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『みちしるべ』 by 阪神間道路問題ネットワーク

1999年9月創刊。≪阪神道路問題ネット≫交流誌のブログ版。『目次』のカテゴリーからの検索が便利。お知らせなども掲載。

『みちしるべ』私の住民運動(10)**<2003.1. Vol.21>

2006年01月08日 | 私の住民運動

わたしの住民運動(10)

山幹の環境を守る市民の会
山本すまこ

 平成7年11月1日より始めていた座り込みは、市当局が連休の間は測量には来ないとの約束で、休戦していた。そんな中、11月4日には恒例の町内清掃とやきいも大会を、東浦公園で開催した。しばしの息抜きでした。

 11月6日より市との闘争が再び始まった。山手幹線道路をはさんで北側、南側それぞれ三カ所づつ、ポイントに2~3人づつ、みはり番を配置し、朝9時から夕方4時30分ごろまで座り込んだ。当番表も作った。こうなったらどこまでも戦うぞとの意気が盛り上がった。

 町内の役員さん達も当番に加わってくれた。日頃、主婦として家事に時間を費やしていた奥様方も、毎日、山幹道路に出勤するという状況でした。こんな生活も今までない緊張感もあり、少なからず楽しい活動ではなかったかと思います。そんな中、地域内で新たなグループ、「いのちとくらしを守る会」を結成され、市に要望を出すとのこと。一つでも多くの人が、この事業に反対の意志を表すことは大事なこと。多いに歓迎です。若いお母さん方が中心であった。

 市当局は11月に入ってから、一向に来る気配がない。新聞記者にそれとなく様子を伺うが、ニュースがない。しかし気を抜くことは出来ないので、当番表通り、毎日ポイントに座った。13日、臨時本会議というニュースがはいった。議題をしらべたが、山手幹線問題に関するものがない。座り込みの人数は減らしても大丈夫でしょうが、やはり各ポイントには……。市が動きそうにないので、チラシをつくって配ろうということになり、号外3を1000枚作った。瓦木小学校近辺の町内にも、初めて配った。甲子園口駅前でも配った。チラシには例の「我々には権力がある」との暴言発言を中心にした。記者の話では、山幹のことを聞こうとしても、市は逃げ回っているとのこと。座り込みをはじめたので、市も面食らっているのかな。

 お天気がよければあったかく、横断幕もつくるのにも精がでた。ビューハイツに垂れ幕も作って取り付けた。才能のある人がいっぱいいた。このころ、お元気なS会長は、第二か第三かの職場が三木であったので、たまに出かけて行かれた。隣のYさん宅は立て直し中なので、神戸に仮住まいされていたので、毎日は無理であった。いつ来るか知れない市の行動を危ぶみながら、人手のないときに来たらそれはその時と、腹を据えざるを得なかった。毎日、情報集めや連絡、チラシ配りと、めまぐるしかった。例えば11/18、昨日はなにもなかったのに、歩道にスクーターが置かれている。一体誰が置いたのか?不審?想像力たくましく、ああでもない、こうでもないの議論に花がさく。11/20雨、午前11時で見張り番解散、午後二回みまわりをする。11/21午前、北側歩道を掃除する。午後、武庫川に簡易トイレが設置されたとのニュース。えらいこっちゃ、市がくるんかも、と。なんのことはない、神戸商業高校のマラソン大会の準備だそうな。ほっ!! またラジオでこの反対運動のことを聞いて、見に来られた男性。「なんでこんないいところを壊すのか」そうでしょう?全く。頑張ってくださいと帰って行かれた。ありがとうございます。わざわざ!と感謝。

 毎日こんなふうに緊張したりほっとしたり、ー日一日がはやかった。それでも主婦の皆さんは、主婦業は怠らずにやっていました。えらい!!ずいぶん寒くなってきたので、いつまでやるん?12月に入ったら本会議がある。日程を調べないと。どうやら24日に出るらしい。まあ議会中は騒ぎが起こったら困るから、市も挑発するようなことはしないだろうと予測した。またY先生が市会議員全員にアンケートを発送して下さいました。返事はあまり期待は出来ないと思われるが、ちょっと議員へのいやがらせも含めて出した。

 11月24日午後の当番をしていると、S会長が走ってきた。N局長から電話があり、話したいことがあるとのこと。何の話があるというのか。測量についてです。市に来いというのか。こちらにはそんな暇はない。用があるなら来たらどうか。何時ですか。3時ころですか、5時ころならもう暗いので、マンションの集会室でしたい。ただしこれは正式な交渉でも何でもない。今、交代で座り込みをしているのだから。幹部の人もいない。何人で来るのか。一人で行きます。ということで局長が5時に来るとの報告でした。

 私は今、局長には会いたくないと強烈に思った。みんなこんなに頑張っているのに、トップと局長が会って変な方向へいきはしまいかと、内心、心配でした。しかし約束が出来てしまっているのだから、行ける人は全員行ったほうがよい。自分の耳で聞きたい人は皆行って下さいということで、30人あまり集まった。結局、局長とN課長補佐の二人が来た。

 局長の話は、10月30日より測量に入らせてもらいましたが、想像以上に皆さんの団結が固いので、引かぎるを得ない状況になった。市としてはおなじトラブルは避けたいと思っている。この地域については、地上の測量を中断することを決めたというのである。測量は航空写真で図面化すると。ただし、地質についてはボーリング調査だけは4~5日で出来るのでさせて頂きたいと、一方的な話であった。

 そして寒い中、路上で待機されていたのを、お気の毒と思っていたと。今回の調査の件で、皆さんと尚一層溝が大きくなったことと思っている。市としては、この事業はとりやめることは出来ないが、出来るだけ話し合いで解決したい。いずれ円満に話し合いで、事業を進めたい。市がごり押しでやることは避けたいと思う。

 いうこととやっていることが違うんじゃないか?住民がいま座り込みをしているのは、この事業を中止してほしいと願ってやっていることなんだから。市がごり押しをしない。といいながら、いつも一方的に推し進めてきているのだから、市に対する不信感はつのるばかりである。

 あとはいつも通りあちこちから、説明会をもっと広い範囲でていねいにしてほしい。先日、課長が約束をしたではないか。いや報告は受けてない。などと延々と繰り返しのやりとりであった。また、健康を害するか心配である。43号線のこと、はたまた外国の例なども出てきた。局長もそのような話は次回もっと時間をかけて……。と言うしかなかった。

 結局、なんの話だった?という会で終わった。まあその程度の会で良かったと、胸をなでおろした。とはいえいつボーリング調査にやつてくるか。対策を考えないと。11月26日、集会をして打ち合わせを行う。日にちがないので27日月曜日あさ9時に、Sさんのマンション下で、急遽集会をした。代表幹事の主人は、仕事に行く前に、最初に話をしてというか、檄を飛ばして出勤して行った。24日の報告と市の思惑、連絡網の徹底や巡回の時間帯の練り直しなどを相談した。その日の午後、二見交番前の交差点あたりで、ハイヒールの女性が何か道路を計っているとの連絡が入った。なに?また写真をとっている男性がいる。えっ?すぐ局長に抗議の電話をする。夕方局長より返事があり、市の測量は巻尺など使いません。もっと精密な機械でするとさ。苦笑。

 つまらないことでも抗議することは大事であると考える。市はいつも見張られていることを自覚するであろうから。もう一つの新しい会も少しづつ動き出していた。座り込みをする中で、いろんな意見がうわさとなり流れた。例えば強引に四車線にされるより、二車線で緑地帯をつけて手を打ったほうがよいのではとか。新しい会と反対の会とが、ちょっと目的が違うかのような、反対の会と一緒に座り込みをするのを避けようとするきらいも、みえかくれした。あくまでも環境が悪化することに反対の立場は同じであるはずなのに。誤解は早いうちに解いておくほうが望ましい。

 11月30日、運動している住民向けにチラシを配った。今の段階で、いかなる妥協もすべきじゃないのでは、と。市民の会では今までに特定の議員に、この問題についての陳情など全面的には頼って来なかった。市が積極的に進めている都市計画を、ほぼ議会も全面的に了承しているのであるから、あてには出来ない話と割り切っていたのである。新しい会では市会、県会の議員と接触をもったが、やはり新しい情報も引き出せず、住民の援護には遠いものだった。

 結局、会の中で意見が二分し、話がややこしくなってしまった。残念ながら住民運動の難しさを、お互いに痛切に感じ、学習する結果となった。12月4日朝、会長初め男性5名女性4名で市役所へ、12月1日付け土質調査の通告について、抗議の文書を出すとともに市長面談の要求に行った。昼前から二時すぎまで、秘書課の前でねばった。局長が何とか設定するからという言葉を信じ引き上げた。夕方、会長のところに電話があり12月8日朝10時に、市長が会うという返事がきた。

 これは11月24日、突然やってきた局長との話をうけて、どうしても市長自らの回答を得るためであった。12月5日付け神戸新聞に、測量について河川敷では出来たとの記事がのり、局長が実質測量は断念せざるを得ないと言っていることと、裏腹なことに抗議するためでもあった。前日の12月7日、市長面談のための集会をした。25名集まった。代表していくものが、市長に何をいうかを相談した。12月8日当日は6名で市長に面談した。会長が今までの市のやり方の横暴さ、市民とのはなしあいによって理解を得たいと言いながら、良く説明もしないで前へ進めようとする市の姿勢を非難した。市長は最後に「皆さんが住んでおられる地域は住環境の良いところであるとわかっている」といいつつ、「この計画については理解してほしい」だった。いつもいつも変わり映えのしない話で終わった。期待もしていないが、いやがらせに来ているようなものだ。

 12月10日、西宮市中央公民館で阪神間道路問題ネットワークの会合があった。平成7年5月25日、砂場さん宅にて最初の会があった、?らしい。私は確か、この回がはじめての出席であったと思う。毎月開催していたので、この回は第7回目となる。甲子園では8月6日、あの助役出席の日だった。いよいよ「阪神間道路問題ネットワーク」と名がついた、記念の開催となった。これからは月一回第三日曜日に会を持つこと。道路は絶対につけさせない。など確認しあって終わった。この日の参加者は15~6名に、議員さんまでと多かった。代表者については次回に決定ということになった。

 地元の運動だけではなく、えらいことになってきたな。とにかく皆さんの知恵と力をもらって「がんばらなきゃならんですよ」。これって染原会長の口調ですよね。なつかしく、生前のお姿が目にうかびます。『染原さん?この結果「山本さん、それでいいですよ。」って言ってくれますか。』

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『みちしるべ』私の住民運動(9)**<2002.11. Vol.20>

2006年01月07日 | 私の住民運動

わたしの住民運動(9)

