扶桑往来記

神社仏閣、城跡などの訪問記

北条の残滓 −八王子城址(100名城No.22)−

2009年06月14日 | 日本100名城・続100名城

墓参りついでに八王子城址に寄った。

八王子市内方面から来て東京霊園のひとつ手前の信号を西に入る。

しばらく住宅街の坂を登っていくと駐車場がある。


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クルマを停め、少し行くと管理棟。
ここにはボランティアの人が詰めており、お願いするとガイドをしてくれる。

管理棟からすぐ山道に入る。よく整備されているためハイキングコース然としてはいるが正しく「山城」である。どの道も本丸へ登っていく道に相違ない。
この山城ぶりがありありと想像できるところが八王子城のおもしろさであることにすぐ気づく。

しかも規模は予想を超えて大きい。

八王子城は戦国時代、北条氏照が築いた城である。概ね天正15年(1587)の築城とされている。
甲斐へ通じる小仏峠から侵入する敵への抑えであったろう。

この時期、北条氏の拠点は小田原にあり、関東平野の西の端を山々を頼りに防衛戦を張った。
備える相手はかつて関東の覇を争った上杉でも武田でも佐竹でもなく、俄に天下を取った豊臣秀吉である。
箱根の険から漏れ聞いてくるこの小男の動静に心穏やかではなかったはずだ。
天正15年とは島津が屈した年である。

秀吉は1590年、天正18年に来た。

秀吉は大軍で小田原城を包囲しつつ、周囲の北条勢を見せしめに嬲った。
八王子城に向かったのがかつて関東管領を継いだ上杉謙信の後継景勝、それに前田利家の勢である。
直江兼継も真田昌幸も行き、そして城はわずか半日で落ちる。
豊臣のスター軍団とは兵数も練度もかなわなかったろうがどれほどの兵力差があろうとも山城はそうたやすく落ちるものではない。

実力よりも時勢の勢いが勝ったのだろう。

八王子が落ちた後、ほどなく小田原城は落ちた。

この城は落城の後、江戸時代に入っても再興されることはなかった。
つまり北条の墜ちたそのままに自然が保存している。

今は空堀にかかる曳橋が再現され焼け跡も残る石垣が復元されている。
御殿跡は一面野原である。
さらに登れば本丸跡があり、山頂からは関東平野が望めるそうだが今日は行けなかった。
またの楽しみである。


御殿(御主殿)跡へ通じる曳橋(復元)
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御殿への門(模擬)
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石垣、広範囲にわたりこうした石垣が復興されている
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石垣に用いられる石は他地域のものとは異なるようにみえる、エッジが鋭角。所々、焼け跡があるようにもみえる。
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