたのが三橋氏だけだったので、違和感を抑えるために、当時の編集長の澤山輝彦氏が、注釈をつけておられました。

 はたして、今回のお題提供に、何人の方が応えてくださるのか。お独りだけだった場合の為にも、責任は果たしておかねばならなかったというわけです。メンバーの高齢化とともに、執筆者も少なくなっています。かつて、投稿された方が多かった頃は、「頂いた原稿は没にはしません」というのが売りではあったのですが……。

【投稿日】2021.6.7.

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『みちしるべ』**編集部より**≪2020.冬季&2021.春季合併号 Vol.109≫

2021年04月24日 | 藤井隆幸

編集部より

 緊急事態宣言が解除されたかと思ったら、まん延防止等特別措置が発令されました。コロナ禍の第4波が来たとも言われています。長引く事態に、慣れたと言えども無事にお過ごしでしょうか。

 今号(109号)は、2020年冬季号と2021年春季号の合併となってしまいました。コロナ禍のせいにすれば、言い訳になってしまいますが、例会の中止も繰り返され、活動が停滞していることも否定できません。

 皆さんからの投稿も、頂いてから時間が経ちすぎて、印刷・配布の時点では、時間のずれを感じないこともありません。大変申し訳ない事態です。今後、記事を書かれた日付を入れるなど、工夫をしてゆきたいと思います。

 これに懲りず、原稿を頂けるよう、よろしくお願いします。

編集長代理 藤井隆幸

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『みちしるべ』**道路を造る時代から撤去する時代へ**≪2020.冬季&2021.春季合併号 Vol.109≫

2021年04月20日 | 藤井隆幸

道路を造る時代から撤去する時代へ

藤井隆幸

 中核市である西宮市には、三つの鉄道がある。JR神戸線・JR宝塚線・阪急神戸線・阪急甲陽園線・阪急今津線・阪神本線・阪神武庫川線の7路線である。駅の数は21もある。そのなかでも、マイナーな駅が阪神香櫨園駅である。各駅停車しか止まらないと思われがちだが、日曜・祝日の朝には数本の区間特急が止まるのではある。西宮市の中でも、夙川沿いの夙川公園は桜の名所で有名なのだ。そんな夙川の上に設置された駅である。

 さぞ駅周辺は奇麗であろうと思われるかもしれない。ところがである。確かに阪神高架事業に伴い、香櫨園駅周辺も何かとお金をかけて整備されたのは事実だ。造られる時はお金をかけるのだが、メンテナンスにはお金をかけないというのは、道路事情と似ているところがある。

 駅周辺の管理部門が複雑に入組んでいるというのも、管理が行き届かない原因でもある。阪神電鉄の管理部分、二級河川である夙川は県の管轄。夙川公園は市の公園課の管理。県道と市道があり、それぞれの所管である。一部の植え込みが住民の苦情からか、手入れされたのであるが、1m隣の小さな空き地は、灌木が生えて通路を塞いでいるといったところだ。

 昨今、「向こう三軒両隣」と言うのは死語になったようだ。向かいの三軒と、自宅の両隣の前の道は、気がついたら自宅前だけではなく掃除するという風習である。世間が忙しくなったのか、自宅前でさえ道路は掃除しないのが一般化しているようだ。仕方がないので、我らロートルが雑木の撤去や掃除をすることになっている。

命に係わる道路の保全ができていない

 まっ、香櫨園駅周辺が汚い、通行に邪魔な雑木・雑草が茂っていても、命に直結することはまれではあろう。が、道路の橋梁やトンネルの老朽化は、人身事故にかかわるのだ。8年前の2012年12月2日の中央自動車道、笹子トンネルの吊り天井落下では、9人が死亡した。

 この事故をきっかけに、国土交通省は全国の橋梁・トンネルの総点検を実施した。全国730,000ヶ所のうち、メンテナンスが必要とされた橋とトンネルは約73,000ヶ所。このうち6割に上る約45,000ヶ所が放置状態である。

 特に地方自治体では、圧倒的に予算不足が問題になっている。昨年の豪雨水害で、熊本県の球磨川では10橋が流されたが、いまだに復旧していない。地方道の橋梁のうち、通行止めになっているのは2008年に977ヶ所。2018年では2,901ヶ所と3倍近く。