山幹の環境を守る市民
山本すまこ

 平成7年8月30日、31日、9月1日の三日間の説明会は、私たちにとって意外な結果であった。広い体育館での説明会に集まった住民は、市当局の矛盾を目のあたりにした。少なからず、住民が必ずしも無茶ばかり言っている訳でもないと思ったに違いない。初めて参加した人達のなかから、運動の手伝いをしてもらえる人を募った。Cさんとの出会いも、ここであった。他にも力のある人たちに出会った。この三日間の説明会で、市当局がたてていた計画が、完全にはずれたに違いなかった。運命の女神は、住民側についていると思えた。正直なところ、最初は押し切られても仕方ないか??と、内心思っていた。

 9月4日、朝一番、市庁舎へ市長面談を求め押しかけた。市長に会わせ!!部屋に入らせようと職員は促したが、我々はここ(秘書課窓口)でいいと動かなかった。入れ替わり立ち替わり人が出入りするので、部屋に入ってほしいと、職員は必死でした。二時間余ねばって、局長が責任をもって面談の日時をセットするということで引き上げた。そして4日後の9月8日、市長面談を行い、8月21日付け市の回答書に対して抗議するとともに、例の三日間の強引で高圧的な説明会を開催したことに対して、抗議文を提出し激しい抗議を行った。この日は6名が参加した。

 そして9月18日、市議会議長宛陳情書を提出した。内容は東西の道路の交通量が増えれば、南北の整備がどうなるのか、予想交通量を明らかにすること。今後、懸念される公害道路に対する、市の対策について。そして、住環境の保全と道路網の調和は、どのようにさせていくのか、市の基本的なコンセプトを明らかにすることなどとした。

 そして23日、藤井さんを講師にお願いし、勉強会を開催した。一人一人が市に対する攻めを理解しておかないと、ちぐはぐな突き方になりかねないからでした。こうして私たちは絶対に、市の勝手な説明はさせないと、最後に測量拒否を決議して閉会した。さっそく各町内会長と、50数名の測量反対の署名を集めて、9月22日、市長に送った。

 10月に入って5日、またもや突然市の職員が各会長宅を廻って、10月18日に瓦木小学校で説明会を開催すると通告し、北町にはチラシを各戸配布したのである。一方的なやり方に抗議したが、市はこの日の説明会で、測量の通告をするつもりであったようだ。10月10日の市政ニュースにも載せた。10月10日、マンション集会室で対策会議を開いた。結集を何としてもしないといけないと。市が配ったチラシに加えて、市民の会の呼びかけを載せたチラシを作って沿道他に配った。..

 10月18日、当日には8月と同様、会場の正面には横断幕を張り付けた。この日、私は前々からの予定があって、どうしても神戸に行く用があった。とにかく一分でも早く帰ってこようと思っていた。駅からタクシーで駆けつけたのは8時を過ぎていた。なにやら大騒ぎがあった様子。「もうちょっとで山本代表が殴られるところだったんよ」「いや殴るところだったかも」と、私は「殴ってもらえばよかったのに」と言った。前回、都市計画の人間も出席するよう求めていたので、都市計画課長が出席していた。初めてだったから、きっと会場の雰囲気を飲み込めていなかったのだろう。「我々には権力がある」と言ったそうであるが、よく冷静に考えれば場内の雰囲気に圧倒されて、ついろれつが廻らなくなったに違いない。しかしながら、我々にとっては、市を攻めるこの上ないチャンスではないか。(このナカツカなる課長、名前をすぐ忘れるので一応明記しておく。)「謝れ、謝らない、」の押し問答がつづいた。局長が最終的に曖味ながら謝った形となった。(道路課、ノブトウカチョウ、ナルオブチョウ、ナガサキキョクチョウの時代)

 前回8月の三日間のときに、住民側はハンドマイクを用意していた。市はあれだけはやめて欲しいと言うので、こちらに質問があるときはマイクを必ず住民にまわすと約束するならということで、今回は用意していなかった。ところが質問がありますといっても、市側はマイクをまわさない。それどころか、職員が一方的に図面の説明をしようとしている。となりにいたYさんが、私に「どうする?止めないと説明されてしまう」「早く止めんと」と促された。思わず「止めなさい!!」と、会場の一番前で、今正に説明をしようとしている職員の前まで、つかつかと歩み寄って「止めなさい!」と言ってマイクをひったくった。そのマイクを一度は局長に返し、改めてマイクをと手を差し出した。私は市がいかに適当な説明ばかりをしているか。この問題が起こった最初から、逐一、住民の我々がどういう理由でこの事業を反対しているのかを、順序立てて話した。私は平成3年からこの日、7年10月までのストーリーは、きっちり頭に入っていた。市側も住民側も誰が、いつ、どこで、何を言ったかを話した。住民の思いも話した。それで市は、本当に誠意ある対応をしてきたか。否、全く市民にとって有利な話は一つもなかった。「どうですか、皆さん!! 市が言っていることに納得ができますか?できませんよね!!」皆大拍手!!市の出る幕はなかった。最後に代表が局長に念を押した。「今日の説明会は流会ですね。」と。ところが市は、小さな声で10月30日から測量を始める。と通告して終わった。翌日、早速!!市職員暴言を吐く「我々には権力がある」!!沿道にビラをまいた。

 市当局はまたもや、一方的に10月25日の市政ニュースで、10月30日より11月30日まで、山手幹線道路事業の測量開始を知らせていた。10月27日、市長に抗議をしに行った。染原会長はじめ12名が押しかけた。抗議文と地権者と沿道住民の測量拒否の署名を提出した。いくら激しく抗議しても、市側の言い分はいつもいっしょであった。決まったことだから、推進しなければならないという、何の説得力もないものだった。局長に確認した。説明会は出来ていますか。開催はしましたが出来ていません。と答えた。

 10月30日、市が測量を開始すると通告した日である。朝9時におよそ100名が集まって、市がやって来るのを待った。しかし、現れない。住民はこれからの闘いへの意志統一を図るため集会し、10時ごろ市が来る様子がないので解散した。河原では業者らしい二人が、さかんに住民の偵察をしている様子。声をかけると返事もしないで逃げるように去って行った。また一方、水道局員が自転車で偵察ともみえる行動があり、こちらも偵察、上甲子園浄水場に入っていったという。12時ちょっと前に、N係長が27日の抗議文に対する市の回答を、30日付で届けてきた。とにかく、平成5年2月2日、事業認可を取得して以来説明会を8回も開催してきた。今後は調査をし、図面を作成して、事業説明をしたい旨の内容であった。住民たちは市に対する信頼感がなくなるというより、市に対する落胆感、絶望感が強くなるばかりでした。

 朝集まった住民は解散したが、皆緊張して午後も何人かは自転車で周辺をパトロールした。山幹を横切り新堀川沿いに走りかけたとき、前から隊をなしてこちらに向かってくる一団が目にはいった。もうビックリ!!「きたあああ!」と言ってUターンして戻った。測量されそうと思うところに、何人かがいたので手分けして連絡網を流した。道路課の職員が、こんなにたくさんいる筈がない。40人くらいの男たちが隊をなして、チョウカをはいて行進してきたのだった。今もそのときの自分の姿を思い出すと滑稽にも思えるが、その瞬間は恐怖に似た驚きであった。その団体が山手幹線の角まで来たとき、三つに分かれて一つは武庫川の河原へ、一つはビュウハイツの方へ、そしてあと一うはレールシテイの方へと、住民を撹乱するようにカッパと行進をしていった。住民は意外な市のやりかたに右往左往させられた。それでも、それぞれの一団に住民たちは「やめろ、やめろ」と叫びながらついて行った。50人くらい集まっていた。ただ黙ったまま市の職員たちが行進し、もとの松並浄水場へ戻って行った。道路課の職員と水道の職員が援護していたのだった。浄水場には、測量の機械らしきものがシートを被せておいてあった。約1時間の攻防であった。N課長が西の方の町内の人につかまっていた。天道町にも説明会を開け、その前にどうして測量に入るのかと食い下がっていた。路上でN課長は延々と抗議を受けていた。私は早く他の職員を帰してあげなさいよ、ということで課長一人残っていた。4時を過ぎて解散となった。この日、道路課と違う人間が多く来て、住民を威嚇するがごとくの行動に、激しく抗議のシュプレヒコールを繰り返した。

 10月31日朝9時、天道町の角を市の車が3台通過したとの連絡が入った。緊急招集、約5~60名がすぐさま集まった。市職員はビームを飛ばして測量出来る機械を、山手幹線北側の歩道上のポイントに設置した。これはたいへんだ。ビームが飛ばされればそれで測量出来てしまう。何とか複数の人間がレンズを手で覆った。職員も若い主婦に接触すれば、さわったと騒がれる。どうしようもなく、お互いにレンズとレンズの三脚を持って立っていた。私は市の強引な測量を、目いっぱい非難する言葉をならべたてた。「市は市民より業者の為に事業の推進をしようとしています。発注したから早く業者に仕事をさせないといけないというのです。皆さん市の今の強引な姿を見てください」「43号線で多くの人たちが苦しみ、命まで失った。19年間という長い年月を費やして勝ったといっても、その人達の人生は取り戻すことは出来ません。誰がその人達の人生を償うのですか。市長が責任を取れるのですか。43号線と同じ過ちを、ここ山手幹線でもおかそうとしています。私たちは絶対に負けるわけにはいかない。」道行く人、信号待ちで止まる車に向かって訴え続けた。午前中は11時45分に、市は引き上げた。午後からは2時15分にやってきた。昼休みが長いではないか。と冷やかした。4時20分までにらみあいをした。午後からはI氏が、早速レンズを覆うプラカードのような盾を数本作ってきてくれました。住民が手早くこんなものを作れる団結は、きっと市側にプレッシャーをかけたにちがいない。二日目も測量が出来ず解散。市23名、住民60名。11月1日9時から見廻りをしながら、市がくるのを待った。市の様子をうかがうと、どうも協議中とのこと。みはり当番5名づつ5時まできめた。11月2日、「本日11月2日、山手幹線測量を強硬実施予定」と、この事業絶対反対とのチラシを自主的に作って配ってくれる人材も現れた。11月2日からは測量ポイントとして錨が打たれていた場所に、6~7名づつ座り込みをすることにした。市が発注しているコンサルタントの人間も見え隠れしていたが、結局午後2時で解散。市と連絡、11月6日(月)の連体明けまでは測量しないと確認をとった。時間がくれば帰る、休みは休む。真っ向対決しているわりには、お役所仕事の域が出ないと苦笑する。平成7年11月、反対運動開始から4年が過ぎた。

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『みちしるべ』私の住民運動(8)**<2002.9 Vol.19>

2006年01月07日 | 私の住民運動

わたしの住民運動(8)

山幹の環境を守る市民の会
山本すまこ

 平成7年2月6日、局長が謝りに来られてから、私達も震災のあとの生活の建て直しに必至でした。地域には崩れたままの家屋があちこちにあるので、出火の心配があり、夜回りを交代で行いました。山本家は3月31日に仮住まいの枚方に引越しましたが、役員や地域の皆さんが、5月末まで夜回りをして下さいました。

 こんな時期に、市も山手幹線どころではなかろう、しばらくは休戦であろうとたかをくくっていました。ところが6月に入って、市当局は住民との協議会の開催について打診していた。

