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『みちしるべ』 by 阪神間道路問題ネットワーク

1999年9月創刊。≪阪神道路問題ネット≫交流誌のブログ版。『目次』のカテゴリーからの検索が便利。お知らせなども掲載。

『みちしるべ』西庄さん御免ね**<2003.1. Vol.21>

2006年01月08日 | 前川協子

西庄さん御免ね

前川協子

 あんなに元気で朗らかに逞しく、道路ネットの牽引役だった西庄さん。突然に貴方の御訃報を知った十月例会の帰りには、いつものように仲間の寄り道にもついていけず、私は独りホロホロと秋の黄昏道を帰って行きました。知らなかったとはいえ、お葬式にも行けなくて御免ね。きっと、どんなにか辛く悲しい日々があったのでしょうか。相談相手にも頼りにもなれなくて御免ね。

 私は凄いショックで悲しいよ。住民運動をしている者は、その孤独と苦しさを凌ぐために、苦労を分かち合い、助け合うためのネットワークと思ってましたから。何の支えにもならず、お別れもできなかったなんて、余りにも辛いことです。

 タフガイだった貴方の挫折は、台風に倒れた巨木のように惜しまれます。長い間お疲れ様でした。総ての枷から解き放たれて、御魂よ、どうぞ貴方の人生を賭けたあの思いでの水辺で、ゆっくりとお休み下さい。

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『みちしるべ』「ムツばあさんの花物語」を見て――足下の過疎――**<2002.9. Vol.19>

2006年01月07日 | 前川協子

「ムツばあさんの花物語」を見て
――足下の過疎――

前川協子

 NHKテレビで去る8月29日の夜に放映された“にんげんドキュメント「ムツばあさんの花物語」”は素晴らしかった。秩父山中の過疎地に住むムツさん夫婦を中心に、僅かな近隣のお年寄り達の暮らしを1年ほどかけて撮ったものだが、自然の美しさと人々の温顔は、さながら桃源郷である。時折、画面から聞こえてくるカメラマンのソフトな話かけも優しく暖かく、都会人が心魅かれる自然や素朴な人々の出会いで、かくも同化されてくるのかと心が和んだ。ムツさん夫婦は炭焼きと養蚕で生業を立ててきたのだが、社会の近代化と自身の老化には勝てず、近年は永年培ってきた段々畑を自然の山に戻すべく、それも後世の人達に喜んで貰えるような花盛りの山にして返そうと、懸命に植樹に励んでいるのだ。ほぼ1年を経た今年の春から夏にかけて、折々に咲く見事な花々は過疎地の山や道の辺りを華やかに彩り、ムツさんは手塩にかけた花々を「可愛い、可愛い」と慈しむ。

 彼女の風雪に耐え、苦難を超越した風貌は、どんなクローズアップにも揺るぎなく、そのおおらかな自由さも含めて、私はまるで仏像に感じるような救いと憧れの念を抱いた。そしてごく最近、市民運動絡みで仲間と共に面会した保守系の某議員が苦笑まじりに「予算を決めるのは族議員です」と、自身の力が及ばない本音を漏らすのを聞いていたので、なるほど、人相と清廉さは相伴っているのだと改めて認識を新たにした。と同時に人間は分相応の謙虚な生き方をしないと面に顕れて恥ずかしいこともよく分かったので自戒したい。それにしても、あんなに天真爛漫なムツさんのドキュメント・タイトルに「ムツばあさんの花物語」と名付けたのは何故か。「ムツさんの花物語」とした方が、明るいイメージでトレンディなのに…。でも私はそこに制作者の意図を汲む。取材して、きっと過疎地の老人福祉の問題を考えずにはいられなかったのだろう。現にムツさんが過労で入院した後の夫の公一さんの様子や一人暮らしのヨネさんが骨折入院した経過等を見ていると、善意や自立だけではどうにもならない限界があった。これは例えば、斜面の町の甲陽園でも言えることだ。夜間の往診がお断りだとか、駅や買物に出かけるにもタクシー頼りと聞くと、時を構わずなり響く救急車のサイレンも他人事ではない。西宮市の幹部が本会議場で「建設予定のJR夙川駅には、将来的に人口も減り、車両も減るのでロータリー広場は不要」と答弁したり、知事が会見の席で「私鉄乗客数は減少している」と発言しているのを聞くと「では巨額の補助金による道路建設や甲陽線の地下化は何の為?」と疑問に思ってしまう。老人達が次代につなぐ自然保護を社会奉仕で続ける限り、花畑の中の孤独死を見逃すわけにないかない。公共事業費を使うなら、福祉バスの運行等、住民の意向を汲んだ安全安心対策を願いたいものだ。

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『みちしるべ』春逝きぬ**<2002.5. Vol.17>

2006年01月06日 | 前川協子

春逝きぬ

前川協子

 名残りの桜が散る四月七日に、黒住先生のお別れ会と偲ぶ会に参列させて頂いた。先生の御遺徳を慕う人々で、会場は溢れんばかりだった。正面の御遺影は花に囲まれて、ちょっと横を向き、はにかんでいらっしゃる。まさに御生前の謙虚な、春風駘蕩のお人柄を彷彿させる素適なお写真だった。各界の方達の弔辞を聞くほどに、先生の御偉業と素晴らしい人徳が偲ばれてくる。

 亡くなられてから、先生の御志望が作家だったことを知り、ましてや児童文学を最初に志されたことを聞いて、同じ思いであった私は感無量である。成る程、賜った追悼記念の冊子には、ぞくっとするような珠玉の文章が載っていた。文は人を映すというが、細やかな情を卓越した心理描写、そして巧まざるユーモアさえあって感服した。日本は偉大な眼科医のみならず、同時に貴重な作家と真摯な思索者を失った損失は大きい。