現存する橋梁やトンネルを廃止する時代に

 今後、少子高齢化で税収が大きく落ち込むことが確定している。そんな中で、道路の維持管理費は、今後30年間で最大76兆円余りかかると国土交通省は試算した。年間2兆5,000億円余りかかる計算になる。

 国土交通省の来年度の道路関係予算要求は4兆8,286億円である。その中でメンテナンス費用は8,000億円程度である。地方単独事業と言う、地方自治体が国の補助金なしで独自に賄う道路予算は含まれていないが、国の予算(概算要求)の半分程度しかない。メンテナンス費用の割合は、国とそれほど変わらないと思われる。

 NHKのアンケートに答えた自治体では、管理している橋やトンネルを減らしていく必要性が「ある」と回答したのは全体のおよそ8割とのこと。高度経済成長期に造られた多くの施設は、今後、加速度的に改修にかからなければならない。国の補助金を見込んでも、必要額の足元にも及ばないのが実情である。

 つまり、今ある橋やトンネルを、賞味期限切れを機会に、次々に廃止する必要があるということだ。ただ、明石海峡大橋のような航路の要衝に位置する橋は、建設費の倍に相当する撤去費用を要する。賞味期限は70年という説があるが、そう先の事でもなさそうだ。

道路を撤去する時代に抵抗勢力とは

 あれば便利という単細胞的発想で造られた、山手幹線の武庫川大橋。これなどは、後世に最も批判される事業の一つになることは間違いない。神奈川で外郭環状道路を、住宅地の大深度地下(地上から40m以下)で掘り進み、陥没や巨大空洞が複数発生している。これなどは、今すぐ廃止すべき典型的な道路であろう。

 橋梁やトンネルの改修事業は、新たな建設事業に対して規模が小さい。道路族議員のキックバックも少ないという背景がある。庶民にとって、そんなに懐を肥やして、棺桶に足を突っ込んだ際に後悔するだろうと思うことではある。ところが、この手の生き物は、庶民の常識を理解できるのはあの世に行ってからなのである。

 そろそろ庶民は、こんな政治屋家業の面々に、票を入れるのを止めなければならないのだろうが。オレオレ詐欺同様、庶民を丸め込むのは、頭が悪い割には長けて居るのだ。 

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『みちしるべ』**自転車の交通法規上の曖昧さ**≪2020.秋季号 Vol.108≫

2020年11月20日 | 藤井隆幸

自転車の交通法規上の曖昧さ

藤井隆幸

自転車と自動車の保有台数

 自転車の日本社会での位置は、如何なるものになるのだろうか。自動車と比較して、どれほどの存在感があるのだろうか。


 
 1995年に自動車が自転車を超している。資料が古いので2013年までである。自動車は低迷しているのに反して、自転車の増え方が勝っているようにも見える。交通手段としては、自動車に劣らない存在感であるのが理解できる。

自転車の手軽さと安全性の不安定さ

 しかしながら、その自転車における規制の在り方は、まことにお粗末と言うほかはない。無法状態と言っては問題が起こるだろうが、現実の事故に対して、多くの懸念が言われているのも事実だ。

 信号無視、夜間の無灯火、歩道上の暴走、スマホ見ながら運転、右側通行、などなど。無謀運転は常態化しているのである。近年、急速に普及した電動補助自転車は、脚力がなくてもスピードが出るので、法規を無視した暴走が顕在化している。高齢者が脚力の衰えでも、何とか前進できるので、電動補助自転車を利用しているのも多いが、歩道の右から左まで振れながら動いているのも危険ではある。

 自転車は原則車道とは言うが、自転車が安全に車道を走行できる道路は、日本においては殆どない。自動車の性能が増々向上する中で、反比例して運転者の技能低下は、そのことに深く関係している。

 自転車が歩道を走行することに、現実に異論を唱えられない現実がある。とは言いながら、自転車運転の法規無視も甚だしいのではある。

法令制定の遅れは自動車中心主義の弊害

 この標識は一方通行を示すものである。が、下の「自動車・原付」のプレートが付いていなければ、自転車も一方通行を守らねばならない。しかし、法的には車椅子も乳母車も人も一方通行を守らねばならない事になる。