 平成7年7月7日、国道43号線道路裁判原告団の19年に亘る闘いに、最高裁がついに判決を下した。原告の住民に、国と公団は賠償の責任ありとの歴史的な結論をだした。道路建設に反対している私たちにとって、大きな希望となった。もっと頑張ろうと、追風になると意を強くした。行政側にとっても今、このような判決を目のあたりにすることは、決して有利な材料ではないことを自覚していた。

 7月12日、協議会の趣旨と住民側の代表名簿を提示した。代表は各町会長各々、各町の代表および若干名とした。そして結果8月に一度開催をしてもいいかなと。然し、阪神間道路問題ネットワークと同じ日にして、メンバーにも同席してもらおうということになった。

 市には第一回協議会なので、是非とも小出助役の出席をと要望した。暑い盛りの8月6日、上甲子園サービスセンターにて、ネットワーク月例会の終了後、午後3時から開始となった。例会は少々時間が延びてしまった。早い目に到着した小出助役は、日曜日のクーラーのない、下の事務所で待たされる羽目となったのである。やっと20分程して連絡に行った。「わしを誰だと思ってんのか、いつまで待たせるんや。」といわんばかりにせわしげにばたばたと扇子を使って入って来た。この日、住民の要望で都市計画部の職員が出席した。後に局長となった志摩部長が、都市計画部長として来ていた。住民は計画段階の話をしたかったのである。初めて助役が出席しての会であり、皆、今日の会は画期的な会となるであろうと期待も大きかった。

 しかし、冒頭からこの会の目的について、市側と住民側の理解が全く違っていたのである。我々住民は、今後どのような説明会を、どのようにして開催していくか、双方代表をだして協議していこうというものであった。ところが、市はどのように工事を進めていくかを、住民と話し合って行こうというものであった。真っ向から正反対の立場、理解のなかでこの協議会が成り立つ筈がなかった。結局、助役も協議をしないとは言っていないといいつつ、激しい抗議に対して、議会が承知している、議会に何度も陳情した結果、賛同を得ていないではないか。とまで言い放った。いらいらも頂点に達していた。助役は住民の質問にもたもたしているN局長を、扇子で叩いたりもした。滑稽な姿であった。そして結論は、市側は住民との協議会の設置を拒否!と断言して会を終了した、と言うよりせざるを得なかった。助役はあくまでも住民には説明をするというので、沿道全体の住民に説明をするようにと。N部長は全地域ですか、とびっくり。全員が口をそろえて「そうです!!」。後日この「全地域」がたいへんな思いをされられることになったのである。

 平成7年8月9日、住民は8月6日の結果はまことに遺憾であると抗議し、住民としては速やかに協議会の設置を再度要求した。8月21日、協議会の趣旨が市側と住民側とで、違いが大きすぎるので協議会は設置しないと言ってきた。そして市は、広い範囲の住民を対象の説明会を、開催したい旨の書面を届けてきた。また、同時に再度、瓦木小学校講堂にて3日間、連続で開催するというものでした。各町内に回覧、または全戸配布し、8月25日発行の市政ニュースで公表するといった。翌8月22日、即抗議文を提出。地域全体の説明会としては、周知期間があまりにも短い。平成6年12月26日という、年末のあわただしい時に説明会を開催したり、今回また、周知徹底できない形で強引に推し進めようとする。市当局のやりかたは、住民に対して「理解協力を得ながら事業を進めたい」と言っていることとは程遠く、形だけの説明会を強引に行おうとしている。このような市の態度は住民を無視して、一方的に事業に入ろうとしているに他ならない。私たちは断固、このような説明会は受け入れることは出来ない。あらゆる手段をもって抵抗していく。最後に「円滑に説明会を開催するために、再度協議会の設置を」との申し入れをするとともに、今回の三日間の説明会の中止を要求した。市当局に抗議しつつも、対策を考えなければと8月27日、緊急の相談会を開いた。

 山本家は枚方に転居中、早くても9月半ばまでは帰ってこれない。枚方から三日間、通って来なければならない。これは大変である。とにかく、一日目は何とか枚方から来ることにし、説明会を流会にしよう。地域全体を対象にしているのだから、横断幕をつくって反対のアピールをしようと決めた。染原会長は、連合の各会長へのアタックを試みて下さったり、記者にアドバイスを求めたりして下さったようでした。当日は広い講堂から声が透るように、住民にもマイクをと約束をとりつけた。

平成7年8月30日、当日墨根鮮やかに堂々とした男らしい字で

  • 「市民との対話を拒否する説明会は中止せよ」
  • 「西宮市は環境破壊する道路計画を撤回せよ」
  • 「行政の横暴を許すな」
  • 「山手幹線の拡幅、架橋に絶対反対」

との横断幕を用意し、市が計画図を貼る前に講堂の正面にでかでかと掲げた。

 はじめて、沿道地域全体を対象とした説明会の開催で、今までに参加したことのない小学校周辺の会長も“どんなんかな”と覗きに来た。圧倒的な住民の迫力に度肝を抜かれたに違いない。本心は絶対賛成。市の不甲斐なさを情けなく見守ったに違いなかった。集まった住民は約130名、口々に反対を訴えた。環境面から、私たちの地域の、また地球全体からみても、これ以上環境を破壊する行為は罪と言っても過言ではない。

 市の財政面からも、想像を絶する阪神淡路大震災で、いまだ生活の基礎を失い希望を見い出せない多くの人達への支援が優先されるべき時。地域の生活道路として、何ら不自由のない山手幹線道路を、住民の心を踏みにじってまでも推進しようとする行政のやり方に、憤懣やるかたなき思いが溢れていた。この場に参集した住民の多くは、行政とは一体誰のためにあるのかと考えたに違いない。私たち反対の会の一人一人は、自信を持っていた。この当局の誰が私たちの生活環境を守ってくれるんだろう。この人達は仕事をしているだけなんだ。内容を考えることは、仕事の邪魔になるんだ。やっぱり自分たちの地域の環境は、自分たちで勝ち取るほかないんだ、と。仕事をしている人も、自分の地域に帰った時、私たちと同じとは言わないまでも、それに近いところまで理解ができるに違いないと思った。

 平成7年8月30日、平成3年から続けてきた反対運動、またこれからも続くであろう運動の中で、この日の説明会は一つの歴史的な日となったのでした。それは、この日初めて集まって、初めて市の横暴を目のあたりにして、初めて「山幹反対のやからは何をほざいておるんだと思っていた人」が、その意味がわかってくれた日となったのでした。市を前に住民の意見が、市の説得を超えていることを知った市民は、即、私たちと同じ行動はできなくても、心に潜在することが大事であることが、後々に解るところとなった。会の最後に、市民の会の代表が、「今日の会は流会と言うことでよろしいな」で流会になった。

 とにかく8月25日の市政ニュースで公表されて、30日の開催という、今までにない市の一方的なやり方に、少なからず不安を抱いていた我々でしたが、いざ大勢の聴衆を前に、市が無謀なことをしようとしているかを訴えることが出来た。と、まずは一息ついた。

 枚方に帰り着いたのは午後11時を過ぎていた。

 翌8月31日は、上甲子園サービスセンターでの説明会、市も必死であろう。

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『みちしるべ』私の住民運動(7)**<2002.7. Vol.18>

2006年01月07日 | 私の住民運動

わたしの住民運動(7)

山幹の環境を守る市民の会
山本すまこ

 平成6年暮の市当局の説明会の最後に、町内会や市民の会の代表で協議会をつくる。そこで説明会の議案もつくる。市と市民が同じテーブルにつくことを基本とする。何回も、市の一方的な説明会の開催の仕方に、不満がつのっていたのでした。

 平成7年1月6日朝、道路課の担当者が「おめでとうございます。今年も…」とあいさつをして帰った。その午後、何の前触れもなく、1月10日から31日まで土質調査をする、とのチラシを配布したのでした。もちろんすぐに抗議の電話をした。市を敵と思っているなかでも、当時の担当者は特に体質に合わなかった。翌1月7日、市長に四町内会長名で抗議文を提出した。回答のないまま9日朝、調査の機械を買収地の中に運び込んだのでした。私たちは主婦4人ほどで調査に入れないよう抗議し、市の局長に電話(当時子機を持ち出して)で職員を帰らせよとせまった。翌日も朝に昼に職員がやってきた。主婦たちに「警察力をもってしても強制執行できる」などと脅すようなことを言った。1月12日、再び会長と市民の会代表から、市長あて抗議の文書をだした。市は回答書に「6月9日の打ち合わせ会(市の表現)において説明のための調査であるので理解を」としてきた。市は今にいたるまで、この事業の説明会を1回も開催していないのであった。とにもかくにも力ずくで強行しようとの様子がありありでした。また、担当の職員も手柄をたてようと思ってやっているんではと疑いたくなるくらいでした。13日の金曜日、局長が会長宅に回答を持ってきました。これでは何の回答にもなっていないと抗議した。翌日から休日になるので17日、再度回答をもらう約束をした。とにかく強引に調査の機械を入れたがったが、4~5人の主婦でなんとか押し返していたのでした。

 しかし、市の強引さをこのままにしておけないと、15日に近隣の町内会役員と市民の会の代表が、黒住先生の前の事務所で相談をした。協議会を作ることは測量の交換条件ではないこと。また、協議会の目的は、あくまでも説明会の手順を決めるだけである。市側には必ず助役が入ることを条件とする。市側は人数を制限しないこと。以上のことを条件としてなら、協議会を作ってもよい。と返事しようと決めた。とにかくひとつ協議の場を設定し、そこで何とか住民の思いを訴えていこうと考えたのでした。反面、協議会をつくることが計画を遅らせることより、逆に進めざるを得なくなるのではないだろうかとの不安もあった。その夜は皆、17日に市が出す回答に期待は出来ないだろうと予測していた。しかし、一方的に市が強引にやってくるのに負けられないと思った。協議会の設立を申し入れる事に決めた。その二日後に、だれがあの大地震がおこることを予測しえたでしょうか。

 平成7年1月17日午前5時47分、阪神淡路大地震起こる!!