 昨年まつ、新築成った甲子園口集会所の忘年会で、あんなにも楽しそうに御酒を召した先生から、もっともっと、大切なお話を聞いておくべきだった。何か、とてつもない忘れ物をしたようで残念でならない。いつもにこやかな笑みと穏やかな語り口には、他者への気配りが満ちていた。それにしても、黒住先生のように偉大な方が、私達のグループに居て下さったことは、盤石の重みであり、誇りと励みでもあった。その過ぎし偉業を心から感謝し、悦ばねばならない。せめてこれからは、先生の御遺志に添って、世の為、人の為、秘かな奉仕を心がけよう。そして、再びお目にかかれる時には、晴れて迎えて頂けるよう、此世を慎ましく終えたい。

 突然の早いお別れに名残りは尽きず、悔いは残るばかりだが、心から御冥福をお祈りし、併せて御遺族皆様のご多幸を祈るや、切なものがある。

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『みちしるべ』写真と私**<2002.1. Vol.15>

2006年01月05日 | 前川協子

写真と私

前川協子

 十二月の初めに、私の所属するフォトクラブが梅田で写真展を開いた。忙しい中を駆けつけて下さった方々に申し訳なくて、遅ればせながらこの場をお借りして厚く御礼を申しあげたい。“郷愁”と“夢中”と題した二枚の半切写真を「あなたらしい」とか「意外」とか「ヘエー、こんな趣味があるとは知らなかった」「いつからしてるの」等と、様々な感想や質問を頂く中で、ふと私は改めて写真との関わりを見つめ直す気になった。

 そもそも私は絵が好きだった。小学生時代、何げなしに描いた絵を、先生はいつも「良く見て描けました」と朱書きして、学校の正門玄関(懐かしくも古い小さな木造校舎であった)に貼り出して下さったものだ。ところが思春期になり、自分でも類型的な絵しか描けなくなって悩んでいたころに、わがゴッドファザーから「何だ、もう少し巧いかと思っていたら大したことないな」と酷評されて自滅した経緯がある。これが、わが挫折の始まりであろうか。それから時代は流れ、結婚した相手が企業戦士の家庭不在の人物だったのに、何故か正月だけは家族揃って記念写真に収まることに拘り、毎年恒例となって今日迄続いている。家族写真といえば忘れ難い一枚がある。やっと敗戦の古傷が癒えた頃、両親を中心に私たち兄弟が揃って写っている素人写真なのだが、その後まもなく父は他界したので、最後の貴重な写真となった。

 さて、いよいよ本題に入り、フォトの発信人となったきっかけであるが、約十年前に逆上る。当時私は里山の乱開発に抵抗して住民運動に携っていた成り行きから、自治会の代表をつとめていた。ところがつくづく実感したのは住環境の不安定要因であった。雨が降れば道は滝のように流れ、川は泥水で溢れ、一旦開発が起これば土砂崩れや鉄砲水が必ず起きる危険地帯なのだ。その渦中で行政や業者と折衝するには、証拠写真が必携品だった。住民自治のためには学習も大事なので、国内外の研修や調査に同行するうち、参考になる事例(都市計画やまちづくり、自然保護、景観等)については、実写が何よりも分かり易い資料となった。それにはアングル等の最低限のテクニックや瞬発力に感性等も磨かなくては……と地元の市民館で開かれているフォトクラブに参加するようになった。

 月に一度の撮影行もままならない忙しさだが、それでも現場で、“感動の一瞬”を激写(?!)するのは、結構、心地よい緊張感である。「虎は死しても皮を残す」と言うが、私の死後に数多く残った写真を見て、子供たちは何と思うかしら。「おふくろは何でこんな変なもの撮って喜んでいたのだろう」と嘆かれないようにしたい。とは思うけれど、如何せん、「ピンが甘い」と酷評されつつも、未だに懲りない私は呑気に手持ちでシヤッターを切っているのだ。これは簡単に絵を辞めた少女の頃から、少しは進歩したのか、それとも退歩したのだろうか自分でもよく分からない。

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『みちしるべ』7月例会の報告**<2001.9. Vol.13>

2006年01月05日 | 前川協子

7月例会の報告

前川協子

 爽快な夏晴れの7月29日に、初めての北六甲台コミュニティセンターを訪れた。良好な住宅街のメイン道路沿いに程良いセンターがあり、隣の広い駐車場が羨ましい。

 私の住む甲陽園は、戦後、一寸刻みに開発された土地柄なので、都市計画がなっていない。その点、北六甲台の整然とした町並みにやはり“まちづくり”の大切さを思い知った。しかし、この北六甲台にも、高速道路の延伸線による開発の波が押し寄せ、北部水源池の丸山ダムが環境破壊や汚染の危機に晒されているのだ。本当に日本中、どこへ行っても平穏な市民生活を甘受できる所は無くなってしまった。

 さて、当日は夏休み中のこととて、各地の行事が重なったせいか、参加者数は10人足らずの寂しさだった。しかし、地元の男性が気配りの冷茶を差し入れて下さって嬉しかった。まず、出席者による一通りの報告と話し合いの後、藤井さんによる『みちしるべ』の合評会資料が出て、「ゲゲゲッ」と驚きの嘆息。手っ取り早く言えば、出稿数などのエンマ帳ではないか。このところ多事多難に追いまくられて、公然と義理を欠いている私としては赤面の至りである。それにしても、藤井さんの、いつに変わらぬ真面目な検証振りには敬服の至りだ。皆、脱帽して、こと細かな論評に及ばなかったのでヤレヤレ。