 現場の交通関係の警察官でも、プレートが外れているのか、すべての交通が一方通行なのか、調べなければわからないのである。現実の交通法規が、合理的になっていないのが現実である。

 自動車に関する交通法規は、ソコソコ徹底しているのではあるが、自転車に関しては曖昧模糊と言うのが現実だろう。

 自転車も車両である限り、道路交通法に規制されるはずである。が、夜間の点灯に関して、道路交通法の規定は、

道路交通法 第三章【車両及び路面電車の交通方法】第五十二条(車両等の灯火)車両等は、夜間……、道路にあるときは、政令で定めるところにより、前照灯、車幅灯、尾灯その他の灯火をつけなければならない。

となっているが、自転車に「車幅灯」は装備されていない。自転車の灯火については、兵庫県条例で規定されている。

兵庫県の条例・規則 第17編 警察/第8章 交通 【兵庫県道路交通法施行細則】第2章【車両の交通方法】(軽車両が道路を通行する場合の灯火)第6条 ……軽車両がつけなければならない灯火は、次の各号に掲げるものとする。
(1) 白色又は淡黄色で、夜間前方10メートルの距離にある交通上の障害物を確認することができる性能を有する前照灯
(2) 橙色又は赤色で、夜間後方100メートルの距離から確認することができる性能を有する尾灯
2 軽車両が夜間後方100メートルの距離から……前照灯で照射した場合にその反射光を照射位置から容易に確認できる橙色又は赤色の反射器材を備え付けているときは、……尾灯をつけることを要しない。

夜間灯火に関してだけでも、道路交通法の車両にもかかわらず、自転車の規定は定められていない。すべての都道府県条例を精査したわけではないが、罰則も行政処分も規定されていない、お願いのような条例でしかない。

存在感を増す自転車の交通法規整備が求められる

 電動補助自転車などが増える昨今、自動車だけに限った交通法規を見直す時代になっているのではないか。兵庫県では自転車の強制賠償保険(自動車でいう)のような条例が施行されている。自転車による死亡事故もあるのだから、国による法規の制定は必要なのだろう。

 法律が施行されても、人々が守るとは言えないのは、飲酒運転撲滅運動を見ても容易に理解できる。小学校などでの教育が重要なのではないかと考える。ドイツでは、ゴミの分別を小学校で徹底して教育しているとのこと。親は子供に対する面目もあって、ルールを守るようだ。また、判らない分別は、子供に聞く様である。

 幼児期からの交通ルールの徹底は、効果が大きいと思う。罰則強化や取締りと言うのは、あまり感心しないのではある。駅前駐輪の改善は、駐輪場の整備で大きく改善している。自転車交通の施設整備も、急務のように考えている。

 ヨーロッパでは自転車の利用も多く、マナーも良いと聞いている。それは自転車交通環境の整備が徹底しているからだと思っている。自転車ごと電車に乗れるところもあることや、歩道とは完全分離された自転車道の整備もされているようだ。

 脱CO2を考える上でも、電気自動車では不十分で、可能な範囲であれば自転車は有効ではある。ただし、男性高齢者は前立腺肥大にご注意を!

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『みちしるべ』**山川泰宏さんを偲ぶ**<2020.春季号 Vol.106>

2020年07月11日 | 藤井隆幸

山川泰宏さんを偲ぶ

編集長代理 藤井隆幸

 「阪神間道路問題ネットワーク」の歴史は、1995年5月25日に砂場徹さん(初代代表)のお宅に、5人が集まって準備会を始めたのがきっかけでした。7回の準備会を経て、「阪神間道路問題ネットワーク」として正式に例会を始めたのが1996年1月14日、芦屋の翠ヶ丘集会所。そして1999年9月に交流誌『みちしるべ』を創刊しました。

 四半世紀の経過の中で、多くの仲間の皆さんを見送ることになりました。今回は、【甲陽線地下化を考える市民ネットワーク】事務局長、【神戸市民交流会】(震災・災害ボランティア団体)事務局長、【神戸・心絆】(神戸市民交流会の後継)会長の山川泰宏さんです。

