扶桑往来記

神社仏閣、城跡などの訪問記

江戸城防衛線 100名城No.20、佐倉城址

2011年08月03日 | 日本100名城・続100名城

猛暑が一服している中、佐倉に出かけた。

私は武蔵野に住んでいる。
実家やら仕事の都合というのは概ね、西の方に用事がありがちであり上野の向こうに行くことはほとんどない。
幕張でもずいぶん遠いと思ってしまうから佐倉というのはちょっとした旅気分になる。
東に足が向かないもうひとつの理由としてそちらに史跡に興味を引くものが見つかりにくいということもある。
房総半島というと10年前に市原にサッカーをしにいったことがあるくらいで恥ずかしい。
律令制でいうと房総半島は上総国と安房国になるが、安房というと死ぬまでに行くことがあるかどうか自信がない。

佐倉に行くことにしたのは日本100名城巡りに佐倉城が入っているからであって格別の思いはない。
ついでながら佐倉は下総国であって上総国に行ったことにはならない。

調布から佐倉へは京王線直通の都営新宿線で終点の本八幡まで行き、京成線に乗り換えて京成佐倉まで都合2時間ちょっと真東に行く。
新幹線で名古屋まで行けそうな時間感である。

ちなみに江戸城を中心にすると箱根まで80km、八王子まで50km、佐倉まで40km、水戸まで100km、宇都宮まで100km、昔、忍といった行田まで60km、高崎まで100km。
この広大な関東平野を守るのは難しい。

戦国時代には北条氏が関東一円を支配した。
その防衛戦略は同心円状に支城を配し外輪で時間をかせぎつつ本城小田原から救援に行く。
あるいは小田原にサザエのように閉じこもり敵が引き上げるのを待つというものであった。

江戸に入った徳川家康も同様に関東平野に入ってくる街道に押さえの城を築き、股肱の将を配した。
東海道は小田原に大久保忠世(後に忠隣)、徳川四天王を中山道高崎に始めは井伊直政、後に酒井忠次の長男家次、下野館林に榊原康政、房総半島大多喜に本多忠勝、奥州への玄関宇都宮には家康の娘を母とする奥平家昌を置いた。

江戸幕府は中央官僚を譜代大名が構成し外様には厳しく門を閉ざし、商業都市、鉱山は全て幕府が天領として掌握した。
よって関東平野には危険な外様はおらず徳川帝国の様相を呈した。
ただし、座敷の中にいる譜代大名にはせいぜい10万石しか与えず軍事力を削いだから譜代大名は表向きカネはなくても権威はあるということになった。

関東の小都市には中央で名を成す譜代大名がいたと考えればよく、川越には知恵伊豆松平信綱、忍には阿部氏、古河には堀田氏そして佐倉には土井利勝が入った。

江戸時代の高官たる譜代大名は政治で名を成すものであってしかも江戸幕府はろくな政策を取らなかったから譜代大名の記憶は薄い、せいぜい事件、失脚で名を残すのみであるから「城」との結びつきはさらに薄い。
ふつう、私もそうだが戦国時代の戦の中で城が築かれ歴史を刻むということからいえば関東の諸城は何とも記憶しにくい。
歴史がないといえば地元の人に怒られそうだが、「つはもの共の夢」が浮かばないのである。

さて突然降り出した雨の中、京成佐倉の駅から佐倉城址へ歩いて行く。
城としての予備知識がほとんどないままに近づいていくと樹勢旺盛な丘が現れてきた。
城と思わなければ前方後円墳のような地形である。
これが佐倉城址に違いないとすぐに判明する。そしてこの丘はでかい。

行動沿いに行くと水堀に達する。
端を渡るとかつて城門があったらしく左右に土塁が続いている。
西国の城なら石垣で囲まれた桝形があるはずだがいかにも味気ない。

城址公園の方に坂道を登っていく途中に臼杵大仏のレプリカが鎮座している。
どういう経緯でここにあるかはわからない。

佐倉城址は今、国立歴史民俗博物館が入り、むしろこちらの方が知名度が高いと思われる。
日本に国立博物館は上野、奈良、京都、博多の4つの他に大阪に民俗学博物館、上野に科学博物館がある。
なぜ佐倉にこれがあるのかよく知らないが佐倉城がこれを抱えているというのは地元の誇りになるのかもしれない。

雨の中歩いてきたので休憩雨宿りを兼ねて入ってみる。  

Photo
佐倉城外堀、かつては三十間堀
 

Photo_2
三の丸への虎口
 

Photo_3
国宝臼杵石仏のレプリカ




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