 いよいよ、本命の「阪神高速道路北神戸線」の工事現場に車で分乗してウォッチングに赴く。「ゲート2」と標示された中野工区では、既存道路にクロスする形で、巨大なコンクリートの高速道路が天を圧する形で立ちあがっていた。日曜日なので工事の気配は無かったが、それだけにポッカリ穴の開いた構造物に無数の鉄筋が突きささっている様は異様で不気味だった。大きな「完成予想図」の看板には、野山を貫く二層の立派な高速道路が描かれているが、将来的には公害をまき散らし、周辺の牧歌的な農村風景を台無しにしてしまうことは間違いない。一応、耐震構造は備えてあるというが、道路構造部の芯に四角い空洞があるのは理解し難い。見学して今更のように、様々な疑問点が湧いてくる。

 次いで金仙寺湖畔の三田屋に近い工事現場に着く。作業用の道路は閉鎖されているのでフェンスの破れ穴を潜り、冒険団よろしく道なき道を辿って湖岸から見上げれば、鉄とコンクリートの無粋な構造物が湖面と緑の山腹を貫いてそそり立っている。まるで水に浮く宇宙基地のようだ。遥かの山腹にはトンネルの入口が見え、そこに至る手前の山は地滑り地帯と聞いて、「ええっ、本当!?」とびっくりした。今までは折に触れ、静かな湖畔の三田屋で暫しの休息を取るのが楽しみだったが、これからは、台無しの景観に二の足を踏む客も多いだろうと残念に思った。

 私達の立っている足許の汀には、古い石積が一直線に並んでいたが、これが旧道の名残と聞くと、世の中の有為転変を思わずにいられない。

 最後に、夕景の中を山口第一工区の一号出入口に行く。ここにも武骨なフェンスに囲まれた高架道路が2本建設中だ。工事現場の正面には「湖を大切に」という看板が白々しく立っている。ここは六甲カントリー倶楽部の正門に位置し、高級車が出入りしているが、客達はどんな思いで、この工事を見ているのだろう。

 今回のウォッチングで、金仙寺湖には船坂川が流入し、武庫川に注いていることも分かった。貴重な調整池として、水質も含めて、今後、大切に見守って行かねばならない。

 現地を踏査してつくづく思ったのは、かくもスケールの大きいプロジェクトに立ち向かって、漸く8月26日の確認書調印にまで漕ぎつけられた協議会の長年に互るご苦労と責務の重さである。やはり住民運動の成果は、各々の立場を乗り越えた忍耐と団結と協力の賜なのだから。

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『みちしるべ』逞しいカンボジア**<2001.1. Vol.9>

2006年01月04日 | 前川協子

逞しいカンボジア

前川協子

 念願のアンコールワットを見に、去る十一月末にカンボジアを訪れた。まだ関西ではカンボジアの単独ツアーが無くて、タイを兼ねての旅となったが、それでも参加者が少なくて非成立が続いた挙句のことだった。私は不勉強で彼の国の現況を余り知らず、手探りの旅支度となったが、行ってみると乾期の冬に当たり、でも空は真っ青で真夏日が続く好天気だった。赤茶けた大地に未開発の自然が残り、石の壮大な遺跡文化やギラギラ光る眼を持つ野性的な民族の暮らしに触れて、私は圧倒され、魅了されて帰ってきた。それは長年にわたって虐げられながらも自力で生き抜いてきた人達の、文明に対する一種のリベンジ、或は国土に対する絶対的な自信を感じ取ったからである。私は既に先進国が見失ってしまった地球環境と民族文化の原点を再発見し、改めてこの国への理解を深めたいと思った。

(一)観光立国タイ

 関空から六時間かかって着いたバンコクは高速道を張りめぐらした大都会に変身していた。十年一昔というが、かつて訪れた時の殺風景な空き地が続き、日本の大企業が土地を買いためつつあるという看板の類は何処にも見当たらなかった。どのような変遷をへて、今日のような不夜城に変身していったのだろうか。相変わらずタイ名物の渋滞はひどく、さりとて王室関係者がノンストップで走り去る間も、一般車は従順に立往生して待っているのどかさだ。目抜き通りの至る所には王族の大きな肖像画が掲げられ、王宮の横を通りかかった時も現地ガイドが「王様はほとんど此処で過ごされることもなく、地方を廻って視察されている」とうっとり語っていたので、尊敬の念は深いようだ。どこへ行っても目につくのが、金箔の寺院と家の門先に祀られた祠である。信仰心の篤い穏やかな人達が、懸命に日本語を学ぶ姿には思わず衿を正した程だ。

