扶桑往来記

神社仏閣、城跡などの訪問記

長崎探訪1日目 #4 夜景

2016年07月06日 | 取材・旅行記

長崎に来た理由のひとつは夜景をみることだった。

どこの街でも高いところはあり、その街なりの夜景がある。

若い頃は高いところ好きもあり、夜景をよくみた。

京都の夜景というのもなかなか乙なもので区割りが直線である京の街の姿が灯りに浮かび上がる。

神戸の夜景もいい。

六甲に登ってみれば街や工場灯りが延々と続き大阪湾まで浮かび上がっている。

 

日本人は三大何々というのが好きだが、夜景にもそれがある。

「函館」「神戸」「長崎」というのが一般的で長崎のみが未見だった。

長崎に来てみれば新世界三大夜景なるものが指定されているらしく、「長崎」「モナコ」「香港」をいうのだそうだ。

 

夜景をみるとき、最もおもしろいのは夕暮れからぼうっと街を眺めひとつひとつついていく灯りと濃くなる空の闇のグラデーションが徐々に深まる時間を楽しむことであろう。

しかし今日はそこまで暇ではないのでさっと登っておしまいにしようと思う。

梅雨の時期にしては雲一つ無い晴天である。

長崎の夜景スポットはいくつかあるようでどこにしようか迷ったのだが、まずは稲佐山から眺めてみることにする。

ホテル最寄りのバスターミナルからロープウェイ口までバスで行き、淵神社を通って乗り口に。

思ったより人出はないが、中国人韓国人観光客が喧しい。

 

ロープウェイを降りて左手に行くと展望台がある。

初めてみる長崎の夜景はやや散漫として期待外れといった方がいいかもしれなかった。

しかしながら長崎の地形がよくわかるという地理的見地からいうとおもしろい。

長崎の市街地は南北に流れる浦上川が開いた部分と東西に流れる中島川のあたり、グラバー園のあたりに分かれる様があざやかである。

湾外に出て行く方向には女神橋がライトアップされる他、三菱造船所の施設、カンチレバークレーンもあかあかとみえている。

夜景は海や川といった暗い部分が絶妙に灯りを切り取ることでその街の生活感を浮かび上がらせる。

 

ふと原爆のことを思い出した。

1945年の8月9日11時2分、米軍のB29ボックスカーが投下したファットマンが炸裂したのは浦上上空500m、数秒で一帯が焦土となった。今みている灯りのうち、左手の一帯がそこである。

長崎の史跡を考えるとき、世界遺産となっている工業施設やグラバー邸などが何故現存しているかという疑問を持っていた。

その回答は目の前の夜景をみれば氷解で、要するに山の陰になって熱線の被害を免れたのであろう。

周知のように長崎は当初の投下目標ではなく、ボックスカーが狙った小倉上空が、雲により目標変更され、さらに長崎上空に達したとき、雲間にみえた浦上に目標を小修正したため、あそこに落ちた。

 

私は歴史を調べることを半ばなりわいにしていることで時に悩む。

戦のことをよく文章にする訳だが、往々にしてそれは人殺しの容認につながる。

「昔のことだから」と言い訳をして人間は人殺しを英雄としてしまう。

長崎の惨禍から71年、それは日本史の営みからすればごく最近であり、「体験」した方々も存命であるうちはいいが、100年200年経ったときに「昔のことだから」にならないとは限らない。

私は言い伝えするための子を持たないため記憶を自分で墓に持っていくしかないのであるが、あの時あのあたりの灯りの下にいた人のことを忘れぬようにと、美しい夜景をみながら思ったりした。

 


長崎探訪1日目 #3 産業革命遺産

2016年07月06日 | 世界遺産・国宝・重文

端島から戻る途中、今度は長崎湾東側の世界遺産などを眺める。

 

沖の島にかかる橋をくぐると右手に三菱重工長崎造船所、香焼工場が見える。

ドックに朱色の三基のクレーンが並ぶ。

このクレーンはゴライアスクレーンといい1200トン1基、600トン2基でブロック毎に造られた船体を吊り上げてくっつけるといった工法で船を造る。

 

