扶桑往来記

神社仏閣、城跡などの訪問記

関東城巡り#5 百名城17−金山城

2012年04月10日 | 日本100名城・続100名城

足利から再び渡良瀬川を渡って太田市の方に戻る。

関東平野の北東の端、足利や新田はいかにも農業に向いていそうな土地である。
山肌の斜面は南に向き、水の利もいい。
上野、下野はもともとは「毛」の国といった。
毛という異様な漢字を用いたのには諸説ありひとつは稲穂の垂れる姿を模したものという。
それだけ豊かな地であったということである。
確かに関東平野の北面はもの成りがよさそうな気もする。

金山城は頂上の城部分が公園になっておりクルマで上まで上がれる。
金山は230mほどの標高を持つが関東平野を閉じ込める山塊の端くれを渡良瀬川が切り取ったようなことになっておりぽつんとしている。
いかにもちょっと平野に欲を出した土豪がつくる中世の山城に向きそうな山である。
豊かな土地を抱え背後に川を持ち急峻な小山でもあればなかなか落ちない要害になり得る。

駐車場から少し登ると尾根筋になる。
尾根沿いに削平された部分を歩いて行けば本丸部分まで高低差はあまりない。
金山城はアンコウが寝ているような形をしている。
頭の部分が本城、ここを実城という。
両ヒレの部分にも曲輪がある。
尻尾の部分に相当する駐車場のあたりには西の曲輪があった。
ちょうど背骨の部分を頭に向かって歩くことになる。
左右の幅は狭く何だか豊後竹田の岡城のような感じである。
見晴らしは非常にいい。
ただし大人数を収容できるような規模は出丸にはない。
崖肌は急峻であるからよじ登ってくるのは簡単ではなさそうだ。

しかも背骨ひとつひとつのようにいくつも堀切が切られている。
物見台のところの堀切は壮絶である。
土を彫り込んで掻き上げてという北条の城のような優しげなものではなくまさしく岩盤を彫り込んである。
堀の肌は版築のように層をなしている。
これは鋤鍬の仕事ではなく鑿鏨の仕事であろう。

堀切を左に見て大手の虎口が現れる。
角石を野面に積み上げた食い違いである。
関東の中世城郭にはかなり珍しい。
しばらく行くとまたも大堀切が出現しそこに月の池がある。
左右に石垣を配した大手道が現れたところが三の丸になる。
腰巻石垣、鉢巻石垣が三段、その上にも石垣が巡る曲輪があり、ここだけみれば近世城郭と見まごう。
二の丸部分には日の池がある。
月の池もそうだが石組で固めた丸い池である。
湧水を利用した池というが城郭の中にあって異様な雰囲気を放つ。
日本には城にせよ居館にせよ、まずみない構造物といえるだろう。

かように金山城は奥に行けば行くほど謎めいた城なのである。

この城は元々家祖新田義重が築いたとも新田義貞が拠った砦ともいうが真相は定かではない。
鎌倉武士というのは一所懸命の男共ではあるが幕府の要職を争うような事件でも勝負のつけどころは館の攻防戦であって城の攻城戦ではない。
わざわざ山城を造って閉じこもるのは室町中期以降のことである。
史料にようやく金山城の姿が現れるのは文明元年(1469)に新田一族の岩松氏による。
その後、何度か地元の土豪が奪い合い、小田原から拡張した北条氏に属する。
そして秀吉の小田原征伐で指命を終えて廃城となる。

江戸期に廃城になった山城というのはそのまま土と樹木に埋もれたたため保存状態はいい。
鉢形城は近代になって破壊されてしまったが独立丘陵で岩の山というのは使い道がない。

金山城は現在でも発掘調査と復元作業が続いているようだ。
掘っていって石垣やら丸い池やらの全貌がみえたとき、関係者は興奮したであろう。
なにせ関東には本格的な石垣の城などないのだと思われていたのである。
この城は朝鮮式山城の影響を汲んでいるとみられている。
朝鮮式山城の思想は延々と石垣を回し内部に居住空間まで抱え込んで籠城するための要塞である。
さすがに西国から遠く離れ実戦に使われた中世後期の城を朝鮮式というのは無理があるとは思うが、日の池、月の池をながめると「ではこれはなんぞや」ということになる。

未だ、謎のままであるようだが、満月の夜に篝火の中でこれを見たらそれは神秘的という以外に表現しがたいように思う。
関東平野を見おろす位置にあり眺めがいい。
冬の夜など夜景が美しかろう。
 
 
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縄張図
 

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西矢倉の堀切 
 

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岩盤を削った大堀切
 

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月の池
 

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大手道
 

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三の丸の石垣
 

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復元された台所、見事な石垣とは違和感あり
 

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日の池
 
 
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屋外に置いてある立体模型

 

 


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