(二)カンボジアの現実

 タイからカンボジアに飛び立つ時の拠点、スコタイ空港は、天国のような安息感に満ちた感動的な美しさだった。ポツンと小さな郷土色豊かな建物があるきりなのだ。ところがそこからプロベラ機に乗り、カンボジアのシェムリアップ空港に着くと、一転して軍服姿の兵士の看視の下で「撮影禁止」等の注意事項が言い渡される。夜の屋外は漆黒の闇で、時たま街路沿いに裸の蛍光灯をぶら下げた夜店があり、人々が群がっているのが散見された。まるで終戦直後の闇市さながらである。勿論、夜遊ぴは危ないから外出しないでと言われ、ホテルはそれなりの格好をしていても、たとえばバスを使おうと思っても薄茶色のお湯が出てギョッとし、それも最初だけで忽ち水になって驚く。時折の停電は当たり前。生水を飲むのも厳禁。観光ルートを外れるのもご法度で、毎年地雷のために何十人の死者が出ると聞く。道は国道といえどもガタガタの地道で、車に乗っていてもまるでジェットコースターに乗っているようだ。観光ルートを走っている時でさえ、突如、道の真中が工事中で穴ぼこや石のため通れなくなっていて、それでも運転手は不平一つこぼさず黙々と車返しをし、紆余曲折の道を探して行く名人芸、その根気強さには感心した。現地ガイドの若い男性が「親も兄弟も内戦で死に、自分も17才迄学校にはいけなかった」と語り、日本語を独力で学んでガイドの資格を取ったことを「これからのカンボジアに通訳は幾らでも要る」と喝破したことや、「カンボジアには豊かな水辺と豊かな作物があり、一世帯平均5人の子持ちなので、幾ら内戦が続き、外国が攻めてきても、絶対、生き残り勝ち残ることができる」と言った反面、「日本は少子化で食料の自給率も低いから負けるだろう」と指摘したことに鋭い時代感覚と予知本能を感じずにはいられない。それが虎視眈々たる日付きに現れてくるのだろう。逞しいといえば、カンボジアの子供達は今でも裸足の子が多く、学校に行けるのは幸せな方で、ほんのヨチヨチ歩きの子ですら「1ドル1ドル」と物売りに走り回っている。しかも小学生でさえ鉛筆を持っていないと聞くと、日本からの援助物資はどこへ消えて行くのか不思議でならない。「それは皆、エライさんがお金に替えてしまう」とか「エライさんがワイロを取る」という国辱的な日本語を聞くと、いずこの国も同じ腐敗の構造を嘆かずにはいられない。しかも一方では観光客目当ての開かれた門戸もあり、若者にはオートバイが人気の的らしい。オートバイに跨がり観光客を乗せてタクシー代わりに走り回る姿や屯するグループが見受けられた。またアプサラダンス(民族舞踊)の見事さや、一心に精進する若い踊り子達を見ていると、その純粋さを観光化に毒されることなく継承してほしいものだと切に願った。余談ながら日本の泥鰌掬いにそっくりの踊りもあった。

(三)カンボジアの真髄

 さて、目当てのアンコール遺跡であるが、アンコールは都市、ワットは寺を意味し、近くにあるアンコールトムと共に、12世紀頃のアンコール王朝時代に建てられたものである。長い間の内戦と自然の脅威に晒されて、今にも崩れ落ちそうになりながら、それでも菩提樹の根に巻かれ守られて、現世迄生き延び世界遺産に指定されたということは、まさにカンボジアの誇りであり真髄でも あろう。その二大クメール芸術の凄さは、善と悪の強烈な攻めぎ合いや、ヒンズー教、大乗仏教等の混沌とした信仰を、人間の手で荘厳かつ重厚な石文化に高めた価値である。もう一つカンボジアの特筆すべき壮観は、トンレサップ湖の広大な湿原風景だった。そこで洪水と共存しながら寄り添って暮す。自然と人間の共生環境には強烈なインパクトを受けた。

明け初めしアンコールワットの早原に馬曳く少年の口笛響く

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『みちしるべ』ドイツの環境を知る旅から(5)**<2001.10. Vol.7>

2006年01月03日 | 前川協子

ドイツの環境を知る旅から(5)

前川協子

10.オクトーバーフェスタ

 ドイツの環境教育や文化の美意識が、幼い時から一貫して繋がっていることを実感した私達は、その成果が実社会の中でどのように生かされているかを見るために、折しも世界一の規模を誇ると言うビール祭のオクトーバーフェスタの会場を訪れた。

 正面ゲート10時の待ち合わせに来て下さったのは、市の教育委員会環境課の職員2人で、共に感じの良い紳士だった。雅子さんがそれぞれを紹介して下さる。

 まず、真面目なお2人の説明によると、昨年のフェスタ期間(2週間)に訪れたのは650万人だというから驚きだ。この会場は、もともと100年程前のバイエルン州の王様結婚記念会場だったという。10年ほど前から行われている催しだが、漸く3年前からスムースに行くようになったとのことである。アウグスチーナビールのみボトル発売という特権があるそうだ。

 ゴミ問題で言えば昨年は511tのゴミが出て、その内訳は、47.76tが紙・75.42tがエネルギー関係・87kがオイル缶等の各種缶類・257tが食事ゴミ。他はガラス等の雑多なものだったそうだ。これらは観光し、会場でのエコ商品の指導もしているという。たとえば、ビールびんもリサイクルで洗って使うので、50~300回ぐらい使用可能という。会場を見まわるうち、非常にユニークで見習うべきと思ったのは、店先でお皿に盛ったご馳走を食べたあと、そのお皿を返すと、5DM(ドイツマルク=約300円)の返金表示があったことだ。日本の感覚でいうと、皿1枚の保証金が300円とはきついと思うが、要するに安易な使い捨て容器は使わない主義なのだ。それほど高い保証金を取ってでも環境を守ろうとするドイツ国民の高い意識と合理性には感心した。

 それからとても賑っているビール会社直営のレストランに入って所長さんの話を聞いた。「大量のゴミが出るので、5年前から生活環境を考えてゴミ対策を始めた。プラスチック製品は使わない。例えば鶏の包みもアルミ箔を無くし、仕入材料を入れる段ボールも使わなくなった。だから出るゴミは大きな袋で一杯ぐらいに減つたし、紙類モテーブルナブキンくらいしか出さない。その他のゴミを入れるコンテナも1日に1回で僅かなゴミしか出ないので全部終わっても一杯にならない。椅子、机なども本物の木材を使っている。食器洗浄機は7ケ置いているが、洗剤も少量で効くし洗浄水はトイレの用水に廻しているので、100万立米以上の節水になっている。食事のゴミは3種類(汚水・油・水)に分けて下水のタンクに流し,3日毎に引き上げて処理する。そして食べ残しの食材は、熱処理して豚のエサになる」と、どこまでも省エネ、リサイクルに徹した話だつた。試しに客席に置いてあるゴミ箱のふた開けてみたが、客で賑わっているに関わらず、底の方にチョコッと入っているだけだった。

