扶桑往来記

神社仏閣、城跡などの訪問記

青梅の古刹 -塩船観音寺-

2011年08月08日 | 仏閣・仏像・神社
八王子に墓参りと青梅に用事があった。

ちょっと時間が余ってしまったので家人と時間つぶしの場所を探した。
青梅という町は町おこしをがんばっていて昭和レトロというテーマで古い映画の看板など並べていい味を出している。
ところが月曜日ということもありほとんどが休館。

それでは寺でも行くかと塩船観音寺という古刹を訪ねることにした。

塩船観音寺という名前の通り、観音を祀る。
寺の縁起は大化年間、八百比丘尼がこの地に紫金の観音像を安置したことに始まるという。
八百比丘尼という人は若狭の人で人魚の肉を食べてしまい不死身となった。
180才にして諸国を回ったといい途中であちこちに伝説を残している。
大化年間といえば大化の改新があった頃であるから俄に信じがたい。

また「塩船」は地名ではないようで、行基がここを訪れた際、丘をくり抜いたような形をみて「弘誓の船」にみたてて名づけたという。
要するに菩薩が衆生を船に乗せて救済する仏伝のことである。
「塩」の意味はよくわからない。
岩塩でも採れたのであろうか。

鄙の古刹は縁起を仏教史上の巨人に求めることが多い。
行基がそうであるし空海はその最たるものである。
修験道とからめるときは役行者が登場する。

左右に阿吽の仁王像を拝した山門に立ってみると屋根は茅葺きである。
これがなかなか姿がよく、野卑た風もなく周囲に溶け込んでいる。
室町期の建築で国の重文。

山門からは緩い勾配を登っていく。
まず阿弥陀堂、薬師堂、本堂と次々に現れる堂宇は全て茅葺きである。
どれも素朴でいい雰囲気を醸す。
今日はまさに炎暑であるが杉の巨木などで木陰になっておりそこだけは涼しい。

本堂も重文であるが100円払うと外陣に上がることができる。
本尊は千手千眼観自在音菩薩、彩色された前立がみえるが今日は厨子が閉まっている。
格子越しに除くと本尊の両脇には千手の眷属二十八部衆が整然と並んでいる。
鎌倉期の作といい姿がいい。
それぞれは約束通り、両端の風神雷神は風袋と太鼓を持ち、カルラは笛を吹いている。
阿修羅は興福寺のような少年ではなく肉感的な忿怒の姿で八本の腕を上げている。
できれば本尊開帳の際にでも再訪し間近にみたいものと思う。
二十八部衆の他に毘沙門天と不動明王がありこれも姿形がいい。

思わずいい仏をみて気分がいい。
さらに奥へ登っていくと鐘楼があり100円で鐘がつける。
誰も周りにいないので入念に素振りをしてついたらいい音を出す。

ここまで来ると視界が開け「船」の意味がありありとわかる。
左をみるとすり鉢のように底が深く両側の丘を歩いて行くと舳先の巨大な観音菩薩像がある。
なるほど船のようである。

船の内壁は一面つつじが植えられ今の時期青々としているものの花の季節には一面が極彩色となり極楽のように輝くであろう。

観音像は平成22年(2010)の作であるというから出来たてであるが、つつじの方は昭和40年代から営々と地域の人が植えたのだという。
見事な復興といっていい。

観音像のところに行くと360度見渡すことができ、遠く関東平野がのぞいている。
後、西の方は山々が延々と連なっている。

すり鉢の底におりて見上げると観音様と視線が合う。
底はちょっとした広場になっており、護摩堂がある。
この寺は修験の寺にもなっている。
真言宗醍醐派の別格本山になってことからわかるように密教と修験道を融合させた修行道場であったのであろう。

山門まで戻って約1時間、思いつきにしてはいいものを見ることができた。

なお、八百比丘尼という人は不死身になってよかったかというとそうではなく、何度結婚しても夫にも子供にも先立たれひとり取り残されてしまう。
彼女はその哀しみに出家して諸国を巡ることにするのだが答えはみつからず、故郷の若狭に戻って洞窟に隠りようやく死ねたという。
長生きが幸せではないということを伝えている。
今、我々は長生きして幸せか疑問ではある。

 
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茅葺きの山門
 

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本堂
 

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薬師堂
 

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塩船の底から観音像をみる
 

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観音像から