女神大橋をくぐると小菅修船場跡が小さく見える。

これは陸上から蒸気機関で船を引っ張り上げ修理するための施設で、開港と大船の修理はセットのもの。

明治元年に造られた。

現在は稼働していない。

 

少し進むと旧グラバー邸がかすかに見えている。

ところで長崎県の産業革命遺産は8つある。

●長崎造船所第三船渠

●長崎造船所ジャイアント・カンチレバークレーン

●長崎造船所旧木型場

●長崎造船所占勝閣

●高島炭鉱

●端島炭鉱

●小菅修船場跡

●旧グラバー住宅

この8つは全て海上から見ることができた。

この旅は世界遺産巡りでもないのだが少し得をした気になった。

 

ツアーが終わり上陸してぶらぶらと歩いてホテルに戻った。

 


長崎探訪1日目 #2 端島

2016年07月06日 | 世界遺産・国宝・重文

出島から大通りを北に行くと大波止。

「軍艦島上陸クルーズ」の申込みをして出航まで近くのゆめタウンで涼む。

 

軍艦島とは端島の俗称である。

遠目に軍艦土佐の艦影と似ていることからそう呼ばれることになった。

「土佐」は加賀型戦艦で八・八艦隊計画の一翼を担うべく大正9年に起工した。

「軍艦島が土佐と似ている」とあえて艦名を限定していう背景はおそらくこうである。

土佐は三菱長崎造船所で建造中、ワシントン軍縮会議で廃艦が決まり標的艦として土佐の国の沖で沈んだ。

その時、すでに船体と上部構造物の一部が完成しており、長崎港から出て行く姿を軍艦島に擬しているのである。

考えてみれば、大正期設計の戦艦は艦橋がひときわ高く完成形では軍艦島の姿とは違う。

平べったい軍艦島の島影は未完成の艦影を似ているとしたのであろう。

 

さて、「ブラックダイヤモンド(石炭)号」なる姿のいい船に乗船。

1階はクローズドの船室で冷房も効いている。

2階がオープンデッキになっている。

出航すると右手に三菱重工長崎造船所が見えてくる。

工場の他、「明治日本の産業革命遺産」というユネスコの世界遺産となったジャイアント・カンチレバークレーンが迫ってくる。

この巨大なクレーンは150トンの重量物を電動で吊り上げることができ、明治42年(1909)の建造でいまだに現役で稼働している。

その横に世界遺産ではないが「武蔵」を造った2号ドックが見えてくる。

武蔵は建造秘匿のため、ドックを覆うように屋根と柱を立て、棕櫚縄で造ったすだれをかけたのだという。

他のドックではイージス艦を建造中、上部構造物からイージス艦ではないか。

 

 

軍艦島に付く前にすでに妄想でお腹がふくれてくる。

長崎湾の出口に女神大橋がかかり船はその下をくぐって外洋に出た。

半島と沖の島にかかる橋をくぐる。

しばらくすると高島が見えてきた。

ブラックダイヤモンド号はこの島に寄港。

ツアー客は上陸の上、石炭資料館を見学。

ここ高島炭鉱は江戸時代、佐賀藩の領地だったらしく細々と石炭採掘が行われていた。

蒸気船を国産化するほどの技術オタク鍋島閑叟は石炭需要の増加を見越してグラバー商会と共に採掘事業を興した。

明治維新後、明治14年(1881)、岩崎弥太郎が経営権を得て三菱財閥の傘下で大きく成長し、昭和61年(1986)に閉山するまで100年石炭を掘った。

弥太郎は海運で身代を大きくし、ここ長崎で造船事業を興すと共にエネルギーたる石炭事業にも力を入れ、長崎が三菱の聖地となった。 

 

ツアーガイドが併設されている軍艦島の模型を使ってこれから上陸する場所の説明をしてくれる。

実にツボをとらえた説明で島の成り立ちがよくわかる。

時間に余裕がないので竪坑跡はみることができなかった。

海を背にして岩崎弥太郎の像が立っている。

 

