澤山輝彦
<ええこと言いよんで>
石原慎太郎、橋下徹、両方とも私の好みでない人物だ。しかし、彼等は時に真面目にいいことを言うのである。私がこんなことを言ったところで「いつも真面目じゃわい、おまえに言われる筋はない、ぼけ」といわれたらおしまいだが。
福島原発事故や菅総理の退陣などメデイアは連日これらの報道にいそがしく、ここにまたお粗末な大臣が出たりして、ついにあきれかえるもひっくりかえって立ち上がり不可能になってしまったそうだ。そんな影にかくれたかのように、排ガス規制違反のいすゞ自動車に関する報道は、はかなく消えてしまったようだ。
2011年6月4日 東京新聞朝刊、東京都は三日、いすゞ自動車が低公害・低燃費車として昨年5月に売り出した中型トラック「フォワード」(四トン)の車載コンピュータに国の排ガス規制を逃れるようなエンジン制御プログラムが見つかったと発表した。国の適合試験と違う走り方をさせると、規制値の三倍超の窒素酸化物(NOx)が排出されるという。石原慎太郎知事は「規制逃れのいんちき。企業の犯罪だ」と批判している。
「規制逃れのいんちき。企業の犯罪だ」まるで“みちしるべ”に投稿する人の言葉ではないか。この発言まったく正しい。どこの知事がこんな発言をようするか、佐賀県知事なんて、貝枝(わかってんねんで)とかいう大臣に出向かれて「原発動かしたれや」と言われれば「そうやなあ」なんてすぐのってしまうのだからなあ。
知事に企業の犯罪だと言われたいすゞ自動車は、6月3日付けで国土交通省に改善対策届出をしているが、発見の動機という欄に、東京都の指摘及び社内情報によると書いてあるのだ。いったい社内情報というものがいつ、どこで出たのか、そいつがわかれは面白いのだが。そこは書いてない。
さて、近場の橋下知事だが、彼の脱原発についての発言、これはなかなかのものである。同じ時期、関西電力筆頭株主の代表である大阪市長の発言にくらべると、これは雲泥の差と言う言葉を使ってもいいものである。いつも橋下に言い負けているような大阪市長で、橋下きらいだから応援してやりたいと思っていたのに、これではどうにもならない。
ただ、橋下については、知事選にたしか100%以上の確率でもって立候補しない、と言いきっておきながら立候補した経緯がある。私が橋下を嫌うのはここだ。こんなところから、いつか原発容認に鞍替えするのではないか、という不信感は除くことが出来ない。でもまあ今の所はその言を信じておこう。脱原発の橋下はいいのである。
電力事情が悪くなれば、それはそれでそこそこの仕事をしようではないか、という考え方は自動車産業(他の各種産業にもあるが今は自動車産業に代表してもらう)には無い。土日に仕事をし、木金休む、そんな手を考え付くのである。労働者の事情なんておかまいなしだ。まったく労働者はなめられているのだ。それとも労働者も「それでいいのだ」とバカボンパパのようになってしまったのか。
福島原発事故を機会に脱原発に向かう、これが正常な人間の考え方である。考えなくても正しい感覚が働けばそうなるはずだ。第二次世界大戦のかつての同盟国であったドイツとイタリアが早々と脱原発に向かったのである。なぜか、ヨーロッパ戦線ではパルチザンが生まれた。ムッソリーニ、ヒトラーがそれを生んだのである。皮肉にも、正しいことをやり通すためには武器を持って命がけで反抗するという根性を植え付けたのだ。この根性が遺伝子として体内にあるからである。日本にはこれがなかった。(これは私が勝手に考えたことだから、よそで言わん方がよろしい。誰がそんなこと言うもんか、それであなたは正常である)そして何事にも甘く“和”という語でもって良しとする精神が必要以上に育ってしまい、のど元を過ぎてもいない原発問題をかかえながら、早々と運転再開を認めようという動きが湧いてくるのだから言葉を失う。もっともここには金がからんでいるようだ。なさけない次第である。電気会社のおこぼれでどんな良いことがあったのだ。それも事故発生でぱーではないか。戦時のように銃を手に命がけで反抗をするのではない、脱原発を言うのに、何を躊躇するのだ。それに加担するのにどれだけの覚悟がいるのだ。本当に電力不足が起きれば少々生活環境は今より劣り不便になる面だってあるだろう。就業の不安定から所得が減ることが生じるかもしれない。でもただそれだけのことではないか。
原発が動きだすと、廃棄物が出る。それは未来永劫放射能の消えることのない、放射性廃棄物なのだ。その影響に恐れおののきながら生きねばならない未来の人々のことを考えてもみよ。
日本人が世界で大手を振って歩くためには、いすゞの責任はもちろん、福島原発事故を徹底的に検証し、それを脱原発につなぐことが絶対条件となるのである。