 『みちしるべ』104号(2019年・秋季号)をお読みの方は、「がん告知を受けて」を氏が書かれていますので、大方の経過はご理解いただけるものと存じます。ご家族からの会葬のお知らせを5月上旬に頂き、知ることとなりました。既にE-mailで訃報のお知らせはさせて頂いておりますが、改めてのお知らせとなります。

 体調を崩されるまでは、よく例会にもご参加いただいていました。いつも缶ビールをご持参いただいて、皆で楽しくいただいたのも過去の記憶となりました。『みちしるべ』をご自宅にお届けするのは、ルートの都合から、いつも深夜になってしまい、お会いすることがかないませんでした。3月頃からは、新型コロナウイルス感染症の関係で、例会も中止を余儀なくされ、お会いすることもお見舞いも出来ず、悔やまれる次第です。

 山川さんは例会にご参加されても、これと言って楽しいお話や冗談を言われることは、殆どありませんでした。しかし、駄洒落好きな仲間の話には、穏やかに笑って付き合っていただいていたのが印象的でした。

 発言される内容は、いつも真剣で重みのあることでした。頑固なほどに忍耐強く、最後までやり遂げる姿勢は、見習うべきものだと思っています。甲陽園線(阪急電鉄)地下化問題(道路事業)では、当局が当面は断念し、運動から殆どの市民が退く中でも、亡くなるまで頑張っていました。

 兵庫県下の環境ネットワークの「エコクラブ」が主催する、全県の二酸化窒素カプセル調査を、最後の一人になって、体力的にもつらいと言いながら、亡くなるまで続けておられました。

 山川さんと言えば、震災・災害ボランティアが切っても切れないものです。阪神淡路大震災から、その活動は始まり、豪雨災害、特に東日本大震災では、病を押して最後の現地支援を行われていました。

 この活動は当初【神戸市民交流会】として行われていたのですが、メンバーの高齢化で解散するも、【神戸・心絆】を立ち上げて、活動を継続されました。このあたりが、山川さんの頑固なまでの忍耐強さというか、実直な一面を現していると思います。

 そんな性格の中でも、先に亡くされた奥様との仲の良さは、甲陽園線地下化ネットの前川協子さんから聞かされていました。この『みちしるべ』にも40本の原稿を投稿いただき、編集長代理としましては、とても助かっていました。原稿のみならず、日々の活動をE-mailで頂くことも多く、その中で奥様の写真が数多くありました。お会いすることは無かったのですが、いつも一緒に写っていて身近に感じたものでした。

 聴くところによれば、日福豊中教会に通われるクリスチャンであるとのこと。それが山川さんの優しさなのかどうかは、よく分かりませんが、行政にはっきりとモノを言う反面、人々への穏やかな思いやりは、人後に落ちないものでした。

 コロナ禍の昨今、交流がままならない中でのお別れが、とても残念で仕方がありませんでした。

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『みちしるべ』**安全より政官財癒着の利権優先の道路政策**<2019.冬季号 Vol.105>

2020年02月24日 | 藤井隆幸

安全より政官財癒着の利権優先の道路政策

藤井隆幸

 2019年8月24日の朝日新聞Web版のニュースに、以下のような記事があった。

修繕必要な橋やトンネル 7割が未着手

 全国にある橋やトンネルのうち、5年以内に修繕が必要なのは7万3000か所余りに上り、このうち7割ほどが修繕に着手できていないことがわかりました。特に地方の自治体に多く、費用や人材の確保が課題となっています。
平成24年、山梨県にある中央自動車道の笹子トンネルで天井板が崩落し9人が死亡した事故を受けて、国土交通省は橋やトンネルを管理する自治体などに、平成26年度から5年に1度の点検を義務づけています。

 その結果、ことし3月までの5年間に全国およそ72万8000か所の橋やトンネルの点検がおおむね終わり、今回初めてその内容がまとまりました。

 それによりますと、次の点検が行われるまでの5年以内に修繕が必要とされたのは7万3000か所余りでしたが、このうち7割ほどにあたる5万6000か所余りでは修繕に着手できていないことがわかりました。

 内訳は、橋が5万3600か所余り、トンネルが2800か所余りで、特に都道府県や市町村が管理するもので修繕が進んでいないということです。

 背景には、費用の確保が難しいことや、専門的な技術を持つ職員の減少などがあるということで、国土交通省は「交付金や補助事業に引き続き力を入れるとともに自治体と連携して必要な修繕を進めていきたい」としています。

