扶桑往来記

神社仏閣、城跡などの訪問記

会津から山形探訪五日目 #27 山形そば -水車-

2009年06月01日 | ご当地グルメ・土産・名産品

泊まっているホテルの道向こうがそばの名店「水車」。

それほど混んでもおらず、「板そば」を注文。

これが特筆もののそばだった。

私は信州そばなど「白いそば」は嫌いではないが越前そばなど「黒く固い」そばが大好き。

ここのそばはまた来たくなるうまさであった。

 

宿はホテル王将、さすが将棋の町である。

こちらも巨大将棋のコマが鎮座する大浴場などいい宿だった。

 


会津から山形探訪五日目 #26 山形城あれこれ

2009年06月01日 | 日本100名城・続100名城

立石寺から山形市内に戻った。

山形市役所に少し取材に行った後、山形城へ。

今日は資料館が閉まっているので写真を撮るだけの散歩。

山形城は最上氏の居城として使われ、関ケ原後に最上義光が57万石の大名となると身代にふさわしい城郭として大規模に拡張した。

平城で上方風に水堀で囲まれた方形の縄張をしている。

城下町は山手の方に築かれ町方の方が城より高いところにある珍しい構成になっている。

二の丸大手門が1991年に復元、さらに復元が進んでいく予定。

最上氏が義光の死後御家騒動で没落すると所領は分割され山形藩の規模が縮小、鳥居家が20万石で入った。

鳥居家が断絶すると保科正之が寛永13年(1636)に高遠3万石から大幅加増で入封、正之は将軍家光の実弟であることから大いに期待されての登用である。

正之は山形で藩政改革に取組み、実績を上げて評価を高め会津23万石に異動、以後は譜代の腰掛けとなってキャリアパスのひとつになっていった。

せっかくの巨城は財政を悪化させる悩みのタネ、維持に難儀したという。

 

訪ねてみれば復元された大手門は風格があり桝形も上方の城と全く遜色ない。

二の丸の外に水堀が残されていていかにも本丸のようにみえるが、往時は内側にもうひとつ水堀があって本丸を形成していた。

今では野球場ができてしまったことから面影もない。

しかしこの城の魅力は何といっても最上義光像。

文句なしに美しくみているこちらも気分が高揚する名作。

躍動感を生み出すポイントは乗馬が2本足で立っているところ。

いかにも重心が高くなり強度上やりたくないデザインであるが見事に安定した姿勢である。

夕暮れの中、野良ネコたちと一緒に見惚れた。

 

 

 


会津から山形探訪五日目 #25 山寺立石寺

2009年06月01日 | 世界遺産・国宝・重文

立石寺に到着。

通称「山寺」の名を高めているのは芭蕉の句。

「閑さや 岩にしみいる 蝉の声」

せっかく山形に来たからにはその風景を心に刻んでおきたい。

開山は貞観2年(860)、清和天皇の勅願を受けた慈覚大師円仁による。

円仁は下野の生まれで延暦寺に上って最澄に学びその後継者となった。

東国に来訪した際、立石寺の他に仙台瑞巌寺も円仁ゆかりである。

立石寺は明確に東国の叡山の位置づけにあった。

日枝神社があることもそうであり、不滅の法灯を維持していることもそうである。

延暦寺が信長の焼き討ちに遭った際、途絶えた法灯はここから戻され再度点されている。

 

登山口から入ると根本中堂が山門の外にある。

日枝神社、鐘楼を過ぎると山門、ここから登りがきつくなる。

姥堂の下が地獄、上が極楽という趣向でここで着替えて登るに従い煩悩を落としていく。

少し登ると芭蕉のせみ塚。

途中で道が分かれそのまま行くと奥の院と大仏殿、左へ行くと開山堂と五大堂。

今日は五大堂へ行く。

開山堂は岩の上に立っていて慈覚大師円仁が葬られている。

五大堂からの眺めは絶景、里を見おろす。

 

ところどころに岩肌が露出しひとつひとつの岩肌に神仏が貼り付いているようだ。

季節としては蝉がなくにはまだ早いのが少し残念。

 


会津から山形探訪五日目 #24 山形へ

2009年06月01日 | 取材・旅行記

米沢の取材は会津同様順調。

次は山形である。

米沢を出る前に直江兼続が築かせたという石堤を見に行く。

 

直江兼続は米沢の暴れ川に石堤を用いた。

城の石垣のように丸石を積み上げるもので工事には武家も参加したという。

現在ではごく一部が残るのみで往時の様相を残してはいない。

 

さて、山形市は米沢から北へ50kmほど、南陽市、上山市と抜けると山形市内。

山形に来た目的は伊達氏と抗争した最上氏のこと、それに天童市を訪ねることにある。

山形の戦国最終局面は最上対伊達の構図となった。

この両者は微妙な関係で最上義光の妹婿が伊達政宗。

かつて1987年の大河ドラマ「独眼竜政宗」の舞台のひとつが山形あたりである。

政宗のライバル最上義光は一代で最上氏を復興した地元の英雄。

最上氏は足利一族斯波氏のひとつ。

南北朝時代に北畠顕家と争った斯波兼頼が奥州に下向、山形城を築いた。

斯波氏は奥州探題に大崎氏、羽州探題に最上氏と土地の名を持つ枝族に支配させこれが戦国時代の下地になった。

最上氏は寒河江氏、長井氏、天童氏など現在の市長村名を名乗る国衆を従えていく。

その完成形が義光となる。

最上といえば最上川、芭蕉の句でも名高い。

その辺、土地勘を養いつつ歩いてみたい。

 

 

 

 

 


会津から山形探訪五日目 #22 米沢散策

2009年06月01日 | 仏閣・仏像・神社

今日は米沢市役所にまず訪問。

観光課の人から話を聞く。

こちらは観光客入込数や施設の集客状況など聞き取り、最新事情など教えていただくと共に話題のスポットなどを取材するだけなのだが、対応してくれた人が猜疑心丸出しで閉口した。

と愚痴っても仕方ないので昨日の残りの取材で林泉寺へ。

 

林泉寺とは曹洞宗の寺院、元々は春日山にあった越後守護代長尾氏の菩提寺である。

謙信は幼少期に林泉寺で学び、関東管領上杉氏の名跡を継いだ後も住職天育と親交を絶やさず部下の横暴に悩んで出家した際も手紙を書いている。

そんな間柄であるから上杉家が会津に行けば会津に、米沢に行けば米沢に着いていった。

米沢に移ることに際しては謙信の姉にして景勝の母、仙洞院の強い意向があったという。

上杉家の廟所は昨日いった米沢城外にあるが、林泉寺には藩主以外の上杉ゆかりの人々が葬られている。

中でも直江兼続夫妻の墓は放映中の大河ドラマ「天地人」の影響もあってか有名になっているらしい。

 

お寺は開放的で田んぼの中に杉が生い茂る一角があり、周りを囲うものもなくあっけらかんとしている。

兼続夫妻の墓は夫婦それぞれ一基筒ずつ全く同じ形のものが仲良く並んでいる。

夫人の墓が同じサイズというのは珍しい。

兼続は側室も置かず夫人と仲良しだったようだが子に恵まれず養子も取らずで直江家は断絶してしまった。

他にも仙洞院、景勝の正室となった武田信玄の娘、菊姫の墓や武田家滅亡時に菊姫にかくまわれて命を拾った信玄七男信清の墓も当地にある。