 所長さんは、今どき珍しい立派なカイゼルひげを生やした恰幅のいい人で、誇り高い貴族の出身でもあるのか、民族ズボン(半バン)の腰に短剣を吊した威厳のある人だった。

 それでも親切に裏方の洗い場まで案内して下さり自信に溢れた説明には、環境問題を重視する企業の明快なポリシーがうかがえて参考になった。

 全体的に会場はドイツの豊かな郷土色に彩られて楽しそうな雰囲気だったが、そんな中でもゴミ対策や処理機構の確固たる施設や装置を見ると、如何に環境施策が充実しているか分かり、今更のように日本のいわゆるお祭り会場の散乱するゴミが恥ずかしく、やはり欲望の抑制と行政のリードが必要だと思った。

 印象的だったのは、民族衣装の晴れ着を着た子供達が輪になって踊っているのを、家族達が微笑ましく見守っている様子だった。

 どこの国でも一緒だな。子供の晴れ姿を無上の喜びとする親心は……と思わずバチリと写真を一枚。

 さて、私達は会場を出てから気づいたのだが、なんとビール祭りに行きながら、泡の一滴だに飲まなかったのだ。これも日本女性の悲しい習性か、それともそこに至らなかったゆとりの無さか……笑うに笑えないお粗末さの一席で残念!

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『みちしるべ』ドイツの環境を知る旅から(4)**<2000.8. Vol.6>

2006年01月02日 | 前川協子

ドイツの環境を知る旅から(4)

前川協子

7.ミュンヘンの雅子さん宅ヘ

 バスがロマンティック街道を経てミュンヘンの中央駅広場へ着いた頃には、日がとっぷり暮れていた。丁度ミュンヘンではオクトーバーフェスタという有名なビール祭りが開かれていたので、ホテルの予約が取れず、高橋さんの知人である雅子さんのご厚意に甘えて、ご自宅に泊めて頂くことになっていた。

 彼女と落ち合えるまで暫し駅構内を見て歩く。さすがに国際的な駅だけあって、大勢の人が行き交う喧騒は今まで巡って来たドイツの街の落ち着いた印象とは全く違っていた。結構目についたのが、坊主頭に目付きの鋭い若者達で、これが俗に言う右派なのだろうか。やがて迎えに来て頂いた雅子さん一家とも無事に出会えて、ご主人が運転されるワゴン車でお宅へ向かった。着いたのは落ち着いた風情の住宅街にある一戸建で、広い敷地の中にはプールやガーデンパーティもできる庭があった。家もソーラーハウスということで、小人数のまだ若いご家族としてはめぐまれた住居であろう。

 雅子さんとドイツ人のご主人の間には、ダニエル君という小学校1年の坊やがいて、とても愛くるしく、人なつこくて、日本語で色々話しかけてくれる。達者にCDを掛けて音楽のサービスをしてくれるのだが、思いがけなく異国で日本の色々の曲を、それも子供向けの新しい歌を知って感慨深かった。私達は心ばかりのお土産に雅子さんが喜ばれると聞いた日本の白米を差し上げた。

 家の間取りは1階がリビングを中心にした生活圏で、2階がそれぞれの個室になっているようだった。私達の寝場所は、らせん階段を昇った屋根裏部屋で、普段はご主人のオフィスとして使われているとのこと。壁に掛けられた日本の四季と思われる写真の額が彼女の故国への郷愁を物語っていた。

 この日、日本語が通じる有難さで分かったことはトイレが無人の時はドアを少し開けておくというマナーだった。従来の日本の感覚ではドアの閉め残しはだらし無いとされてきたのだが、やはり時代が変わり、国が変われば、これも国際的なマナーの一つとして覚えておいた方が良いらしい。

その夜、私は眠りについたのだが、夜半には凄い雷と風雨があって、同室の仲間は「怖くてなかなか眠れなかった」という。日ごろの睡眠不足を旅で補う習性の私としてはラッキーな安眠であった。

8.ダニエル君の通う学校

 快晴の翌朝、私達はダニエル君の登校にお供して小学校を訪れ、授業前の一刻を参観した。通学路は歩車道の分離が徹底し、自転車道も整備されている。自転車道をすっ飛ばすライダーがいるとかで「危ないからくれぐれも歩道を歩くように」とカメラを構えてついふらふら歩く私は幾ら注意されたかわからない。

 低学年の登下校には親の付き添いが当たり前なのだろうか。学校が近づくにつれ、色とりどりの服装をした親子連れが増えてきた。子供達は様々な模様入りのカラフルな鞄を背負っていて、それは日本のランドセルよりは大型で、しかも横長タイプだった。

 驚いたことに小学校はミュンヘンの市中でありながらうっそうたる森の中にあった。緑のトンネルをくぐり、朝の湿った心地よい空気を吸いながら登校する子供達の心と身体の健康さに幸いを感じずにはいられない。まだ始業前なので私達も校舎に入らせてもらう。

 内部は木造で廊下も広く、緑の庭に面している側は総ガラス張りになっているので解放感とゆとり感がある。璧はギャラリーのように活用されていて、楽しい作品が一杯展示されていた。