 甲子園口駅前の7階建てのマンションが倒壊し、18名の尊い命が奪われました。また町内会の役員ご夫妻と孫さんの二人も亡くなられました。駅前の崩れたビルの前で、役員たちと供花しご冥福を祈った。町内にはベニヤ板の掲示板を10数箇所に設置し、情報の伝達に努めた。高齢者で自宅に残って耐えている方々に水や救援物質を、避難所から確保してきて配って廻った。毎日毎日、朝一番の仕事が水汲みでした。家にあるすべての鍋釜に水を汲みおきした。今でも忘れられないのは、水をお年寄りの家庭に配った時、小さな入れ物しかなく、重いタンクから移し変えるのが大変だったことです。ガスもきていない、水道も出ない、とくに北町は一番北の端で、給水車もまわってきてくれない。そんなとき、小学校の避難所に会員を見舞った際、各県から給水車がたくさんきてくれているそうですが、みんなに一応行き渡ると、遠くの他府県からきてくれている給水車は帰るというのです。また、私が帰る途中で、小学校の近くで消防車の給水車が、廻ってきているのを見て、思わず「このへんなら学校で水を貰えるのにどうしてこんな近くに給水車が来ているのか。北町には一回も廻って来ないではないか。」と訴えた。署員は北町は管轄が違うといった。私はがまんならなかった。家に帰ってすぐ消防署に電話をかけた。すると何回も待たされたあげくに、電話はどういうわけか水道局の職員に代わっていた。幸い家族に怪我もなく助かりましたが、毎日三食たべるだけが精一杯の状態が続いていました。近所同士で元気づけながら、ガスがつかえなければ電気の鉄板を使えるとか、ボンベのコンロも親戚から届いた。食料もあちこちから送られてきた。こんな生活を通してわかったのですが、人間ってやはり食べることを確保出来なければ不安になるんだなあ。水が出ないだけで、普段の生活が出来ず全てストップしてしまうなんて、人間は弱いものだと思った。二週間経っても、ガスも水道も復旧されませんでした。

 そんな混乱中の1月31日夕方6時に、S会長のお嬢さんから電話があり、「市の道路課の課長から会長に連絡したいと言ってきたので、オーストラリアにいる父に電話をしたら、山本さんに電話するようにいわれたので」、と言うのです。当時、会長はマンションが地震で生活が難しい状態にあったので、ご長男のところに避難していたのでした。市は会長が留守であれば、市民の会の代表に連絡するべきであろうに、会長のお嬢さんの嫁ぎ先まで電話するという、非常識な行動に腹立たしい思いでした。それからしばらくした6時45分、会長自らオーストラリアから電話がありました。マスコミをお願いして抗議して欲しいとのことでした。夜8時ころ、道路課の課長ほか1名が来て、市当局は2月6日から測量調査を開始する旨を伝えた。代表は受け取らないと言うと、課長は家の前で書面を読み上げ始めたのである。私はすぐに役員に電話し、近所まわりにベルを押して廻った。マスコミにも連絡を頼んだ。夜8時ということで、どこもご主人が帰宅していた。すぐに25人位が集まってきた。代表は怒りの抗議を声高に言った。皆も口々に抗議をした。車のまえに立ちはだかって、帰ろうとする職員に「曳いてから行け」という役員もいた。マスコミも飛んできた。約1時間半にわたって、住民は怒りの頂点に達した。翌日の新聞にも「罷り通るお役所感覚」「震災に便乗」「こんな時に…」などと大きく取り上げられた。二週間経っても、パジャマに着替えてやすむことも出来なかった。そんなときの出来事だったから、怒りも半端ではなかった。

 翌2月1日、すぐに抗議文を作った。2月2日、土方のような格好をして、市庁舎に向かった。女四人で行った。市長は?と入っていくと、たぶん血相が変わっていたんだと思う、助役が出てきた。市もごったがえしている時期だったので、助役が出てきたのにはちょっと驚いた。私は顔を見るなり、1月31日もってきた手紙を見せつけて「これはなんだ!!」「こんな混乱している時に、よくもこんなこものをのんきに机に向かって書いていたもんだ!!」「いったい市はなにを考えているんだ!!」激怒していた。「まあまあと、椅子を勧められ座った。書類の日付は、1月31日の31が手書きになっていた。ますます腹がたった。地震後に、この書類を準備していたわけだから。それを言ったら助役が印刷し直すからと書類を返してくれと言った。私は証拠だから渡さないと書類を取った。抗議をしていると益々興奮した。机の上にあったガラスの灰皿を、助役に投げつけんが如く怒った。小さなテーブルだったので、席には二人座っていた。後に若い人二人が立っていた。いつもの怒り方とは比較にならない位だったので、一緒に行った人達も今日の山本は本気で怒ったと思った。帰り際、助役が「山本さんの腰が痛そうでんな」などというから、また腹が立った。「水汲みをしていたら腰も痛くなるわ!!」吐き捨てて帰って来た。

 2月6日、局長がやってきた。謝罪をしにきたのでした。謝罪の文書と協議会の規約とメンバーの名前の案を持って。ところがこの文書にも、2月だけで日付が入っていなかった。市の仕事のいい加減さに、あきれる限りであった。局長はわが家の玄関脇の腰板がずり下がっているのを見て「たいへんですねえ」と言って帰った。謝ったことが原因かどうかわからないが、この局長は地震後の、復興いまだ大変な中、3月に退職した。わが家も局長が来られたのち、間もなく家の建て直しを決断、3月31日から一時枚方に引っ越すことになった。こんな事態のなか、測量もあるまいと。

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『みちしるべ』私の住民運動(6)**<2002.3. Vol.16>

2006年01月06日 | 私の住民運動

わたしの住民運動(6)

山幹の環境を守る市民の会
山本すまこ

 平成5年4月24日、市との話し合いの日から、市の担当部局から再度話したいとのことで5月15日集まった。結果は何の進展もみなかった。私たちはこの事業を前に進めては困るのですから。あくまでも影響をうける中津浜線までの沿道住民を対象にして、説明会を開催するよう申し入れていた。地元の会長から要望を出さない限り出来ないと市は言う。市は申し出のあった町を一つづつを対象に説明をしようというのです。我々市民の会は絶対反対であるが、各町の会長は積極的に市に働きかけるほど、この問題に意識をしてはいませんでした。何としても市のいやがる市民が団結をしていかなければと思いました。そんな矢先、長老の会長が入院され、会長の代行を決めざるを得なくなりました。1ヶ月も経つと、会長の家族から辞任を伝えてこられました。代行ではなく次の会長を出さなければならなかった。会長の信頼の厚かった染原さんと決まった。本来なら副会長のYさんが会長となるのが普通でしょうが、副会長のYさんは市で長年働いておられた方だったので、山手幹線問題をかかえている北町の会長は引き受けられないとのことでした。

 平成5年7月14日、21日、市長とのトーキングトゥモローという機会を得て会いにいきました。14日は市民の会として、21日は友人ご夫妻に申し込んでもらって、一緒に面談に参加しました。一回の面談の時間は15分と決められていましたが、30分は話しました。秘書から次の予定があるからと急き立てられました。市長の答はいつも一緒でしたが、機会のある度に積極的に訴えていこうとの思いでした。

 反対運動の地域拡大を、西宮市だけでなく武庫川を超えた尼崎市側にも協力を得るために、働きかけをしていこうとの意見がでた。まず尼崎での南北線の反対をしている砂場さんを訪ねる事にした。8月19日2時、暑い最中であった。その時は山手幹線の尼崎側の住民は、この運動を理解も関心も示していないし、その地域から南北線の反対運動にも参加していない。と同時に山手幹線沿道の尼崎側は、殆ど橋の取り付け部分程度の事業だし、工事のための用地もすでに空き地としてあるし、特に新たな買収が必要でもないし……と。私とYさんは汗をふきながら手応えもなく帰ってきたと覚えています。

 8月25日、住民の相談会開催のチラシを配布した。久しぶりの集まりでした。今までの報告とずっと引き伸ばしてきた市当局との話し合いを、29日にもたざるを得ないのでどのように対応すればよいかの打ち合わせでした。

 平成5年8月29日、市との話し合いは全くかみ合わないまま終わった。市はあくまでも計画を見直す気はなく住民の希望を聞こう、なんでも要望してくれという態度であった。事業の実施ありきであった。その為の努力は惜しまないというのである。都市計画部長をもう一度出してくるようにとの意見もでた。部長がでれば同じ土俵に上がれるのか、と道路部長。そんなはずがない。市は常に計画を進めることだけを考えているのだから。住民としては1ミリでも1分でも引き伸ばして行くしかないと徹底して考えていた。

 9月1日、県知事との対話申し込みを「同じ団体はだめ」との返事がきた。しかし代表者を変えても内容も山手幹線以外の問題、たとえば南北線の問題であればとのアドバイスを得て「さわやか土曜対談」に申し込んだ。

 平成5年9月になって内部障害者を守る会連合会の新明進会長を訪問し、協力を依頼した。相談の結果、早速県議会に請願書を提出する手はずを整えようという事になりました。急遽署名を集めることになり、370名の署名をもって、9月24日紹介議員をお願いに各党をまわりました。会長が考えるほど容易ではなく、再度、30日にもまわりましたが、紹介議員の署名を頂くことができませんでした。しかし各党に西宮市の山手幹線の現状を説明でき、市当局との説明会に出席し住民の声を聴いてもらうことを約束出来たことは良かったと思いました。結局、平成5年9月30日「公害による新たな内部障害者が増える恐れがある」旨の陳情書として県議会に提出致しました。10月1日付神戸新聞、毎日新聞、読売新聞に障害者団体から陳情書が出されたことが記事になった。

 11月6日には、9月に申し込んだ知事との面談をした。S会長代行は知事への質問状をつくり臨んだ。知事は山手幹線は43号線のような道路にしない、また43号線だけに迷惑をかけられないなどと回答した。

 県への陳情や知事との面談をした為か、11月12日、西宮市道路N部長とI課長が町内会代行のところへ協議をしたいと言ってきた。北町だけを相手に協議したいというのである。住民は最初からひとつの町内の問題ではない。沿道全体の町内を対象にした説明会を開催するように主張してきた。とりあえず代行は1月に会うことを約束した。市は住民の代表とみている北町の役員に説明するということでした。

 平成6年1月14日夜、私たちは役員というより運動のはじまった、24番23号の一角の人達と地権者を中心に市と会うことにした。市は事業説明会を開きたい、それも定期的に開いて早く事業を進めたい、また具体的な設計について説明をしたいと言い、一方、住民側は今日のような会は役員会を拡大しただけの会であると主張した。ところがこの日、とんだハプニングがおこった。反対運動の応援をしてくれていた連合会長が知ってか知らずか、会場となっていた市民館にひょっこり現れたのでした。

 市と我々が話していることに大変立腹され、大声で私たちを責めたてたのでした。市の関係者を前に仲間割れのような場面を見せるのは一番避けたいことなのに、お構いなしに町内会長と私をどなりつけた。市民の会への事業説明ではなくほかのどの会長にも知らせていない。M会長だけをはずしての市との話しでないと説明しても聞かなかった。M会長は晩酌してから来たようで酔っていた。とにかく後日、市が連合会長と話しをすることでその場をおさめた。が、非常に気まずいその日の会であったし、今後のことを考えると頭が痛かった。この連合会長を敵にするのはまずいと思った。風貌からして迫力のある会長だった。それでも市当局には後日、連合会長との話の結果はかならず報告をするように伝えた。部長はM会長からも報告をしてもらって下さいとのこと。