高島の埠頭を離れると端島が近くに見えている。

最初は単なる岩礁だったが佐賀藩鍋島家から三菱が10万円で買った。

高島が優秀な炭鉱だったことから「あそこの岩の下も掘れば採れる」と思ったのかもしれない。

 

端島は海上からみればなるほど「軍艦島」である。

横からみれば戦艦土佐であるのは写真などでもわかるはずだが、艦幅というべき短辺方向が意外に広いため、艦首艦尾からみても「威容」がある。

この姿は狙って造ったものではない。

端島炭鉱は最初は岩山にしがみつき、わずかな平地を掘り下げることから始まった。

そして採炭後の石炭くず(ボタ)を周囲に捨てに捨て、埋め立てていくことで成長していった。

「自己増殖」といってもいいかもしれない。

この島は高度成長期のモンスターのごとく、生命を持っていたかのようにさえ思えてくる。

 

岩から初めて徐々に大きくなった軍艦島は日本最古の鉄筋コンクリート造りの社宅をはじめ、病院、学校、郵便局などと町になった。

それは当時の本土社会の水準を超え、最新都市となった。

人口密度も相当なもので昭和34年(1959)の最盛期に5千人を越えた。

面積は6.3ヘクタール。長辺400m少しで相当に狭い。

先ほど見た出島が1.3ヘクタールであるから密集度はものすごいことになっていたはずだ。

 

上陸後、3箇所でガイドの説明を聞いた。

もっと自由に島のあちこちに行けるかと思っていたが閉鎖された場所から眺めるのみである。

端島炭鉱の閉山は昭和49年(1974)私が10才の時である。

見方を変えると人が住まないと町は40年でこうなるという証左でもあろう。

すでに建物全てが崩壊を始め、台風が来る度にひとつまたひとつと壁などが崩れるらしい。

軍艦島は「廃墟」を愛でるマニアから上陸ブームが始まったとみてよい。

私は廃墟マニアではないが、それでもいまだに生活臭を残すこの廃墟からいいようもない「濛気」を感じる。

他に見物客がいなければ、気合い満々で海底に降りていく男共の喧噪やその辺を走り回る子供の声など聞こえてくることだろう。

この島で最も私の興味を引いたのは「神社」である。

軍艦でいえば煙突がある場所に高々と社があげられている。

命が危ない仕事故、神頼みは必然であろうが、小さな社が毅然と立ち続けていることにこの島の魂をみる思いがした。

 

上陸後、30分ほどで再び船に乗って島を後にした。

遠ざかる軍艦島の姿を眺めながら「つくづく人間はとんでもないことをやるなあ」と呆然とした。

 

軍艦島西側から撮影

 

 


長崎探訪1日目 #1 出島

2016年07月06日 | 街道・史跡

ふと思い立って長崎を訪ねた。

実はまだ行ったことがなかった。

日本百名城巡りで全都道府県に行った際には長崎市に名城がないため平戸から島原に抜けてしまったのである。

深い意味もないが県庁所在地で行ったことがない都市は長崎と他に新潟。

 

今回は沖縄に引き続き航空機を利用した探訪である。

本来、私は街を訪れる際、街への入り方を合わせて考える。

峠を越えていくのか川を越えていくのか、それで街の第一印象は随分変わる。

航空機というのはほぼ歴史と関係のないところから新造道路で入って行くことになる。

 

さて、便の都合で早朝に家を出、7:40発JAL605便で長崎空港。

席は陸がよく見えるだろうと思い右側に取ったら失敗。

羽田から長崎は本州を縦断していくのであった。

つまり、右側からの風景は尾根、名古屋や京都、瀬戸内を見逃した。

それでも博多湾が綺麗に見え、ハウステンボスを見つつ降下、水平飛行に入って海上の長崎空港に着いた。

バスで市内に入りバスセンタから間近のJAL-City長崎に荷物を預けたのが10:30。

 

予定を事前に確定しないのが常である。

理由のひとつは天候で雨晴れのことである。

殊に梅雨時は難しい。

本日は雲一つない晴天である。

そこで世界遺産の端島、いわゆる軍艦島に上陸してみることにした。

Webで調べるといくつか上陸ツアーがあり、その中でも高島にも上陸するツアーを選んだ。

 