 2020年(令和2年)度の国土交通省道路局の予算を見ると、地方単独事業の内容がどこにも記されていない。従って、国の直轄事業と地方に対する補助事業、それに有料道路(主に自動車専用道などの高速道路)事業を見ることにする。

 直轄事業は1兆5795億円、補助事業は7945億円、有料道路事業は2兆5419億円、その他1448億円、合計5兆607億円である。直轄事業の内、維持補修費用は3945億円(25%)で、補助事業では3857億円(49%)でしかない。この中には、舗装のやり直しなどを含む。有料道路事業は不明である。

 新聞記事にある「修繕が進んでいない」のは、国の予算に表れていない地方単独事業が中心であると考えられる。昨年(2019年)4月1日現在、高速道路は約9,000km(0.7%)で、国道は55,700km(4.5%)、都道府県道は129,700km(10.6%)、市町村道は1,030,400km(84.1%)である。地方単独事業は、その殆どが市町村道であることから、深刻さは理解できる。

 維持補修事業は比較的大きな予算を伴わない。対して新設道路は、莫大な予算を占める。東京オリンピックなどという事情で、大規模建設事業にシフトしている。このようなイベントなどの出来事は、半世紀以上継続しているのが実態だ。考え直す時代に、既に突入しているのではあるが、国土交通省の予算を見る限り、命に係わる維持補修は実態を伴ったものとは程遠い。

 町村道など維持補修に必要となる橋梁は、少ないだろうと思われるかもしれない。しかし、高速道路が町村道を分割してしまうことは多くある。生活に支障があるので、谷状に分割された部分に、高速道路建設費用で、何億円にもなる立派な橋が建設される。この橋は、高速道路完成の暁には、町村に譲渡されてしまう。点検と維持管理は、町村の地方単独事業となってしまう。

 町村にとって技術も予算もない、このような今すぐ対策が必要な橋梁が、高速道路の上には、全国に200ヶ所以上存在する。コンクリートの破片が落下すると、下を走る高速道路では重大事故になる可能性があるのではあるが。そのような状態が現在進行しているのは、多くのドライバーには知らされていない。国土交通省は、またまた「想定外」だったというのであろうか?

 

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『みちしるべ』**自動車のヘッドライトと自転車のLEDライト**<2019. 秋季号 Vol.104>

2020年01月03日 | 藤井隆幸
自動車のヘッドライトと自転車のLEDライト

藤井隆幸
 
 普通乗用車と自動二輪の運転免許は持っているが、もう何年も運転していない。最近、ハイブリッド車など、マイコン制御装置がやたらと多い車が主流となった。どうすれば運転できるのか判らない。高齢者の事故が多くなった昨今、次の免許切り替えは、しないでおこう。それまでは身分証明書というところ。
 
 先頃、10年も世話になった自転車を買い替えた。チェーンが伸びて、後輪の車軸を一杯下げても、チェーンケースを擦る状態になった。チェーン交換を自転車屋さんで相談すると、ペダルのクランクのベアリングが消耗し、クランク軸がガタついている。もう買い替えですよ、と言われてしまった。
 
 自転車は仕事でも日常生活でも、非常によく使っている。年間4000kmは走行しているのではある。6000kmも走っていたころもあった。前後のタイヤは、合計10本ほど交換してもらった。車体買替の値打ちはあったのだろうとは感じている。
 
自転車に乗っていて感じる交通マナー
 
 40年ほどはマイカーを持っていて、毎日のように乗っていた。時代とともに、道路状況も変わり、誰もが自動車を運転する時代になった。交通量も多く、とんでもない運転も多くなった。
 
 あおり運転の厳罰化が検討されている。そもそも、運転適性がないのであるから、免許を与えること事態がおかしい。近年のスマホ操作中の運転で、事故が多発している。これも厳罰化が言われているが、完全に病気というしかない。
 
 自転車とて、インチキ自転車(アシスト電動車)が普及し、暴走運転が顕在化している。また、普通の自転車なら、とても前進させられないというお年寄りが、右に左に揺れながら、トボトボと走っているのも目にする。
 