 5月になってN部長に電話をして、M会長との内容をたずねたところ、4月から部長も課長も変わったとのこと。新しい部長より連絡があり、連合の各会長に接触をしたといい、その報告をしたいという。山本ひとりで聞く話ではないので、役員会でなら日時を会長に相談しておくと返事した。結局は各会長ひとりずつ訪問して、運動をくずそうというものでした。担当者が変わってから一向に連絡がないと思ったら、そんなことをしていたのです。新しい課長補佐はまえにいやな係長として出てきた同じ人です。そんなとき6月はじめ、連合会長が急死というニュースが入った。こわい会長ではありましたが、結構良くしてもらっていましたから驚きとお気の毒の気持ちと同時に、1月の事件を思いだし複雑な気持ちでした。申し訳ないがやはり反対運動の影響を考えてしましました。

 夏がすぎ9月になって裏でごそごそされるんならと、9月25日、市と話をすることにしました。終始説明会の開催の方法で意見が住民と市側とで一致できませんでした。私たちは沿道住民全体を対象に開催すること。みんなに知らせることなど。新しい部長は60名以上も集まった住民にかっかして話にならなかった。県での約束であった議員も来ていたし、記者まで来ていたのである。どれだけの範囲で説明会を開くか決めるのは部長の権限でできるのかとつめよった。すると思わず自分がすると決めれば出来ると言ってしまったのである。こちらの思うつぼにはまってくれた。しかし課長補佐はでしゃばりでねちねちと市は住民が何をいおうと、するといえばするんだと思わせるような口ぶりにうんざりした。住民の意見を無視して来年には調査をし、工事説明をするというのであった。説明会がおわってからますます課長補佐が動いていた。地域の住民というより会長個人の意見を地域全体の意見としようとしていた。この事は11月に入ってから連合の役員会で判った。10月18日にすでに会長や連合町内会長にまで会っていたのでした。事業対象地域でないので「時期早尚であり説明を聞く必要はない」と断った会長もいたのである。私たちが沿道全体に説明をという要求を市は退けるいい理由にしたのでした。

 北町に関してはすべて市民の会の窓口を通してもらうよう、そして必ず相談をしてから返事をすると決めていた。絶対に即答をすることはしなかった。もちろん市側も時間かせぎであることは見抜いていたが。次の説明会として12月26日、説明会を開催することを一方的にきめてきた。少なくとも沿道全体を対象とすればそれなりの会場を用意しないと入れないので、小学校の体育館でするように要求した。住民側も多くの人に集まってもらいたいと独自のチラシを作って沿道に配った。暮れも押し迫ったこんな時に、市は何を考えているのだろうと憤りを感じながら勝手なことをさせられないとの思いで結集に頑張らぎるを得なかった。

 あわただしい暮れにも拘わらず、大勢の人が集まった。もちろん圧倒的に住民側の反対意見続出であった。住民がチラシを配ってもなかなか理解が得られませんが、市の担当者を前に矛盾した回答を聞くと皆心から反発を感じるようでした。こんな説明会の度に反対の会へ関わってくれる人が少しずつ増えていきました。

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『みちしるべ』私の住民運動(5)**<2002.1. Vol.15>

2006年01月05日 | 私の住民運動

わたしの住民運動(5)

山幹の環境を守る市民の会
山本すまこ

 平成4年2月、「知事と語る阪神土曜対話室」が開催されることを知り、早速応募した。2月15日9:30、阪神県民局にくるようにとの回答があった。30分間程でしたが参加した人が各々訴えた。私たちの住む地域がいかに良い環境の住宅地であり、そんなところにトラックが常時走る様な道はいらないと。忘れた頃の5月半ば、貝原知事より参加者ヘのお礼状が届いた。環境破壊を食い止める抜本的な対策が急務であり、県としても国に規制の法制化を要望している旨、また地元と話し合いながら地域にふさわしい道路整備を進めたいのでご理解を……との要旨であった。結局は道路は必要であるとのことでしたが、私たちはどこにでもいい、反対の気持ちをぶっつけたいという思いでいっぱいでした。

 またKさんの紹介で、県議会の〇議員に話を聴いて貰えることになった。本会議でこの件について代表質問をして、知事から回答を引き出してくれるというのでお願いした。

 3月に入って3日に県議会に陳情書提出、5日本会議傍聴。市議会には10日提出、16日傍聴にと、めまぐるしかった。16日は「南北線の調査費を計上しないで」という陳情の傍聴もあり、ダブルであった。提出に行く人達、傍聴に行く人達と手分けをした。この間にパチンコ問題で出した陳情もあった。2月17日、尼崎市議会に提出した「架橋しないで下さい」との陳情は、傍聴できなかったが、継続審議となり次の委員会で再度審議されるとの回答を得た。西宮市と違って、出された陳情が必ず二回審議されるという。私たちの要求を受け入れられるとは思えないが、少しは良心的かなとも思えた。県の傍聴に高齢の方も参加して頂いた。よく行って下さったものだと振り返って思います。

 山手幹線の問題は、小さい地域だけのことではない。もっと広い範囲で反対しなければ、という意見がたくさん出た。解ってはいるが、なかなか新しい地域の会長にお願いに行くのは勇気のいることでした。中津浜線以西への拡大、JR南側の地域への拡大、私は苦手でした。が、皆人脈を伝ってがんばって拡げていってくれました。わたしはこねをつけてくれたところに、説明にまわる役目でした。すこしづつ拡がってきました。町内会の交代劇も落ち着き、新しい体制で動き始めました。署名をお願いしても、やはり地元の会長名で依頼書が欲しい、といわれる会長もいました。でも、もはや今までの様な苦しい思いをすることもなくなったのでした。

 8月の暑い日、看板を増やそうとベニヤ板にペンキ塗りをしていました。新しい会長のところに、市の道路課からI課長とI課長補佐がやって来ました。会長は話すことは何もない、今忙しい、出かける所だなどと取り合わなかった。私は他町会長と仲良くなりたいと、努めて連合や社協の行事に参加しました。

 平成4年11月24日、八木米次市長から馬場順三市長に変わった。八木市長とは直接対決のないまま終わった。

 平成5年1月には、沿道の社宅のフェンスにも各々の会長から頼んでもらって、看板が貼られた。

 平成5年2月2日、突然I課長補佐より測量をしたいので北町の了解をもらいたいと言ってきた。市は会長に連絡をしてきたが「山幹のことは副会長の山本にまかせてある。窓回は副会長である」と言って下さったからでした。しかし、簡単に測量をさせるわけにはいかないので、皆に相談してから返事をすると言った。2月6日には返事はまだかといい、2月10日には県の事業認可が2月2日におりている旨を伝えてきた。なんということかと、勝手におろして、住民には一言の説明もなくである。報告が遅れたことはお詫びしますといいつつも、測量の返事をせまった。今、私ひとりで返事は出来ないし、するつもりもないと突っぱねた。その後も何回も急ぎたててきたが、相談がまとまればこちらから返事をするからと。

 2月13日夜9時に、Sさんのマンションに集まって経過説明をし、意見を聞いた。このときはまだ地権者も一緒でした。とにかく急に測量と言われても納得できないと、市長に申し入れをすることにした。2月15日、松並町内会長名と北町町内会長名で、測量には合意できない旨の文書を出した。2月19日、事業認可を取ったことで、土地権利者へ早速買収などに関する書類が届いた。結局、2月28日、町内会役員と市民の会から数名とでN部長、I課長以下3名に甲子園口会館(村の所有)で会った。しかし、会長は今日のことは、この会は正式な話し合いではないことを確認した。その後、会長のところに何度もせっついてきたという。

 3月7日、私たちは公民館に集まり相談をした。何となく悲観的な意見も出されましたが、もう一度議会に陳情しよう。提出期限まで時間がないので、各会長印は手分けしてもらえるような形式に、書類を作ろうと結論。この日集まったのは、男性4名女性9名でした。翌3月8日、前日の相談会を知ってか知らずか、またまたI課長補佐から電話があり、ねちねちといやな奴でした。市が一方的に開催しても誰も出席しなかったらどうなるのかと聞くと、一回開催したことになります、と。こちらから返事はしますと言っているにも拘わらず3月16日、その日朝早く催促をしてきた。私は息子の卒業式がある日だったので、もうちょっと待ってくれるように伝えました。ところが何のことわりもなく、その日の午後、留守中に3月21日と24日に事業説明会を開くのでどちらかに出席をとのチラシを、一方的に配布したのです。翌3月17日は陳情の傍聴の予定でした。傍聴のまえに道路課に抗議に行きました。北町の会長にも言わず松並の会長のところに行き、「勝手にしたらよい」と自分に都合よく言ってくれるところにだけ、話を持って行っていたのです。結局21日と24日は会長もほって置くとよいというので、特に皆にはボイコットしようとも言ってなかったので、地権者の何人かが行ったのでした。こうなるとどうしても一回は会わないといけないだろうと、平成5年4月3日に聞くことにした。日時を連絡すると住民の方で皆に知らせてもらえますか?とI課長補佐。むかっときた。何をいってんですか。この前は返事もしていないのに、勝手にチラシを配ったんじゃないの。すぐに配れるんだからそっちでやって下さい。市が配った案内チラシに「3月21日と24日に開催された説明会は町内会は認めてないこと、今回は大結集して反対を表明していこう」と書き足して重ねて配布しました。

 4月3日夜7時から上甲子園サービスセンターで、市当局からN部長、I課長以下の出席で、住民側は65名の出席でした。この晩の話は住民も反対の気持ちとはいえ「反対が多かったらどうなるのか」「札場筋から以西はできてないじゃないか」「都計審で十分意見が交わされたとはおもわないので再度都計審の人と話したい」など住民もバラバラで、消極的な意見がおおかった。一方市側は橋の高さをどうするか、幅はどうとか等といい、ただただ計画は時間がかかっても進めたい。そのための話し合いを地元の住民としたい。最後に議会も承認している。と自信をみせた。

 この日、それ以来づっっっとたいへんお世話になっている藤井さんが出席してくれたのでした。藤井さんとのきっかけは、私は定かに覚えていないのですが、平成4年の市長選挙のおり、市民運動をしている仲間たちでスリーワンとをいう組織をつくって、新しい市長を押し出そうという運動をしていました。その誘いがわれわれの市民の会にもありました。そちらの会にYさんが代表して出席してくれてました。藤井さんは43号線の公害訴訟原告団の団長補佐をされていたそうです。道路問題ではプロヘッショナルです。アドバイザーとして出席して頂いたのでした。この日も専門的な質問を、市側にしてくれました。市もきっとうるさいのがついているなと思ったに違いありません。

 平成5年4月24日、あまりにも私たちは道路問題や公害のことについて素人になので、早速、藤井さんに第一回勉強会をしてもらうことにしました。講演会の案内チラシを手書きで作りました。43号線の交通量、その上の阪神高速道路の交通量、低周波の被害の怖さ、大型車がどれだけひどい影響を与えるか、二酸化窒素は水に溶けにくく肺の奥まではいってしまう等々、あげくに町の破壊につながる道路になる、裁判をするには……と集まった50数名の私たちには、初めて聞く強烈な話ばかりでした。講演終了後、今日のはなしの内容のチラシを作ろう、決起集会をしよう、タウン紙(リビング、ファミリーなど)に載せてはどうか等と、皆積極的な意見が出ました。平成5年5月7日付け山幹ニュースNo.1を発行配布しました。この事業がどれ程私たちの生活を脅かすことになるのかと訴えました。反対をうたって一年半が経とうとしていましたが、いよいよ本当の意味の反対運動を開始しはじめたように感じたのでした。