 子供達はまず数室横のコーナーで靴を脱ぎ、上着を取って掛け、身軽な服装で教室に入って行く。生徒数は一数室でせいぜい30人ぐらいと思われるが、数室には教師が2人待機していて、広い数室に高い天丼など総てゆったりと自由な雰囲気だった。

 豊かな植栽に囲まれ、独創的、芸術的なインテリアの学校で育つ子供達を見ていると、日本の学校が如何に冷たい雰囲気で子供達の自由を束縛しているかのように思えてならなかった。日本の学校教育にもっと自然を!整った施設を!楽しさを!ゆとりを!、願わずにいられない。

9.幼稚圏の環境教育

 ダニエル君を送り届けたあと、私達は雅子さんのご案内で幼椎園を訪ねることになっていた。まず市電(?)に乗って目についたのが赤十字状のマークがついた優先席だった。目的地に着いた街角には人間の背丈を越すほどの大型分別ゴミBOXが設置されていて、頼もしく便利そうだった。

 市立の幼稚圏は高校のそばにあり、この高校も又、学校とは気付かないぐらい総ガラス張りのモダンな校舎だった。この幼稚園は85人位の規模というが、とても家庭的な雰囲気で玄関には手作りの大きな人形が椅子に座って迎えてくれたり、園児たちもめいめい好きなことをして遊んでいるようで、暖かくヒューマンな感じがした。

 園庭を巡りながら女の先生から環境教育について話をうかがった。彼女はまだ若くグラマラスでチャーミングな人であったが私達に熱心に説明をして下さったので、とてもよく内容を理解することができた。

 何と言っても、目の当たりに園庭を見ただけでその環境教育の素晴らしさ実践振りがよく分かる。この幼稚園にもうっそうたる森がバックにあるのだ。よく手入れされた芝生に、ビオトープや木組みの小屋、テーブルセット、砂場、インディアン風の三角小屋等が点在し、ハーブ等の草花がやさしい彩りを添えている。かかしが立っていたのはご愛嬌で日本のものがヒントになっているのだろうか。

 感動的だったのは、大都会の中のこの園庭の木陰にはリスやカタツムリが居たことだ。今や私達の町ではリスはおろかカタツムリさえ見かけることが出来なくなったというのに……。

 ドイツの自然保護、環境教育、共生の実践に脱帽した。つまり幼稚園からの徹底した環境教育が一貫してドイツの国土を守ることにつながって行っているのだろう。

 教えて頂いた環境教育方針(1998年)に基づく幼稚園の取り組みを紹介すると、

  • お弁当には弁当箱を用い、旬の素材、地域産を使うようにする。
  • ノーバック包装の徹底
  • 玩具の修理
  • 国内のゴミも分別を徹底、特にバイオゴミの有効利用
  • 天水桶を置き、雨水の利用
  • 木工小屋にあらゆる工具を置き、小さい時から手作りになじます。
  • ピオトープを作ったのも、先生と親、子供達の合作で、底にゴムシートを敷いて工夫したもの。
  • 洗剤等も合成品を排除し、純正なもののみ使用。
  • 工作等をする時も、できるだけ色物や糊を使わないようにする。
  • 砂場も自然感覚を大切にし、枠などを作らない。
  • 草花もハーブ等の芳香性が高いものを植えて、リラックス効果を高める。

等、実にきめ細かな指導方針であった。

 園内をくまなく見せていただいたが、非常に清潔で明るく、室内の木組みのソフトさと、水廻りのタイル貼りのクリーンさがそれぞれに好もしい。子供向けの低くした洗面台の壁には、ズラリと歯ブラシが並び微笑ましかった。その他、子供の独創性豊かな作品を見たり、ロマン溢れる装飾や、お誕生日等のお祝いの時に座る王様の椅子等を見て、とても子供達が大切にされているな……と思った。

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『みちしるべ』ドイツの環境を知る旅から(3)**<2000.6. Vol.5>

2006年01月02日 | 前川協子

ドイツの環境を知る旅から(3)

前川協子

5.美術の古都ヴュルツブルグ

 私たちはマインツから一旦フランクフルトに戻り、IC(日本でいう新幹線)に乗ってヴュルツブルグに向かう予定だったので、駅で郊外電車を待っていると、自転車を押した男の人がやってきた。プラットホーム上なのに「なぜ?」と思う間もな<、真っ赤な電車が着いて分かった。特定の車輌には自転車のマークがついていて自転車の持ち込みが可能なのだ。

 その合理性に感心する。日本の駅頭に並ぶ違法駐輪や、その対策に悩むことを思えば、ドイツの自転車持ち込み制度は環境と省エネの両面から学ふべき点だと思った。交通の要衝フランクフルト駅の賑わいはさすがで、売店で売っている白くて大きいソーセーヂが印象的だった。

 初めて乗るドイツのICは少々薄汚れていたが空いていたのでほっと一息。お昼も過ぎていたから昨夜のレストランで詰めて貰った夕食の残りでランチとする。それでもまだ余る程の量だった。

 ヴュルツブルグ|こ到着してもまだ陽は高<、有名な古都を見学することにした。喉が乾いたので、歩きながらアイスクリームを食べる。これこそ旅の解放感の醍醐味であろう。町の真ん中を流れるマイン川の橋上から川の様子を眺めると、堰や河岸の自然さに見惚れてしまう。そして吉野川と同じ工夫と思い入れを感じた。又、川を挟む両側の古城や建物のたたずまいに自然との調和が見受けられて感動した。町中を歩いても、雰囲気が美術館のように装飾的、独創的で絵画的な風景なのだ。広場を囲むカフェテラスや色とりどりの出店(花、野菜、果物)が楽しい。それに、この町の特徴は文化と共に清潔さであろうか。その指標は何といってもゴミ箱。私たちは役目柄(?)ゴミ箱を見かける度に失礼して開けて見たが、非常によく管理されていた。中には厳重にチェーンやキイのついたゴミ箱もあって驚いた。