 高校の下校時に、校門から出てくる大量の自転車には、閉口したことがある。歩道の完全占領というのか、しばらく停車して待たねばならなかった。また、脚力がないのに、若い子たちは立ち漕ぎで、暴走する。立ち漕ぎでは体重が限界の力である。ハンドルを引っ張る力と体重を加えた運転には、とてもかなわないのであるが。
 
自動車のライトの使い方
 
 運転マナーについて書けば、10頁でも書けそうではあるが、今回はライトの使い方にとどめておこう。
 
 朝食をとりながら、ラジオを聴いていることが多いのだが、交通安全を言っていることが多い。その中で、早めのライト点灯やハイビームの有効活用を言っている。冬季は日没が早い。法令では日没から日の出まで、運転中は車の前照灯の点灯が義務付けられている。信号待ちなどの一時停止の間も、前照灯は点灯しておくのが法律だ。日没前から点灯するのは、異議のないところではある。
 
 ところで、ハイビームの有効活用であるが、これには異議がある。法規では、対向車や前走車がないときは、ハイビームにするとなっているらしい。しかし、歩行者や自転車も、ハイビームには幻惑されて、とても危険になる。
 
 そもそも、交通事故が起こらないのは、車の運転手の注意力と、被害者となる歩行者や自転車の注意力の総合力である。個人的には、今の交通事情では、歩行者や自転車の危険回避の方が、安全に貢献していると思う。それだけ、車の交通事情が悪化していると思われる。
 
 であるならば、街中で車のハイビームが許される場合は、99.99%有り得ない。友人の多くも、ハイビームなど使うことはめったにないという。それでなくとも、車道が歩道より1m以上高くなっているところでは、対向車のロービームでも、歩道では前方が全く見えなくなる。とても危険な状態だ。
 
 警察がハイビームの有効活用を言うわけは、法規にあるようだ。ハイビームは100m先まで照射し、ロービームは40m先までしか照射しない。安全な制動距離を確保しても、その距離を視認しなければならない。が、街中では40km/hの制限であるから、制動距離としては充分なはずだ。高速道路でも、街路灯が整備されており、ハイビームの必要性はほとんどない。
 
 法規の見直しが必要になっているようだ。
 
自転車のLEDライトの事情

 無灯火自転車の多いことには問題がある。街中は結構明るいので、本人は必要性を感じていないのかもしれない。が、事故回避は運転者の努力だけではなく、むしろ周囲の努力の方が上回る。無灯火の自転車は、周囲からは極めて判りづらい。
 
 最近売られている新車の自転車は、殆どが自動点灯のLEDライトである。無灯火であるのは、古いものか中古のものだけではあろう。が、多いのには困ったものだ。
 
 ところで、LEDは低電力で明るい。発電機も当然、軽くなる。前輪軸内装の発電機は、全く抵抗がなく、ペダルへの負荷はない。また、偽物自転車(アシスト電動車)は、バッテリーで点灯するので、これまた抵抗負荷はない。
 
 それは良かったのではあるが、LEDライトの光は指向性が強く、直接眼に当たると健康を害する。それに、偽物自転車は特に強力なライトである。自動車のように照射角度に規定は無いようで、結構上向きで点灯しているものが多い。
 
 自転車は免許がいらないので、交通ルールを知らなくても、何の心配もなく使用されている。しかしながら、自転車も車両なので、交通ルールを守らなければならない。そして、自転車のライトの角度は道具も工具もなく、手で数秒の努力で調整できる。マナーとして、5m程度先の路面を照らすよう、調整してほしいものである。
 
 自転車のLEDランプでも、水平より上向きで対向してくると、とてつもなく障害になる。事故を誘発するだけでなく、他者の眼の健康を害するのであるから、これも法的処置があってもよさそうである。

 自転車愛好家としては、まだまだ書きたいことが一杯ありますが、とりあえずはこの辺で、一旦終わることにします。

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『みちしるべ』**道路ができたら便利という意見について**<2019. 秋季号 Vol.104>

2020年01月02日 | 藤井隆幸
道路ができたら便利という意見について
 
藤井隆幸
 
 道路が近くにできるという場合、付近の住民運動は反対でまとまる。特に大型幹線道路であったり、高架高速道路である場合は、その反対運動は強力になる。住み続ける住民にとって、環境悪化は避けられないものであるからだ。