 5月に入って、市から地権者だけの説明会を開くという案内が、該当する家々に届きました。この時、買収対象は五軒でした。事業対象となっている松並町内会と甲子園口町内会、両会長から「事業の説明も十分にできていない現状のなかで、買収の説明とはなんたることか。市の申し入れには同意出来ない。まず住民が納得できる説明会を開催せよ。市の地元町内会を無視した横暴は許せない」と抗議し、「誠意ある回答のない限り今後一切市当局の申し入れに同意出来ない」とかえしました。

 そもそも、松並町内会長は市に楯突くつもりなど毛頭ない方でしたが、このような内容の申し入れによく印を押してくれたと思いました。この申し入れで市は説明会のための打ち合わせを、5月15日すると言って来た。住民はあくまでも広い範囲でも説明をと主張。市側は今回の事業にかかわっていない町内については、会長からとくに要請があればする、との一点張りで結論が出なかった。その後も説明会を開きたいと、市より言ってきたが、住民側は一部の住民だけを対象とした説明は聞くつもりはないと蹴りました。

 6月1日付け山幹ニュースNo.2は、地図入りの架橋と拡幅が実施されれば地域がどう変わるか、一目瞭然のいいのを作ってくれました。人材が増えてきました。

 平成5年6月15日、再び市議会へ14団体の会長印と幹事13名で陳情書を提出しました。住民に十分な説明をしないで事業計画を実施しようとする市当局の態度は横暴きわまりない。事業対象の二町会だけでなく、広く沿道住民を対象とした説明会の開催を、ま
た7000名の署名の重みを感じ、沿道住民の懸念に対して慎重の上にも慎重を期して住民の理解を得るように、そして人間優先のまちづくりに努力するように行政当局に指導を、との内容でした。反対を真っ向から唱えれば議会も簡単に不採択するだろうと考えた末の陳情内容でした。さすが議会も説明をということにはダメとは言えず、この陳情は結論を得ずという結果でした。反対の会という名前がいかんという議員もいました。住民の思惑を見て取って、なるほど文章には正論を言っているが、要するに作戦であろうとの意見もありました。反対をしている住民からの陳情を、結論を得ずとは私たちには勝ち取った結果と評価できると思った。

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『みちしるべ』私の住民運動(4)**<2001.11. Vol.14>

2006年01月05日 | 私の住民運動

わたしの住民運動(4)

山幹の環境を守る市民の会
山本すまこ

 平成4年1月27日、大きな目標の一つであった国への陳情が終わった。
 山手幹線問題が平成3年の秋から始まった時を同じくして、甲子園口北町の駅前にパチンコ店の出店計画のあることが住民の知るところとなった。駅南側の商店街ならいざしらず、北側のそれも三方は一般住宅が立ち並ぶ真ん中に建てるという計画には、住民は猛反対であった。住民は「北町を良くする会」を結成した。北町の地の人達、いわゆる先住民というか(われわれはよそ者)、が本気で怒ったのでした。

 山手幹線問題でネックとなっていた町内会長(市議会議長)が、ここでも住民の反対側にあった。どうやら出店主の側で動いていたようである。地元は常づねこの議員を応援してきた訳ですから、怒るのは当然です。一体だれのための議員なのかである。次々と地元住民のいやがることを推進してくるのだから。

 平成4年2月11日、その怒りが頂点に達した。町内会役員会が北町の某所で開かれた。どうやら役員会終了後、地元の意見として会長がパチンコ店出店の同意の印を押すべく、出店主を呼んでいるというのである。この情報を得た出店反対の会から「どうしよう」といってきた。夜の九時でした。「放っておいたら取り返しのつかないことになる。すぐに行かなあかん。」役員会に押しかけて説明を求めようとみんなで行った。動揺は隠せなかったが、役員会が終わるまで待って欲しいとのこと。会が終わるまで表で待った。寒い最中の2月11日の夜のことでした。これでは出店主も近寄れず、書類もわたせなかった。翌日から新聞社各社が大きく「市議会議長がパチンコ出店問題で反対請願を無視!自治会長辞任を!議会で陳謝」などと報道された

 もうこれ以上がまんが出来ない。会長を降りてもらわないと。と私たちで3月28日、臨時総会を開くことを決め、会長に通告した。臨時総会で会長罷免の署名を集めようとの意見が圧倒した。あっという間に全世帯700のうち556世帯の同意を得ることが出来た。新しい会長を選出し、3月31日には西宮市地域振興課に北町の会長が変わったことを連絡した。役所内でも北町の騒ぎが伝わっていた雰囲気で「では変更しておきます。」でした。また4月25日、新体制での総会開催を決め、旧会長に新体制の役員名簿を書類で郵送した。二つの町内会になってもいいと思った。弁護士をたてて無効にするとか言ってきてすったもんだが続いた。町内会の角印や会計簿の引渡しにも、なかなか応じなかった。私は山手幹線の件で市に行く度に議長室の会長を訪ねた。新しい会長と旧役員との話し合いもした。何回も話した、というより説得をした。往生際が悪すぎると。しかし、あくまでも旧役員で総会を開くことに固執した。すでに新町内会の役員会も開催し、町内会費までも集めて行事の内容も検討に入っていた。彼は観念はしたものの、あくまでも総会での交代を望んだ。それなら百歩譲ってと司会も議長もコチラで推薦することを条件として了解した。5月28日、歴史的な総会が開催された。100名近い人が集まっての総会でした。北町始まって以来の参加者での総会でした。大方がノーモア旧会長!!親子二代で長年にわたり牛耳ってきた会長の交代がとうとうなされた。顧問として残したい旨の提案もありましたが、答えはノーでした。私たちが絶対反対したい地域問題に、推進派である議員を役員として認めるのはナンセンスであろう。

 この交代劇を北町の住民が本当に団結してなし得たことは、私たちへの追風となり、山手幹線反対運動を加速させる大きな因となったことは否めない事実である。早速、新会長名で山手幹線の事業に対する要望書を市当局に提出した。

 思えば、地元町内会長の印のない陳情書や要望書を提出しなければならなかった悔しさを、何度味わったことか。建設省や運輸省への陳情も反対の会の幹事たちと、旧村の会長の印をもらって提出に行ったのでした。地元会長印がないのに、まわりの町内や自治会の会長さん達、連合町内会長さん達の印を頂けたことに本当に感謝でした。

 晴れて堂々と地元住民が反対していると言えることになった喜びと、同時に市当局が地元代表として重く見る会長、副会長が反対運動の中心者になったことで、反対運動に自信を持たせた。がんばれるとの思いが強くなった。

 昨年秋より静かで平平凡凡であった北町が、二つの大きな反対運動をかかえることになった。皆、必死であった。その後、パチンコ店については環境を守る会が結成され2年間にわたって本当によく闘われたと思います。市議会においても、今後この地域には出店できない旨の市条例が発効されたが、残念ながら北町の件についてはすでに申請していた既得権として許可が降ろされる結果となった。しかし私たちは反対運動があったからこそ地味なネオンのパチンコ店であり、いまでも業者と近隣との協議会を開催し、迷惑問題があれば意見交換をして解決に努めるよう要望しています。

 山手幹線架橋問題でも、2月17日には一方の側の尼崎市へ「架橋しないで下さい」との陳情をし、翌18日には西宮市議会へ「南北高速の調査費を負担しないで下さい」と。3月3日、県議会へ「計画の凍結をおねがいします」。 3月10日、西宮市議会へも同じく「計画の凍結を」と陳情を繰り返し提出した。また3月10日、甲子園口駅前での街頭署名もおこなった。

 陳情を出せば傍聴にも行かなければならないので、結集して頂く人達へのお願いなど、連日たいへんでした。いままで市役所に行ったことがなかったし、議会などに、もちろん自分に関係のないところでした。自分の中にもどこか「お上」の意識が潜在していたのかもしれません。何回も通うようになって、どちらもよく言えば身近な感じ、悪く言えば、こんな程度なのかという印象でした。傍聴するときに年齢を書かされるのですが、(現在は不必要)40代でした。とてもここから10年近くもつきあって行こうなどとは想像もしませんでした。

 平成4年は年頭から山手幹線問題、パチンコ店と町内会の立ち上げにとあわただしく半年が過ぎました。

 山手幹線沿道に様々な看板がお目見えしました。毎日毎日その数は増えていきました。今さらながら、実にさまざまな人材がいて、この運動がポシャルことなく前へ前へと進んで来たなあと思います。ベニヤ板を購入して切ってくれる人。ペンキを塗ってくれる人、文句を考えてくれる人、書いてくれる人、夜の間に貼ってくれる人。市が看板をとって行ったといえば、即、新しいのを貼る。時々便乗する輩がいて「車ローン」とかいうものを貼っていくこともあった。

 平成4年6月17日、甲子園口町内会会長加島和清から「十分な協議なしでこの計画を推し進める事のないように」と、地元町内会としてこの計画に異議ありとの表明をし、陳情した。市が考える地元(町内会会長)が反対を表明したのであった。

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『みちしるべ』私の住民運動(3)**<2001.7. Vol.12>

2006年01月04日 | 私の住民運動

私の住民運動(3)

山幹の環境を守る市民の会
山本すま子

 平成3年11月21日、西宮市長に、そして県知事に7200余名の署名とともに要望書を提出することになってから、市長面談の日時があっさり決まった。11月26日11時から30分間であった。誰が行くかなど本格的に運動を進めるために、役割分担を決めた。地権者の代表ほか5人で行くことになった。反対の会では会長ほか、一般的な役職に法律、マスコミ、文章、地域対策、行政対策、渉外、看板、印刷など細かく分担を決めた。今まであまりご近所づきあいのなかった私たちでしたが、実に有能な方達がいるご近所であったことを改めて知りました。各々が集められる情報を集めた。惑わされる情報も少なくなかった。うわさも飛んだ。議員に人脈がある人は行政の情報を得ようと努力した。

 11月26曰、市長面会の当日は反対の会を結成して約一ヵ月、皆突然の大問題を、自分達の反対の思いをいかに市長に伝えるか必死でした。なにしろ市のトップに抗議に行くなど、初めての経験でした。これまでは私たちとは関係のないところで動いている、いわゆるお上の人だったんですから。何でも考えられることはしていこうと。前後しますが、11月18日に10月31日の審議会の結果に対し、市長と議長に抗議の文書提出し、各委員にもコピーを送った。また、市長には11月21日の要望書について文書で回答するように申し入れをした。市の回答はいずれについても、「回答を要する性格のものではない。意見として承ります。」との文書が返ってきた。今さら何を言ってるのかとの態度がうかがえました。私たちもどこまでやれるかはわからない状況ではあったが、市側も軽く見てたかをくくっていたに違いありません。