 迫る夕景の中を私達は駆け足で有名な宮殿を見学した。天丼のフレスコ画が壮大なスケールと豪華さで思わず息を呑む。付属する見事な庭園には余り人影もなく、私達はこころゆく迄、夢見心地で休息してした。それから名にしおうフランケンワインを求めて高名な店に行き、土産用に船便で注文をした。手慣れた店員の応対に、いかlこ日本人客が多いかが分かる。ここのワインは白ワインで、独特の形(平べったい)をしたボトルに入っている。ブルーの容器が美しいし、味も好評だった。

 夕食は少し離れた直属の店で、半地下の落ち着いたレトロ風レストランで摂った。

いよいよ、この旅の一番の贅ともいえる古城ホテルへタクシーで向かった。とっぷり暮れた夜の闇の中で着いたホテルからは素晴らしい夜景が望めた。まさにダイヤモンドをちりばめたような美しさとはこの事であろう。客室も優美で心豊かに眠ることができた。

6.ロマンティック街道を行く

 翌朝、夜来の雨も晴れた朝食後の一刻を、名残惜しく古城ホテルの探索に歩いた。眼下には優美な曲線を描く川や緑に包まれた豊かな町、その向こう丘陵には立派な要塞がそびえて見え、絶景の地である。

 庭の樹々はそろそろ紅葉が始まりかけて、クラシックな建物や至る所に置かれた彫刻と花にマッチして美しい。

 余りに夢見心地だったせいか、出発して夕クシーに乗ってから、仲間の一人が赤いリュックを玄関に置き忘れたことに気づいたのだ。運転手に後戻りしてと頼むのだが、彼は英語が分からなくてハラハラした。予約したロマンティック街道を行く観光バスの出発時間が迫っているのを、結局彼が理解してくれてからは、猛スピードで飛ばしてくれた。無事にリュックも有り、タクシーを降りる時、私達はナイスドライバーの彼に最大級の感謝をした。

 めでたくバスに飛び乗った私達は、ミュンヘンを目指してひた走る。このロマンティック街道が聞きしに優る素晴らしさだった。道中のガイドは日本語が流れ、車窓から眺めるふどう畑や田園風景、要所要所で止まって見学する中世風の町々が圧巻であった。それぞれの町が個性豊かに中世の雰囲気を今に伝え、現実に観光都市として生活しているという矜持に感服した。昔はドイツとイタリアを結ぶ重要な通商道路だったということだが、共通して言えるのは、宗教に根ざした高い芸術性と豊かな文化であろう。中でも片田舎のヘルゴット教会の精緻な祭壇には目を見張るものがあった。ロマンティック街道は一見の価値ありとおすすめしたい。

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『みちしるべ』ドイツの環境を知る旅から(2)**<2000.4. Vol.4>

2006年01月02日 | 前川協子

ドイツの環境を知る旅から(2)

前川協子

3.HOTELKURのビオトープ

 翌朝、ATRIUMホテルクアで目覚めた私達は、爽快な秋晴れに心が弾んだ。

 このホテルは郊外の保養タイプらし<、実に瀟洒な感じて変化に富んでいた。庭園の風情に誘われて暫し散策し、ドイツて見た最初のビオトープに遭遇したのである。小川のせせらぎに橋があり、小さな池に流れが注ぐようになっていた汀には小石を敷きつめ、水草や羊歯類が生え、すすきや萩などの豊かな植栽が施されていた。それはまるで日本の昔の水辺風景のように思え、こんなに明るく近代的なホテルで、かくもさりげない和風のビオトープが存在することに深い意義を覚えた。所を変えた洋風のガーデニングも素晴らしい。ばらなどの色彩豊かな花々が咲き揃う植え込みと、木組みに白壁のコントラストが美しいテラスハウス風の建物がよくマッチして、洗練された風景を醸し出していた。

 窓越しに、朝の8時から会議を開いているスーツ姿のビジネスマン達が見えて、ドイツ人の勤勉性がうかがえた。

 このホテルはバイキングの朝食も豪華だったし、おすすめの宿であった。

 ホテルの通りを隔てた街区には戸建の住宅が並んでいたが、その門前には日本より大型のゴミ容器が2種類置かれていて、いずれも木棚などで目隠しされていた。当日は分別ゴミのうち、何の収集日に当たっていたのだろう。透明なビニール袋に包まれたゴミ(多分、残類であった)が無造作に道端に置かれていた。

 垣間見たこの辺りでは、まだ余り厳しいゴミ規制が行われていないように見受けられて意外だった。

4.マインツ市の廃棄物処理センター

 さて、私達は、いよいよマインツ市における本命のゴミ処理場を見学するために、清掃局(?)を訪れた。タクシーを降りて見ると、入り口にはチューダー風のしゃれた洋館が建ち、大樹がそぴえ立っていて、足許には栗のように大きくて艶のある実がころころ落ちて転がっていた。案内して下さる市の職員を待つ間、私達は珍しい栃の実を拾い、辺りを眺め回していたが、とても役所とは思えない優しい雰囲気だった。

 やがてすてきな眼鏡の紳士が現れて、清掃車の車両置き場を見せて下さった。

 ガレージのゴミ収集車群は、いずれもびっくりする程大きくてカラフルなのだ。まるで戦車のように頑丈そうで、ベンツのマーク入りに圧倒される。とても日本の清掃車の比ではない。それらの作業車がそれぞれの用途別に、特殊な装置が施されており、その機能性と役割について説明して下さった。たとえば、バイオゴミ車。これは街路の落ち葉を吸い込むように、太いバキューム管が据え付けてあり、なる程、これでは積もる葉っぱも一呑みと納得した。