 しかしながら、環境悪化影響がない人々などから、便利になって良いのではないかという意見が、当然のごとく言われるのではある。実際のところ、ある意味で、その意見には間違いはなく、住民運動をする者からは、難儀な課題となるのではあろう。

 この問題をいかに解決するべきなのか、戦後の日本史を紐解きながら、考えてみるのも大切なことと思う。

歴史的な観点から

 日本の近代史を見るうえで、明治維新の大転換は重要な事柄である。欧米の言うままに開国してしまった結果、富国強兵が急務となってしまった。ここで明治政権が考えた交通機関は、鉄道網の整備であった。馬車交通さえ禁止していた江戸時代の遺産で、道路交通網は歩行しかできないという実態であった。
 
 結果は終戦後、日本は世界に稀な鉄道王国であった。日本各地に幹線鉄道が敷かれ、都市部には路面電車が網羅されていた。日本国中どこへでも、鉄道で誰もが行くことができた国なのではあった。
 
 ところが戦後日本は、公共事業天国という、世界でも特異な経済国家となった。第一次・第二次世界大戦で、本土が無傷であった列強はアメリカだけ。ヨーロッパと日本の復興で、アメリカ資本はぼろ儲けをしたのは知られていない。

 世界銀行を牛耳るアメリカの巨大銀行は、戦後復興にサラ金の貸し付けをし、巨額の利益を上げてきた。特に日本では、鉄道のおかげで必要なかった道路網の未整備に着目したというのが、巨大銀行の着目点であったろう。
 
 現在でも、ご近所に道路計画が持ち上がると、必ず昭和21年(1946年)の都市計画決定である。日本が施政権を取り戻したのは、昭和27年(1952年)であるから、GHQの決定であったのは言うまでもない。それも、戦前の軍国国家日本の都市計画法で決められたのではある。
 
 日本は高度経済成長の中で、対米貿易黒字を拡大してきた。アメリカは「貯蓄投資バランス論」という、今では相手にされない理論で、対日貿易赤字を抑えるためと、日本の公共事業の拡大を押し付け続けてきた。田中角栄以降、財政を左右できる政治家がいなくなり、財政の硬直化が生じた。公共事業費の7割は建設省、その4割は道路事業として固定された。詰まり、必要かどうかは別に、公共事業の28%は道路を造り続けなければならないのである。
 
道路の費用対効果
 
 国家の計画をする場合、歳入と歳出を考えなければならない。それが歴史的経緯で、固定化されているのが災いの元である。道路ができたら便利であるという理論だけだと、国土のすべてを道路と駐車場にすればよいのではある。
 
 日本の最大産業である自動車業界は、放置すればそれを実現するだろう。道路住民運動は、その程度の馬鹿さ加減に、理性を与えている必要性を尊ぶべきだ。
 
 B/C(benefit効果/cost費用)が民主党政権下で発案された。多くの高速事業がお蔵入りしたものだった。が、自民党政権に戻って、それらはゾンビのごとく蠢き出した。北海道の道路を造るのに、沖縄の交通渋滞解消の効果という、馬鹿げたことも言ったりしている。
 
 道路を造る計画段階でのコストが、完成後は10倍にもなるのは、計画段階でのB/Cを意識したものであることは間違いない。工場の一部を土地買収するときに、その地価だけを計上する。が、その工場プラントの総てを建て替えなければならなくなる。工場側と道路建設側では、内々の話はまとまっていたりする。
 
 そもそも、自動車一台当たりの、その所有者が払わない社会的費用(主に税金)は、1000万円になるという。車のオーナーが自覚しているとは思わないが。この道路ができたら便利と思う人は、その費用を100万円払ってくださいと言われたら、誰も造ってくれとは言わないはずだ。
 
 高度経済成長下で造られた道路の修復費は、道路建設費の何倍にもなっているという。が、費用がないから放置している状態である。世界では高架道路の崩落などが起こっているが、日本でも対岸の火ではないのではある。笹子トンネルの天井崩落事故は、まだ記憶に残るところだ。
 
 それでも便利になるという意見が、それほどまともとはとても思えない。

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