 次に市や県の議会に陳情書を出すことになった。個人の署名はすでに出してある、あとどれだけ地域の団体代表の賛同を得られるかが問題です。甲子園口北町は市会議長をしていた。町内の役員会にも説明をさせて欲しいとお願いをし、出かけて行った。二人で組を作って説明に行った。隣の二見町の会長は元市職員、元市会議員という立場上なかなか賛同の印をもらうことが出来なかった。入れ替わり立ち替わり訪問した。「皆さんの言われることは解る」とまでいってくれるところまできた。しかし北町の会長の事務所が自宅の真向いであり、北町の会長が贅同していないのにこちらは押せないといって断わられた。当然のことであろう。地元の会長がそっぽをむいているのに、他の町内会長にお願いにいっているのですから。それでも懲りずに他の町内にも何度も何度も足を運んだ。あるときはめちゃくちゃ怒られたこともあった。しかし、頼みこんだ結果、北甲子園連合町内会では、六町会のうち四町会の会長の同意の印を貰う事が出来た。他の地域の2人の連合会長にも賛同を得ることが出来た。ほんとうにうれしかったです。肝心の地元北町と二見町内会長の賛同を得ないままでしたが、六団体と代表幹事十二名で11月28日、西宮市議会議長、兵庫県議会議長に陳情書を提出した。またもや考えられる事は何でも、と相談の結果、国にも陳情をしようということになった。そうなるともっと署名をふやさなくてはと、回覧で回してもらえばいいのでは、と容易なことではないがお願いをすることにした。

 一方、それぞれの人脈で市会、県会議員に接触していくなかで、ある県会議員が話を聞くから事務所に来るようにとの約束をとってくれました。昭和26年に北町を地盤に市会に初当選し、県会議員のボスのような議員でした。11月30日、事務所に着くと西宮市土木局長、都市計画部長、県から都市計画次長と、まえにも書きました中島課長が呼ばれていました。さすが県会のボスだなとの第一印象でした。ところが、開口いちばん「わしは今から葬式に行かないといけない。待っててくれ」とのこと。私は「人を呼んでおいて何なんよ」と思いました。「いつまで待っていればいいんですか」とくってかかりました。しかたなく待っている間、市や県の人達と顔を見合わせて「どういうことか」と、結局一通り話をきいてもらいましたが「いまごろ言ってきても遅い」と、それも怒られているような言われ方にむっとしていました。市や県の幹部、これからわれわれが渡り合っていかないといけない人達を前にですよ。「何のために呼んだんだ」「まるでポーズだけじゃないのか」「一体行政側か住民側かどっちをむいてんだろう」と思いました。こんな態度に、帰り際にその議員は「あんたはおもしろいこや、またあそびにくるといい」といいました。普通は議員先生に平身低頭でお願いにくるのが当り前なのでしょうが。まるでものを頼みにきている態度でなかったことは自分でもわかっていました。これから市会や県会に陳情を提出しようとしながら、議員を頼りに出来ないと思う気持が心のどこかにあったのかも知れません。アポをとって連れていって下さった方に申しわけない気持で帰って来ました。

 12月にはいって、国へ陳情を出すならもっと署名を増やさないといけないと、町内回覧で署名のお願いをしようということになった。熊野町はすぐに協力の承諾をしてくれまし。北連合以外の西の方の町内にも回覧で署名をとってもらえるよう依頼に手分けして回った。真っ向から拒否する会長もいた。そんな中、12月7日、地域住民ヘ反対運動をアピールするために集会を開くことを決めた。本会議への陳情書提出と集会の準備で毎日あわただしかった。

 12月7日の集会当日は85名の参加で大きく反対の気運が上がった。

  1. 山幹の架橋、拡幅を許すな!
  2. 車洪水による住環境の破壊を許すな!
  3. 子供たちにとって安心できるこの街を壊すな!
  4. 地域分断につながるこの計画を許すな!

この4つのスローガンを墨痕あざやかにかかげて意気が上がった。いろいろな意見も出た。みんな頑張ろうとの元気がでた。集会のおわりに署名簿をもって帰って近所の人にお願いして下さいと頼んだ。

 12月9日、田中議長宛に14名ほか6団体で陳情した「この計画を当分のあいだ凍結する件」の傍聴の日です。総務水道常任委員会にかけられた。朝から男性も多く、十数人で出かけた。順番待ちで、午後も夕方近くまで待たされた。傍聴とはこんなものかと思った。待っているあいだに、市庁舎内でもらえる資料を貰って歩いた。議論されたのはわずか3~40分で終わった。委員会の各党の議員の意見に一喜一憂しながら、また、憤慨しながら初めての傍聴を経験した。県議会にも同様の陳情を出したが、県では傍聴できないとのことでした。

 このころ、湾岸線と中国自動車道を繋ぐ南北高速道路建設計画案が、20数年経って再び出てきた。昔、武庫川の上を走る計画で猛反対されたということです。甲子園口の川沿いのマンションでも、必死に反対したそうです。今回は尼崎市側に具体的なルートを示すべく発表されたのでした。尼崎側に反対する会が出来たことを新聞で知りました。

 12月15日、A宅に集まり、1月に国に陳情に行く件の相談をした。それについての費用の件、もう一度街頭署名をとることなど。二回目、一万円ずつ集めることにもみんな気持よく同意した。この日、地権者の方から、市が来年早々に測量したい旨の連絡があったと報告された。そのときはどうするか。反対する。ときっぱり言ってくれたのでほっとした。

 翌12月16日、二見町内会長が黙認の形で署名簿を回覧して下さるとの返事を、Yさんが取り付けてくれた。少しずつ努力が実を結びつつあるのを感じた。回覧で署名をお願いした町内から、取りに来るのが遅いとお叱りを受けるくらい真剣に集めて下さった会長もいました。すっごくありがたいと思いました。年内には国に陳情する準備を整えておかなければと、12月25日、再度相談をした。

 翌26日、環境庁、建設省へのアポイントメントをとって貰うため、この運動の参考資料として10月から12月までの意見書、抗議文、市や県への陳情書まで、6種類の書類と新聞の折り込みチラシ(反対の会のアピールに5000枚のチラシを各新聞に入れたのです。が、いつだったか全く記録がないのです。)をA宅よりファクスで議員秘書に送りました。12月も殆ど終りになったが、相変わらず毎日のように署名の上乗せに奔走した。

 明けて平成4年、お正月もそこそこに、4日から毎日署名を増やすために走り回った。国へ陳情することを各町内会長に挨拶にもまわった。1月12日、地元北町の会長が無理なら副会長印をと、役員会にお願いに行った。それでも答はノーでした。隣の町内の会長で連合会長でもあるT氏は自分は名前を出すことは出来ないが、と副会長印を承諾してくれました。何人も、何回も足を運びお願いを続けた結果でした。「この返事を待っていたのです」と心の中で思い嬉しく喜びあいました。

 1月12日、再度甲子園口駅前で街頭署名に、沿道の大きなマンションにも働きかけて出来るだけたくさんの人に協力をお願いした。台にするガバンを手配してくれた人、マンションの中をまとめてくれる人、団体代表で署名をしてくれるよう頼んで歩く人、寒い中、皆よくがんばった。少しずつ慣れてきたようでした。本日現在8817名の署名ができた。「すごい!!」とメモに書いてありました。

 1月27日午後1時、建設省一階ロビーで待ち合わせと決まりました。陳情書の宛名は?建設大臣山崎拓、福岡一区からの議員とのこと、環境庁長官中村正三郎は千葉三区からの議員、への二通です。その当時は、山崎議員がどんな人かまるで想像もつかなくて、九州なんかから出ている人が、果たして西宮市から陳情に行って取り合ってくれるんだろうか。と内心思いました。最近、テレビにでている山崎議員をみてこの人だったんだ。

 27日の朝早くから北町から四人の代表が出発してくれました。東京の現地に直接、一人元北町の方が参加して下さいました。五人で一時に建設省、三時に環境庁にと、各々一時間位訴えてきて下さいました。最終9200名の署名簿を提出することが出来ました。今思えば勢いとは恐ろしいなと、朝早くからよく行って下さったなと思います。

 この『わたしの住民運動』にはあまり個人名は出したくないと思って書いていますが、敬意を表する意味で東京行き参加者名を記しておきたいと思います。

 井上氏、吉武氏、黒住婦人、藤岡氏(東京より山本氏の五氏でした。

 出発直前に自分は行けないからと、10万円のカンパをして下さったT氏にも感謝です。暮も正月もないような平成3年から4年にかけての年越しでした。

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『みちしるべ』私の住民運動(2)**<2001.5. Vol.11>

2006年01月04日 | 私の住民運動

私の住民運動(2)

山幹の環境を守る市民の会
山本すま子

 10月14日に提出した意見書だけではどうしても私たちの気持がおさまらないと、10月18日の市の説明会の場で新たな意見書を読み上げようということになり、その日の午後、急遽手書きで自分達の思いを綴った意見書を作成しました。突然決めたことでしたが、一時間ほどで原稿が出来上がったのにはお互いにびっくりしました。それくらい何とかして訴えたかったのでした。説明会の冒頭で読み上げました。今から初めての住民運動を始めようとする素人の、およそ意見書などというかたい文ではなくロマンチックな文でした。市当局の役人には通じないものかもしれませんでしたが、集まった人達の胸の思いを訴えたものではなかったかと思います。考えられる事は何でもやろうとの気持でしたから。

 10月18日、市当局都市計画課の説明会は三回目にして突然120名もの人が集まり、市はせいぜい50人位と資料もたりませんでした。口々に自分の反対の意見を発言しました。市当局は交通量のデータや今後の予測を発表したり、100年に一度あるかないかの水害を見越して武庫川に今の土手より高く橋をかける。それは将来、この近隣住民の避難場所としても利用出来る橋になると。また流通のために是非この山手幹線を4車線にする必要があると説明しました。その場に参集していた人は皆、ますます大変なことになる、反対しなければとの思いを強くしながら終わりました。

 24日の決起集会までの準備があわただしく始まった。「反対署名簿をつくろう。」「立看板は?」「新聞社には誰が?」 10月19日、代議士原健二郎事務所より連絡があった。21日、第一秘書が話を聞きに来てくれることになった。もちろんアタックしておいたからである。しかし、結果的には何も役にたちませんでした。秘書いわく、「うちの先生は橋を作れといわれれば、どないしてでも金は(予算)取ってくるが、橋をつけるなという話には乗れん」でした。24日の集会を成功させるため、山手幹線沿道の大きなマンションの理事長さんたちに反対する説明、説得にまわった。結果はさまざまでした。集合住宅の難しさがわかるとともにじれったさがつのった。