 それからジープに乗せて下さり、少し離れたディスポーザー場(ゴミ処分場)に案内して下さった。そこは少し小高い山になっていて、意外なことに住宅群が結構近いところにあった。私は、つい日本の現状を思って、「こんな民家に近いところで建設や操業に関して、住民とのトラブルはありませんか」と聞いてみた。でも彼の返事は「全く無い」とのこと。何故なら、徹底した同意行政が取られてており、建設計画に際しては住民にきちんと説明し、対策をとり、安全性を確かめて納得して貰ってからの建設になるからだそうだ。それに汚染については、技術的に何の心配も無いということであった。

 私達は先ず事務所につき、レクチュアを受ける。何と、そこには日本からの訪問客が多いらしくて、扇子や日本人形、「マインツ市役所さん江」という大漁旗が飾ってあったりしたので驚いた。親切な職員の御厚志でお茶をよばれたり、市が作って売っている布製の買い物袋やゴミ袋のミニチュア、分別用のシール等を頂く。このように視察に対応するグッズが用意されているということは、それだけ環境都市としての先進的な取り組みが評価されているという誇りであろう。

 いよいよ処分場を廻る。分別されて集められたゴミは大別して、

  1. 一般廃棄物は埋め立てへ、
  2. 植木等のバイオゴミは再生され、
  3. その他の分別ゴミは、それそれのボックスヘ集められて相応な処理をされる、ということであった。

 さすがに緑豊かなドイツでも、処分場は荒涼たる風景であった。でも、入口部の見事な石積み擁壁には工夫と創造のこだわり精神+技術が感じられた。

 再びジープに乗って、てっぺんの埋立場へ。そこは元の谷地形だったのではないだろうか。もう、かなり埋立が進んでいて、周辺に立つ目印の木の抗迄と、高さ制限が加えられている。日本の処分地では、ともすると、てんこ盛りのゴミの山になるところを、程良くセーブされている。とはいうものの、やはり、そのうちには限界が来て焼却施設がいることになるのではないだろうか。

 その時点で不思議だったのは、山なのに沢山のユリカモメ(?)が群れをなしてエサを漁っていたこと。

 ひっきりなしに大型の収集車がゴミを捨てにやってくるので、改めて汚染のこと等聞いてみる。でも「底には遮水シートが敷いてあるので、100%地下水汚染無し」ということであった。

 そこから少し下がってバイオの処理場がある。二基の大きな鋼鉄製BOXが設置されていて、そこヘバイオゴミを入れた収集車がやってくる。橙色のカラフルな制服を着た陽気で豪快な作業員達が私達の撮るビテオに関心を寄せてはじゃいていた。体格の良い男の人達の倍の高さはあろうという大型車両を操り、BOXを機械で開閉し、散らかった木屑等のゴミをきれいに掃除する等、彼らは忙しい。

 更に下を眺めると、ビルの廃材等を洗って再生している現場があり、凄い轟音と埃であった。ベルトコンベアが忙しく動いていたが、総て野ざらしの状態なので、ふと、これで良いのかなと思ってしまう。いずこの国にとっても文明の恥部であり、これからの社会的な課題であろう。

 それから思いがけなく処分場の裏に案内されてみると、そこは40mからの崖になっており、地下水の湧水池があった。職員の方はそこのことをライムストーンと言い、レイクと説明されていたが、成程、それで白い水鳥が棲息していたのかと合点がいった。遙かに仰ぎ見る処分場に続く斜面にはメタンガスパイプが埋めてる由で、所々、そのパイプが見える。

 付近には8mの穴を掘ったダーティウォーターの検査所があり、開けて見せて下さったのは、真っ黒な水のサンプルだった。問題のメタンガスを利用した発電所がある、と、そこへも親切に案内して頂き、若干の見学をした。

 凄い騒音なので、まずヘッドホンをつけるように指示される。それでも凄い騒音なのだ、殆ど機械装置ばかりだったが、中で働く職員の方達の聴音障害が懸念されるほどだった。そこの標識にガステクニックとあったのが印象的で、このガスエネルギーは、付近の住宅地に供給されて役立っているということだった。

 最後に元の事務所近くに戻り、沢山の分別BOXが並ぶコーナーを見学して歩いた。

 そのグリーンBOXを種類別に幾つかあげてみると、自動車ガラス、自転車タイヤ、ブリキ、家電製品、植木、セラミック、アスベスト、古着、本箱、家具、紙、プラスチック類で、それそれに番号がつき、一般市民も直に車で廃棄物を捨てにきていた。これは良いアイデアだと思う。このような処理センターまで、めいめい市民が運び、分別して捨てることが出来れば、行政の収集の手間や労力、量がずい分省けるのではないだろうか。基本的に収集は市が行い、リサイクルは民間会社に委託しているという話だった。たとえばアスベストは最終的にセメントになるそうだ。

 ともあれ、私たちの町でもゴミ処理の問題はまだ試行錯誤の時期だが、多種類の分別方式やバイオゴミ、持ち込み処分の方式等はできるだけ早い時期に実現して欲しいと思った。

 又、リサイクルや、エネルギー化の問題はまたまだ学ばねばならないことを実感した。

 親切な職員の方に元の事務所まで連れて帰って頂き、預かって頂いたトランクを受け取って、遂に駅まで見送って下さることになった。何のお礼も受け取らず爽やかな笑顔て写真におさまって下さった彼に深<感謝したい。

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