ホテル隣が新地中華街、「江山楼」という中華料理店でちゃんぽんの特上、フカヒレ入りを昼食にした。

 

港の方にふらふら歩いて行くと出島。

出島は元々扇型の人口島であり、開発により完全に消滅していたと思っていたが、来てみると建物が復元され、石垣が立ち上がり島らしくしようと復元中のようである。

もっとも冷房が効いた建物の中は観光客用の展示である。

カピタンが住んだ住居はひときわ大きく中に入ってみれば和風の造作の中に西洋の調度が入っている。

天井が高く居住性は良さそうだ。

 

出島の歴史は深い。

長崎が開港したのは戦国時代末期の元亀2年(1571)。

中央では織田信長が比叡山を焼き討ちした年である。

開港する前はただの漁村だった。他の港町も同じようなものだったと思われるが、今日の長崎県の町はすべからくといっていいほどキリスト教によって運命が変わった。

マレー半島を越えてきたポルトガル船はマカオを基地としさらに北をめざし日本に到る。

ポルトガル人は貿易を望んだのであろうが、もうひとつキリスト教の布教も大事な仕事であった。

貿易と布教、この両者はセットであって肥前の諸侯は虜になった。

 

松浦隆信は南蛮貿易の利を享受した男で彼によって平戸にてポルトガル商館が設けられた。

隆信はキリスト教の方にはさほど信心深くはなかったらしく、かえって配下の武士、庶民の方が猛信した。

仏教徒はキリスト教を危険視し隆信が煮え切らぬため両者の関係は沸騰した。

ある日、浜でポルトガル人と日本人との間に喧嘩が起こりポルトガル船のカピタンが死ぬ事態となった。

それでポルトガル人は平戸を去った。

次の保護者は大村純忠である。

純忠はポルトガル人に「こちらへ来ませんか」と誘い、大村領横瀬で南蛮貿易が始まった。

純忠は猛烈な信者となり、領内の寺を焼いた。

そして横瀬が純忠に不満を持つ一味によって焼き討ちに遭うと福田、口之津と移り、純忠が長崎港をイエズス会に土地も民も丸ごと寄進することによってポルトガル人はこの地に落ち着いた。

 

性急にまとめてしまうと、豊臣秀吉が禁教に転じ、徳川家康が英蘭という信仰が少々違う勢力の方を重んじたことでポルトガルの旗色が悪くなり、長崎港の一角に半ば牢獄のように築かれたのが出島である。

寛永13年(1636)のことになる。

もはやキリスト教は禁教長く江戸の世には存在を許されざる思想となっていたが、それでもポルトガルが追放されなかったのはひとえに貿易品が日本社会に必要欠かせざるものとなっていたからだろう。

逆にいえばポルトガルがもたらす生糸や西洋の珍品が調達できればこの国の者に用はない。

ポルトガル人はここから追い出され、後にオランダ人が平戸から移って入居し御用を務めた。

 

それにしても出島は狭い。

扇の東と西側で70m、南側で233m、北側190m。

およそ甲子園のインフィールドほどの大きさである。

ここにカピタン以下、商館のスタッフが十数名が常駐。

男のみの単身赴任である。

この島の中のみは日本の中の西洋であった。

オランダ人は島の中で西洋料理を食い、ビリヤードに興じ、バドミントンをした。

時が過ぎ、鎖国が解け、シーボルトが来て、出島の向かいに海軍伝習所ができ、勝海舟が来た。

 

出島のあたりは復元が進んでいるとはいえ海岸線は遙か遠く、ビルに埋もれている。

もとより出島に来た意味はその狭さを実感することだった。

いい経験をした。

 

 

 出島跡の西側入口

 

 ミニチュア出島模型

 

カピタンの館内大広間

 

出島北側

※写真右奥までが出島、実際はもう少し南北に広いらしい


羽田-長崎便、福岡上空


大村湾を南下して長崎空港着陸