 つい「何でわかれへんのやろ?」みんなに同じ気持になれというのが無理なんですが、批判的になったりもしました。近隣の町内会長さんたちにもお願いに廻りました。とにかく24日の集会に出席してくださいと。しかし、北町の人達で反対するのなら、地元の町内会長から言って来て下さいと取り合ってくれないのでした。わが北町の会長は自民党の市会議員であり、その上、西宮市議会本会議で「地元住民が望んでいる」などと勝手なことを言って、この大変な事業を推進する市長回答を引き出すための代表質問をした人でした。とにかく手分けをして24日を成功させるために、走り廻りました。夜にやったこともない、チラシ配りを奥様方が2人一組となり、沿道住宅に配りました。24日の集会は大成功でした。反対運動の必要性を皆で確認出来ました。この日出席した人たちに反対の署名用紙を配布しました。

 10月31日午前10時、西宮市都市計画審議会が開催されました。それまでに審議会のメンバーが誰であるか調べていました。うち2人は大学教授でした。住民の中の大学の先生が、2人に会いに行き私たちの住民運動のことを説明し、住民側の言い分を理解して欲しいと訴えました。しかし審議会の当日、一人の教授は欠席しました。私たちの言い分を理解したため、市の立場との板ばさみ故に、欠席せざるを得なかったのでしょう、と一方的な解釈をした。審議会の当日、住民18名が傍聴しました。市側の答弁に一々憤慢やるかたない思いでした。我慢しきれずに声を出すと叱責されました。ただ聞いているだけで何の反論もできなく、一体この審議会とは何の意味があるのかと、全員が腹立たしい気持でした。一部の議員が住民の思いを代弁する意見を述べてはくれましたが、最終的にはあっという間に採決がとられ、住民の意見書2通は不採択という結果でした。私たち傍聴した者は、せめてこんな短時間に結果を出すのではなく、継続審議にして欲しいと思った。皆、重いものを引きずって帰りました。

 翌11月1日、甲子園口駅前で署名活動をした。午後3時から7時まで1時間ずつ、当番を決めて5~6人づつが立った。皆、初めてのことで最初は声も小さかつた。11月11日、再度駅前で署名活動を実施。この間、個人やマンションでも署名を集めてもらった。出来てきた署名用紙を5枚づつコピーをとった。沿道に看板も貼り始めた。市の車がきて、はずして行ったと連絡が住民からはいった。負けるもんかとまた貼った。11月13日、A宅へ北町町内会長T氏を呼んで話し合いを持った。当時議会議長でもあったので、その立場でも当局に住民の要望を提案するように頼んだ。最終的な回答は、町内として出来ることはバックアップすると言ったが、ついに最後まで市当局への陳情、要望書等への署名捺印はしなかった。地元の会長がこのような態度ですから、近隣の町内会長を訪ねて回ってもいい返事がもらえる筈はなかった。それでも市の説明会に出席をと頼んで歩いた。また、11月27日からの本会議への陳情書をだすので出来るだけ町内、自治会の会長印が欲しかった。一方、10月18日の集会を開いてから、この日までに色々なところから運動に関わってあげようとの申しでをもらった。また、それぞれが市会、県会、国会議員に相談もしたが、あまりあてに出来るような返事はかえってこなかった。結局はどこまで出来るかわからないが、自分達で素人の運動をできるところまでやろうということになりました。

 11月15日、西宮市都市計画課の説明会が、住民の強い要望で再度開催された。内容はかわりばえするはずもなく、住民が出した質問の回答を文書でだすことを約束させた。必要性(説得できうるもの)や環境問題、騒音、振動、交通量の予測についてである。また、都計審の議事録を出すことなど。住民の多くは担当者達の同じ回答を何回も聞いていても仕方がない。市長の考えを聞きたい。その日、最後に市長との面談を申し入れた。念のため、手書きで急遠「要求書」をつくり、担当者に持ち帰ってもらった。毎日のように、てわけをして他町内の役員会で、説明させてもらいたいと出かけて行った。署名も、町内で回覧で回して欲しいと頼んだ。なかなかでした。しかし、みんなの努力で署名はおよそ7000名までになった。

 いよいよ11月21日、市長に届けることになりました。マスコミ担当のYさんが、一斉にファックスを送りました。マスコミがまた一斉に市長室に押しかけたようでした。同時に「明日住民から反対署名7000余名を提出する」と記事になりました。はじめて新聞に載った日、早朝からピンポンとインターホンが鳴り、朝の6時すぎから興奮して大騒ぎでした。説明会で要求していた市長面会は回答も渋っていたのに、11月20日午後6時、都市計画部長より電話があり、「皆さんに市長に会って頂きます。」と声が上ずっていました。昨日までとは違って、非常に丁重な言葉使いであった。マスコミの力を知った第一歩でした。今でもその日の電話の感触を忘れません。市長面談についても、住民のなかででもコンタクトをとる努力をしてくれました。地権者についても情報が飛び交い、また誤解が生じたりして、住民運動の難しさにも突き当たりました。それでも全地権者に反対の要望書を、7000名の署名と一緒に市長に提出するため、書いてもらうことができました。7000名の署名簿を5冊コピーで作る作業は大変でしたが皆必死でした。

 11月21日、私たちの一大イヴェントの日、午前10時、6名の男性が市庁舎に到着しました。当時、馬場助役が応対にでました。顔を真っ赤にして「ダメです」を何回も言っていたそうです。反対署名など出させないという雰囲気で、受け取ろうとしなかったようです。11月22日は、県の審議会が開催され、それが通ると自動的に計画決定されることになる。急遽21日、市と同時に県にも出すことにした。前日夜中までかかって、署名簿と知事への陳情書を用意した。県には提出だけのつもりで、二人で持って行った。しかし、だまって手渡すわけにもいかず、一通り反対の意見を述べたが、県の担当課長は建設省からきていた、手強い中島課長でした。

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『みちしるべ』私の住民運動 (1)**<2001.3. Vol.10>

2006年01月04日 | 私の住民運動

完成ま近「山手幹線拡幅と武庫川架橋」私の住民運動 (1)

山幹の環境を守る市民の会
山本すまこ

 平成10年12月も押し詰まった28日、市当局の代表と住民10数名が、ぎりぎりの交渉に臨みました。その日、当局は住民側が訴え続けた環境対策、他の条件を文書で出すことを確約しました。既に10年2月から河川敷での調査が開始されていました。11年1月10日に住民集会が開かれ、住民の要求三項目を市当局がのんだことで、回答を受け入れることを決議致しました。平成3年10月 24日、住民反対決起集会から実に7年3箇月が経っていました。12年3月には北側二車線が完成し、まもなく南側二車線が完成します。橋もいつの間にか、尼崎とつながっていました。全事業の完成は今年(平成13)の夏以降の予定です。

 私は今までに住民運動に参加したことはありませんでした。しようとも思いませんでした。平成3年7月、町内の回覧板がまわってきました。7月30日、山手幹線を四車線に拡幅し武庫川に橋をかけるので、説明会を開きますというものでした。“自分達の住むすぐそばの道がどうなるのだろう”と思い、とりあえず説明会に出かけました。出席者は地元の町内会長(市会議員)と私の他に、ご夫婦が一組ともう一人婦人、そして向かい側の町内会長の5人でした。他に駅前の近くの人達が4~5人いたので、“この人達はなぜここにいるのだろう”と思いました。説明は前に地図を貼って、今の道がここまで広くなります、と線が引いてありました。私はもうひとりの婦人に“あなたの家が道になっているじゃないの”。ご本人も初めて知ってびっくりしていました。説明会では北側の町内会長は“うちは結構です”とその場で返事をしました。それで一時間で簡単に終わり、というより出席した四人は何を質問すればよいのかもわかりませんでした。駅前から来ていた人は近くに建設予定のマンションの説明会の為に来ていたのです。続いてマンションの説明をするという事で、私たちはすごすごと帰ってきました。その頃、北町にパチンコ店の出店計画が住民の知れる所となり、反対の気運が高まりつつありました。帰ってきて主人に伝えました。“これはパチンコどころの問題とちがうで、反対せなあかん”と言いましたが、私は“そんな大変なこと誰がするねん?”といいながら一ヵ月が過ぎました。その間にも何回も主人が道の件は放っておいたら大変な事になると言いました。私はなんで私がと思いつつ、都市計画課に電話しました。この時、市が説明を出来ませんと断わっていたなら、どうなっていたんだろうと、後々何回も思いました。主人はどういうかはわかりませんが、少なくともその当時の私はきっと引き下がっていたにちがいありません。“市の計画のうわさが広がって、どうなるのかと皆不安に思っていますので、もう一度説明に来てもらえませんか?”“担当と相談して返事します。”

 平成3年9月20日、第一回都市計画課による説明会が、松並市民館にて行われたのです。課長以下、数名が来ました。住民側は私達の住む北町24街区の一角、18軒のほとんどが、ご夫婦で出席しました。18軒の人達はお互いに親しく話す機会もなく、どんな方が居られるのかも、特にご主人方は殆ど初対面といった感じでした。市の説明に対して反論するも、それぞれで他の方々がどう思っておられるのやら、さっぱり信頼関係のないまま説明会が終わりました。第二回目は10月4日、この日は都市計画部長、道路部長を呼んでの説明会でした。二回の説明会が終わって“皆さんどうしますか?本気で反対しますか?やりますか?”やりましょう、というより“やってみましよう”ということになり、18軒がはじめてつながりました。10月13日夜、三回目の説明会(18日)のための準備の打ち合わせをI宅でおこないました。次回までに立て看板を用意する。ビラを配って18日に動員する。18軒全員が執行部である。会計を決め、また各家1万円ずつ出すことを決めた。10月14日、都市計画課へ18軒の家族の署名をつけて意見書を提出した。住民側のずぶの素人、主婦4人とご主人2人であった。市側は中馬部長、岩崎係長と北田技師、この時からの縁である。10月18日の第三回説明会、松並市民館は溢れんばかり120名が集ってくれたのでした。この120名の数がどれほど心強かったか。この数をバックにいよいよめまぐるしく動き始めたのでした。

 10月24日、市民決起集会の開催を決め、参加を呼びかけるためのチラシづくりや準備にてんてこまいでした。そんな時、小学校5年生だった息子が、お腹が痛いというので近くの病院にいくと盲腸。明日朝、手術をするというのです。うぁ~、今夜の会どうしようって、まず子供のことより先に思いました。好奇心の強い息子は、手術をして貰うといとも簡単に言う、むしろ喜んでいる様子。私は今それどころじゃないんだけどと思いながら、とりあえず息子を入院させました。10歳の息子を病院に一人おいての、私にとって忘れることの出来ない第一回の記念すべき集会でした。息子は一晩病院に一人で泊って、翌日手術をしないで退院しました。20歳の今も盲腸は大事にもっています。どうしてかって?何だったんだろうって親子で思っています。

 さて、本題に戻って、集会は盛会でした。反対の会の名称を「山手幹線拡幅・延長に反対する市民の会」と決まりました。どのように市を攻めていくか、反対の運動を盛り上げていくか、どこに働きかけていくか、色々意見がでました。高齢の紳士も熱心に意見を出して下さいました。残念ながらそのI氏は、先日工事の完成を見ず亡くなられました。

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