扶桑往来記

神社仏閣、城跡などの訪問記

長崎探訪1日目 #1 出島

2016年07月06日 | 街道・史跡

ふと思い立って長崎を訪ねた。

実はまだ行ったことがなかった。

日本百名城巡りで全都道府県に行った際には長崎市に名城がないため平戸から島原に抜けてしまったのである。

深い意味もないが県庁所在地で行ったことがない都市は長崎と他に新潟。

 

今回は沖縄に引き続き航空機を利用した探訪である。

本来、私は街を訪れる際、街への入り方を合わせて考える。

峠を越えていくのか川を越えていくのか、それで街の第一印象は随分変わる。

航空機というのはほぼ歴史と関係のないところから新造道路で入って行くことになる。

 

さて、便の都合で早朝に家を出、7:40発JAL605便で長崎空港。

席は陸がよく見えるだろうと思い右側に取ったら失敗。

羽田から長崎は本州を縦断していくのであった。

つまり、右側からの風景は尾根、名古屋や京都、瀬戸内を見逃した。

それでも博多湾が綺麗に見え、ハウステンボスを見つつ降下、水平飛行に入って海上の長崎空港に着いた。

バスで市内に入りバスセンタから間近のJAL-City長崎に荷物を預けたのが10:30。

 

予定を事前に確定しないのが常である。

理由のひとつは天候で雨晴れのことである。

殊に梅雨時は難しい。

本日は雲一つない晴天である。

そこで世界遺産の端島、いわゆる軍艦島に上陸してみることにした。

Webで調べるといくつか上陸ツアーがあり、その中でも高島にも上陸するツアーを選んだ。

 

ホテル隣が新地中華街、「江山楼」という中華料理店でちゃんぽんの特上、フカヒレ入りを昼食にした。

 

港の方にふらふら歩いて行くと出島。

出島は元々扇型の人口島であり、開発により完全に消滅していたと思っていたが、来てみると建物が復元され、石垣が立ち上がり島らしくしようと復元中のようである。

もっとも冷房が効いた建物の中は観光客用の展示である。

カピタンが住んだ住居はひときわ大きく中に入ってみれば和風の造作の中に西洋の調度が入っている。

天井が高く居住性は良さそうだ。

 

出島の歴史は深い。

長崎が開港したのは戦国時代末期の元亀2年(1571)。

中央では織田信長が比叡山を焼き討ちした年である。

開港する前はただの漁村だった。他の港町も同じようなものだったと思われるが、今日の長崎県の町はすべからくといっていいほどキリスト教によって運命が変わった。

マレー半島を越えてきたポルトガル船はマカオを基地としさらに北をめざし日本に到る。

ポルトガル人は貿易を望んだのであろうが、もうひとつキリスト教の布教も大事な仕事であった。

貿易と布教、この両者はセットであって肥前の諸侯は虜になった。

 

松浦隆信は南蛮貿易の利を享受した男で彼によって平戸にてポルトガル商館が設けられた。

隆信はキリスト教の方にはさほど信心深くはなかったらしく、かえって配下の武士、庶民の方が猛信した。

仏教徒はキリスト教を危険視し隆信が煮え切らぬため両者の関係は沸騰した。

ある日、浜でポルトガル人と日本人との間に喧嘩が起こりポルトガル船のカピタンが死ぬ事態となった。

それでポルトガル人は平戸を去った。

次の保護者は大村純忠である。

純忠はポルトガル人に「こちらへ来ませんか」と誘い、大村領横瀬で南蛮貿易が始まった。

純忠は猛烈な信者となり、領内の寺を焼いた。

そして横瀬が純忠に不満を持つ一味によって焼き討ちに遭うと福田、口之津と移り、純忠が長崎港をイエズス会に土地も民も丸ごと寄進することによってポルトガル人はこの地に落ち着いた。

 

性急にまとめてしまうと、豊臣秀吉が禁教に転じ、徳川家康が英蘭という信仰が少々違う勢力の方を重んじたことでポルトガルの旗色が悪くなり、長崎港の一角に半ば牢獄のように築かれたのが出島である。

寛永13年(1636)のことになる。

もはやキリスト教は禁教長く江戸の世には存在を許されざる思想となっていたが、それでもポルトガルが追放されなかったのはひとえに貿易品が日本社会に必要欠かせざるものとなっていたからだろう。

逆にいえばポルトガルがもたらす生糸や西洋の珍品が調達できればこの国の者に用はない。

ポルトガル人はここから追い出され、後にオランダ人が平戸から移って入居し御用を務めた。

 

それにしても出島は狭い。

扇の東と西側で70m、南側で233m、北側190m。

およそ甲子園のインフィールドほどの大きさである。

ここにカピタン以下、商館のスタッフが十数名が常駐。

男のみの単身赴任である。

この島の中のみは日本の中の西洋であった。

オランダ人は島の中で西洋料理を食い、ビリヤードに興じ、バドミントンをした。

時が過ぎ、鎖国が解け、シーボルトが来て、出島の向かいに海軍伝習所ができ、勝海舟が来た。

 

出島のあたりは復元が進んでいるとはいえ海岸線は遙か遠く、ビルに埋もれている。

もとより出島に来た意味はその狭さを実感することだった。

いい経験をした。

 

 

 出島跡の西側入口

 

 ミニチュア出島模型

 

カピタンの館内大広間

 

出島北側

※写真右奥までが出島、実際はもう少し南北に広いらしい


羽田-長崎便、福岡上空


大村湾を南下して長崎空港着陸


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